林檎の樹とフェアネスについての覚書

僕は不平等な人間だ。誰しもに平等な慈しみを注いだりはしないし、ある人に与えられた他愛もないモノが、ある人が与えてくれた多額の現金よりずっと貴重だったりする。努力しているからといって他人を評価したりはしないし(これは語弊がある、努力しているということの事実性を評価しなければいけないタイミングというのは存在し、その場合は評価する)、あるいは誠実な人間を評価したりもしない。(同上)

この「評価」という言葉は語弊をもたらす。これをより適切な言葉で表すとしたら、「好意」だろう。どれほど自堕落な態度で生きている人間だろうと好みの人間は好みであるし、そうでないものはそうでない。それはもう厳然とした事実であって、揺るぎようがない。努力する誠実な人間を好きになろう、というのは人類には不可能なことだろうと思う。いや、もしかしたら出来る人もいるのかもしれない(実際、この世のあらゆる男性と苦痛なく性交渉が可能であると主張する女性に僕はあったことがある)。しかし、多くの人にそれは出来ない。

これが出来ないとなると、今度は別の軸の正当さを考えるしかない。それは「フェア」さというものだろう。つまりこういうことだ。僕は一生懸命誠実に誰かに接したとして、その結果好意が得られないことは仕方がない。相手が自分に好意を注がないことはどこまでも相手の自由であって、それは僕が立ち入るべきことではない。僕は基本的にそういう考え方で生きてきた。

この考え方のメリットは、あまり人を憎まずに済むことだ。「あんなにしてやったのに」「あれほど尽くしたのに」というタイプの呪詛は、往々にして不毛そのものだ。この憎しみを正当化するのであれば、あなたはあらゆる人を愛さねばならない。その愛は隣人愛ではない、相手の望む愛だ。性愛かもしれないし、友愛かもしれないし、人によって愛というのは多様であるから、現金の授受であるかもしれない。

最近の非モテ論(これは精いっぱい言葉を選んでいる、本当はもっと適切な言葉はたくさんあるが、noteに水洗機能はないので用いたくない)を見ていて顕著なのは、「自分は暴力的でなく、誠実なので私に愛を注がれないことはおかしい」とでもいうような態度だ。しかし、ここまで述べて来たとおり愛というのは常に個別具体のものであって、義務を果たした者に与えられる果実ではない。しかし、私は義務を果たしたのだ、何故果実が降ってこないのだ、と彼らは林檎の樹を蹴り飛ばし始める。

彼らが好む言葉に「暴力」というものがある。これは、下等な詭弁(クラスの『いじめていいあいつ』を決めるときなどに便利なものだ)に用いられるスラングなのだが、「モテる男は暴力的だ」「女は暴力的な男を好む」という彼らの言葉の用い方は、古来より魔女狩りなどに用いられたオーセンティックな暴力に相似する。悪者を作ってみんなで石を投げると気持ちいいという人間の本質的な快楽も伴い、今日も彼らは楽しそうにしている。とてもよかったですね、という気持ちになれるほどの愛が僕には欠如していて、本当に申し訳ない。

愛は林檎の樹ではなく、たった一つの果実だ。崩れるかもしれない脚立に昇り、不安定な足場から手を伸ばす。時に滑落して全身をしたたかに打ち付ける。それでも、たまに、運だとか星の具合とか潮の満ち引きとかそういうものによって、手の中に果実が残ることもある。そういうものだ。

僕も愛を学ぼうと思う。林檎の樹を蹴りつけて、何故果実が落ちてこないのだと叫ぶ暴力性を愛と呼んでも差し支えないというくらいには。


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