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髪と眉を剃るだけのことで変わる、人は見た目が八割かもね

 最近、ある種の意思と決意のために、髪と眉を剃り上げた。自分は社会的なものや真っ当なものとは断絶して、やるべきことに集中する。そういう効果を期待している。もちろん、こんなことは無職(僕のことだ)ならだれでも出来る。本質的にはなんの意味もない。ちょっとした気分転換くらいの話だ。

 最初は片耳でも切り落としてみるか、それとも顔に丸パンのクープみたいな十字の切れ込みでも入れてみるか、なんてことを考えたのだけれど。「それは単なる自傷行為だな」ということで保留した。自傷行為は快楽を伴う単なる嗜癖に過ぎないし、散々にやってきた。何度も「もうやらない」と誓ったのだからもうやらなくていいだろう、という気が今のところする。でも、「容姿を不可逆的に(かつ社会的に大きなダメージを伴う形で)変える」ことにはそれなりの意味があるような気もする。「入墨を顔までいれる」とかもアリだけれど、それは文脈が混乱してしまうかな。なんにせよ、「これは自傷ではなく、意思を強固にするために必要な手続きだ」と確信できたらやればいいだろう。具体的かつ継続的な行動でしか意思は強化出来ない、これは僕の経験則だけれど、そこそこ合っているんじゃないだろうか。

 そういうわけで、僕の姿はちょっと変わった。長髪を後ろでひっつめた中年男から、髪と眉を剃り上げた中年男に。僕自身はささやかな変化だと思っていたけれど、たったそれだけのことで見える景色が随分変わって、結構シリアスに驚いた。

 僕はわりと、道を譲る方だ。
 街を歩く「おれはこの道を譲らないぞ、おまえがどけろ」というタイプの人たち。彼らはわざわざコストを投じて「道を譲らせる」ためのファッションや振る舞いをしているのだから、スッと譲られるくらいのささやかな充足は得られてもいいと思うし、譲る側にコスト負担があるわけでもない。ところが、髪と眉を剃り上げて以来こういった人々が音もなく街から消えた。まっ昼から出来上がっている立ち飲み通りを歩いても、深夜の歓楽街を歩いても、若者の群れがよくわからない理由でずっと群れている一角を歩いても、混みあった駅の通路を歩いても、誰ひとり「おまえが道を譲れ」をやってこない。僕が乗っているバイクには「誰よりも快適な都市移動のために」なんてキャッチフレーズがついていた覚えがあるけれど、数十万円したバイクより「髪と眉を剃り上げる(所要コストはカミソリとシェーバー代くらい)」なんてことで快適な都市移動が実現するんだから笑ってしまう。もしかしたら、ひどい話なのかもしれない。

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発達障害ライフハックのような実用文章ではなく、僕がライフワークとして書きたい散文、あるいは詩に寄っていくような文章を書いております。いろいろあって、「善い文章」を目指して書くようになりました。ご興味ありましたら是非。

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