『稲荷心経』のこと

『稲荷心経』とは、日本で撰述されたお経です。
これが大乗仏教の精髄をわかりやすくかつ端的に記しているので、私は根本経典として毎日お唱えしています。短いお経ですので、全文を見てみましょう。

本体真如住空理
寂静安楽無為者
鏡智慈悲利生故
運動去来(こらい)名荒神
今此(こんし)三界皆是我有(がう)
其中(ごちゅう)衆生悉是吾子
是法住法位世間相
常住貪瞋癡之三毒煩悩
皆得解脱即得解脱
掲諦掲諦波羅掲諦(ぎゃてぃぎゃてぃはらぎゃてぃ)
波羅僧掲帝菩提薩婆訶(はらそうぎゃてぃぼうぢそわか)
多呪即説呪曰(たしゅそくせつしゅわつ)
オン キリ カク ウン ソワカ


伏見稲荷大社の神宮寺の、愛染寺の住持(何世かは諸説あり)天阿上人が作ったお経と考えられています。

では、一行ずつ見ていきましょう。

本体真如住空理
 根本の本体である真如(真理)とは、空の理に住することである。
 つまり、悟りの本質とは、「全ての物事は関係性の中にある(すなわち縁起)」と得心していることである。
寂静安楽無為者
 涅槃寂静の心、安楽の心を得て、無為なる(作為のない)者は
鏡智慈悲利生故
 鏡のような(澄み切った如実知見の)智慧と慈悲によって生類に幸いをあらしめるがために
運動去来名荒神
 活動し、動き回るので、荒神と名づけられる
今此三界皆是我有
 今、この欲界・色界・無色界の三界(全ての心の活動領域)はみな、私の物である。
其中衆生悉是吾子
 その中の生類はみな我が子である。
是法住法位世間相
 これは、法性であり真如であり(つまり真実であり)、世間相の中に居ることである。
常住貪瞋癡之三毒煩悩
 いつも貪瞋癡の三毒煩悩の中にあって
皆得解脱即得解脱
 誰でも解脱できる、すぐに解脱できる
掲諦掲諦波羅掲諦 波羅僧掲帝菩提薩婆訶
 般若心経の真言。「行ったよ行ったよ彼岸に行ったよ、完全に彼岸に行った者よ、悟ってめでたし」
多呪即説呪曰
 それでは長いのであらためて呪(真言)を説くと
オン キリ カク ウン ソワカ
 
ダキニ天の真言。

「寂静安楽無為者」とは阿羅漢のような人のことです。だからといって何もしないのは大乗仏教ではありません。「鏡智慈悲」によって利生(菩薩行/世の中のためになること)をするのです。「荒神」のように荒々しいまでの働きをするのです。

 この「荒神」という言葉、いきなり出てきて随分と悩みました。
しかし、「本体真如住空理~運動去来名荒神」までが傳教大師最澄の『六天講式』の荒神式の偈文からとってあったこと、「如来荒神」※という仏尊がいることが分かり、なんとなくイメージがつかめたのでした。

※『湛海和尚と生駒宝山寺』によると、「子嶋僧都真興」が感得した三宝荒神の変身した相好柔和で金剛薩埵の姿をした仏尊。

『稲荷心経』の利生の心は智慧と慈悲をさらに一歩踏み出した「世のためによく生きる」ことを説いています。そのような大乗菩薩道の行者が歩むバイタリティーに満ちた姿を、荒神と名づけているのです。

「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子」というのは、稲荷大神の心情であり、また唯識説から言えば我々が認識する「衆生」はみな自らの心・阿頼耶識が作り出した幻想(我々は、他人のことをそっくりそのまま理解することは出来ないのですから)とも言えます。その衆生に対して、我が子であるように慈悲をもって接するのです。

「法住」とは法性のこと、「法位」とは真如のことです。そのような悟りの世界にありながら、世間相にも生きている、それが我々の事実の姿です。

 貪瞋癡の三毒煩悩とは、悟りの妨げになるとされてきた感情の働きです。しかし、理解(りげ)の世界では、煩悩は悟りの妨げとはならない(煩悩即菩提)のです。
周利槃特の話でも書きましたように、「どんなに掃除をしてもホコリは出る。煩悩もまた同じ。完全に消し去ってしまうことなどできないのだ。いくら掃除してもホコリが尽きないように、煩悩もまた人の身である限りついて回る。日々コツコツと煩悩を制御をすればいいのだ」という考え方もあるのです。そしてこれは、「煩悩との共存」という、きわめて大乗仏教的な(凡夫にもわかりやすい)悟り方です。

 むしろ、煩悩がなくなってしまうと慈悲の心は消えてしまうかもしれません。貪と瞋は、もっと世の中をよくしたい、不正への怒りともなります。癡は間違った思い込みなわけですが、「世の中は公平でなくてはならない」などという思いが多少あったとしても慈悲行や理解の妨げにはならないでしょう。

 ですから、「皆得解脱、即得解脱」なのです。そして、般若心経やダキニ天の真言で締めくくっています。

『稲荷心経』は、決して「稲荷にすがれ、荒神にすがれ」とは言いません。自分がどうあるべきなのか、どう考えて生きるべきなのかを大乗の悟りから説いているのです。最後の真言は、それでも心が折れそうなとき、自分を鼓舞したいときにはこう唱えるといいよ、というやさしい示唆なのです。


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