賢愚経巻十二 二鸚鵡聞四諦品第五十一

 このように聞いた。
 仏が舎衛国の祇樹給孤独園にいたときのこと。
 長者の須達(スダッタ)は仏法を敬信し、僧伽の壇越として一切の必要な物を提供していた。比丘たちは必要な物があれば日々長者の家に往来して、説法・教誨をした。
 スダッタの家には二羽の鸚鵡がいて、律提(リッティ)と賒律提(シャリッティ)と名づけていた。天性の賢さでよく人語を解した。比丘たちは来るといつもまず告げる話を聞かせていた。 そこで敷具が打ち広げられ歓迎されるのだった。
 ある時、阿難が行くと鳥の聡明さに心がひかれ、そなたに法を教えたい、と愛情をもって語った。二羽の鳥は喜んだので、四諦の法を授け、歌わせた。
 豆佉dukkha 三牟提耶samudaya 尼楼陀nirodha 末加magga  
 漢言では「苦習滅道」という意味だ。
※苦集滅道の四諦ですが、ここでは苦習滅道となっています。

 門前に樹があり、二羽は法を聞き、喜悦し歌い覚えた。樹上に向かったり下に向かったりを繰り返すこと七度。四諦の妙法を受けたが、 その日の暮れに樹に野狸が来て食べられてしまった。この善心の縁によって二羽はすぐに四天に生れかわった。
 尊者阿難は翌日、著衣持鉢で都市に入り乞食をした。
 二羽の鸚鵡が狸に殺されたと知り哀れに思い、還って仏にその話をした。

阿難「わからないことがあります。鸚鵡はどういう所に生れかわったのでしょう。如来よ、願わくばあわれみもて示したまえ」
仏「よく聞きよく心にとどめるのです。そなたが説き、喜びを得させ、縁によって法をさずけて、鸚鵡は喜心をもて受持した。 命終の後は四王天に生れかわった。この閻浮提世界での五十年は四王天では一日一夜である。そこでも三十日が一月で、十二ヶ月が一年だ。 四王天での寿命は五百歳である」
阿難「そこで命を終えると、どこに生れかわるのでしょう」
仏「第二忉利天だ。そこではこの世の百年が一日一夜で、一月や一年は現世と同じだ。忉利天の寿命は千歳である」
阿難「そこで命を終えると、どこに生れかわるのでしょう」
仏「第三焔摩天だ。この世の二百年が一日一夜で、一月や一年は現世と同じだ。焔摩天での寿命は二千歳である」
阿難「そこで命を終えると、どこに生れかわるのでしょう」
仏「第四兜率天だ。この世の四百年が一日一夜で、一月や一年は現世と同じだ。兜率天での寿命は四千歳である」
阿難「そこで命を終えると、どこに生れかわるのでしょう」
仏「第五不憍楽天だ。この世の八百歳が一日一夜で、一月や一年は現世と同じだ。かの第五天での寿命は八千歳である」
阿難「そこで命を終えると、どこに生れかわるのでしょう」
仏「第六化応声天だ。この世の千六百歳が一日一夜で、一月や一年は現世と同じだ。かの第六天での寿命は一万六千歳である」
阿難「そこで命を終えると、どこに生れかわるのでしょう」
仏「次は第五天である。このようにして、次第に四天王天に至る。上下七返して六欲天の中を転生し、ほしいままに福を受け、天寿をまっとうする。 早死にすることはない」
阿難「六欲天の寿命が尽きたらどこに生れるのでしょう」
仏「この閻浮提世界に降り、人の中に生れる。出家・学道し、前に鳥だった時の縁によって四諦を誦持し、心は自ずと解きほぐれ、辟支仏となる。 曇摩(ドンマ)と修曇摩(シュドンマ)という名である。一切諸仏と賢聖たちは天か人で、受けた福の多少により、法を因とする。善因が後に妙果を得させたものなのだ」
 この時、阿難と会衆は仏の説くことを聞いて歓喜しうけたまわったのだった。

※鸚鵡が上下した伏線が回収されていましたね。


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