月曜日が好きだと君は言うけれど(前編)


 瀬越俊月は人間が下手だった。生まれてから今まで、一度だって人間が上手かった試しがない。
 特に何かミスをした覚えはない。それでも俊月は、緩やかに人生の失敗を重ねた。思い出される最初の失敗は、小学校の入学式だ。不愛想で目つきが悪く、その上他の子どもより背格好の大きかった彼は、最初から集団で浮いていた。幼いコミュニティーでの緩やかな排斥。みんなではしゃぐドロケイの輪に、彼だけが入ることを赦されなかった。
 高学年になり、上手い立ち回りが求められるようになると更に酷くなった。生真面目で融通の利かない性質だった彼は、とことん集団に馴染まない。学校のウサギを虐める同級生に立ち向かったところまではよかった。けれど、正義感は使いどころが難しい。彼が同級生を突き飛ばした理由を信じて貰えることは終ぞ無かった。
「瀬越くん、あなたの言うことは正しいかもしれない。けれど、その態度にも問題があると思うわ」
 蹴り飛ばされたウサギは酷い有様だった。血の付いた肉の塊にしか見えないそれは、長くはもたないだろう。俊月はそのウサギの墓を作ってやろうと思っていた。ウサギを蹴り飛ばした奴が改心したら、きっと墓を一緒に作るのだと思っていた。
「…………先生、」
「何か文句がありそうね。大体、動物には優しくて出来るのに、どうしてお友達には優しく出来ないの? あまり他人のせいにばかりしない方がいいと思うわよ」
 ウサギは緩やかに死んでいっているだろう。けれど、先生は俊月を逃がさない。
「理由が、」
「先生はそんなことを聞いてるんじゃないの。理由なんてどうでもいいの。小林君に謝りなさい。親御さんも悲しんでいたわよ。あなたがこんなことをするなんて」
 結局、お墓は一人で作った。
 瀬越俊月は人間が下手だった。もう少し上手くやる方法なんていくらでもあった。

 中学に入っても高校に入っても、状況が大きく変わるわけじゃなかった。面倒ごとに巻き込まれないように距離を置き、輪から外れ続ける。不愛想と不機嫌と不器用を区別してくれる誰かはいなかったし、俊月には自分をどう変えればいいのかも分からなかった。
 不愛想な人間に振り掛かる、ありとあらゆるトラブルに見舞われた。現実は俊月の想像を超える悲惨さで彼を迎えた。母親にすら疎まれるようになるのに、そう時間はかからなかった。ディスコミュニケーションの新記録! 何を考えているかわからない息子は、扱いづらい上に不気味だった。だって可愛くないのだもの。生まれつきボロ布のテディベアを愛すのは難しい。俊月はこうなってしまった理由を考えようとしたけれど、重なり続けた不和は切り取ることが難しいのだ。マイナスは雪のように降り積もる。

 年の離れた妹の歳華は、俊月とは正反対の人間だった。快活で明るい彼女は、血が繋がっているとは思えないほどだった。母親が歳華を溺愛するようになったのを見て、彼は密かに安心していた。思う存分愛せる相手が母親に出来て良かった。不良品だけを引き当てない人生で良かった。
 俊月も妹のことが好きだった。彼にとって、瀬越歳華が精神的支柱の全てだったと言ってもいい。彼女の存在一つで、色々なことに諦めがついた。なるべく人生を波立たせないように、誰とも関わらず大人しく生きる。
 月日が経って、俊月は英知大学に入学した。入学に際しての一人暮らしに、両親は何の文句も言わなかった。悲しんだのは妹くらいだ。俊月は実家から電車で三十分のアパートで独り暮らしを始めた。今度こそ上手くやろうと決めていた。不良品なりに自分の見栄えをよくしてやろうと必死だった。なんて健気なスタンスだろう! ほつれた身体を自分で縫って、俊月は新生活に踏み出した。

 けれど、生まれ付いた性質がそう変わるわけでもない。
 入学後の学科集会ですら、彼はまともに喋れなかった。何を喋ればいいのか、何なら喋っていいのか、それすら分からなかった。汚泥は乾いても身体から決して離れない。こびりついているそれを隠せども、新天地なんか何処にも無かった。そうして、決定的な事件が起きた。
 五月の半ばに催された飲み会で、先輩が酔わせた新入生を連れ帰ろうとしていた。それを止めて喧嘩になった。弁解をするつもりは無い。けれど、先に手を出したのは相手の方だった。

 次の日には、俊月の方が酔って暴れたということになっていた。分かりやすい顛末だ。もう少し俊月が上手く立ち回れていれば、話は大きく変わっていただろう。けれど、そうはならなかった。
 元々浮いていた俊月の居場所はいよいよ無くなってしまった。
 あの時助けた新入生からは、事情を説明した方がいいと進言された。けれど、その言葉にすら俊月は頷かなかった。醜い真実を明らかにするのに躊躇ったわけではない。彼は緩やかに絶望していた。俊月は人間が上手くない。今回のことだって「ああ、またか」と思っただけだ。
 小学校のウサギと目の前の新入生は何処も似ていなかった。うっかり重ねるなんて馬鹿な話だ。彼女が事実を伝えるべきだと言うのには、途方も無い勇気が必要だったことだろう。それに向き合うだけの気力が、俊月にはもう残っていなかった。
 全て彼が自分で蒔いた種だった。誰の所為でも無いのだ。
「お兄ちゃんが、お兄ちゃんの正しさが、あたし好きだよ。あたし、ちゃんと知ってるもん」
 俊月の代わりに、妹は目に涙をたっぷり湛えて言った。ぐずぐずと涙を流しながら怒りに震える歳華を見て、俊月はどこか羨ましい気分になる。妹は正しい。これからもきっとずっと正しくあり続けるだろう。自分と違って、人生をちゃんとこなしていけるはずだ。
 それだけで俊月はどこか救われたような気分になるのだった。
 何も期待しなくていい。何も絶望しなくていい。そのことがどれだけ救いになっただろうか。不愛想さには拍車がかかった。小学生の頃から変わらない。それはある種、俊月が自分を守る為に身に着けた所作でもあった。

「月曜日は嫌い?」
 だからこそ、あの日の中央線で、俊月はまともに応対出来たのだ。人間関係が下手で良かった。そうでなければ、電車で向かいの席に座った男にいきなり話しかけられても、無視したり席を立ったり出来たかもしれない。それが良識的な反応だ。空いた電車だった。移動する席はいくらでもある。
 如何せん、瀬越俊月はコミュニケーションが苦手だった。だから、不審者に話しかけられても、席を立つことすら出来なかったのだ。
「月曜日は嫌い?」
 人好きのする笑顔を浮かべた男は、もう一度そう尋ねてきた。初めて話しかけてくる言葉にしては、恐ろしく気取った言葉だった。その所為で、怪訝な顔をすることすら遅れる。ややあって、俊月は言った。
「……はあ?」
「君、やけに浮かない顔してるからさ。まさに学校が嫌いな子供って感じで。困るな」
 時刻は午後二時を回ったところだった。
月曜日に入れている授業は二限だけだから、この微妙な時間に帰るのが常である。この時間の電車は空いていて、乗っている客も全員がぼんやりとしている。午後の何とも言えない空気が車内を浸しているからだろう。だから、珍妙な会話をする男のことを、誰も気にしていないようだった。まるでここだけ切り取られているかのような妙な隔絶感がある。
「……好きなわけないだろ。誰でも嫌いな曜日だ」
「そうかな? 僕は結構好きだけど、月曜日」
「なんでだ」
「え?」
「なんでだ、理由は」
 今度は男の方が驚く番だった。こういう魔除けの方法がありそうだよな、と俊月は頭の端で考える。問答の末に魂を掠め取られないよう、自分の方から対話を仕掛けて相手を潰すのだ。単なる雑談だというのに酷い緊張感だ。果たして、穏やかな顔をした男が言う。
「月曜日、新しい一週間の始まりなんて楽しいだろ? 月曜日は映画館が空いてるし。確か統計的にもそうだったんじゃなかったかな」
「……そうか」
 俊月はそれを聞いて、ゆっくりと頷く。元より月曜日を好きな理由なんかに興味は無い。必要なのは少しでも時間を稼いで、相手のペースに呑み込まれないようにすることだ。夕日の中で、男はこの世ならざるものに見えた。まばらに座る他の乗客が、目の前の男を注視していないのが不思議なくらいだった。
「お前は――」
「僕の名前は菱崖小鳩。君と同じ英知大学の学生だ」
 一本取られた。まさにそれを質問しようとしていたのに、先にその手を潰された。まるで人の心を読んだかのような所業に、一段階警戒のレベルが上がる。怪訝そうな顔を浮かべた俊月を無視して、小鳩はなおも語り続ける。
「僕は独文だから学部単位の集まりじゃないと、一緒にならないんだけどさ。オリエンテーションや文学部集会では居合わせたかな?」
 確かに見覚えは無かった。そういった特別な場でないと、本当に出くわさないのだろう。そして、俊月はそういう場で積極的に周りとコミュニケーションを取ろうとする人間じゃない。
 そこでふと、とあることに気がついた。あまり嬉しくないことだ。
「……どうして俺のことを知ってる? 学部が違うことなんかを何処で知るんだ」
「噂で聞いただけだよ。確か、君……瀬越だっけ」
「……どうせろくな話じゃないだろう。俺の噂なんて」
「うん。どういうわけだか君の評判は頗る悪いみたいだ。ねえ、酔っ払って先輩をボコボコにしたって本当?」
「それならどうして俺に話しかけてくるんだ? 評判は知ってるんだろ?」
 小鳩の質問には答えずに、俊月はそう言った。かかる火の粉はなるべく早く払った方がいい。怖がられて疎ましがられているのなら、それならそれで構わなかった。受けた誤解を利用することにすら、慣れ始めていた身の上だ。こうして突けば噛まれるかもしれないと思ってもらった方がいい。
 けれど、小鳩は澄ました顔のまま返した。
「気になったから。たまたま会ったから。単なる嫌がらせ。あるいは好奇心。他に何を与えてやれば理由になる? 君はどれで納得するわけ?」
「どういうことだ。わけがわからん。どれが本当なんだ」
「正直な話をするなら、理由なんて無いよ。その時その時の気分に従っただけだけど、君はそれじゃ納得しないみたいだよね。困るな」
「理由のないことなんて無いだろう」
「あるよ。それに気づけば人間のやり方がもう少し上手くなるだろうね」
 その物言いに、デリケートな部分を踏み躙られたような気分になった。生まれてから長らく人間が下手だった。生真面目すぎる性格が故なのか、あるいはそういう星の下に生まれてしまったのか。あるいは醸し出す雰囲気が悪いのか? 思えば、俊月はそれにすらずっと『理由』を求めてきたのだった。
 それを、目の前の男は一言で切り捨てようとしている。それが赦せなかった。下手でどうしようもなくても、俊月はどうにか人生を生きてきたのだ。そう簡単に変われるものでもない。
「……言いたいことはそれだけか。なら、俺が前評判を裏切っている間に失せろ。お前も噂の一部になるぞ」
「イメージに自分を添わせる方向にいくのも難儀だね。困るな。それに、本当に暴力沙汰になるのも二重に困る。ねえ瀬越。僕は別に君を怒らせたかったわけじゃないんだ」
「なら何の用だ。理由を言え」
「またそれ? あ、でもそれは簡単かも。君さ、僕と友達にならない?」
「ならん」
「嘘だろ。驚いた君に優しく畳みかける口上しか用意してなかったのに。あんまり予想外のことを言わないでくれるかな」
 困るな、と言う男の口調があんまりにも楽しげなので、ますます嫌な気分になった。全く困っているように聞こえない。むしろ、緩やかに追い詰められているのは瀬越の方だった。今まで会ったどんな人間のタイプとも違う彼を前に、不器用な瀬越が敵うはずがなかった。
「まあ、今日どうこうっていう訳じゃないんだ。今日のところはお暇するよ。丁度降りる駅だしね」
 電車内にアナウンスが響く。ここに住んでいるのか、という僅かな気づきですら致命的なものに思えた。少しでも菱崖小鳩のことを知ってしまったら、それ以上戻れなくなりそうで怖かった。
「随分簡単に引くんだな」
「知らなかった頃には戻れないからね」
 心の中を読み取ったかのように、小鳩は言う。
「じゃあね瀬越。僕のことは小鳩って呼んでいいよ」
 そう言って、小鳩は音も無く電車を降りて行った。ともすれば幻覚と勘違いしてもおかしくないような相手だった。だって、あまりに非日常が過ぎる。
 小鳩が居た場所にはスポットライトでも模したかのように、一際明るい陽射しが差し込んでいた。それを見た瀬越は、何だか苦虫を噛み潰したような気分になる。『知らなかった頃には戻れないからね』という小鳩の言葉が、日に寄り添って残響しているようだった。

 一度知り合ってしまえば、小鳩の姿はよく目についた。
学内のどの場所にいても、どの団体を見ても、小鳩はさりげなくそこに居た。集団は緩やかに小鳩を囲み、和やかな雰囲気を醸し出している。大袈裟な言い方なんかじゃなく、小鳩の居る場所だけ光が差しているかのようだった。
 例えるならば洒落た前菜か、あるいは口当たりの良いデザートだ。場を乱さず、この上なく好ましい。気づけばそこに馴染んでいて、悪目立ちというものをしない。色々な意味で菱崖小鳩は俊月の対極にいた。羨ましいと思わなかったら嘘になる。けれど、魚が鳥に憧れるのは、ある意味とても無邪気な話だ。かけ離れているからこそ、憧れは淀まない。
 その時、集団の中にいる小鳩が、ゆっくりと手を挙げた。それに合わせて、取り巻きが一斉にこちらを向く。それを受けてようやく、俊月は小鳩が自分に手を振っているのだと気がついた。沢山の視線が刺さる。その中には、瀬越を見て怪訝そうな顔をしているのもいた。息が浅くなる。平気だと思っていたのに身が竦む。
 それらのプレッシャーを一切解さずに、小鳩はのうのうとこちらに歩み寄ってきた。小鳩が抜けた集団が、溶けるように解散していく。その間、小鳩は一度もそちらを振り返らなかった。
「やあ瀬越。元気?」
「……三日も経っていないだろう。あれから」
「まだそれしか経ってない? 困るな。ここ最近の熱視線で時間感覚が狂った」
 それを聞いた瞬間、ぶわっと背中に汗を掻く。この数日、学内でよく小鳩を見かけた。その都度目で追っていた。その全てが筒抜けであったという事実が耐えられない。絶望的なきまりの悪さを誤魔化す為に、俊月はぶっきらぼうに言った。
「お前、あの虫みたいな集団はいいのか。散ってったぞ」
「ん? ああいいのいいの。大した話してないし。話の内容ももう忘れちゃった」
「…………はあ、そうか」
「誘蛾灯みたいなもんだからね」
 それは小鳩を指しているのか、それとも周りを指しているのか。だとすれば誘われた蛾はあの集団なのか、自分なのか。考えれば考えるほど、俊月の頭に嫌な分岐が湧いてくる。あの時の電車のような非日常感が脳髄を満たす。
「君も暇なんだろ。少し話をしよう。そうだな、この時間帯ならロンもまだ空いてるだろうし」
 ロンというのは大学から程近いカフェの名前だ。
「あのカフェ、いつ行ったって英知の人間でいっぱいだろ。学部の中の人間もいるかもしれない」
「それが何?」
「……お前もお前で多少なり人気者らしいし、俺は俺で悪目立ちする。妙なことになるぞ」
「へえ、そんなこと気にしてるのか。瀬越って生きにくいよね。嫌だな。人間関係なんかに悩まされるなんて馬鹿馬鹿しいと思わない?」
 そう言って、小鳩は華やかに笑った。
 『人間関係なんか』なんて。全く理解出来ない言葉だった。

 英知大学近くの喫茶店は、予想以上に混んでいた。何が空いている時間だ、と俊月が心の中で毒づいていると、小鳩が小さく手を振ってみせる。すると、奥の方から店主が出てきて、何やらを小鳩に言う。喧噪の所為でよく聞き取れないけれど、和やかな雰囲気であることは確かだった。小鳩の方も笑顔で何かを返す。
 そうして気づいた時には席が用意されていた。「ラッキーだったね」と言う小鳩に対して、改めてぞっとする。小鳩にとってはいつだって『空いている時間』なのだろう。他のことなんて関係が無いのだ。
 慣れた口調でアイスコーヒーを注文する小鳩に合わせて、俊月も同じものを頼む。二階のボックス席で向かい合っていると、あの時の電車を思い出した。この間と同じ位置取りだけれど、前回よりもずっと近い。これに心理的な距離感を重ね合わせるのはまずい、と思う。
「……で、話って何だ」
「え、まさか君ってそんな殺し屋の密談みたいなノリで常々生きてるの? 予想以上に大変そうだね。同情するな」
「喧嘩を売ってるのか」
「違うって、雑談でもしようと思ったんだよ。だって、あの時はあんまり喋れなかっただろ?」
「雑談」
 あまりに耳慣れない言葉なので、思わず復唱してしまった。みんなの輪の中で楽しそうに笑っていた小鳩。雑談。それなら、自分よりずっと相応しく上手くやれる人間がいるはずだ。けれど、小鳩は構わず口を開いた。
「えーと、好きな映画監督は?」
「は? ……スティーブン・スピルバーグ」
「あはは、真面目だね。黙るよりは知っている監督の名前を出すのか」
 揶揄うように言われたその言葉が憎らしい。
「……俺が本当にマニアだったらどうするつもりだ。ジュラシックパークで出てきた恐竜の数の話でもするのか?」
「十種」
「あ?」
「プロケラトサウルスとメトリアカントサウルスとステゴサウルスは名前しか出てないけど」
 つらつらとそう並べ立てる小鳩は、相変わらず全く表情が読めなかった。にこにこと笑う彼のどこまでが冗談で、どこまでが本気なのか分からない。場繋ぎに飲んだアイスコーヒーはやけに苦かった。けれど、ここで今更ミルクを入れることも出来ない。
「……お前、映画が好きなのか?」
「そうだね。人並以上には。映画っていいよね。どこまでも突き詰めて後世に残り続けるものを作ろうとするその姿勢が好きなんだ。瀬越は? 好きな映画は?」
「…………特に無い」
「僕に指摘されたからってそういう回答をするのも、ある意味真面目だよ」
 色々な意味で完敗だった。目の前の小鳩は、優雅にミルクを入れるどころか、シロップを二つも入れてコーヒーを飲んでいる。片方のシロップは俊月のものだろうに、何の躊躇いも無く拝借していらっしゃる。ああ、その、たゆまぬ傲慢さが……。
「……もういいか?」
「うん? どうしたの?」
「こんなの何の意味も無いだろ。お前が何のつもりかは知らんが、こっちもそこまで暇じゃない。なんで俺に付き纏うんだ」
「前も言っただろう。友達になろうとしてるんだ」
 またそれだ、と俊月は思う。俊月にとってそれは未知の存在だった。あれだけ何不自由なく『人間』を上手くやっている男が、どうして自分に構うのか。ここまでくるといっそ恐怖だ。けれど、小鳩は少しも気にせず笑う。
「友達の線引きって難しいよね。さてはて、友達はどこから友達になるのか? ここで瀬越と僕が友人になりましょうって契約を結んだら、それは本当の友達になるのか? 悩むな」
「別に俺は今更気にしない。何かあるなら早めに言ってくれ」
「君のその妙な被害者意識は、例の暴力事件が原因なのかな?」
 全てを見透かしたような声で、小鳩がそう尋ねた。
「分かった。それじゃあまずはその部分を解決しよう。それでいいかな?」
「は? 何が解決だ。一体何の話をしてるんだ」
「少なくとも、僕と出会ったことで君の大学生活は大きく変わる。それだけは保証しておくよ。ある意味これは決まったことだ」
 まるでメフィストフェレス染みた話だ。拗れに拗れた瀬越俊月の大学生活を、目の前の男が一変出来るとでも言うのだろうか? それこそきな臭い話だった。それでも、何故だか一笑出来ない。
「それも『知らなかった頃には戻れない』か?」
「覚えておいてくれて嬉しいよ」
「あれだけ意味ありげに言われれば嫌でも覚えるさ、メフィスト気取り」
「なかなか詩的な言い回しだね。流石文学部」
 気の利いた言い回しのつもりもなければ、冗談で言っているわけでもなかった。
「その代わり、もし君の生活に変化が起きたら、代償に一つだけ叶えて欲しいことがある」
 菱崖小鳩の話は悪魔的だった。このまま話していればろくな目に遭わない気すらした。けれど、俊月の人生がこれ以上悪くなることなんてあるのだろうか? 俊月は自分でも驚くほど簡単にその条件を受け入れた。
「……嘘にならないといいがな」
「約束は守るよ。嘘は吐くけど。それじゃあ成立だ」
 小鳩から差し出された手を、俊月は取らなかった。宙に浮いた手を見て、小鳩が唇を尖らせる。
 期待なんか少しもしていなかった。何せ、彼の人生はいつだってそういうものだったのだから。人間が上手くないのだから。

 果たして、菱崖小鳩は約束を守った。
 小鳩がどういう働きかけをしたのかは分からないが、周りの俊月に対する態度は目に見えて変化した。勿論、一夜にして人気者というわけにはいかない。それでも、あのあからさまに訝し気な視線が消えた。腫れ物を扱うような雰囲気が消えていった。それだけで、随分呼吸がしやすくなった。
 一月ほど経ってようやく、自分から小鳩に会いに行った。不思議と小鳩のことはすぐに見つけられた。相変わらず呼吸の通りの良さそうな軽やかな姿だった。
「何かしたのか?」
 開口一番そう尋ねた。人間の態度が移ろいやすいものだとは知っていたものの、ここまでの変化は戸惑うしかなかった。
 けれど、小鳩は一言だけ返した。
「瀬越って理由が好きなんだね」
 理由が好きだとかいう話でもない。これで事情が聞きたくならないのなら、それこそ異常だ。
「大したことはしてないよ。強いて言うなら人間のステルスマーケティングだ。僕が瀬越を気に入ってるってなれば、君が魅力的に見える馬鹿も多くなるんだよ。困るな」
「周りを馬鹿扱いか、このクソ野郎」
「それでも君よりは人気者だ」
 そう言われてしまうとぐうの音も出なかった。小鳩の性根がいくら悪くても、周りに露見していないのだから問題はない。そもそも、この性格の悪さが露呈したところで、この男が嫌われるところが想像出来なかった。自分だけがこの害悪を理解しているというじっとりとした甘さが脳をふやかす。これは一体どういう感情だろうか?
「ともあれ、約束は守ってもらうよ。瀬越」
「……本気で来るつもりなのか?」
「そうだよ。それ以外に君に払えるものなんかないだろ?」
 得体の知れないものを纏わせながら、小鳩が笑う。
「友人っていうのは家に遊びに行くものだろう? 照れるな」
 〝俊月の住んでいるアパートに遊びに行かせてほしい〟それが、小鳩の出した唯一の条件だった。悪魔の提示した魂代わりの代償だ。

 ところで、俊月が殴った件の先輩はいつの間にか大学を辞めていた。風の噂で『夜逃げの憂き目に遭った』だの『質の悪い女に引っ掛かって結婚を迫られた』だのというオーソドックスな話を聞いた。かつてその先輩絡みで噂に悩まされた俊月には、妙な居心地の悪さがあった。始まりと終わりが繋がるのは物語では美しいけれど、現実では少し不気味だった。
「あの人、殺されたらしいよ」
 最後にはそういう噂まで出た。殺人。行きつくところまで行った後に出てくる物語だ。それなりの卑俗さがある。ここまでくると誰も信じてはいなかった。噂話に振りかけられた、刺激的なエッセンスでしかない。人間はそう簡単に殺されたりしない。
 ただ、その噂は長らく学内に留まり続けた。曰く、先輩が殺されるところを見た人間がいるのだという。目撃者の存在! 笑ってしまうような安い展開だ。目撃者がいたのなら、どうしてその人間は通報しなかったのだ? その時点でそもそもおかしい。
 噂に振り回された瀬越だからこそ、噂に対する距離の取り方は弁えている。そういうものは、いつだって真実より大分遠い。
 ただ、その噂はなかなか消えなかった。ゆっくりと滲む水滴のように、じわじわと俊月の周りに染み込んでは足音を少しだけ重く変える。得体の知れない薄気味悪さが、影になって纏わりついているようだった。

 ともあれ、瀬越俊月は真面目な男だった。菱崖小鳩がいくら胡散臭くても、気が合わなくても、約束は約束だった。天の岩戸並みに固いはずのその扉を、小鳩は簡単に開けてやってきたのだ。
「やあ、住所教えてくれてどうも。いい部屋じゃない。駅からは遠いけど、結構な穴場だ」
 扉の中にするりと身を滑りこませて、小鳩が楽しそうな声を上げる。特にエンターテインメント性も無い、1DKの普通の部屋だ。それでも、小鳩の目にはこの場所がこの上なく魅力的なパラダイスに見えるらしい。
「さーて、念願の瀬越の部屋だからね。早速盗聴器でも仕掛けよっかな」
「お前、本当にやめろよ」
「冗談だって。瀬越あんまり家に人呼ばないみたいだし、仕掛けるなら監視カメラでしょ。困るな」
 相変わらず何処までが本気で何処までが冗談なのか全く分からなかった。釈然としない気分の俊月を置いて、小鳩は軽やかに部屋を進む。そうして慎ましやかなリビングに入ったところで、ようやく立ち止まった。そして、驚いた顔で俊月の方を振り向く。それを見て、何だか少しだけ一矢報いたような気分になった。
「来るっていってきかなくてな。別に構わないよな?」
「あー、そうだよね。一瞬何処かの子連れてきたのかと思った」
「おい、誘拐犯扱いするな」
 リビングのテーブルには、長い髪の毛をツインテールに結った小さな女の子が座っていた。丸い目が爛々と輝きながらこちらを見つめている。喜色を満面に湛えた口元が、ぱっくりと開いた。
「あー! これが例の人でしょ!」
「指を指すんじゃない。これ相手でも一応失礼にあたるぞ」
「瀬越の中の僕の地位異常に低くない? 泣いちゃうな」
「お兄ちゃんが友達連れてくるんだから、あたしが見なくちゃいけないと思ったの! 絶対! 最初に見るの!」
 ツインテールをバタバタと揺らしながら、少女がそう言った。そして、思い出したようにこう続ける。
「あたしね、瀬越歳華! 天才小説家!」
「へえ、……妹か。いくつ?」
「小学五年生!」
「前途有望だね」
 褒められたことに気をよくしたのか、歳華が嬉しそうに顔を綻ばせる。この人懐っこさが、歳華を歳華たらしめている部分でもあった。誰だって屈託無く笑う相手に弱い。俊月が終ぞ持ち合わせなかった愛嬌を、彼女は両手いっぱいに抱えていた。ややあって、俊月が言う。
「……妹に手を出すのは赦さんぞ」
「いやあ、この齢の歳ちーに手を出したら犯罪でしょ。嫌だな」
「さいちー?」
「妹に変な綽名を付けるな」
「いいだろ? 可愛いし。僕はこの子をずっと歳ちーと呼び続けて、真剣な場面でだけ歳華って呼んであげるんだ。そうしたら多分普段とのギャップで途方も無いくらいときめかれると思う」
「お前は本当になんてことをしてくれるんだ」
「ちょっ、ノータイムでこめかみを殴るのはやめて。困るな」
 容赦なく小鳩を叩いてはみたものの、当の歳華が楽しそうに「さいちー、さいちー」と復唱するので、俊月にはどうにも出来なかった。いつの間にか編み上げられる関係に巻かれることの難しさ!
「瀬越にも綽名付けてやろうか。ね、とっしー」
 今度はノータイムで眉間を狙った。殴られた小鳩が音も無く崩れ落ちる。
 綽名を付けられたらおしまいだな、と俊月は思う。名前を付けたが最後、その辺の石ころだってちょっと愛しくなってしまうものである。自分の生活に入り込んできた石は、水面に投げ込まれて優雅に波紋を広げていた。

 その日を境に、小鳩が俊月の住んでいるアパートに遊びにくるようになった。
 本当はもう二度と入れてやりたくなかったのだが、他ならぬ歳華が「小鳩は?」と尋ねるので、入れないわけにもいかなかった。友達の線引きは何処にあるのか分からない。けれど、最愛の妹が菱崖小鳩を承認した以上、俊月にすら決定権は無いのだ。
 小鳩が気まぐれに発する『遊びに行っていい?』の言葉に、俊月は渋々オーケーを出す。歳華が居る時は三人で簡単なゲームなんかをして遊んだり、くだらない雑談をして過ごした。喫茶店でやった不器用な『雑談』に比べて格段に滑らかな会話だった。
 その内、歳華が居なくても小鳩を家に入れるようになった。よくよく考えたら拒否する理由も無い。小鳩は俊月の家に映画のDVDなんかを持ち込んで時間を潰すようになった。DVDプレイヤーすらなかった俊月の家にそれを導入したのは小鳩だった。
「別に瀬越に何の迷惑も掛かってないだろ?」
「俺の居住面積が減るだろ」
「大丈夫。その分君の体積を減らせばいい」
「…………お前の体積でもいいんじゃないか?」
「瀬越が言うと冗談に聞こえないんだよ。嫌だな」
 こうなると「要らない」とも言えなかった。プレイヤーを繋げるのを拒否した日、恐ろしいことに小鳩はDVDディスクを一日中眺めて過ごした。虹色の読み取り面を光にあてて、にこにこと笑う男を想像して頂きたい。同じ部屋にそんなのがいたら、俊月の方が狂ってしまう。
 結局、四時間ほど過ぎた辺りで屈服した。初めて再生したのは『ジュラシックパーク』だった。恐竜の名前を全て覚えているはずの小鳩は、恐竜が出てくる度に息を詰めて、要所要所でけらけらと楽しそうに笑っていた。
 「引き払え」とも言えなかった。知ってしまえば戻れないのだ。

 それが半年ほど続いたある日のことだった。
「そうだお兄ちゃん、小鳩にあれ作ってあげなよー。もう作ってあげた?」
 二人でスティーヴン・スピルバーグの作品を粗方観終えた頃の話だった。ノートに小説を書きつけていた歳華が、思い出したようにそう言った。逃せ! 見過ごせ! という俊月の祈りも虚しく、小鳩が目を輝かせた。
「歳ちー、あれって何? 家?」
「えー、お兄ちゃんのビーフシチュー食べたことないの? ルー使わないんだよ! 凄いでしょ」
「おい、歳華」
 慌てて制したものの、歳華は何がいけないのか分かっていないらしく、小さく首を傾げている。すると、小鳩は今までで一番驚いた顔をして、俊月の方を見ていた。
「君、料理するのか。知らなかったな」
「そうだよ。お兄ちゃんって凄いの! あたしねー、お母さんの料理よりお兄ちゃんのやつの方が好き」
「君、料理するのか。知らなかったな」
「無理矢理俺からのコメントを引き出そうとするな。RPGじゃないんだぞ」
 歳華の手前平静を装ってはみせるものの、内心はパニックに近かった。本当に好きなものを相手に知られてしまう恐ろしさは筆舌に尽くし難い。取り上げられるテディベアとか、焼かれる村とか燃える家とか、そういうイメージが頭に過ぎる。好きなものは弱点なのだ。そして、菱崖小鳩はそれらの暴虐に、なんとなくよく似合う。
「……料理なんか俺には似合わないだろう。分かっている」
 なるべく平坦に聞こえるように、俊月は言う。
「だが、歳華の手前だ。大人しく期待しておけ」
「え、作ってくれるの?」
「準備が必要だ。木曜日、昼過ぎに来い、一人で」
「なんかヤなんだけど。殺されそう」
「来い。『友達』なんだろ」
 その言葉を口にするか随分悩んだ。楔代わりに打ち込むには甘すぎる響きかもしれない。何せそれは、俊月の人生にはいよいよもって現れなかったものなのだ。狂ったように心臓を鳴らしながら、俊月は小鳩に向かい合う。ややあって、小鳩が口を開いた。
「分かった。楽しみだな」
 俊月のテディベアがゆっくりとその手に渡る。その時俊月は、柔らかなそれが、丁寧に抱きしめられるのを幻視した。

 木曜日、小鳩は朝早くに俊月の家にやって来た。インターホンが軽やかに鳴る。無視してやろうとも思ったのだけれど、時間が時間なのでそれも出来なかった。
「小鳩。お前の昼はどこの国の標準時だ?」
「料理してるところ見たくてさ。大丈夫だよ。絶ッ対に邪魔したりしないから。勿論、家財道具を勝手に売り払ったりもしない」
「俺はお前のそういうところが本当に嫌いだ」
「普通に悲しいんだけど。嫌だな」
 調理をしている間、俊月はなるべく余計なことを考えないようにしていた。目の前の食材にひたすら向き合い、淡々と作業を続けていると、心が落ち着いてくる。
 包丁を初めて握ったのは小学校の調理実習の時だった。あの時作ったのは確かカレーだった。人参を切り、ジャガイモの皮を剥いている時、俊月は目の前のことに没頭していた。自分の置かれている境遇や、抱えている全てが、調理の最中は蚊帳の外に置かれるのだ。
 それから、俊月は密かに料理の勉強を始めた。レシピを調べ、練習を重ね、母親が留守にする時に合わせて、自分で料理を作った。意外なことに、料理は俊月に向いていた。真面目に努力すれば努力しただけ成果が出るというのは、途方も無く美しい仕組みだ。
 俊月の料理は諦念と逃避と努力と祈りで出来ていた。そして、そのどれもに雑味は無い。
 ビーフシチューは滞りなく完成した。狭いアパートには似合わないくらい高級な皿に盛って、小さなテーブルに載せる。その間、小鳩は何も言わなかった。いつもは点けっぱなしのテレビも点いていない。小鳩は静かに「いただきます」と言うと、一口掬って口に運ぶ。喜びなんて欠片も無かった。あるのは死刑台に引き立てられたような感覚だけだ。何かを思うより先に、口が勝手に動く。
「料理っていうのは、生活に必要不可欠なものだろう。どうしたって避けることは出来ないものだ。俺は、黙々と作業をするのに向いているから、こういう作業とも相性がいいんだ。……色々試行錯誤をしていくのも性に合っている。歳華も喜ぶし……」
「瀬越」
 珍しくはっきりとした声だった。聞き慣れないその声の所為で、俊月の方が言葉に詰まる。
「別にそんな理由をつらつら言わなくったっていいんだって。好きなら好きで、それで終わりでいいんじゃないの? 僕は瀬越が料理好きだって何も言わない。むしろ好ましいな」
 そう言って、小鳩はもう一口シチューを掬う。そして笑った。
「美味しいよ。参るな。瀬越にこんな才能があったなんて」
 張り詰めていた気持ちが一気に和らいでいくようだった。頭の奥が痺れて、上手く言葉が出てこなくなる。泣きそうなのか、と気づくのには時間が掛かった。たかが料理だ。泣く要素なんて何処にも無い。
「才能じゃない。ただ、やることがないからずっとやっていたら、それなりに出来るようになった。それだけだ」
「理由が無く好きだって構わないと思うよ。しっかし君さあ、あまりに難儀な性格してない? なんかいつも以上に顔怖いし……」
 呆れたように笑いながら、小鳩がパンを齧る。サクサクという軽妙な音が沈黙を切り崩した。
「このパンだってこだわってるんだろ? こういうディティールにこだわるところとかいいよね。好きだな」
「……パンじゃない。ブレッドだ」
「おっと、こういう方面の面倒臭さがあるわけね。困るな」
 容赦なくパン屑を落とす小鳩に腹が立って、俊月もパンを取って食べる。近隣のパン屋を一軒一軒回って、ようやく見つけた珠玉の逸品だ。あの店に小鳩を連れて行きたいという気持ちと小鳩が自分に映画を観せたいと思う気持ちは同じなのかもしれない。俊月は、初めて目の前の男の気持ちが分かったような気がした。あまりに単純な話だ。
「パンだけ食べて美味しいの?」
「当たり前だろう。お前はこれの美味さが分からないのか」
「確かに美味しいけどさ……あ、シチューおかわりしていい?」
「駄目だ。これから歳華が来るんだ。その分を遺しておかないといけないだろう」
「あ、歳ちーくるんだ。だったらそれまで居座ろうっと」
「ふざけるな、帰れ」
「『あれ、小鳩いないの……? あたしがくるのに帰っちゃったんだ……?』」
「反応に困る物真似を見せつけるな。怒るに怒れないだろうが」
 ――ここまでで終わっておけばハッピーエンドだったかもしれない、と瀬越は思う。人生が下手だった人間に訪れる転機としては、かなり上等な類のものだ。実際に、小鳩と出会ってから俊月の人生は一変したと言っていい。たかが友人が出来たという話に過ぎないけれど、それでも俊月にとっては大切だった。
 歯車が少しずつ狂い出したのは、歳華が発した一言がきっかけだった。
「あのね、クラスの朱里ちゃんが変な男の人に会ったんだって」
 歳華の通う小学校の近くで、不審者が目撃されるようになったのだ。

 その日は珍しく母親から連絡があった。何でも、歳華が酷く落ち込んでいて、俊月に会うと言って聞かないのだという。異変が起こっているのは明らかだった。本当に弱っている時、歳華は兄に頼るのだ。そうして、母親から送り届けられてきた歳華が言ったのがそれだった。
「……その朱里ちゃんって子は、どんな男を見たか言っていたか?」
「腕掴まれて、怖くてよく見えなかったって言ってるんだけど、なんか、スキーのゴーグルをつけてて、朱里ちゃんはそこからブザーを鳴らして、びっくりしたそいつが手を放した時に、にっ、逃げ出したって言ってた……」
 つっかえながらそう話す歳華を、俊月は必死に抱きしめる。
「大丈夫だ。歳華。俺が何とかする。お前は何も心配しなくていい」
 抱きしめた歳華は恐ろしい程弱々しく小さかった。
 ウサギ。新入生。そして瀬越歳華。一つ守ると一つ何かを失った。今までと違うのは、俊月にはもう失うものが何も無いことだった。引き換えにして惜しいものなんて何一つない。
「あのね、朱里ちゃんがそんな目に遭う前に、あたし、見たことあるんだ。見間違いかもしれないんだけど、帰り道に、真っ黒い男の人が立ってたの……だから、それだけなんだけど」
「今日はここに泊っていくんだろ? 安心しろ。俺が守ってやるから」
「お兄ちゃん……そうだよね。大丈夫だよね」
「ああ、大丈夫だ」
 本当は、大丈夫だなんて少しも思っていなかった。
 防犯ブザーは良い手だった。一度目なら効くだろう。事実、男は逃げ出した。けれど、二度目はどうだろうか? 防犯ブザーが直接的な反撃でないことを知った相手は、むしろそれを恐れなくなるんじゃないだろうか。一度目の犯行が社会に大きな影響を与えなかったことを受けて、図に乗るんじゃないだろうか。
 最悪の想像ばかりが頭に過ぎる。事実、人生は俊月の想像を遥かに超えてきていた。今回もそうならない保証はなかった。むしろ、パターンとしてはそちらの方がずっとあり得る。ここで歳華を失う訳にはいかなかった。
 しばらくそうしていると、歳華の方が落ち着きを取り戻した。元が気丈な分、弱った姿を見せたのが忍びなかったのだろう。失敗を取り返すかのように、歳華が笑う。
「ちょっと怖くなっちゃっただけだってば。あたしも弱気になってたけど、それにしてもお兄ちゃんって過保護だよね」
「歳華。茶化すんじゃない。狙われないなんて保証は無いんだ。不審者が出なくなるまで用心するに越したことはないだろう」
「そうだよ歳ちー。この点に関しては瀬越の奴が正しい。歳ちーは可愛いしさ、狙われてもおかしくないよ」
「……小鳩、そういうこと言ったって別にあたしの株は上がらないんだからね」
 そう口では言いながらも、歳華はまんざらでもなさそうだった。こうして俊月のところにやってくる理由が、少しばかり変化してきているのを感じる。将来的な義兄弟の予感には冷たい汗が流れた。いくら歳華がそうであっても、赦せることと赦せないことがある。
「落ち着いたな? 俺は少しやることがあるから、不本意だと思うが小鳩に構ってやってくれ」
「あ、僕が構われる側なんだね。なるほどな」
 俊月はすぐさま警察に連絡した。けれど、対応は芳しいものじゃなかった。簡単に言えば、今出来ることは無いのだ。見回りを強化することは出来る。でも、それだけだ。割ける人員は限りがある。二十四時間そこに人を配置しておくわけにもいかない。学年の差異やクラブ活動の有無によって、下校時間はいくらでも変動する。
 『朱里ちゃん』が連れ去られそうになった時間と通りの警備は特に厳重にするらしいが、犯人が同じことをするとは思えなかった。人間は学習する。
 俊月の作ったハンバーグを食べて『グレムリン』を観ると、歳華はすぐに眠ってしまった。よっぽど疲れていたのだろう。歳華にかかった負担を考えると胸が詰まった。
「……歳華が、人生の中で一番大切だった」
 眠っている歳華を起こさないようにベランダに出る。そこでようやく言葉が出てきた。得も言われぬ不安を隣の小鳩に吐き出さなければ、立っていられないくらいだった。
「へえ、それじゃあ僕は世界で二番目に大切ってわけだ」
 否定はしなかった。何せ彼の人生には登場人物が少なさすぎる。消去法で考えていけば、必然的にその場所に収まってしまうのだ。
「俺はあまり人間が上手くないが、妹はそれを受け入れて支えてくれた。歳華が生まれてくれて良かった」
「歳ちーに何かあったら……やっぱり悔やんでも悔やみきれないか」
 俊月は物々しく頷く。
「警察も巡回してくれると言ってるし、大丈夫だとは思うんだが……不安なんだ。朱里という子の下校ルートと歳華の下校ルートは違う。警察には、歳華の方も回ってくれるようお願いしたんだが……」
 良い対応が為される保証はなかった。最善を尽くしたって起こる時は起こる。頭上に落ちる落石は、傘で守れるものじゃない。
「しばらく俺が送り迎えをしようかとも思ったんだが……」
「でもさ、毎日そんなことするわけにもいかないよね? そもそも講義ぎっちり詰めてるくせに」
「そんなのどうでもいい。……歳華が無事ならなんだって」
「歳ちーがいつ襲われるかも分からないのに? これからずっと、歳ちーが卒業するまで?」
 それを言われてしまえば弱かった。いつ降るか分からない雨を待ち続けるようなものだ。けれどせめて歳華の不安が落ち着くまでは傍にいてあげたかった。でも、どうすればいいのか具体的なところが分からない。沈鬱な面持ちでいる俊月を見て、小鳩が口を開いた
「不安だと思うけどさ、ちょっとだけ落ち着いて僕に任せてくれないかな?」
「お前に?」
「ちょっとした作戦があるんだ。上手くいけば歳ちーのことを守れるかもしれない」
 およそ信じがたい言葉だった。このどうしようもない状況を打破出来る方法があるとは思えない。そもそも、常軌を逸した犯罪者とまともにやりあって、勝てるとも思えなかった。正しさだけで事が済むわけじゃないことを、俊月は身を以て知っている。
「大丈夫。前回だってそうだっただろう? 僕に任せておけば何も心配要らないよ、瀬越。こんなことに煩わされるなんて馬鹿げてるじゃないか」
 それなのに、小鳩の言う言葉は微かに光を帯びている。
 他人に掛けていい期待じゃない。けれど、菱崖小鳩ならこの状況をどうにかしてくれるんじゃないかと思ってしまった。あの時、確かに俊月の状況を変えたように、同じ種類の奇跡を起こしてくれるんじゃないかと期待してしまった。どうしても滲んでしまうそれを隠すように、俊月は言う。
「……あまり妙な真似はするなよ」
「あはは、何その言い方。嫌だな」
「お前の為にも言ってるんだ」
 その言葉に小鳩が目を細める。どういう風に受け取ったのかは分からない。夜を背景に抱きながら、小鳩はゆっくりと首を振った。

 次の日はあいにくの雨だった。傘を持っていない歳華の為に、俊月は自分の傘を貸した。大きくて武骨な傘は歳華には似合わなかったけれど、何だか守れているような気分になるから不思議だった。
 ここから数日は雨が続くと聞いていた。嫌な天気だった。果たしてこの天気が、どんな風に作用するのだろうか。
「お兄ちゃん、すぐだからね」
 歳華はそう言って手を振った。
「すぐに返しにくるからね。あたし、全然平気だからね!」
 黒い傘はお守りのようだった。歳華と俊月を無事に再会させてくれるよすがだ。何の変哲も無い傘に祈る。どうか、歳華だけは守ってやってください。俺ならどうなってもいいですから、歳華だけは。

 けれど、傘は単なる傘だった。願望機でも無い普通の雨具だ。

 『グレムリン』を観てから三日後のことだった。
 またしても母親から連絡があった。前回よりもずっと切迫した連絡だった。そして、直接的な連絡だ。『歳華が帰ってこないの。貴方のところに行ってない?』の一文で、俊月はあっさりと平静を欠いた。
 前日から今朝にかけては雨が降っていた。歳華は俊月の傘を持って出かけたことだろう。歳華は傘を差して学校に向かったはずだ。けれど、昼前に雨はすっかり止んでいた。もう傘の意味は無い。帰り道では傘を差さない。……俊月の祈りはもう要らない。そのことが、余計に不吉だった。
 小学校へ向かいながら、小鳩に連絡を入れた。こういう時に話が出来るのも一人しかいない。けれど、その小鳩は何故だか電話に出なかった。普段なら気にもしないことだ。けれど、今回ばかりは事情が違った。
 ――ちょっとした作戦があるんだ。上手くいけば歳ちーのことを守れるかもしれない。
 俊月はあの時、無理矢理にでもその内容を聞いておくべきだったのだ。小鳩が一体何を犠牲にして作戦を実行しようとしているのかが分からない。
一つ守れば一つ失う。それは、俊月がどうにか学んだ、この世界のルールだった。
 小学校の周りには、もう既に児童は一人も歩いていなかった。もう結構いい時間だ。夕日が落ちて辺りはすっかり暗くなっている。歳華の登下校ルートを走り回りながら、その名前を呼ぶ。彼女が通っていた道は、殆ど街灯が無かった。妹はこんな場所を歩いていたのだ。
 林に囲まれた道を歩きながら、一層不安な気持ちになった。雨が止んでいるのが幸いだった。そうでなければ、この場所で助けを求める声なんか聞こえなかったかもしれない。
 その時だった。林の入口で、歳華が倒れているのを見つけた。ランドセルも傘も無い。それでも、すぐに分かった。
 咄嗟に駆け寄って、小さな体を抱き上げる。見たところ怪我も何もしていない。穏やかとは言い難いものの、差し当たって息をしている妹を見て、崩れ落ちてしまいそうだった。歳華。自分のたった一人の妹。世界で一番大切な――。
 そこまで考えたところで、あの時の会話が蘇った。消去法で残していった先のもう一人。そういえば、彼には考えがあると言っていた。ゆっくりと視線を滑らせる。
 歳華から少しだけ離れた場所に、血塗れの小鳩が倒れていた。無くなった歳華のランドセルは、小鳩の近くに落ちている。それだけで、俊月には何となく全ての察しがついたような気がした。
「小鳩!」
 歳華を腕に抱いたまま、今度は小鳩の方に駆け寄る。自由な方の左手で小鳩の肩を揺すると、青紫色に変色した目蓋がゆっくりと開いた。切れた口の端が持ち上がって、どうにか菱崖小鳩の形を取り戻す。そして言った。
「……流石に遅いよ王子様。困るな、死ぬとこだ」
「……それだけ言えるなら、死なんだろ」
「そんな顔で言われると僕まで恥ずかしいんだけど。痛いのに笑わせないでくれる?」
 生憎ここは屋外なので、俊月は体よく無視をした。こういう時にしらっと返せる人間だったら、もう少し上手く人生をこなせたはずだ。今ほど自分が不器用なことを呪った日は無かった。
「……大丈夫だよ。歳ちー。でも、僕はこういうの苦手でさぁ……」
 へらりと笑う小鳩は、何処かしこも傷だらけだった。あれだけ飄々としている男が、こんなに憔悴しているところを初めて見た。一歩間違えたら小鳩の方が死んでいたかもしれない、と思うと寒気がした。そんな可能性を少しも考えていなかったことへの寒気だ。
「おっと」
「おい、大丈夫か」
 バランスを崩しかけた小鳩の手を咄嗟に取る。掌にべっとりとした血の感触が残る。夢に出てきそうな感触だった。
「瀬越が掴んだのが右手で良かった。左手の方掴まれてたら痛みで死んでたかも。嫌だな」
「……折れてるのか」
「君の為だ。骨くらい折るさ」
 そう言うと、小鳩はもう一度目を閉じた。ちゃんと息をしているのを確認してから、スマートフォンを開く。画面に小鳩の血が付いた。そこから救急車が到着するまでの十分ほどが、今までで一番長く感じた。眠る歳華の身体は温かかった。握った小鳩の手は冷たかった。最悪の気分だった。

 程なくして、二人は病院に運ばれた。救急車に乗っている時、俊月は文字通り生きた心地がしなかった。この狭い車内に世界の全てが乗っていると言っても過言じゃなかった。救急隊員が一緒じゃなかったら、危うく泣いていたかもしれない。
 結論から言うと、二人は無事だった。
 何処かに連れ去られようとしていたのか、歳華は腰の辺りにスタンガンを押し当てられていた。白い肌に残る火傷の跡が痛々しかったけれど、命に別状は無いという。骨折や打撲が酷かったけれど、小鳩の方も大事には至っていないという。
 医者からの説明を受けた時、俊月は神様を信じていないことを後悔した。感謝の行く先が分からないのは不安だった。本当に感謝している。だから、もう奪わないで欲しい。懇願する相手がいなければ、耐えられないのが人間なのだ。
 翌日には、すっかり歳華の体調も良くなっていた。起き上がってこちらを見る妹が、こんなに愛おしく見えたことはなかった。
「…………あのね、よく、わかんないんだけど、緑色のジャケットを着た人が道にいて、スキーの眼鏡つけてて、ズボンが黒くて……その人が、私のところまで寄ってきて、それで……」
「もういい。何も思い出さなくていいんだ……」
 開口一番、歳華が言ったのがそれだった。きっと怖くて恐ろしかっただろうに、自分の経験が何かの糸口にならないかと必死に考えている。小さな身体に押し込められた正義感が――あるいは行き場を失くした復讐心が、余計に悲しかった。
「やあ、歳ちー。元気そうで何より」
 その時、点滴スタンドを連れた小鳩が現れた。彼は彼で安静を言い渡されているはずなのだが、仕方がない。こいつを留めておくには足でも折ってやらないと駄目だろうな、と俊月は投げやりに思う。
「こっ、小鳩どうしたの!?」
「あー、いやあ、歳ちーと違って僕は大学生だからね。色々あるんだよ。困るな」
 そう言って小さく首を傾げる小鳩を見て、歳華は何かを察したようだった。何せ誤魔化し方が雑過ぎるし、タイミングだって悪すぎる。
「……まさか、小鳩が助けてくれたの?」
「え? いや、そういうわけじゃないよ。君に危害を加えようとした奴は単に逃げてっただけ。僕のお陰じゃない」
「でも、小鳩傷だらけ……」
「いや、これは全然無関係な暴力だから。歳ちーの件とは全然関係ない人間に死ぬほどボコボコにされただけだよ。困るな」
「いや、その言い訳には無理があるだろう」
 俊月の言葉を無視しながら、小鳩はへらりと笑った。眼帯からはみ出るほどの痣や折れた左手を抜きにすれば、呆れるほどいつもの小鳩だった。五体満足で生きている、性格の少しばかり悪い菱崖小鳩だ。
「おい、ちょっと来い。歳華、少し待っていてくれるか? 俺はこの害悪に用がある」
「え? 今の僕の何処が害悪なのさ。困るな」
「いいから来い」
 嫌がる小鳩を無理矢理引っ張って病室の外に出す。今の小鳩は暴力に対する耐性がとても弱いので、なんだかんだで素直に従った。
 適当な談話室に連れ込んで座らせると、そこでようやく息を吐いた。白い肌にぶちまけられた鬱血痕は、病院着だと尚更目立った。珍しく目を合わせないのは、少なからず居た堪れない気持ちでいるからだろう。
「何があった」
「別に。歳ちーの言う通りだよ。歳ちーを変な男が襲って、改造スタンガンなんかを押し当てた。最悪で参っちゃうな」
「違う。それだけじゃない。お前は何をしたんだ?」
「……や、僕は別に。……歳ちーが下校する時間は知ってたし、昨日は丁度予定が無かったし、だから、ちょろっと守りに行ったら本当に大立ち回りになっちゃってさ」
 軽い口調だったものの、その時あったことは全部小鳩の身体に刻まれてしまっている。およそ暴力沙汰の似合わなそうな彼がここまで痛めつけられるところを思うと、やりきれない気持ちになった。それでも、この男は歳華を守ったのだ。暴力の最中にあっても、それだけを。
「お前の作戦とやらはその考え無しの特攻だったのか?」
「いや、そんなことない。壮大な計画だよ。それこそ、瀬越には教えてやれないような過激で不敵なやつでね。困るな」
「嘘を吐くな」
 そう言って、俊月は静かに頭を下げた。こういう時に気の利いた言葉の一つも思いつかない自分が憎らしい。それでも、伝えずにはいられなかった。
「…………歳華を守ってくれてありがとう」
「僕は僕の為にやっただけだよ。お礼を言われることなんて何もない。嫌だな」
「大人しく感謝されてろ。こういう機会じゃなきゃ言わんぞ」
「瀬越に褒めて貰おうとする度に半殺しにならなくちゃいけないっていうのはちょっと……」
 何てことはない軽口だった。それでも、その言葉が聞けるだけで安心した。脆い感情だ。こんなことで揺らぎたくなんかないのに。
「殴られている時どんな気分だった」
「痛いなーって気分でしょ。人間だもん。嫌だな」
 本気とも冗談ともつかない熱度で小鳩が言う。見るからに痛々しそうな傷跡だけが、目に見える本当だった。
「でも、上手くいってるな、と思った。瀬越はきっと僕を見つけてくれるだろうと思ってたし、歳ちーには怪我一つ無いし。あ、火傷は治るよ……すぐ」
 フォローするように小鳩が言う。あの小さな火傷よりも、小鳩の被害の方が甚大だ。それでも、彼は、なんてことないような顔をして言う。
「それに、不審者はもう出てこない。大丈夫だよ。歳ちーも僕も、しっかり男のことは見た」
「スキーゴーグルを着けていたんだろう? 顔なんか分かるか」
「でも、僕にはわかった。もう手出しはさせない」
 自分を落ち着かせる為のただの気休めだろうと思った。穏やかに細められた目や、包帯から覗く柔らかな癖毛は、普段の小鳩と変わらない。古典的な護衛を作戦と呼ぶような男だ。だからこそ、一層悲しいと思った。ありがたいから、酷く悲しい。
「大丈夫。もうあの男はいない」
 だから、つい聞き流した。おまじないのように響くその言葉を、ただの気休めにしなければ良かった。

 一週間ほど経つと、もうすっかり雨が収まっていた。歳華のこともあってしばらく帰っていないアパートからは、どういうわけだか他人の匂いがした。
 いつの間にか、部屋の中には小鳩が持ち込んだDVDで埋まっていた。殺風景だった部屋が、小鳩に少しずつ浸食されている。空白を埋めるようなそれらに、思うところが無いわけではない。
 映画というメディアと、それを作り出す映画監督、それらに小鳩は酷く執心していた。さながらそれが全ての答えとでも言うように! 小鳩のあの揺るぎなさは、そういった指針をしっかりと胸に抱いているからだろうか。つくづく俊月の対角にいる男だ。今だから言おう。俊月は多分、菱崖小鳩になりたかったのだ。
 さりとて、そんなことを言っていても仕方がない。散らばるDVDを足で寄せながら、パソコンを開く。そして、検索ワードを打ち込んだ。
 ――警察で話を聞いた『例の動画』を探す為に。

 元は偶然端聞きした話だ。捜査の進展をクレーマー染みた熱心さで求めていた時に、ぽろっと漏れた『例の動画』という単語を聞いた。勿論、俊月には何の心当たりも無い。けれど、このチャンスを逃す手はなかった。
「そう、例の動画なんですけど。実は結構広まってて」
 何の動画なのかは全く知らなかった。この事件の中の何処に動画が出てくるのかも分からない。それでも、その単語一つで俊月は畳みかけた。まるで、口の上手い小鳩が乗り移っているかのようだった。
「あれ、削除出来ないんですかね? あんなものが残っていたら、まずいと思うんですけど……」
 何を言っているんだと一蹴される可能性もあった。けれど、応対していた刑事は困ったように首を竦めて「こちらも対応はしています」と言った。
 つまりは、その動画とは削除されるべき内容であって、なおかつ今もインターネット上に在るということなのだ。俊月はなおも続けた。あくまで、全てを知っていてここに居るというような振りをして。
「対応といったって、遅かったら意味が無いでしょう。最近では、妹の小学校の名前を入れただけでサジェストされるんです。うっかり子供が観るかもしれないじゃないですか」
「そうならないように、煽情的な日本語のタイトルのものから優先して削除してはいるんですがね。何分、数が多いですし。あの動画の運営元が確認しなくちゃいけないってことでラグが生まれるんですわ」
 『日本語のタイトルのものから』ということは、元の動画のタイトルは日本語じゃない。英語か何かだろうか。それなのに自ずと話題になるような。
「……よく気づきましたね。通報があったんですか?」
「内容が内容だと、事件性が高いってことですぐに回ってくるんですよ。第一、タイトルがタイトルですから」
「……本物なんでしょうか? そうとは思えないんですが」
「いやあ、こちらとしては合成か何かで作った悪戯の向きが強いんじゃないかってことですが。悪趣味なものに変わりありませんよ」
 悪趣味なもの。この事件に関連するようなもの。……犯行予告か何かだろうか? それなら『合成』なんて言葉は出てこないかもしれない。何を合成して作ったのだろうか? 俊月は必死に頭を働かせる。
 本物か偽物か分からないのに、警察が削除に回らなくちゃいけない動画。警察は何かが起こらないと動けない。だとすれば、その動画自体に明確な『罪』が無くちゃいけないはずだ。そこで俊月は、核心に触れた。
「あの動画に映っていていた男は、本当に犯人なんでしょうか?」
 動画が本物か偽物か分からない状態でも、警察が動かなくちゃいけない事態。真偽に関わらず対応しなくちゃいけない動画の罪。その動画には、きっと誰かが映っているのだ。それも、この事件に関わっていると分かる形で。本人が上げたにしろ、誰か別の人間が上げたにしろ、誰かの顔貌を使ってそんな動画が上げられていたとすれば、警察の方も対応せざるを得ないのだ。
「まだ捜査中です。断定は出来ません」
 相手ははっきりとそう言った。けれど、それだけで大まかなことが分かってしまった。およそ俊月が知りたいものは大体分かった。
 『この事件に関わりがあって』『合成の可能性がある』『悪趣味な動画』には、『犯人かもしれないが断定は出来ない』男が映っている。
 これだけ分かれば十分だった。そして『小学校の名前で検索したらサジェストされてもおかしくない動画』だ。それが、事件に大きく関わっている。
「じゃあ、あれは〝犯行予告〟のようなものなんでしょうか?」
 駄目押しのようにそう言った。その瞬間、相手の顔色が変わる。
「犯行予告? 何のです?」
 ここで初めてミスを犯した。ぶわっと背中に汗を掻く。十中八九そういった類の動画だと思った。けれど、そうじゃない。悪趣味な動画で、犯人と思しき男が映っている。それが犯行予告じゃないなら、一体何だ? それは全部俊月の思い込みで、実際は何かしらの告発動画だったんだろうか?
「いや、これからも同じことをやるぞ、という意思表示なんじゃないかと……」
 しどろもどろになりながら、どうにか軌道修正を試みる。すると、男の顔が一段階怪訝なものになった。眉を寄せて首を振る。
「同じことが起こる? 冗談じゃない。私らはそっちの犯人を捕まえなきゃいけなくなる。あれが本物だったら、今回のことより恐ろしい」
 違う、と俊月は思う。例えば誰かを告発するような動画だったら、そんな言い方はしないだろう。誰かに罪を着せる動画だったにせよ『子供を襲うことより恐ろしい』とは言わないはずだ。徐々に〝例の動画〟が俊月の想像から離れていく。
 警察官の目は、いつの間にかどんよりと昏く深く沈んでいた。そして、小さく呟く。
「私はもうあんなもんを二度と観たくないんですよ。」
 ――人間にそんな表情をさせる動画とは、一体どんなものなんだろうか?

 そして、俊月はすぐさま考えられる検索ワードを試した。歳華の小学校の名前を英語で打ち込み、アップロードされた順で並べる。すると、関連動画を数個も辿らない内に件の動画らしきものに行き当たった。動画に付けられたタグを、そのまま読み上げる。
「『Real snuff』……」
 聞いたことの無い言葉だった。〝Snuff〟というのは、何かを嗅ぐとかそういう意味だった気がするけれど、その言葉と〝real〟がどういう意図で組み合わされているのか分からない。
 何度か削除されているのにも関わらず、この動画はご丁寧に再アップロードを繰り返されていた。それも、複数人の手に拠るものだ。複数人がこれを保存し、削除されてはアップロードをし直している。その所為で、削除履歴に負けないくらい動画の本数も多かった。
 一番再生数の多いものを選んで再生を押した。そして、息を呑む。

 画面の中で、半裸の男が縛られている。男の口には猿轡が噛まされていたけれど、隠し切れない悲壮な呻き声が漏れていた。

 異様なのは、男の衣服や持ち物が、全て彼の前に並べられているところだった。深緑色のジャケット、黒いズボン、スキーゴーグル、そして、……買ったばかりの黒い傘。ポーカーだったらなかなかの手札だ。
 ここまでお膳立てされて理解しない方が難しい。他の人間はこれが何だかも分からないだろう。けれど、俊月には並べられたそれらの繫がりが見えてしまう。歳華が開口一番に語った犯人の特徴。襲ってきた男の服装。
 間違いない。映像の中の男は、歳華の小学校の近くに出没していた不審者に違いなかった。警察がこの映像を本物か偽物か判断しかねているのも頷けた。本来公表されていない男の服装が映像に出てきたのだ。
 加えて、あの傘は俊月の傘だ。あの日、歳華に持たせた武骨で大きな黒い傘。歳華が襲われた時に持っていた、傘。
 その時、カメラが少しだけ引いた。薄暗い部屋が少しだけ露になり、部屋の隅に鞄が置かれている見えた。普通のビジネスバッグだ。きっと、普段は普通に働いているのだろう。そして、ビジネスバッグの傍らにはビニール傘があった。
 それを見て、妙な違和感に襲われる。これが意味するところを考えるより先に、動画の方に派手な進展があった。
 男の顔が恐怖に粟立つ。そして、画面にもう一人の人間が出てきた。作業着のようなものに身を包んでいる男だ。肌は少しも露出していないけれど、背丈から見て男であることは間違いなかった。
 縛られた男はそこから一時間に渡って殺され続けた。
 『人間が解けていく』と言った方が正しいかもしれない。どの段階で男が死んだのかすら分からなかった。夥しい量の血が並んだ荷物に掛かるのを見て、むしろ俊月は冷静になっていく。二度と観たくないと言った警察官の気持ちが分かるのに、目が逸らせない。
 「Snuff」という単語の別の意味を思い出した。他愛の無いスラングだ。『人間を殺す』という意味の、俗っぽいスラングだ。
 映像は唐突に終わった。数秒の沈黙。そして暗転。
 コメント欄の盛り上がりもすさまじいものだった。英語に混じって日本語が点在している。『偽物だろ』『本物だったらヤバい』『何の見せしめ?』『こういうのに騙されるキッズたちがいるから作る奴が出てくる』……。
 けれど、俊月にはこれが本物であるという確信があった。何しろ、この中で彼だけは、この動画の当事者なのだから。
 吐きそうな気分になりながら、もう一度冒頭に戻る。血で汚れる前の、男の所持品を見る。
 殺された人間が児童を襲っていた悪質な男のものだということを示す為ならば、服だけで良かったはずだ。あるいは、全てを晒すのが目的なら、そこには鞄だって並べられていなければ。傘じゃない。
 あそこにあるのは何の変哲も無い傘だ。柄のビニールもまだ剥いでいない。買ったスーパーのシールがまだ柄についている。特定の人間以外には何の意味も見いだせない。日本中で売られているだろう傘だ。
 状況を整理する。映像の中には傘が二本あった。俊月の傘と、恐らくは不審者の差していた傘だ。不審者は動画の中の殺人犯によって、ここに連れて来られてきたのだろう。好き好んでこんな場所に来るはずがない。歳華を誘拐しようとした不審者は、歳華を襲った後に拉致されたのだ。少しずつ事態を並べ替える。
 不審者が歳華を襲う。小鳩がそれを庇って負傷する。その時、何者かが不審者を襲って拉致する。この一連が全てあの場所で行われたのだ。そうでなければ、二本の傘はここに無い。
 不審者を拉致した人間が『俊月の傘』を持っていったのは保険のようなものだろう。歳華が不審者の服装をちゃんと覚えていなかったとしても、動画の男があの不審者であることはこれで示せる。
 あの傘の正体を知っている人間なら、それだけで分かる。

――ちょっとした計画があるんだ。上手くいけば歳ちーのことを守れるかもしれない。

 だから、この動画は究極的には瀬越俊月の為のものなのだ。
「……小鳩……」
 名前が口を衝いて出た。計画がある、と言った時の彼が目に浮かぶ。凪いだ瞳で言った彼は、一体何処までを描いていたのだろう。

 例の先輩のことも数珠つなぎに思い出した。学校から姿を消した、あの先輩のことだ。『殺されたのを見た』人間が居ると言っていた時は鼻で笑えた。だっておかしいじゃないか。実際の殺人を目撃した人間がいるはずがない。コロッセウムじゃあるまいし! 人間が殺されるところなんてそうそう見られるはずがない。ここは立派な法治国家なのだ。
 さりとて、方法はいくらでもある。
 あの大学の誰かは、きっと殺人を『観た』のだ。そう思った時には、いくつかの検索ワードが頭の中で光る。大学生。殺人。本物。一連のワードのどれもが悪趣味なのに、それ以外の言葉が与えられない。最適なのだ、恐ろしいことに!

 『会いたい』と自分から連絡したのはこれが初めてだった。最初の時から今に至るまで、小鳩は気まぐれに訪れては気まぐれに去って行った。文面は悩んだけれど、結局はシンプルな言葉にした。
 数分も経たずに返って来たメッセージには『うわ、なんか彼女っぽいね』とだけ書かれていた。殴り飛ばしてやろうか、と一瞬だけ思う。この期に及んで、そんな安っぽい不快感を覚えさせないで欲しい。今から抱かなくちゃいけない感情は、それよりずっと熱度が高いのだから。
 差し当たって、時間と場所だけ書いた返信を送る。余計なことは伝えなかった。実際のところ、会いたい以上に鮮烈な感情は無い。あの男は俊月の言う通りにやって来るだろう。
 会う場所も、結局はいつもの場所にした。あれから何度か二人で行った、喫茶店『ロン』だ。
 事前に通達を受けていたのか、店の店主は俊月を見るなり席に案内してくれた。死刑台に上がるような気分で席に向かう。数分も経たない内に小鳩が来た。
「やあ、マスターにもう二人分のアイスコーヒー頼んじゃったんだけどいいかな? 嫌なら今からでも変えられるけど……」
「動画を観た」
 短く言った。そして、反応を窺う。
 とにかく、恐怖よりも先に困惑を立たせようと必死だった。そうでないと、俊月はいよいよ恐怖の谷に落ちてしまう。そうなれば、全てが終わりだと思った。菱崖小鳩と向き合う為に必要なのは、今ここでしっかりと彼を見つめ返すことだった。それを、しなければ。彼は。
「…………瀬越」
 俊月の前に居る小鳩は、相変わらずボロボロだった。へらっとした笑顔と三角巾が絶妙にミスマッチなのが面白い。腫れた目を眼帯で隠せば、それは何かしらのコスチュームのようだった。今から行うことを考えれば、よく出来た扮装に見えなくもない。
「お前が殺した、のか」
 一息で言った。そうじゃないと、とても耐えられそうになかったからだ。
 否定出来るものならして欲しかった。そもそも、証拠は何もない。言いがかりもいいところだ。動画のことなんかいくらでもしらばっくれることが出来る。首を傾げて「動画?」と言ってくれればいい。傘なんて何の証拠にもならない。けれど、小鳩は思いの外律儀だった。何でもないことのように、小鳩が言う。

「言っただろ? もう大丈夫だって」

 確かに言った。それを聞いた。けれど、それがあの動画を指しているだなんて想像もしていなかった。想像出来るはずがない! 加えて、目の前の小鳩がそれに対して罪悪感を覚えているようにも見えなかった。アイスコーヒーが運ばれてくる。何事も無かったかのように、小鳩が飲む。
「歳華を襲った奴を、お前が殺した。そしてそれを、……撮ったんだな」
「そうだね。君にだけは分かるようにやった」
 分かってはいたことだけれど、実際にそれを聞いた瞬間寒気がした。名探偵の役割を俊月に押し付けながら、自分の方はそうやって微笑んでいる。その構図が気に食わない。あの傘はラブレターで、あの映像が『モナ・リザ』であるとでも言わんばかりの態度だ。だからこそ、菱崖小鳩は揺るがない。
「人を雇ったのか? あれの為に?」
「君には想像も出来ないだろうけど、案外どうにでもなるんだよね」
「…………お前の計画はこういうことだったんだな。歳華を尾行して、襲われたところで時間を稼いで、逆に犯人を攫わせた」
「餌になったのは僕でもあるけどね。まさかあんなに好戦的だとは。それに、歳ちーが襲われなくても同じことをした」
「……それ以上のことを、お前はしただろうが」
「知っての通り、僕はこんな状態だから。解体自体は委託したよ。僕は撮っただけ」
 それで何が違うっていうんだ、という言葉を辛うじて呑み込む。たとえ、自分で手を下したとしても小鳩の態度は変わらないだろう。そういう人間だ。そういう人間じゃないと、あんな真似は出来ない。
「それで? そこまで分かってるのに僕を警察に突き出さなかった理由は?」
「……お前も理由を聞くんだな」
 意趣返しのつもりで言った言葉に、少しだけ小鳩の顔色が変わる。そして、ゆっくりと首を振った。
「いいや、分かるよ。君はそこらの人間よりずっと賢い。あの動画に映っていたのは君の傘だし、僕の裁量次第でどんな罪を着せられるかたまったもんじゃない……って感じかな?」
 俊月は否定も肯定もしなかった。そもそも、今ここでそんなことをしても意味が無い。その代わりに、一番聞きたいことを口にした。
「何であんなことをしたんだ」
 一拍だけ置いて、小鳩が口を開く。
「スナッフフィルムって知ってる?」
 ――『Snuff』それはあの動画に付けられていたキーワードだった。意味するところは簡単に察せられる。それでも、俊月は敢えて首を振った。
「……知るわけないだろ」
「でも察しは付いてるよね。人が殺されるところを映像に収めた、無二の映像作品のことなんだけど」
「あれが、作品なのか」
「そうだよ、あれが作品」
 間髪入れずに、小鳩がそう言った。
「スナッフフィルムは、作品の特性上誰かの命が支払われる。けれど、だからこそあれは人間の記憶に強烈に刻み込まれるし、精神を根底から揺さぶる。瀬越もその点は納得出来るだろう?」
 確かにその通りだった。恐ろしく、おぞましいはずなのに、全く目が逸らせなかった。繰り返しアップロードされた動画。CGだろうと茶化すコメントなんていくらでもあった。それでも、その全てを捻じ伏せて拡散させるだけの力があの動画にはあった。
 だからといってあれを愛せるかと言われればそんなことは無い。歳華を襲った相手であろうと、身を切られ肉を削がれ、人としての形すら保てなくなっていく姿は見ていて不快だった。
「お前がやっていることは、焼けた鉄を他人の腕に押し付けているのと同じだ。不快感が度を過ぎれば観客の記憶には残るだろう。だが、あんなのは……」
「受け容れられない?」
「……受け容れられない。そう簡単に、受け容れられるもんでもないだろう……」
「だよね。瀬越、見た目に似合わず良い奴だもんね。こういう僕のことを知られたら、きっとそう言うと思ってた」
 正直なところを言うと、心が全く追いついていなかった。それなりに善良に生きてきた。むしろ、その善性に振り回されて人生を失敗してきたのだ。それなのに、どうして菱崖小鳩と向かい合う羽目になっているのか分からない。肝心なところでミスをする、瀬越俊月のどうしようもない宿業だ。ウサギの一件の時、先生はどうして自分を責めたのだろう? 震える声で、俊月は言う。
「……捕まえたなら、警察に突き出せば良かっただろう。殺さなくても……」
「それが一体何になるっていうんだ? どうせ大した罪にもならない。いずれ出てくる。そんなの困るな。一度だって歳ちーに手を出したんだから、報いを受けて然るべきだ」
 そう呟く小鳩は、相変わらず人間が上手そうだった。人当たりが良さそうで、穏やかで、いつでも誰かに囲まれている。期待を持たせるのが上手く、異様なほど魅力的だ。致死量の復讐を仕掛けるような男には、到底見えなかった。
「歳ちーを助けたい気持ちと、自分の作品を生み出したいと思ったのは同じくらい。別にいい人ぶるつもりはなくてね。自分に利点があるからそうしただけ。幻滅した? いやでも、瀬越は僕に大した期待とか懸けてなさそうだよね、酷いな」
「酷い、は俺の台詞だろうが。馬鹿」
「そうかもね」
 俊月はある意味驕っていたのだ。ウサギと引き換えにした居場所や、新入生と引き換えにした平穏のような、そういう財産をもう持っていないと思っていた。『何も持っていない』なんて酷い驕りだ。賭けるチップが無いだなんて酷い嘘だ! 失うべきものならずっと目の前に居たというのに。
「どうして、こんなものを、理由は、」
 出来るだけゆっくり、はっきりとそう尋ねた。
 あまりに理解しがたい所業だった。例えばスナッフフィルムというものがあるとして、それに何らかの芸術性を見出す人間がいたとして、人の命が奪われることがあっていいはずがない。
「教えてくれ、小鳩。お前は、どうして……」
 せめて理由が知りたかった。あんなものを是としてしまう感性の出所が知りたかった。そうじゃないといよいよ受け入れがたかった。せめて、その中にあるものの正体が知りたかった。
 尋ねられた小鳩は、凪いだ目で俊月の方を見つめている。その様を見ただけで、質問自体が罪だったんじゃないかと思ってしまう程だった。けれど、ややあって小鳩は語り始めた。普段とはまるで違う、落ち着いた声だった。
「僕は両親を二人とも殺されている」
 そうして出てきたのは、先のことがなければ受け止められないような言葉だった。意外なほどすんなりと受け入れられたのは、スナッフフィルムがそれを裏付けるに足るほど鮮烈だったからだ。
「……そうだったのか」
「……傍目から見ても酷い殺され方をした。犯人は逮捕される前に自殺してしまったから、ある意味逃げ切りかもしれないね。遺体には会わせてもらえなかったな。だから僕は、二人の最後の姿を言葉でしか知り得ない。『人の形を留めていなかった』という凡庸な言葉でしか」
 スナッフフィルムでの男の末路と、小鳩の言葉が奇妙に混じる。人の形を留めていなかったのは、あの男も同じだった。会ったこともない小鳩の両親が、あの中の無残な死体に重なる。あれは、小鳩の悲劇の再演なのだ。
「それなりに二人のことを愛していたし、何不自由なく育った。けれど、あの日を境に全てが変わってしまった」
 物語るかのような口調で、小鳩が言う。言葉の端々が空々しいのが、余計に寂しさを感じさせた。
「僕は親戚の家に預けられた。……ああ、言っておくけど虐待を受けたとか冷遇を受けたという話じゃないよ。参るな。そんなことは一切無い。ただ、あの時まだ僕は高校生になりたてだったからさ、置かれた現実を受け止めきれていなかった。何をしていいのかも分からなくてね。情けないことに」
「そんな目に遭えば当然だ。お前の所為じゃない」
 食い気味でそう言う俊月に、小鳩は少しだけ驚いたようだった。両親との死別。残虐な殺人事件。精神に作用しないはずがない。
「不思議な感覚だった。僕はちゃんと生きているのに、まるで僕まで一緒に殺されてしまったみたいでね。何を見ても現実味が薄くて、世界を薄靄が支配していた時期だ。けれど、そんな僕に転機が訪れた」
「なんだ?」
「パラダイス座っていう古い映画館で『プレイタイム』という映画が上映されていたんだ」
「……聞いたことのない映画だ」
「そこまで評価されているわけじゃないけど、とてもいい映画なんだよ。僕の父親が一番好きだった映画で、僕も好きでさ。ちょっと身内贔屓が入ってるかもしれないけど、瀬越にも今度観て欲しい映画だね」
 そう話す小鳩の声は普段と変わらない。好きな監督の話、偉大なるウディ・アレンの話。そういうものを語る時の声だ。
「小さい頃に父親と観たその映画が今も上映しているのにびっくりして、僕はふらふらと中に入っていった。そして、懐かしいその映画を観たんだ。そうしたら今の苦しみとか今の悲しみとかが全部スーッと消えていくような気がして、泣ける場面でも無いのに涙が出て。その時ようやく、僕は喪失を受け入れることが出来た。良い話だろう? どうかな」
「……確かに良い話だな」
 瀬越は当然のことながら、その映画を観たことがなかった。ただ、その映画は映画好きの小鳩がそんな顔をして語るくらい良い映画なのだろう。
「小さい頃に観た映画が、今の自分を救ってくれた。ずっと残り続ける映画が孤独を癒した。僕はフィクションに救われた人間なんだ。泣くような映画でもない場面で涙が出て止まらなかったよ。でも、それと同時に恐ろしくなった」
「どうして」
「簡単な話だ。この素晴らしい作品は、一体いつまで残り続けてくれるんだろう? そう思ったんだよ。数年後だって大丈夫だ。なら数十年後は? フィルム・アーキビングがこれからも発展を続けていけば大丈夫かもしれない。それなら数百年後は? 今でさえ埋もれ行くこの映画を、数百年後の誰かはちゃんと観てくれるだろうか? そこで僕は思ってしまった」
 小鳩が目を細める。
「『永遠に残るものが欲しい』と、思ってしまった」
 そうして、小鳩は人間が本能的に残酷なものを求める、という話をした。狩りを奨励する為の壁画の話、今もなお残る処刑のフィルム、断首される様が克明に記録されたものの方が、大衆を魅了した。映画というものの黎明期、それが生き残ったのはそれが人間の残酷さに裏打ちされたものであったことを。
「届きやすい題材で、人間が生きている限り観続けられる映画を作りたかった。命を賭けて作り上げられるものを。かつての映画監督たちがやったことを、より深く、より真剣に、求め続けないと。僕は天才じゃないからね」
 永遠に残る映画。その為のスナッフフィルムなんて馬鹿げている。俊月には到底受け入れられない感性だ。それでも、俊月はあの映像が繰り返しアップロードされていることを知っている。削除されれば一層燃え上がる煉獄の火。いつになったらあれが無くなるのか、……無くなる日なんて来ないのか。いたちごっこの中でなおも強まる炎。
 受け容れられなくとも説得力はあった。人間の残酷性。何せそれは、俊月が今まで巻かれ続けていた炎なのだ。
「僕はこれを変えられない。これが僕を僕たらしめる全てだ。だから、躊躇わなかった。これが僕の思いつく一番それらしい理由かな。……困るな。感傷的で」
「小鳩、」
「ありきたりな話だよ。でも、理由になるならこれくらいしかない」
 今まで、小鳩はまともに理由を語らなかった。ここまでしっかりした理由を持ち出さなかった。だからこそ、その威力は凄まじかった。理由があれば納得が生まれる。納得が過ぎれば理解になる。
 もう既に自分の意識が変わってきていることには気づいていた。目蓋の裏に今も残る残酷なフラッシュバックと、淡々と過去を物語る小鳩が脳内でゆらゆらと揺れる。
 あろうことか俊月は『理由』を手に入れてしまった。赦されざる物事に付随するバックグランドを知ってしまった。理由や原因は、理不尽に苛まれてきた俊月が一番欲しかったものだ。どうして自分がこんな目に遭うのか。それさえ分かれば耐えられる。
 たった一人の親友がスナッフフィルムに傾倒するようになってしまった理由さえあれば、この現実を耐えられる。受け入れることが出来る。赦すことが出来る。その為のパーツが、今ここで揃ったのだ。
「……相談してくれれば良かっただろう」
「相談? 何を? ここに建設的な意見なんか無いよ。終わった話だ。瀬越がどうこう思う必要は無いよ」
 小鳩の言う通り、全ては終わってしまった話だった。
 ウサギ、新入生、瀬越歳華。一つを助ける度に一つ失う不可侵のルール、神様が決めた手酷い交換レート! 何も失わずに済んだわけじゃなかった。今回失ったのは菱崖小鳩だ。この一件さえなければ、およそ失うことの無かった彼のお友達。書き込まれてしまった悪意が、修正されることはない。知ってしまえば戻れない。
「それでも、俺は……俺は、全てを謝りたい」
 なら、もう進むしかなかった。正しいとは思っていない。それどころか、自分が狂ってきていることに自覚的ですらある。本当は今すぐ目の前の男をどうにかしなくちゃいけない。でも、もう失うのは嫌だった。奪われるばかりの人生なんて嫌だった。
 菱崖小鳩を手放してやる選択肢は、最早無いに等しかった。
「……お前のことを、何も知らなくてすまなかった。……俺は、お前という人間を何も理解していなかったんだ。……本当にすまない」
「……君さ、真面目だよね。でもまあ嫌いじゃないよ。そういうところ」
 いつもの調子でけたけたと笑う小鳩を前にしながら、俊月は密かに決意を固めていた。失うばかりで諦めていたものを、今こそ取り戻さなくちゃいけなかった。今度は自分の問題だけじゃない。
 この人生を懸けて、自分の初めての友人を更生させるのだ。もう絶対に同じことを繰り返させない。彼の孤独に寄り添って、こんなことはもう止めさせなくちゃいけない。
 何せ、彼には理由があるのだから。少しだけ間違えてしまっただけなのだ。本当はこんな人間じゃない。菱崖小鳩はこうなるべき人間じゃない。俊月と同じだ。不可抗力で人生を捻じ曲げられてしまっただけだ。本当は、真実は、奥の部分は、最果ては、善い人間だったはずなのだ。
「瀬越、ちょっと痛いな」
 俊月に握られた手を指しながら、小鳩が苦笑する。いつの間にか、俊月の手は小鳩の手を握っていた。救急車を呼んだあの時と同じだ。小鳩の手はもう冷たくなかった。生温い、生きた人間の体温だった。――手が冷たい人間は心が優しいのだと、そんな根拠の無い俗説が無かっただろうか?
「悪い。つい力が籠った」
「それでも離さないところが瀬越だよね。らしいな」
 離すわけにはいかなかった。頭のおかしい殺人鬼。スナッフフィルムを至高の芸術と見做す犯罪者。映画が好きな大学生。誰とでも中の良い男。瀬越俊月の対極にいる人間。妹のお気に入り。俊月の初めての友人。
 ここで手を離したら、菱崖小鳩は一生このままだろう。ここで引き戻せるのは自分しかいないのだ。
「……こうして見ると本当に目つき悪いよなぁ。本当に、そういうところで損し続けて生きてくんだろうな、君」
「不吉な呪いをかけるな」
「心が外から見えないのが可哀想だよ」
 心が目に見えたなら、俊月はもう少し上手くやれていただろうか。浮かび上がる善性を、人間関係に昇華出来ただろうか。
「僕にとっては幸いだけど。そうだろう? 俊月」
 ところで、瀬越俊月は人間が下手だった。いつも肝心なところで足を取られ、気付いた時には全てが台無しになった後だ。心はいつだって目に見えなくて、本当のことなんか誰も知らない。
 自分で言っていた通り、俊月は菱崖小鳩のことを何も知らなかったのだ。

 (続)

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