賢愚経巻十三 沙弥均提品第六十二

 このように聞いた。
 仏が舎衛国の祇樹給孤独園にいた時のこと。
 尊者舎利弗(シャリホツ/シャーリプッタ)は昼夜三回ずつ天眼をもって世間を観て、誰か済度すべき者がいたら行って救おうとしていた。
 他国に行こうとしている商人たちがいた。彼らは一匹の狗を連れていた。途中、少し休憩していた時のこと。犬は、人が見ていないすきをうかがい、
商人たちの肉を盗み食いした。皆は怒り犬を打ち据えた。脚は折れ、荒野に捨て置かれた。
 舎利弗は遠くから天眼をもって見、犬が痙攣し、飢えて野垂れ死にしかかっているのを見た。
 衣をまとい鉢を持って城市に入り、乞食(こつじき)をして食べ物を得ると飛んで犬の所に行った。哀れみをもって食を施したのだ。
 犬は食を得ると少し命がのび、喜んで踊りだしたい気持になった。
 舎利弗はその犬にすばらしい法をつぶさに説いた。
 犬は命つきて、舎衛国のバラモンの家に生れかわった。
 舎利弗は一人乞食に出た。バラモンがそれを見てたずねた。
「尊者は単独行動をして沙弥がいないのですね」
舎利弗「沙弥の弟子がいないのです。聞けば卿には子がおありとか。私にくださいませんか」
バラモン「たしかに均提(キンダイ)という子がいますが、年いまだ幼く、役には立ちません。大きくなってからさしあげましょう」
 舎利弗はその言葉を心にとどめて祇園精舎に帰った。
 七年がたち、ふたたび子を求めた。バラモンはその子を舎利弗にあずけて出家させた。
 舎利弗は祇園精舎にともなって行き、沙弥のためにゆっくりと種々のすばらしい法を説いた。
 心がときほぐれ、阿羅漢となった。六神通をきわめ、功徳がすべて備った。
 均提沙弥は道を得て、自らの智力で過去世を見た。何によって人の姿を得、聖なる師と出会い、果証を得たのかを知ろうとしたのだ。
 前世が飢えた犬で、和上舎利弗の恩によって今の人身を得、道果を得たのだと知って心から嬉しくなった。
〈自分は師の恩によって苦を脱したのだ。今、この身が尽きるまで沙弥として師に仕えよう〉
 そこで比丘となる大戒は受けなかった。

 阿難が仏にたずねた。「疑問があるのです。この人は昔、どういう悪行をして犬の身となったのでしょう。どういう善根を積み、解脱を得たのでしょう」
仏「その昔、迦葉仏の頃、比丘たちが一ヶ所に集住していた」

 少年の比丘がいて、声は澄み渡り梵唄(ぼんばい)にすぐれていて、皆はそれを楽しんだ。
 一人の高齢の比丘がいて、声は濁り梵唄を唱うことができなかった。しかし、毎回自分で声を出し、自らの娯楽とした。
 その老比丘は阿羅漢となり、沙門の功徳がみなそなわっていた。
 声のいい少年比丘が、老沙門の声が濁っているのを聞いて、自らの声がよいことを鼻にかけてののしって言った。
「今、あなたは長老なのに、声は犬が吠えるようだ」
 軽口に対し老比丘は少年比丘を呼んで言った。
「そなたは私を知っているか」
「知っています。迦葉仏の時からの比丘です」
「私はすでに阿羅漢道を得、沙門の儀式もみなすませている」
 少比比丘はそれを聞いて驚き毛が逆立ち、畏れから自らを責めた。そしてその前で懺悔・過咎を行った。
 老比丘はその懺悔を聴いた。 

仏「その悪言によって少年は五百世の間、いつも犬に生れかわった。出家として浄戒を保っていたので、今、私に会う会うことができ、解脱できたのだ」
 阿難は仏の説く所を聞いて喜んで信受し、うけたまわったのだった。

 賢愚経巻第十三、おしまい。

※『賢愚経』の懺悔概念は、たとえ懺悔して相手に許されても因果応報は逃れられないという物です。
読経前に唱えている懺悔文「我昔所造諸悪業/皆由無始貪瞋痴/従身口意之所生/一切我今皆懺悔」が本当に意味があるのかと考えてしまいます。

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