への字
深夜のコンビニ前、彼女は俺の鼻に勢いよく指を突っ込んだ。痛くないはずがない。彼女はニヤニヤと笑っている。俺は鼻血を垂らしながら、困惑したそぶりを見せつつ、それに満足していた。彼女は決してサディストというわけではない、俺はそれが彼女の照れ隠しであることを看破している。彼女はいつも、俺に悪戯を仕掛ける時、決まって口をへの字にする。そして、その悪戯に俺が困惑すると、への字は解け、幸せそうな顔で笑う。
「なにすんだよ。鼻血出ちゃったじゃん」
「ティッシュ欲しい?」
「もってんの?欲しいよ」
彼女はまた口をへの字にして、わざとらしく、およそ色気と呼べるほどにゆっくりと、ポケットからティッシュを取り出した。そして、それを俺に見せると、への字は解け、また、ニヤリと笑い、俺に言った。
「あげなーい笑」
俺は、むくれ顔で、鼻血を親指で擦って拭いた。しかし、このむくれ顔に怒りは含まれていなかった。演技。これは彼女がそういう顔を望んでいるからである。いや、この書き方は良くない。正確には彼女がそういう顔を望んでいるかどうかはわからない。ただ、俺がそういう舞台でそういう演技をしてみたいと思ったからなのである。深夜のコンビニの前という舞台で、彼女に揶揄われ、むくれ顔が街灯に照らされるという演技。それにおいて、彼女がどんな反応を望んでいるかはどうでも良い。ただ、自分がしたいからするだけ。恋愛には、こういう相手のためだとか、相手に合わせるとかいう、体で、自己の欲求を満たす欺瞞がある。
「ごめんて」
そう言うと、彼女は俺にポケットティッシュを投げた。そして、続け様に俺に言った。
「あのさ、真面目な話して良い?」
「うん」
俺は少しの期待があった。自分の鼓動が大きく、速く波打つのがわかった。
「私さ、彼氏できた」
足元が抜けるような感覚だった。数秒の沈黙と、俺は視線を落として、呟くように言った。
「まじで。よかったじゃん」
「ゼミの友達でさ、告られた。めっちゃ良い人でさ、ずっと好きだったんだって。」
「…。そうなんだ。」
「だから、こんな感じで会うのは今日で最後にしよ。」
「まぁ、そうなるよね。」
彼女は貼り付けたような笑顔で言った。
「お前もさ、こんな鼻血を出させる女と一緒にいるより、他のいい女と付き合った方が、自分のためだよ。」
「やめろって。お前は良いやつだよ。」
「揶揄わないでよ。」
俺は沈黙が気まずかった。
「そろそろ終電だし。俺帰るわ。彼氏と幸せにな。」
「ごめんね」
俺は終電ギリギリの駅へ向かった。薄暗がりには真っ赤な酔っ払いが見えるだけだった。
彼女のそんな言葉は聞きたくなかった。
君のへの字が見たかった。
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