ゼロの証明


 友人である塔名壮一(とうなそういち)と酒の勢いで一夜を共にしてしまった朝、過ちの片割れである藤村は意外と冷静だった。
 いや、パニック寸前であったことは認めよう。それでも、上半身裸で寝ている友人を前にしても、まだ泣いてすらいなかった。震える呼吸をどうにか静めて、どうにか状況を把握する。なるほど、同性の友人と酒の勢いでのセックス。なるほど。
 ともあれ、まともな格好に着替えなければならない。話はそれからだ。そんなことを思いながらそろっとベッドから這い出ると、隣に眠っていたはずの塔名もいきなり起きた。普段は寝起きが悪い方だったはずなのに、どうしてこういう時だけ寝起きがいいのか。
「藤村、」
 塔名が口を開く。立ち上がりゆくその姿がまるでスローモーションのようだ。慌てて藤村の方もベッドから距離を取る。いよいよ叫び出しそうな喉を抑えた瞬間、塔名が動いた。
 ところで、塔名壮一は喫煙者である。お気に入りの銘柄はフランスで百年以上前から愛されているゴロワーズ・レジュールだ。かのサルトルが吸っていた銘柄でもある。そういうわけで、藤村は連想ゲームでサルトルの言葉を思い出した。――曰く、実存は本質に先立つ。
 その瞬間、さっきまで二人で寝ていた粗末なベッドから火が上がった。先程も申し上げた通り、塔名は喫煙者で、ジッポライター愛用者で、ついでに言うなら、その日はライターオイルを持っていた。
「うわああああああああああ」
 ベッドに火を点けられた時に言えることなんて何も無かった。めらめらと燃える炎を見る塔名はやけに落ち着いている。素晴らしい。世界が終わる時みたいだ。
 どうしてこんなことになったのか? その問いには簡単に答えられる。二人でストロングゼロを飲んだのである。アルコール度数九パーセントの力は伊達じゃない。全部終わった。
 ストロングゼロがこんなに効果的に全てを破壊し尽くしてくれるとは思わなかった。文字通り全てをゼロにするその手管が眩しい。色々なアルコールに手を出したけれど、やっぱり戻ってくるところはストロングゼロだった。
「これ、新発売だってよ。まるごと河内晩柑」
 塔名が楽しそうに缶を掲げたのは覚えている。正直、晩柑の意味はよく分からなかった。でも、燦然と輝く『熊本産』の文字の信頼感といったら! 
「へー、こんなのあるのか。美味しそうだな」
「お前に飲ませようと思って買って来たんだ。やるよ」
「マジで? やった」
 プルタブを開ける音がやけに軽く響いた。そこまでは良かった。
 酒に酔った時の勢いで一番性質が悪いのは、今やっていることを全面的に肯定してしまうところにある。少なくとも藤村の中のアルコールとは、そういう作用を持っていた。
人間はいい。世界はいい。学ぶのもいい。可能性はいい。大学もいい。生きとし生けるものも死んでいくものも全部いい。肯定の柔らかなヴェールが視界を包む! 今からやることは全て正しくて、麗しい人生の軌跡になる。
 だから、塔名とセックスすることも、何だか全部が正しいような気がしてしまった。
 仮にも同性同士である友人とセックス出来てしまったのは、毎秒を肯定出来たからだと思う。目に映る全てが正しく、これしかないと思い込み、セックスに伴う煩雑な準備や心理的抵抗を全部抱きしめられたからだ。その全てが、ストロングゼロによってもたらされたのだという動かしがたい事実……。
 多分、塔名の方も動揺していたのだろう。だから、今にも叫び出しそうな自分を見て、もっと大きな騒ぎでうやむやにしようとしたのだ。嘘みたいな思考回路だけれど、理解出来なくはない。現に、今の二人は燃えるベッドを挟んで妙に冷静になっていた。
 未だに小さな炎を上げ続けるベッドをを見ながら、心の中でゆっくりと唱える。大丈夫だ。まだ大丈夫。これなら火事だ。毎日世界の何処かで起こっていることだ。塔名の判断は正しかった。
「ベッド、弁償しろよ……」
 辛うじてそれだけ言った。それが全ての不文律だった。全てはこの火事で上塗りされて、他には何も起こらなかった。藤村は冷静に塔名の予定を尋ねて、ニトリに行く約束を取り付ける。所詮、化繊とライターオイルで焼けるものなんてたかが知れている。震える足を立たせながら、藤村がそれら全てを語り終えた後、塔名は躊躇いがちに言った。
「俺達ってセックスした?」
「それ聞くならもうベッド焼かなくてよかったろ」
 その日、藤村は友人とセックスをした挙句ベッドを焼かれた。何もかもがストロングゼロの所為だった。

 *

「え、じゃあ來山(くるやま)と深水(ふかみ)ってセックスすんの? 女同士なのに?」

 藤村がそのクリティカルな言葉を聞いたのは、不純同性交遊の果てにベッドを焼かれた三日後のことだった。
「やべー、入れるもんないのにセックスって、マジかよ」
所属している軽音サークルの飲み会で、同期の男がにやついた笑顔で言う。発端は何だっただろうか。確か、件の二人が構内でキスをしていたのを見たとかいう誰かの言葉だったはずだ。
「深水さんと來山さんって……女の子同士で付き合ってるの?」
「そうだけど」
否定すればよかったのに、深水千代子はやんごとなく肯定した。その結果、話は冒頭の言葉に立ち戻る。誤魔化せばよかったのにな、と藤村はぼんやりと思う。こうなることは目に見えていたのに。でも、構内でキスしているカップルなんて珍しくもない。深水が話を誤魔化す必要なんて何も無いのだ。
「……何でそんなことあんたに言われなくちゃいけないわけ?」
 怒る深水は猫に似ていた。その言葉を聞いた時の深水の背後に、ピンと立った尻尾すら見える。
「いや、俺レズって初めて見たし。それに、深水と來山ってな、あんま合わなそうだし」
 確かに、と、その点は藤村も思った。
 深水千代子は遠目から見ても分かるようなパリッとした美人で、ライダースジャケットをその身に纏う為に生まれてきたようなスタイルをしている。彼女の演奏は何度か見たことがあるのだけれど、黒いテレキャスターが、彼女によく似合っていたのを覚えている。
 対する來山はぐみは、別の意味で目立つ女子大生だった。根元から毛先まで綺麗に染め上げられた栗色の髪の毛に、ふんわりとしたカール。何より目立つのはその服だった。本人がクラシカルロリータだと申告するお人形さん染みた格好は、サークル内どころか学内でも浮いている。
 一杯百円の安いチューハイを飲みながら、來山はぐみはまるでお姫様のような出で立ちだった。それに対して、深水千代子は相変わらず心底クールな表情でいる。そんな二人が付き合っているというのは、確かにちょっと信じられない。
「私とはぐみが合わないかなんて、あんたが決めることじゃない」
「何怒ってんだよ。それとも何? 実はお前らただのレズごっこ的な?」
「ごっこって……」
「なあ、だってしてないんだろ、セックス。出来ないじゃん」
 揶揄する男は酔っていた。大方、深水が困っているところを見られたらそれで良かったクチだろう。それなのに、当の本人があまりにも毅然とした態度でいるものだから、収拾がつかなくなっている。どうにかしてその余裕を崩してやりたい。傷つけられた顔が見たい。その歪んだ欲望に呼応するように、男の口元が歪んだ。
「なんだよ。似非レズじゃん」
 誰かの恋愛感情が断罪されるところを初めて見た。あるいは人間の心が誰かに切り崩されるところを、人間関係が踏み躙られている様を。
 魔女裁判じゃあるまいし、誰かの恋愛感情が本物かそうでないかなんて誰にも分からないはずなのに。
 その時、バン! と大きな音がした。立ち上がった深水が辺りを睨む。叩きつけられた手の下には、会費の三千円が在った。
「本物のレズなら割引でもあったのかもしれないけど、どうやら基準に達してないみたいだから。完全に完ッ璧に耳揃えて払ってやるよ、ゴミども」
 そう言い残して、深水はさっさと居酒屋を出て行ってしまった。後に、気まずい空気が流れる。さっきまで一緒にからかってっていた全員が、所在なく視線を彷徨わせた。「そういうつもりじゃ、」という小さな呟きが聞こえた。
 恐ろしい話だ。さっきまで意気揚々と深水を傷つけていた男が、真っ青な顔で呟く。
「なあ、く、來山……」
「何かしら?」
 最も恐ろしかったのは、片割れであるはずの來山はぐみが、全く動じた様子も無くそこに居たことだった。いや、理由なら分かる。彼女は今もまだ〆のお茶漬けをずるずる啜っている段階であり、ここで退席すれば彼女の鮭茶漬けは残飯になってしまう。來山はそれを良しとしなかったのだ。
 静まり返った場の中で、來山はふーふーとスプーンの上の米粒を冷ましている。彼女の一挙一動に、その場にいる全員が注目していた。猫舌らしい彼女は、お茶漬けを恐ろしくゆっくりと食べている。それはもう挑戦的なまでに!
「深水が……」
「いなくなったわね。ここだけの話だけど、私も目撃したわ」
 そう言って、來山はぐみは再びお茶漬けを口に詰め始めた。動かない。
 気づけば、藤村は深水を追いかけて店を飛び出していた。彼女がお茶漬けを食べ終わるのを見届けないまま、ひやりとした外へと躍り出る。
 どうしてそんなことをしたのか? 理由は簡単だ。正しく恋人同士である二人を差し置いて、藤村が塔名とセックスをしてしまったからだ。このタイミングの悪さ! サルトルの言葉を改めて思い出す。『実存は本質に先立つ』。番は恋人に生まれるのではない。恋人になるのだ?
 だとすれば、深水千代子と來山はぐみよりも、自分たちの方が本物なんだろうか? 御冗談を!

 意外なことに、深水はすぐに見つかった。居酒屋近くの外濠公園で煙草を吸っているのが遠目に見える。銘柄が見える位置まで近づくと、深水があからさまに敵意の滲んだ視線を向けた。
「…………誰、あんた」
「え、いや、さっきまで飲み会居たんだけど……っていうか、そう、藤村。露語の……あ、えっと、サークルではバンドじゃなくて渉外とかの裏方やってて」
「で、露語の人間が私に何の用?」
 まるで、同学科の人間しか彼女に話しかけちゃいけないかのような言い草だった。深水の目は異常な敵意にぎらぎらと燃えている。 あの場にいたということ自体が彼女にとっての罪なのだ。無理も無い。ややあって、藤村は言う。
「さっきの、本当ごめん」
「……別にあんたが言ったわけじゃないでしょ」
「や、そうなんだけど……。なんか、あれは絶対よくないなって分かってたんだけど、何にも言わなかったから」
 そうじゃないだろ、と思う。いや、そうでもある、とも思う。あれは良くないと思っていた。あんなに分かりやすく不快な場面は他に無い。でも、その『他の理由』をちゃんと言うべきかどうか。
「はぐみは何してた?」
「え、はぐみ?」
「……來山はぐみ」
「あ、ああ。うん、お茶漬け食べてた」
「それでこそ」
 そう言って、深水はゆっくりと空を見上げた。大きく溜息を吐く。神経質そうな横顔は、悠然とお茶漬けを食べる來山とは色々と対照的だった。正反対の方が惹かれ合うのは磁石みたいで綺麗だけれど、その美しい響きではどうにもならない場合もあるに違いない。
「で、わざわざそれを謝りに来たの?」
「それだけじゃない」
 でも何かを言いたいわけでもなかった。
 ただ、さっきの話があまりにも局所的に刺さっただけなのだ。
 肉体関係を結ぶことが愛を証明する唯一の手段なら、藤村と塔名の関係の方がより愛だということになってしまう。そんなのは正気の沙汰じゃない。酷いパラドックスだ。
 でも、それを伝えたところでどうにもならない。そもそも、友人とセックスした上にベッドを焼かれた話を、どう伝えるべきか分からない。ややあって、言葉は自然に外に出てきた。
「来週ニトリ行かない? その、俺の友達と……三人で……」
「何それどういうシチュエーション?」
「俺が一番聞きたい」
 どうしてこんな提案をしたのか分からない。今日までまともに話したことのない人間と行く場所じゃない。断られるだろうと思っていた。
 そのはずなのに、深水千代子はブライト・10を吸いながらはっきりと言った。
「わかった、いいよ」
 深水の目が、真っすぐに藤村を見ている。

 *

 ここで、塔名の話をしよう。今時スマートフォンも何も持っていない、一体何をしているかも分からない、恐慌状態の友人をなだめる為にベッドを焼いてみせるような、奇妙な男の話だ。

 塔名と藤村は小学校の同級生だった。その時は、今のような奇矯さは持ち合わせていなかったように思う。その頃の彼は、そこらの小学生とは一線を画すような冷えた怜悧さを持ち合わせた子供だった。
「ハノイの塔って知ってるか」
 ある日、塔名がそんなことを言った。
「……知らない」と、藤村は答える。
 ハノイの塔というのは、三本の柱に穴の開いた大きさの違う円盤が刺さっているパズルのことだ。下から大きい順に円盤が積み重なっており、ルールに従って右端の棒に円盤を移動させられたらクリアである。当然、小学生の藤村がそんなものを知っているはずがなかった。塔名だって、単に隣の席の人間に話してみたかっただけだろう。図を描きながら説明する塔名に向かって、藤村は恐る恐る尋ねた。
「これがどうかしたの?」
「インドにこの物凄く大きなバージョンがあって、それがクリアされると、世界が終わるらしい」
「えっ」
「俺は将来、このパズルを解きに行く人になるんだ」
「駄目だよ! 世界終わっちゃうんだよ!?」
 藤村の必死の説得にも、塔名は聞く耳を持たなかった。
「止めても無駄だぞ。俺は瞬間移動が出来るからな」
「嘘だ!」
「嘘じゃない。やってみせようか」
 その言葉に恐々と頷いたのを覚えている。やれるものならやってみろ、という感情と、そんなことをされたらもう太刀打ちが出来ない、という気持ちが綯い交ぜになる。うっかり妙な実演を頼んだ所為で世界が終わるかもしれないのだ。
 それでも、藤村はその話に乗った。放課後『体育館二階の多目的室で、俺の力を見せる』というのが塔名の宣言だった。常識的に考えればそんなことが出来るはずがない。
放課後、藤村は走って体育館へ向かった。体育館にはバスケット部のコーチが既に居て、周到な藤村は「塔名がここを通りましたか?」と尋ねすらしておいた。答えはイエス。当然だと思った。塔名はとことこ歩いて多目的室に行ったのだ。それでいい。そうでないと困る。
 逸る気持ちを抑えながら二階の多目的室へ走る。そして、わくわくしながら扉を開いた。本来なら、そこには照れ笑いを浮かべる塔名が居る――はずだった。
 けれど、そこはもぬけの殻だった。
 多目的室とは名ばかりの倉庫みたいな雑多な部屋だ。
 埃っぽい部屋の中には黒板消しクリーナーの箱やら、大縄跳びの縄やら、あるいは空気の抜けたバスケットボールやらの雑貨で埋め尽くされていた。唯一ある窓は埃で外が見えないほどで、長らくここが掃除すらまともにされていないことを示していた。
「塔名……」
 この部屋があまりに不気味なので、思わず名前を呼んでしまった。返事は無い。恐る恐る中に足を踏み入れると、何かを踏んだ感覚があった。拾い上げてから気づく。金色の小さな輪っか。
ハノイの塔の円盤だった。
「塔名! 居るの!?」
 今度はもっと大声で名前を呼んだ。返事が無い。よく見ると、テーブルの上にはハノイの塔の『残り』もあった。倒れてはいるものの、三本の柱の生えた土台がそこにある。倒れた柱には、大きさの違う二枚の円盤が刺さっていた。
 塔名がここに来た証明として、これほどふさわしいものは無かった。ある種の宣戦布告でもある。まだ円盤があるんじゃないかと隅から隅まで探してみたものの、このハノイの塔は三枚で終わりのようだった。世界を終わらせるには全然足りない枚数だ。
 『塔名は自分と入れ違いに部屋から出たに違いない』と、そう思った。塔名が部屋に居らず、ハノイの塔だけが残されている状況を見れば、ある意味当然の結論だった。
 拾い上げた円盤をポケットに仕舞いながら、藤村はコーチのところに向かう。勿論、塔名がここを通ったか聞く為である。
 まさかここで「見ていない」と言われることなんて想像もしていなかった。
「本当に見なかったんですか?」
「行きは見たぞ。でも、あれきり見てない。少なくともここを通ってない」
「そ、そんな……」
 塔名は確かに部屋に向かったのだ。けれど、そこから戻らなかった。
 塔名壮一は、ハノイの塔を倉庫部屋に残し、そのまま煙のように消えてしまった。
 このことが藤村の人生を狂わせ、ストロングゼロを飲ませ、結果的にベッドを焼いたと言っていい。あの倉庫部屋は体育館の二階にあった。体育館に入って来た塔名は目撃されているのに、そこから出る塔名は目撃されなかった。部屋の中に塔名は居なかった。ハノイの塔が残されていた。
 結論から言うと、塔名はあの部屋から消えたのだった。
 翌朝の塔名の表情を、今でも忘れられない。引力について説明する時のような顔で、彼は笑った。
「な、言ったろ?」
 完敗だった。
 そういうわけで、それからの藤村の小学校生活は彼の監視に費やされた。四六時中一緒に居なければ、いつ彼がインドに行ってしまうか分からない。塔名がインドに行ったら最後、世界は終わる。ハノイの塔を解く彼の姿を何度も夢に見た。正真正銘の悪夢である。
 悪夢を拭い去る為に、藤村は現場検証もやった。部屋の東側にある通気口は窓と扉以外の唯一の出入り口と言っていい。けれど、その通気口は肩すら通らない大きさだった。これではお話にもならない。これではそもそもハノイの塔の土台すら通らない。
 それなら実演のずっと前から教室にハノイの塔が置かれていたというのは? それも駄目だった。放課後の少し前に、あの多目的室に邪魔なコーンを置きに来た体育の先生が居たのだ。
その時にハノイの塔なんて珍妙なオブジェが有れば、先生が気が付いていたはずだった。実際に、ハノイの塔の残りの部分はその先生が回収して何処かにやってしまった。
 あの時、やはり塔名は隠れていたんじゃないか? と思っては、もう一度家探しをした。倉庫部屋がピカピカになっただけだった。先生からは褒められた。窓の外を覗いた。結構な高さだった。雨どいが小さく悲鳴を上げる。ストレートな死の臭いがした。
 卒業して中学に入っても、この謎は解き明かされなかった。解けなかったので一緒に居た。殆ど執念と言っていい。
 楽しくなかったと言えば嘘になる。塔名はおよそ世界の面白いものや価値あるものだけの愛しているようだった。有り体に言えばセンスが良かった。それがどれだけ得難いことかは語るべくもない。
 けれど、ある時知ってしまった。
 六十四枚の円盤を持つ、世界を破滅させるハノイの塔は存在しない。仮に存在したとしても、それだけ大きなハノイの塔を解くには途方も無い時間がかかる。塔名が世界を滅亡させることも恐らく無い。考えてみれば当たり前の話だ。
それでも、その気づきは藤村にとって特別なものだった。いくら塔名に瞬間移動能力があろうとも関係が無い。根底から間違っている。塔名は世界を終わらせない。なら、監視する理由も無い。
そう思ったのは、奇しくも中学三年生の頃だった。別々の高校に進学したのを機に、塔名と連絡を取るのを止めた。死にはしなかったし世界も終わらなかった。夢については殆ど見なくなっていた。

 再会したのは、大学生になってからだった。英知大学に入って軽音サークルに入り、ギターの一つでも買うかとお茶の水に行った時のことだった。意味もなく高いギターを冷やかしていた藤村の耳に、懐かしい声が聞こえた。
「お、藤村じゃん」
 まるで一週間ぶりのような顔をして、塔名がそこに立っていた。
 中学校以来なのだから、少しは変わっていておかしくないのに、呆れるくらい塔名は同じ風体だった。もう少し何処か変わっていてくれたら、色々と思い出さなくて済んだはずなのに。
「何? 楽器とかやるタイプだったんだ」
「いや、これから始めようと思って」
 結局、藤村はギターなんかまともに弾けないままだった。軽音サークルの飲み会に参加したり、機材を運ぶ手伝いをしたりの渉外担当に就任した。それでも、この時まではちゃんとギターをやるつもりだった。
「お前何処の大学行ってんの?」
「や、大学は行ってない」
「え、じゃあ何してんの?」
「インドにハノイの塔を探しに行ってた」
 その時、本気で心臓が跳ねた。
「……本当に?」
「本当」
 藤村の中で、その言葉は密室の記憶と深く結びついている。ひいては、かつて二人で過ごした監視の日々に紐づいている。ハノイの塔なんて本当は無い。世界は終わらない。それでも、このお茶の水の片隅で、塔名はすっとそのキーワードを出してきたのだ!
 あの時の話をしようか迷った。あの日、塔名はどうやってあの部屋から消えたのか。魔法でも何でもない第三の解答を教えてくれたら、それだけで成仏出来てしまうのだ。日常の謎という言葉を、今はもう知っている。その謎が往々にして本人に聞くべき事柄であるということも!
 迷っている間に、塔名の方が先に口を開いた。躊躇いがちに目を伏せて、小さく笑う。
「一晩泊めてくんない? 今ちょっと電気止まっててさ」
 それが致命的な一言であるとは想像もしていなかった。
「いや、狭いけど……それでいいなら」
「マジで? うわー、ありがたいわ」
 電気が止まる生活というものを、殆ど想像出来ないまま、藤村は彼を部屋に招き入れた。そうして、塔名はまんまと藤村の生活に入り込んだ。確かに、彼が迂闊だったのかもしれない。でも、数年越しに再会した相手が出してきたワードがインドの伝説のパズルだなんて、ちょっと出来過ぎているんじゃないだろうか? 絆される。
 最初は清いお付き合いだった。というのも、泥酔や自棄や衝動とは無縁の付き合いだったのだ。話すことは当り障りのない世間話か、かつての思い出話くらいのもので、アルコールだってそんなに酷い飲み方はしなかった。
 ただ、これが二、三回と重なり、やがて慣れが生じてくると、変わった。アルコールが単なるチューハイではなくストロングゼロへと変わるのは、明確な分岐点だった。アルコール度数九度を分水嶺と呼べないはずがない。他人の家でストロングゼロを飲むのは、それでもう既に第一段階なのだ。
 塔名壮一は、今まで出会った人間の中では格段に浮世離れしていた。大学に入った後も、塔名ほど変わった人間は見たことが無かった。新生活に慣れ始め、ギターに挫折し、サークルでぬるま湯に浸かるようになると、不定期にドアを叩く塔名の存在がやたら大きなものになってしまったのだ。酷い錯誤だ。ギャップなんてろくなものじゃない。
 会う回数が十回を越え、冷蔵庫にストロングゼロを常備しておくようになると、いよいよ藤村は狂っていった。あの日の密室の謎を解こうという気にもなれなかった。なんのことはない。塔名はあの日消えたのだ。それで構わないと思った。だって、そっちの方がよく似合う。
「塔名ってこのままどうなんのかね」
「さあ、どうなるかは俺にも分かんないけど、でもまあギターはやんないと思う。名ばかり軽音部のお前みたいに」
「渉外はやってるんだって」
「バンドやらないのに何の為の軽音サークルだよ」
 けたけたと楽しそうに笑う塔名を見て、うっかり思った。
 ――もしかして自分は目の前の男が大分好きで特別なんじゃないだろうか?
 今なら分かる。それは必ずしもそうじゃない。小学校の頃の同級生。浮世離れした友人。久しぶりの再会。塔名が行った国の話。そして、密室に残されたハノイの塔。それら全てが距離感を狂わせた。
 何であんなことになったのか分からない。考えてみれば、正解な箇所なんて何処にも無かった。塔名はどうして拒否しなかったのだろう。でもまあ、あの日は塔名もストロングゼロを飲んでいたのだ。
 正解と正解が重なっていたのかもしれない。
 そんなもの、どこにもないのに。

 *

 ニトリの前では、もう既に塔名が待っていた。十日ぶりの再会だったけれど、感慨は無い。どう接していいかも分からず、微妙な角度で手を挙げた。
「その人が例の友達?」
 その瞬間、背後からよく通る声がした。
 いつも通りのぴったりとしたシャツに、黒いチノパンがよく似合っている。深水千代子がそこに居た。
「あ、うん。こいつがその……塔名」
「塔名壮一。よろしく」
「深水千代子。晢科の二年。よろしく。どういうわけで私が呼ばれたのか分かんないんだけどさ」
 深水がそう言って皮肉めいた微笑みを浮かべた。けれど、対する塔名はそんなことを気にもせずに笑っている。
「で、塔名くんはどこなの?」
「ああ、俺は大学行ってないんだ。色々あって二日でやめた」
「三日くらい行けばよかったのに」
「ネパールでこの話をしたら、一日でやめれば良かったのにって言われたっけな」
 塔名の言葉に、深水が少しだけ笑う。
 その間に挟まれた藤村は、正直気が気じゃなかった。片方は警音サークルの女王様で、片方は何をやっているのかもよく分からない放蕩の使途である。このままひっくり返って無になってしまいたかった。
「……それじゃあ行こうか」
 力の無い呟きに、二人とも無言で頷く。いよいよ何の会合か分からなかった。サバトの方がまだ楽しい。

 ニトリのベッド売り場は意外と広かった。お値段以上の価値を揃えた場所に相応しい広さだ。
 元々そう高いベッドを使っていたわけでもない。一番安いものを適当に買って貰おうと思っていたのだが、驚くことなかれ、条件を値段だけに絞っても選択肢は沢山あった。色は勿論として、大きさや高さ、足の形まで色々ある。
 ここまで来ると選ぶだけで楽しそうだ。現に、藤村の前に居る二人は心底楽しそうにベッドを選んでいる。実際がどうであれ、塔名と深水はお似合いの恋人同士に見えた。素晴らしい。選んでいるのが藤村のベッドだなんて誰も想像しないだろう。
「私はヘッドボードが無くちゃ嫌なんだけど、藤村はその辺りどう考えてるの?」
「いやいや、ヘッドボードに何入れんの? そもそも藤村って身長何センチだったっけ? ヘッドボードの分ベッド狭くない?」
「眼鏡。私普段眼鏡だから」
「マジで、意外」
「今日会った人間に意外も何も無いでしょう。ちょっと藤村、藤村は視力どうなの?」
「あいつあんな感じで意外と裸眼」
「嘘でしょ、意外」
 どうしてこんなことになったのだろう、と藤村は他人事のように思う。塔名と二人でベッドを買いに行くのには耐えられなかった。かといって別の友人と三人で行くのも嫌だ。だからといって、果たしてここに呼ぶべきなのは深水千代子だったのだろうか。気まずい沈黙を恐れての措置だったけれど、気まずい歓談については想定外だった。否、どう足掻いたって無理だったのだ。ベッドを焼かれた時点で終わりですよ、と誰かが教えてくれていれば!
「それで? 藤村って身長は?」
「……167でございます深水さん……」
「やっぱりヘッドボード欲しいよね?」
「ヘッドボードって何を置けば……」
「何でも置けるんだってば、望むもの全部」
 やたらスケールの大きな言い方で締めくくると、深水はヘッドボード付きのベッドに狙いを定めた。仕方ないな、と言わんばかりの様子で、塔名が後に続く。物事が濁流のように流れていき、そこに藤村の意思は全く無かった。清々しいまでのゼロだ。最近このパターンが多すぎるんじゃないか? と心の中で思う。今選んでいるのは藤村の眠るベッドであるはずなのに、活用法すら分からないヘッドボードがねじ込まれていく。本当に、何を置けばいいんだろう? 聖書?
 最終的に、二人が選んだのは焦げ茶色をしたシンプルなベッドだった。深水がこだわっていたヘッドボードも付いているのに、マットも設置費用も込みで三万円くらいだ。この一連に、正直少し感動した。焼ける前に使っていたものよりもずっと上等なベッドだ。お値段以上の価値は伊達じゃない。
 完璧なベッドチョイスをした二人は、何だかとてもやり遂げた感のある顔をしていた。皆さんの達成感に寄与出来たなら何より、と適当に思う。家具を買うという一大事において、藤村は完全にノータッチだ。
「それじゃあ色々済ませてくるから」
「あ、了解」
 藤村がまともに受け答えをしたのは、会計に向かう塔名へのその一言だけだった。どういう生活をしているのか分からないが、物を買う時の塔名は普段より一層軽やかに見えた。その背中が角を曲がるまでしっかりと見届ける。するっと消えられては堪らない。違うな、とも思う。するっと消えるところさえ見られれば、自分はこの呪縛から逃れられる気がする。すると、隣に居る深水が「随分な熱視線だね」と呟いた。
「熱視線て」
「いいから座ったら?」
 薦められるがままに、六人掛けのベンチの真ん中に座る。その瞬間、深水の鋭い目がぎらりと光ったような気がした。
「ねえ、今更だけど塔名って何? どういう繋がり?」
「どういう繋がりっていうか……繋がり自体は小学生の頃の同級生だけど……」
 けれど、そんな説明で果たして正しいのだろうか。あとの繋がりと言えば、肉体関係くらいのものですよ、と心の中で言ってから笑う。どう考えても深水千代子に言える話じゃない。
「というか塔名が払うんだね、代金」
「あ、まあ……」
「何で? 他人のベッドとか買わないでしょ……何で?」
 今度の『何で?』は、一段階低い声だった。思わず息を呑む。深水にとっては訳の分からない話だろうが、今までの話は全部繋がっている。ストロングゼロ、一夜の過ち、不純同性交遊、ベッド焼き、似非レズ、深水千代子、ニトリ、ベッド……。ハノイの塔のように重なる事情を知って、果たして深水が愉快な気分になるだろうか? そうは思えない。そのリスクを冒してまで深水に間々を語るべきなのか? けれど、選択如何に関わらず、彼女の目が真っ直ぐにこちらを射貫いている。このまま殺してくれ、と切に思った。
「もしかして同居してたりする? ルームシェアとか?」
「いや、そういうわけじゃない……」
「普通友達のベッド買わないでしょ。買っても煙草か酒くらいだって。ベッド奢りは無いって……あ、分かった。宅飲みして吐いたとか」
「あ、うん、そういう感じ」
「いや、嘔吐でベッドは丸ごと買わないでしょ。藤村何で今嘘吐いた?」
「テクニックを駆使するんじゃない」
 昼下がりのニトリには人が少なかった。休日には小休止を求めて満員御礼だろうベンチに、誰もやって来やしない。深水の表情は殆ど尋問官のそれだった。ベッドを焼かれた話をすれば、どうしてそんなことになったかを尋ねられることだろう。水源について言及せずにはいられない。
「……本当にただの友達? ね、ちょっと私に話してみなよ」
「……別に話すことなんて何も」
 その時、最悪のタイミングで塔名が帰ってきた。何かを言おうとするより先に、深水の口が開く。
「塔名くんって何で藤村のベッド買ってるの?」
「えっ? 焼いたから?」
「何を?」
「ベッドを」
 ベッドを、と深水が復唱する。塔名は何処までも真剣な表情をしていた。三万円の前だ。真剣にもなる。
「何で焼いたの?」
「酒の勢いでやらかして、全裸で目覚めたところを挽回する為にやることといったらもう火事しかないかなと」
 転がり落ちるものはもう止めようがない。未だに深水の中のピースは上手く嵌っていないらしい。ベッドと火事と全裸とニトリが上手く繋がっていないのだろう。
「つまりどういうこと?」
「酒の勢いで家主とセックスして、全てを悟って叫ばれる前に勢いでベッドを焼きました、以上です」
「えっ、じゃあ藤村と塔名って付き合ってるの?」
 出てきたのは、案外素朴な疑問だった。
「藤村って塔名のこと好きだったりする?」
「藤村って俺のこと好きだったりする?」
 素朴な疑問が重なる。何故かは分からないけれど、終わりの予感がした。ややあって、藤村の口が開いた。
「全部ストロングゼロが……」
「酒の所為にすんな! 馬鹿か!」
 深水のしなやかな腕が、藤村のこめかみを殴る。ようやく彼女にもこのニトリの真相が分かったらしい。要するに、あの飲み会のタイミングが最悪であっただけなのだ。
 深水はそのままトイレへ駆け込み、十分後に戻って来た。
「ちょっと待って、セックスしたのに特に何にも無いの? 進展とか? 嘘でしょ? こっちが似非レズ呼ばわりされてる横でセックスしてベッド焼いたのに? 挙句の果てに何でそのセックスの流れに乗せられてんの?」
「いや、俺はベッド弁償しろって言われたから弁償しに来ただけで、深水さんを呼んだのはこっち」
「そんなのは分かってる! あんたは責任取る気あんの?」
「ベッド以外の?」
「ちょっ、ベッド以外の責任取られても困る」
「取れって言われたら何らかはするけど」
 塔名はあくまで淡々と言った。
「まあ何にせよやらかしたことはやらかしたことだし。好きとかはまだ分からないけど、まあアリだと思うし。ただ、藤村が何もそういうことを求めてないっていうんだったら、それはそれで」
「それはそれでって言われても……」
 情けないことに声が震えた。それはそれでの先で取った『責任』は、どういう形になるんだろうか? 深水千代子と來山はぐみみたいな関係になるのが道理なんだろうか? 何せ、あの飲み会の場の基準に照らし合わせれば、藤村と塔名は一歩進んだ評価を得られるだろう。
 でも、根本的な部分が分からない。藤村は塔名のことが好きなんだろうか?
「いや、付き合うとか……そもそも、そういうのとかは……それを求めてるわけじゃないし……」
「じゃあ何の為にそんなことしたの?」
「ストロングゼロ飲んでやったことに整合性のある理由があるはずないだろ!」
「開き直んな! だって、」
 不意に深水の言葉が切れた。そして、小さく続く。
「だって、セックスしても本物になれないんだったら、私達は一体どうすればいいわけ……」
 知るかよ、で片付けられたらどれほど楽だっただろう。
「……ちょっとこう、こんなことに巻き込んで申し訳ないんだけどさ」
 沈黙の中で最初に口を開いたのは塔名だった。そのまま、藤村の手に小さな紙片が渡される。塔名の義務であるところの、配送票だった。
「それじゃあ、二週間後に届くらしいから」
「は?」
「じゃあ、藤村。達者でな」
 そう言って去っていく塔名の連絡先は、未だに分からない。スマートフォンを持っていないと宣う彼の捕まえ方が分からない。いつもと変わらないあっさりとした様子で、塔名が遠ざかっていく。
「あんた、行かせて良かったわけ?」
「行かせて良かったっていうか……」
 駄目な理由が見当たらなかった。ベッドを焼いた男がベッドを買って去っていくのだから。引き留められるのだろうか、とすら他人事のように思う。つい癖で塔名の背を見送ってしまったけれど、別に消えたりはしなかった。普通に歩いて去って行った。
 あの背中が蒸発するのが嫌だったはずなんだけれど。
「……いや、これでいいんだわ。もう塔名とも会わないかもしらんし」
「はあ? だって、でも、それじゃあ……」
 小さく深水が声を漏らす。その時だった。
「壺の中では火は燃えねども、私が来りて火を救う、後の祭りは寂しくとも、煙が残らばならそれもまた良し! というわけでチョコちゃん、お言葉だけど、何だか火が消えているように見えるわ」
 軽やかに響くハイトーンボイスに、何故だか深水の方が息を呑んだ。出くわしてしまった、とでも言わんばかりの表情が可笑しい。曲がりなりにも、彼女は深水千代子の恋人であるはずなのに。
 今日の格好は全体的に青で纏められている。一目で良い生地だと分かるサテンのスカートに、細やかなレース作りのヘッドドレスがよく似合う。ヒールの高さが途方も無かった。それがそのまま、彼女のノブレスを表しているようだった。
「どうも、來山はぐみです」
 深水が女王様であるなら、來山は正真正銘のお姫様だ。微笑み一つでその場を掌握し、ただ愛される為だけにある。
「不純同性交遊を行った結果、ベッドを焼いた人が見られると聞いたのだけど! 生憎と希少価値の臭いも灯油の臭いもしないわね! 折角なら私の最寄り駅の目白で買い物をしてくれたらよかったのに! お陰でちょろっと出遅れたわ!」
「目白にニトリはあるの? はぐみ」
「知らないけれど、あるでしょう。だって目白だもの。あるわよね。トリだけに。ふふふ。それはそうと、烏合の衆が一人、不純同性交遊の片割れであるところの藤村くんも元気そうで何よりだわ」
「……く、來山さん……」
「……はぐみに連絡するのは今しかないと思った」
 どうしてここに、と言うより先に、深水がそう呟いた。
 呼び出された來山はぐみは、天使の笑顔を浮かべている。なるほど、今しかないかもしれない。この笑顔は結構な正解に見える。

 居酒屋にも似合うそのロリータファッションは、喫茶店ではなおのこと似合った。ミルクティーの入ったお洒落なカップを手に持って、來山はぐみはふんわりと笑う。
「そう、それで塔名くんの方は帰ってしまったのね。出来ればベッド焼かれ人(んちゅ)よりベッド焼き人(んちゅ)の方を見たかったのだけれど」
「この話の肝はそこじゃないでしょ、はぐみ」
「ならどういったこと? アルコールの勢いでセックスした上に、それをどうにか無かったことにセックスするん人(ちゅ)になったなんて、もうそれ以上に言うことないわ。あとは卑俗な興味で消費してしまうだけよ」
 口調も笑顔も何も変わらないのに、何故だかその言葉は冷ややかに響いた。それを敏感に察知した深水が、ぐ、と言葉を詰まらせる。それに合わせて、まあ気になりはするわね、と歌うような声が響いた。
「それにしても、最近チョコちゃんおかしいわ。何だか妙に気にしてるみたい。やっぱりお茶漬けが後を引いているのかしら」
「……別に気にしてない」
「チョコちゃんが悲しむのは本意じゃないのよ。でも、男根による性的関係を持てないっていうことがそんなに嫌なのかしら。セックスに正しさを求める人間の出る映画をこの間観たのだけど、なんとアカデミー賞を取っていたわね」
 正直に言おう。藤村は緩やかに引いていた。人間に勝手に幻想を見てはいけないとは思う。それにしても、ぺらぺらとまくしたてる來山はぐみは、どうしてもイメージと違った。お人形さんみたいな外見に反して、あまりにもよく舌が回る。手に持ったカップの中にが、さっきから全く減っていない。
「何かしら藤村くん? 何だか物言いたげのようだけど」
「正直、來山さんがそんなことを言うのが……」
「そんなことって?」
「セッ……クスとか」
「あら、そうかしら? 元よりお姫様っていうのは王子様と結ばれて世継ぎを残すものじゃない? 少女趣味の極みはセックスと近いところにあるのやも」
 そう言って、來山はぐみはからからと楽しそうに笑った。セックス、の部分だけとても綺麗な発音だった。
「確かに、私達はまあ色々なことが出来るけれど、それはサッカーでいうところの上手なパス回しみたいなもので、最終的にゴールをしなければ意味が無いみたいなことなのかしら?」
「……來山さんと深水ってパス回ししてるの?」
「それはもうハットトリックよね? チョコちゃん?」
「はぐみのそういうところ嫌い」
 深水は苦虫を噛み潰したような顔でそう言うものの、來山はぐみは気にしない。それどころか真っ黒い目が真っ過ぐに藤村を見ている。混じりけの無いその瞳は、見つめられると少しだけ怖い。
「それじゃあ藤村くんはどう思う?」
「え?」
「やっぱりパス回しじゃセックスにならないかしら? 私はこれでなかなかエースストライカーなつもりなのだけど」
「でもまあ、パス回しが出来るんだったらそれはもうセックスなのでは……」
「あら、本当に? 嬉しいわ。パス回しが出来ればそれはもうセックスなのでは、というところに関しては私もそう思うわ。だけれど、実際問題サポーターの皆さんがどのくらいの水準のセックスを求めていらっしゃるのかはよく分からないわね。ここで審判を殴ったら退場になるのかしら?」
「私本当にはぐみのそういうところ嫌い!」
「どうしてチョコちゃんがそんなに怒っているのか分からないのだけど……あ、もしかしてサッカーではハンドが禁止されているからかしら? ハンドが禁止であるスポーツと手が物を言うセックスを重ね合わせるなんて少し道理が通らないものね。うふふ」
「來山さん、深水の顔色が大変なことに」
「……あたし出るから」
「あら」
 小さく漏れたはぐみの声を掻き消すように、深水が席を立つ。そのまま数秒も経たない内にいなくなってしまった。
「ちょ、いいの?」
「チョコちゃんは合理主義なのよ。不快な場に身を置くくらいなら、一秒でも早く離脱した方がいいって判断しているの。まあ、焼けた鉄板の上に立って我慢をしているなんて馬鹿馬鹿しいものね。私、チョコちゃんのそういうところも好きだわ」
 そう言って、はぐみはふふ、と笑う。
「ちなみに深水ってこれの常習犯だったりするの?」
「天気予報士だって過去のデータに基づいて未来を予測するものよ。あなたまさか気象観測所の中には巫女が配置されているとでも思っているのかしら。そうだったら可愛いわよね。ふふ」
 淀みない。完敗だ。声に出さずともそう思う。今更ながら、はぐみと付き合っている深水の凄さに気づく。ドーリィキュートな見た目に隠れたこれは、ある意味酷い罠だ。
「……なんか、大変そうだな。來山さんも」
「このくらいなんてことないわ。どれだけ大変でも、私はチョコちゃんを見つけるもの」
 それが数世紀も前からの約束なのだとでも言わんばかりだった。
「まあ、少し意地悪し過ぎたかしらね。でも、ちょっと藤村くんと二人で話してみたくって、わざとチョコちゃんの嫌な話をしちゃったわ」
「俺と?」
「友情とベッドを犠牲にしたセックスは楽しかった?」
「…………あの」
「あら、そんな顔されても困るわ。あなたも床事情を聞いたんだもの」
「あれはパス回しの話じゃ?」
「それで? 楽しかった? 私達が得られなかったものを、あなたはそれで手に入れたのかしら?」
 揶揄しているようには聞こえなかった。むしろ、口調に反してどこまでも真摯だ。その間にあるものと無いものを見定めて、手に入れてやろうとでも言わんばかりの声だ。ややあって、藤村が呟く。
「……や、本当のこと言うと何にも覚えてない。いや、覚えてはいるんだけど、それはあの時一瞬一瞬が何もかも正しい気がしてたってそれだけで」
 こんなあやふやな説明で彼女は納得するのだろうか、と思ったのだけれど、意外なことにはぐみは「そうなんでしょうね」と言って頷いた。
「正解だと思ってる時は意識なんて無いのよね」
「そう、それ。でも、別に何も変わんなかった。むしろ、塔名が三万円払ったという事実と、火災報知機を初めて唸らせたという事実だけが残った」
「火災報知器が作動するところってあんまり出くわさないものね」
「別に塔名と付き合いたかったとかそういうわけじゃないんだけど、あの六時間余りが全部ゼロになって気まずさと焼け跡だけが残るのに耐えられなくなったというか」
「そうね」
「そもそも一夜の過ちを犯した後にやることって絶ッ対にベッドを焼くことじゃないよな?」
「お金のかかりそうな趣味ね」
 ハイセンスと悪趣味の混ざった笑顔で、はぐみが笑う。
「そもそも、どうして藤村くんはそんなに塔名くんに執着しているのかしら。ただ単にラブしているとかクスしているとかそういうことでは無いと思うのだけれど、これは邪推でしかないかしら? 藪蛇だけに!」
「…………」
 魔が差したのかもしれないし、完ッ全に彼女のペースに乗せられていたのかもしれない。気づけば藤村は、例の多目的室での話を洗いざらい喋っていた。あの日のことを未だに引きずっていて、その所為でベッド焼きに発展したのだというのは我ながら意味が分からない。
 けれど、來山はぐみは意外な提案をした。さっきまでティーカップに添えられていた指がピンと立つ。
「そうね、それじゃあ私がその密室の謎を解いてあげようかしら。その代わり、貴方は私の代わりにチョコちゃんを迎えに行ってくれる?」
「……は?」
「もしかしてクリティカルな提案だったかしら。密室も・開けてしまえば・ただの部屋、というわけで――あ、これはこれで五七五で通りがいいわね。開け放たれたドアだけに? うふふ。まあそんなことは良いのだけど、それで藤村くんの中の何かしらが変わってしまうんじゃないかと思うのよね。本当に話してしまっても構わない? 勿論、藤村くんの『本当』がその密室の中にあるのなら、わざわざ解くのも無粋かしら」
「そ、そうじゃなくて、マジで何か思いつくの?」
「本気と書いてアブソルートリーと読みましょう。確認するけれど、多目的室の中に隠れられるスペースなんてなかったのよね? 塔名くんはその部屋の中に絶対に居なかったのよね?」
「居なかった。それは絶対に居なかった。出てもないはずなんだ、出ていく塔名の姿を誰も見てないんだから。でも、あの部屋から外に出る方法なんてなかった」
「わかった、わかったわ」
 そう言って、はぐみはピシッと指を立てて見せた。
「出られないなら、入らなければいいのよ」
 言っていることの意味が分からなかった。入らなければ出なくてもいい、というのは確かに冴えた話かもしれない。けれど、入らなければハノイの塔は置けない。それが分かっているのだろうか?
「そうね、あの部屋にはハノイの塔のパズルがあったのよね。それにしてもハノイの塔がそこに居たことの証明になるだなんて随分素敵だわ。私もいつかメアリーマグダレンのお洋服が在席証明になって欲しいものだわ」
 藤村の逡巡を推し量るように、はぐみは訳知り顔で頷いた。更にやりづらい。目の前にいる女の子に一体何が見えているのだろうと思うと恐ろしくなる。
「そうね、待っていて。ちゃんと説明するわ。『ハノイの塔』の構成要素は主に三本の柱の立った土台と三枚の円盤よね? そして、藤村くんが部屋に入った時、それらはバラバラの状態だった」
「土台が倒れてたんだ、でも、円盤は床に転がっていた」
「いいわ。そして、貴方は、教師の証言を引き合いに出して、『もっと前からハノイの塔がその部屋にあった可能性』を否定している。でも、本当にそうかしら? そう見えないだけっていうのもあると思うの」
「他のものに見えていたってこと?」
「そうね。例えば、箱を被せられていたとか」
 箱、と藤村は復唱する。確かにあの部屋には箱が転がっていた。
「例えば黒板消しクリーナーの箱が一番それらしいかしら。あの箱って、四隅の角に小さな穴が開いているでしょう? まあ、一般的な紙箱なんてそんなものだけれど。机の上に予め黒板消しクリーナーの箱を被せた『ハノイの塔』を置いておく。箱には糸を通して通気口の外へ。そうして、藤村くんを扉の前で待機させてから、通気口から出しておいた紐を引っ張り、箱を取り去ってハノイの塔を露出させる。箱から糸を抜き去れば痕跡は無い。小学生にしては冴えたやり方だわ。箱を取り去る時に引っ掛かったのか、ハノイの塔は倒れていたみたいだけど、藤村くんは中にそれがあるってこと自体に驚いていたようだから」
「でも、円盤は入口の方にまで転がってたし、ただ倒れただけであんなに円盤がとっ散らかるってある?」
「だったら、一番小さな円盤はそのまま通気口から中に入れればいいのよ。そうしたら上手い具合にテーブルから離れた部分にも円盤を落とせるじゃない」
「……それなら逆に、そんなことをしてまで円盤をバラバラに配置しなくちゃいけなかった理由は……」
「理由ならあるわ。だって、そうじゃないと藤村くんが隅々まで探してくれないかもしれないじゃない。そうしたら、貴方はいずれ『塔名くんは何処かに隠れていたんだろう』って結論付けてしまっていたんじゃないかしら?」
 その通りだった。円盤があそこに落ちていたから、藤村は倉庫の中の隅々まで見て回ったのだ。塔名は賢い子供だった。この回りくどい仕掛けで藤村を騙すところが、目に見えるようだった。
「これはあくまで私の推理なのだけど、どうかしら」
「……どちらかと言えば有り」
「承認されて嬉しいわ。自分の推理が採用されるっていうのは良いものね。ということで、推理が真実に進化したってことでいいのかしら。ところで、推理の対義語が気になって調べたことがあるんだけれど、推理の反対は直感になるんですって。それは確かにそうでしょうけど、何だかしっくりこないのよね」
「あの、本当にそういうことだったのかな?」
「強いて言うなら、もう一つ可能性があるにはあるわ。でも、それを聞いたところで、これはどうなるものでもないもの」
「というと?」
「大切なことは、塔名くんは消えたりしないってことなのよ。消える能力が無い彼のことでも、繋ぎ止めたいと思うのかしら?」
 人間は密室から脱出出来ない。それならもう藤村は塔名を見送らなくてもいいのだ。
 押し黙る藤村に対して、はぐみが小さく溜息を吐いた。
「密室なんか本質じゃないわ、だって本当は塔名くんに聞けばいいだけの話だもの。それをしない時点で、真相解明なんて折り合いをつける為だけの追想でしかない。藤村くんがそうだと思うのならそれでいい」
「それでいいのかな……いや、それは……」
「何はともあれ追想終了。さ、チョコちゃんを迎えに行って」
「……何処にいるのか分かんないんだけど」
「外濠公園に居るってLINEが来たわ」
「それって來山さんに迎えに来て欲しいんじゃないの?」
「だからこそ。大体どんな人間だって私に迎えに来て欲しいでしょう」
 それ以上何も返せなかった。彼女はそうでなければ。
「ハノイの塔のお話、私は好きよ。丸いものが好きなの」
 テーブルを立つ時、來山はぐみはそう言って笑っていた。

 深水はストロングゼロのドライを飲んでいた。色々やりきれなくなったのだろう。公園で酒を飲むというどこまでも堕落したシチュエーションなのに、あくまで彼女は毅然としていて美しかった。
「夕方から酒を飲むのはどうなんでしょうね。まだ五時だよ」
「ストロングゼロを飲むと、一時間が一秒になるからもう夜なの」
「その理屈でいくとむしろもう朝だろ」
 その言葉に、深水は少しだけ笑った。
「……あれからずっとはぐみと話してたの?」
「來山さんって面白いね」
「好きになっちゃうでしょ」
 そう言って、深水が見慣れた缶を差し出してきた。彼女とお揃いのストロングゼロドライだ。さっきまで優雅に珈琲を啜っていたことを思えば、何だか思うところある変化だ。小さくお礼を言ってから、プルタブを起こした。その瞬間、深水が小さく声を漏らす。
「やっぱずるいよ」
「ずるい?」
「……私も犯してみたかった。一夜の過ち」
「犯せるって來山さんは言ってたけど」
「サッカーの話は今してないから」
「サッカーの話をしてる瞬間は一度も無かったような……」
 どう言っていいのか分からなくなったので、とりあえずストロングゼロを飲む。喉を焼くような感覚と、粘膜に抜けていくアルコールの臭いが何だか懐かしかった。甘くはない。ひたすらドライだ。
「私達が似非レズって言われてるの聞いてどう思った?」
「……なんかこう、正しくないな、と。人間の恋愛が最悪の状態で腑分けされるところを初めて見たから」
 それを聞いて、深水は小さく唇を噛んだ。そのまま、小さな声で呟く。
「……ニトリであれこれ言っちゃってごめん。……てっきり、そうなるべきかなって。っていうのも決めつけだったね」
「いや、別にいいって……」
 深水が緩やかに首を振った。
「私さ、はぐみと付き合いだしたきっかけ、正直よく覚えてないんだ。はぐみ、あの格好であの性格だし。友達はあれで多いんだけど、私生活とかよく分かんないし。それで、何となくずっと一緒に居たら、可愛いなーみたいになって、その内に可愛いだけじゃ足りなくなったっていうか」
 ――正しいことをしていると信じている時、人間の意識はあやふやになる。來山はぐみもそう言っていた気がする。全肯定装置が作動して、人間の頭を狂わせる。
「あ、でも手を出してきたのははぐみだから」
「……なるほど」
「はぐみのことが好きだよ。世界で一番好き」
 深水の声は、いつになく優しかった。きっと本心なのだろう。深水千代子は來山はぐみのことが好きなのだ。シンプル過ぎて、何だか酷く寂しい気持ちになった。
「でも、この言葉じゃ何の意味も無い。私ははぐみのことが世界で一番好きだけど、私には、それを証明する手立ては無いのかもしれない」
 この期に及んで、深水は少しも泣いていなかった。涙を流したらそこで終わりだと思っているのかもしれない。ストロングゼロを煽りながら、彼女は言う。
「ゼロなんだよ。私達の間には何も無い。『本物』の恋人らしいことを、私達はまだしてないんだ。ゼロの位置に立ったまま、ここから動けない……」
 それきり、深水は黙った。まるで世界で一番いけないことを言った後のような顔だった。こんなことを言うつもりなんてなかったのだろう。でも、今の深水は酔っている。何が最善で何が正しいのかは、今の深水には分からない。
 例えば、ここに居るのが自分ではなくはぐみだったら、と考える。あの人を食ったような美しい『名探偵』なら何を言うだろうと想像する。ストロングゼロは順調に減ってきていた。頭がぼんやりとして痛い。
「虚数ってⅰって書くじゃん」
 その言葉は、殆ど口を衝いて出た。
「……そうだけど、何」
「ⅰってアイだろ?」
 そこに落ちていた枝を使って『ⅰ』の字を書く。不格好に引かれた縦の線が、涙の跡のように地面に刻まれる。
「……うん」
「ゼロって虚数じゃん」
 段々と雲行きが怪しくなっている気はしていた。自分がこのまま何を口走ってしまうものか想像もつかない。ストロングゼロは精神に作用するタイプの全肯定装置だ。これが正しい、という思い込みのあるがまま、藤村は続ける。
「ってことは……ゼロも……愛ってことに……なるんじゃないでしょうか……ってことにはならないでしょうか……何も無いってことだって、何かがあるんだよ、多分」
「……何かが、」
「インドのブラーマグプタがゼロを発見するまで、そこには何も無かったかもしれないけど、ゼロはゼロなりにあるんだよ。何も無いってことが在るんだから、証明しなくてもいいだろ、うん……」
「数学の話をするのか言葉遊びをするのかどっちかにしてよ」
「本当言う通りなんだけど……」
「来月の学祭、午後二時からだから」
 深水千代子が立ち上がる。消えかけの影がゆっくりと伸びる。
「私とはぐみのステージ、よかったら見に来て。全部を見せてあげるから」
「二人でやるの?」
「そう、二人だけで良い」
「……見る。絶対見る」
 そう答えると、深水は柔らかく笑った。
 來山さんはこの表情をいつも見ているのだな、と朧げに思う。

 予定通りの日の予定通りの時刻にベッドが届いた。
ベッドを買い替えた経験が無いので、テキパキと設置されていく様がまるで魔法みたいだ。コマ送りで再生されるそれを、ぼんやりと眺める。もうこんなことはないようにしよう、と思うのだけれど、どう気を付ければいいのか見当もつかない。ベッドを炎上させる他シチュエーションが全く思いつかない。
「それじゃあ、設置させて頂きましたー。ありがとうございましたー」
「あ、いや、こちらこそありがとうございました」
「はいー。またよろしくお願いいたしますー」
 こんなことが何度もあってたまるか、と心の中で思う。こんなことが何に係るのかは自分でもよく分からない。ベッドを焼かれること? それとも昔馴染みと一夜の過ちを犯すこと? いやいや、どう考えても前者なんてめったに無い。

 塔名は来なかった。
 当然の話だ。ベッドがやって来るのは藤村の家の話で、塔名の家の話じゃない。ニトリの人間を出迎える必要なんてない。三万円を払った時点で、塔名の仕事は終わったのだ。来る義理なんて端から無い。
 ふかふかのベッドで眠りながら、藤村はハノイの塔の夢を見た。塔名が金色に光るパズルを解いている。夢特有のデフォルメで、その円盤の枚数はどう見ても八枚くらいしか無い。
 けれど、何故だか満ち足りた気持ちだった。このまま世界が崩れ去るなら、それでも構わなかった。昔は悪夢だったはずの夢なのに、今ではこれは……これは……何だろう?
 ぼんやりとそれを見ながら考える。
 終わりについて考えるタイプの人間だった。
 例えば、特別な人間が居るとして。その特別な人間と、自分はいつまで交流を持てるのか。例えば街で偶然出会って一緒に過ごすようになったとして。いつまで同じ止まり木に居られるのか。
 有り体に言って不安だったのである。
 相手がどうして自分を選んだのか分からなければ尚更だ。塔名と話している時は、いつでも何処か離人感があった。
 塔名は魔法のように消えたりしない。はぐみがそれを教えてくれた。もう塔名を監視していなくたっていい。
「大丈夫だから、こんなの無いのと同じだから」
 そういえばそんなことを言ったような気がする。
「ゼロだよゼロ、無いのと同じ」
 信じてもらえないかもしれないけれど、藤村はあの夜、本当に正解を選んだつもりだったのだ。ハノイの塔と密室を失った後でも一緒にいられるように、特別の特別にさえなれれば、そうなれば――。
 ということにはならないのが恐ろしいところだった。藤村が手に入れたのは焼けたベッドとストロングゼロの残骸だけである。

 そうして話は件の飲み会に立ち返る。
 深水千代子と來山はぐみの恋愛が切り分けられて偽物にされる中で、定義が全部あやふやになって、セックスが無ければ愛では無いなんて言説がまかり通る中で、残ったものって何だったんだろうか?

 インド人がゼロを発明し、日本人がストロングゼロを発明した。

 *

英知大学の学園祭では、アルコールは缶入りのものの販売が義務付けられている。かつてはビールサーバーを持ち込んでの生ビール販売なんかが隆盛していたらしいが、学生が羽目を外し過ぎたとか、あるいは紙コップに毒が入れられただとか、そういった理由で禁止になってしまったのだ。都市伝説の一種だ。よくある話だ。
その代わりに学祭で幅を利かせているのが、ストロングゼロ屋である。
ストロングゼロ屋とは、その名の通りストロングゼロを売るだけのシンプルな屋台だ。氷を張った水の中に、色とりどりのストロングゼロが浮いている。彼らはこの日の為に、様々な手段を使って沢山のストロングゼロを調達する。何かの食べ物のついでにストロングゼロを売る屋台は少なくないが、彼らのような思い切りのいいライナップには敵わない。
 ふらふらと吸い寄せられるようにゼロ屋を覗くと、そこにはマンゴーダブルもあった。流石、バリエーションを誇るだけはある。街中では一掃されたそれが、他の缶に押されるように浮いていた。
「えーっと、マンゴーダブルで」
「はい、マンダブ」
 店番の男が、丁寧に雫を拭ってからマンゴーダブルを渡してきた。四百円という価格は、ストロングゼロにはあるまじき価格だったが、仕方がない。これらは、本来ここには無いものなのだ。
 近くのベンチに腰掛けながら、マンダブを開ける。メインストリートを行き交う学生たちは誰も彼もが楽しそうでたまらない。ここに座ってマンゴーダブルを飲んでいる自分は一体何なんだろうか、と藤村は独り言ちる。
 一口飲んだだけで、やけに濃いマンゴーの味と、鼻に抜けるアルコールの匂いにやられた。それでも、ストロングゼロは美味しい。あの夜も、この果実味に驚いたのだ。いくらでも飲めるとすら思った。アルコールが苦手なのに、あの件のストロングゼロが飲めてしまうという恐ろしさ!
 日差しがさんさんと降り注ぎ、冷たいストロングゼロとの優雅なコントラストを作っている。まるで、ストロングゼロを飲む為に誂えられた舞台のようだった。もう一口を飲めば、更に頭の端が重くなる。舌が痺れる。このまま勢いで飲んでしまおう、と思った瞬間、お誂え向きの日差しが誰かに遮られた。
「藤村」
 影の先には、塔名壮一が立っていた。
 果たして再会する時は、同じ様式を踏まなくちゃいけないんだろうか? 八年の不在に比べたら何てことの無いはずなのに、お茶の水で会った時よりも随分悲壮な気分になった。
「お前それ駄目だろ」
 何か言うより先に、塔名の手がすっとストロングゼロを奪い取った。抗議をする暇さえなかった。殆ど減っていない缶の中身が、塔名の喉に滑り込んでいく。
「お前それ、祭価格なんだぞ」
 掠れた声でそう言った。ストロングゼロ屋は自分の価値を高く見積もっているのだ。
「またこの前みたいなことになったら困るんで」
 さらりと塔名が言う。本当にその通りだ。この前のようなことになったら藤村の方だって困る。それにしても、困るという言葉のあまりの多義性にくらくらした。困るにだってカラーバリエーションがあるわけで、一体どういう意味での困るなのか。果たしてその困るは、藤村と同じ色合いの『困る』なのだろうか。
 それを詳しく尋ねることも出来ずに、藤村はややあって言った。
「なんでここに?」
「この間ニトリ行った時、深水さんが誘ったんだよ。やるんだろ? ステージ。行くって約束したから」
「約束」
 思わず復唱してしまった。藤村が呼ばれたのだ。塔名が呼ばれていないはずがない。
「お前って呼ばれたら来るの?」
「約束されたら来るの」
 あっという間にストロングゼロの缶がゴミ箱へ消えた。祭価格でも、飲むスピードは変わらないのだ。
「何でお前と会うのってこんな大変なの」
「実際、人間って本来滅茶苦茶頑張らなくちゃ会えないものなんだろ。スケジュール合わせて約束して、最後に相手が来るって信じることでようやく会えるんだって」
「お前はお茶の水で俺を見つけたのに」
「あれは特別」
 ニトリで約束をすればよかったのか、と今更ながら藤村は学ぶ。あの日、配達日を伝えただけで、その先を言わなかった。払うものを払ってもらったんだから、塔名の出番は無い。それでも、あの日藤村は彼を待っていたのだ。
「ベッド届いたから、もう全部無かったことになったから」
「ちゃんと届けてくれるもんなんだなぁ」
「そりゃ届かなかったら詐欺ですから」
 少しだけ迷ってから、藤村が口を開く。
「みっともないこと聞いていい?」
「どうぞ」
「塔名って俺のこと好き?」
「前も言った気がするけど、わかんないんだわ」
「それ突っ込んだ側が言っていい台詞じゃないからな」
「でも、俺は一度だけお前の為に死んでもいい日があったよ」
 何でもないことのように塔名が言う。ずるいのはこっちの方だろ、と心の中で呟く。
「嘘吐け。塔名のゴミクソ」
「いやあ、マジでな」
 その時、歓声が上がった。どうやら、一個前のグループのパフォーマンスが終わったらしい。ストロングゼロは時間の感覚を歪ませる。時刻は二時近くになっていた。
「次、深水さんたちのステージだぞ」
「あ、うん、行く」
 何かに押し上げられるように塔名の背中を追う。
 その背は揺らいで消えることもなく、雑踏の中にはっきりと在った。

 客の入りは上々だった。メインストリートに設置された特設ステージは否応なく目立つし、英知大学軽音部はなかなかの人気サークルなのだ。
 ステージに立つ來山はぐみは、いつもの通りのクラシカルなロリータ服姿だった。緑色を基調としたジャンパースカートが、パニエでふんわりと膨らんでいる。それを見て、何だか違和感を覚えた。來山の普段着ているスカートは、あれほど膨らんでいないはずだ。それとも、今の服は勝負服か何かなんだろうか?
 はぐみはいつも通りのプリンセススマイルで、コクピットのようなシンセサイザーの前に立っている。「SEQUENTIAL」というロゴが、やけに眩しく光って見えた。
 対する深水は、極限まで研いだ恰好をしていた。
 ゆったりとした黒いTシャツに、紺色のスキニー。無駄なものを削ぎ落したその恰好を、真っ赤なギターが裂いていた。
 ――フェンダー・ストラトキャスターだ。他のものに比べて大きなボディは、細身の彼女が持つにはかなりアンバランスに見えた。『ジャガー・ストラト』という名前のそのギターが、彼女にはどうしたって相応しかった。かつてジミ・ヘンドリクスが、世界をぶち壊す爆弾の音を再現する為に用いた、破壊者のギターだ。
「Ratatat『Gettysburg』」
 はぐみが短く曲名を囁く。
 そうして始まった音楽は、恐ろしかった。打ち鳴らすようなギターを追いかけるようにシンセサイザーの音が鳴る。二人だけでいい、と言った深水の言葉を思い出した。なるほど、彼女の言葉は正しい。
 藤村はエレクトロニックという音楽の種類を知らなかったので、初めて耳にしたその音楽を、言葉のようだと思った。彼女たちは、二人だけで話をしている。
 『Seventeen Years』『Swisha』と、曲名だけ短く言っては、叩きつけるような演奏が続く。ギターの音の粒が、シンセサイザーのエレクトロニックな音に搦め取られていく。
そうして最後に『Tacobel Canon』という曲が演奏された。この曲は、今までの曲とは少しだけ趣が違って、ゆったりとした美しい曲だった。讃美歌のように挟み込まれるシンセサイザーの音に、深水のギターが寄り添っている。曲は静かに続き、しなやかに盛り上がっていく。
 その時、全ての音が止んで、その代わりに深水とはぐみが向き合った。
 來山はぐみの栗色の髪の毛が風に煽られていく。深水が眩しそうに目を細めた。ジャガー・ストラトがステージの上に置かれて、そのまま彼女がはぐみの元へ近づいていく。
 観客の誰もが先の展開を期待していた。ステージに渦巻く熱気の中の、その目の中に二人が居る。二人が恋人同士であることはそこそこ知られた話だ。誰かが揶揄うように口笛を吹くのが聴こえた。
 キスの一つでもするんだと思っていた。あの時点では藤村でさえそう思っていた。例えばそれが楔になって、何かしらの『証明』になるんじゃないかと思ってしまった。
 でも、そうはならなかった。殆ど触れ合うくらいの距離に立った瞬間、パンパンに膨らんだスカートの中から、はぐみが何かを取り出した。
一瞬だけ露わになった太腿と、挑発的な笑みのお陰で、それがまるでショットガンのように見える。けれど、黒と銀色で構成されたその狂気が向かう先は観客じゃない。それは極めて閉鎖的で魔法的で自傷的で、今から行う全てのことへの助走になる凶器なのだ。
 來山はぐみが取り出したのは、ストロングゼロだった。
 その飲み物の不適切さと言ったらない。そもそも、ステージ上でアルコールを飲むのはいけないことだ。ちゃんとそれは明示されている。けれど、それを破ったらどうなるのかは分からなかった。
ステージに立つ二人がストロングゼロを持っていることに、観客も実行委員も気が付いている。それでも手出しが出来ない。あまりに鮮やかなテロ行為に、オーディエンスはあまりにも無力だった。來山がストロングゼロを投げる。深水がそれを受け取る。まるでパフォーマンスの一環であるかのように、二人が揃って酒を煽る。
あっという間に空になった缶が宙を舞う。誰かの悲鳴が上がる。その時、深水がスタンドマイクを掴んで、思い切り叫んだ。
「何で証明してやらなくちゃいけないんだよ! 死ね! 百回死ね!」
 そう言って、深水千代子は晴れやかに笑った。
 そのまま、二人は逃走した。文字通りの逃走だ。シンセサイザーとギターを置き去りにして、手を繋いだまま駆けていく。ロッキンホースバレリーナを履いたはぐみの方が、スニーカーを履いた深水よりもずっと足が速い。意外性? いやそうじゃない。何せ藤村は、彼女のことを何も知らない!
 その時、隣にいる塔名が口笛を吹いてから、思い切り拍手をした。戸惑っていた周りが、釣られて拍手をする。何をしていいか分からなかった全員が、喝采の方向に指揮されていく。鮮やかな手管だと思った。一瞬にして、辺りは熱狂の渦に包まれた。
 途方に暮れた顔の実行委員たちが、残された楽器達を丁重に下げる。置き去りにしていく判断は正しかったんだな、と思った。人間は楽器を粗末には扱えない。
 二人の勝ちだ。何となくそう思った。
 証明する必要なんて何処にもないので、藤村は、ただ自分の為にそう思った。二人の勝ちだ。それはもう完膚無きなまでに。

 深水千代子と來山はぐみによるエレクトリック・デュオ『イクピサ』は、無期限出場停止になった。裏を返せば、そのくらいしか彼女達に加えられる制裁がなかったということになる。何の痛手にもならない。二人の舞台はもうここじゃない。
 二人は舞台どころか学内からも消えた。なんでも、揃ってスウェーデンに留学に行ったらしい。だからこそ、あの場で二人はやらなくちゃいけなかったのだ。
 ところで、お茶漬けを優雅に啜っていた來山はぐみのことを考えた。あの穏やかな所作の裏で、彼女がどれだけ怒っていたか。それを考えると身が竦むようだった。

 塔名壮一も、学祭が終わってから、すっかり姿を消した。最後に見た彼は、大学内のイルミネーションを眺めながら、ストロングゼロを飲んでいた。五百ミリの梨ダブルだった。顔色を変えずにそれを飲む彼を見て、何となく理解する。塔名壮一は酔わない。
 だからきっと、過去のいつ何時だって塔名が過ちを犯すことなんて無いのだ。ベッドを焼く前に味わったあの一夜だって、多分正解だった。
 どうして約束をしなかったのだろう。再び会う為に必要なことなんてそれだけだったのに。それさえ出来なかった。

 だから、藤村が再び塔名と出会ったのは、学祭から半年が経った頃のことだった。

 講義を終えて、藤村はいつものように家に帰った。燃えたベッドの無い、快適な部屋だ。予兆なんか何も無かった。そんなものがあったら、苦労はしない。
 だから、部屋に塔名が居るのを見た瞬間、比喩じゃなく心臓が止まりそうになった。
「……塔名?」
 塔名はあまりにも自然にそこに居た。合鍵を渡すような生温い関係じゃなかった。そもそも、一夜の過ちを雪ぐ為に放火する人間を易々と家に入れてたまるかという話だ。ゴロワーズ・レジュールを吸いながら、彼はぼんやりと外を眺めていた。ベランダに続く掃き出し窓が少しだけ開いている。恐らくはそこから入ったのだろう。嘘みたいな話だけれど、塔名ならあり得る話だ。鍵がかかっていない場所は、外と同じなのだから。
「お、早いな。ここだけの話だけど、鍵開いてたぞ」
「そんな豆知識みたいに言わなくても」
 手元にある缶に吸殻を突っ込みながら、塔名が楽しそうに微笑む。缶はストロングゼロのドライだった。不法侵入を働きながら酒を飲むというその暴挙! その癖、その佇まいはアルコール度数九パーセントを少しも感じさせない。
 その時、本当に唐突に、藤村は真相を悟った。何の? 來山はぐみが解いてみせた、あの麗しき脱出劇の真相だ。
 多目的室の窓は開いていた。
あそこからなら、問題なく脱出出来ることだろう。勿論、窓から地面までは、地上二階の高さがある。けれど、塔名は飛んだんじゃないだろうか。ハノイの塔を置き、テーブルの上に立って勢いよく窓へ飛ぶ彼の姿を想像する。今よりもずっと軽い身体が窓枠を掴み、雨どいを伝って地面に降りるところを。
 テーブルが大きく揺れて、倒れたハノイの塔が円盤を転がしていく。テーブルが蹴られたんだとしたら、円盤があそこまで飛んでいてもおかしくない。
 楽しそうに笑いながら、想像の中の塔名が窓を閉める。雨どいなんかに体重を掛けたら危ないはずだ。けれど、そんなことを気にもしていない。
何故なら塔名は証明しなければいけないからだ。塔名壮一はいずれハノイの塔を解いて、この世界をぬるっと終わらせる。馬鹿な同級生にそのことを信じさせる為には、今ここで消えなくてはならないのだから。
はぐみはこの可能性についても考えていただろう。彼女が言わなかったもう一つの可能性がこれだったのだろう。
「こう見ると久しぶりだなぁ。どう? 大学楽しい?」
「……お前、今まで何してたんだよ」
「ん? いや、大したことしてねえよ。ほら、俺ってバーッて働く時期とそうじゃない時期分けるタイプなんだよな。ここ半年はそのバーッをやってたわけ。だからしばらくはブラブラすっかなあ」
 そうだ。人間は働かなければ生きていけない。塔名だってそこは当然なわけで。世界から消える理由に、これほど納得のいくものがあるだろうか。
「……半年間何の音沙汰も無かったな」
「約束しなかったからな」
 何でもないように塔名が言う。
「お前に連絡する手段がゼロなんだよ。マジで」
「そんな悲壮な顔する話でもないだろ。別に死に別れるわけじゃあるまいし」
「じゃあお前は、俺が引っ越しでもしてたらどうするつもりだったんだよ。俺がここに住んでなかったら? ここを離れてスウェーデンだのスコットランドだのに行ってたらどうしてたんだよ? そうしたらもう二度と会えないよな?」
 まくしたてるような言葉に、塔名が一瞬だけ怯む。
「何にも無いんだってば、本当に」
「少なくとも何も無いってことはないだろ。ゼロっていうのはゼロがあるってことだし」
 その言葉には聞き覚えがあった。半年前くらいに、藤村は同じことを言った。あの公園でのことを思い出す。ぐるぐると言葉と概念が回っている。
「……それ、深水とも同じ話したなあ……」
「マジで?」
「……虚数ってiって書くだろ」
「うん」
「……それで、ゼロって虚数だろ」
 深水との会話を思い出しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。あの時彼女と交わした会話を、塔名にも聞かせようと思ったのだ。
 けれど、何故か塔名は小さく「え?」と言った。この時点で何か言いたいことがあるのか? と藤村は訝し気に彼を見る。塔名は少しだけ迷ったような顔をしていたが、やがて意を決して口を開いた。
「……ゼロ、虚数じゃねーぞ」
「えっ」
「いや、マジだって。いや、高校で習っただろ。ゼロは実数だぞ」
「え、マジで」
「マジだよ。何だお前、大学行ってんのに馬鹿だな」
 塔名がからからと楽しそうに笑う。いやもう、仰る通りだった。けれど、大学の入学式で『ゼロは虚数じゃありません』なんてことは言われなかった。大学は虚数に関してたまにとても無力なのだ。
 あの深水千代子が間違いに気が付いていないはずがない。それなのに、彼女は公園で、それを正さなかった。真面目な顔をして、『ゼロが虚数』というぶっ飛んだ間違いに連なる説得を聞いていてくれたのだ。そのことに気が付いた瞬間、いつになく死にたくなった。あるいは泥酔したくなった。
「あああああああーっ! あああーっ! まずい! これは死ぬ! これは多分死ぬと思う!」
「虚数一つでそんなに慌てんなよ。受験生か、お前は」
「いや、これまずいんだって、この間偉そうにこれに基づいた話しちゃったんだって! これ嘘じゃん! 無じゃん! 無から錬成された虚無のお伽話じゃん!」
「物語は無から生まれていいだろ」
「深水……深水……助けてくれ深水……」
 でも、と藤村は思う。その間違いから連なる言葉に、深水千代子が救われていたんだとしたら。
 ゼロの中にⅰがあるとか、虚ろの中に愛があるとか、そういうものを信じたかったんだとしたら。『ゼロが虚数』という根拠も何も無い話に、向き合ってくれたんだとしたら。
 何も無かったなんてことはないはずだ。祈るようにそう思う。そうでないと恥ずかしいし、やりきれない。
 北欧の森の中で、楽しそうに笑う二人のことを考える。案外アウトドア派の來山は、深水を誘って山にでも登っているだろうか。終ぞ見られなかった彼女のアウトドアルックはあまり想像出来なくて、ボンネットを被った彼女が切り立った山を登る様だけが浮かぶ。
 何となくだけれど、もう二人には会えない気がした。勿論、留学が終われば帰ってくるだろう。けれど、二人は、例えば深水は、きっと藤村に声を掛けない。それを寂しいとは思わなかった。藤村と深水は、ほんの少しの間だけ重なっただけの二人だ。
 あるいは人間なんてそんなものなのかもしれない。ぐるぐる回る円盤の影が、時折重なり共鳴しあうだけなのかもしれない。
 そんな世界で誰かを繋ぎ止めるってことは、恐らく、とっても難しいことなのだ。きっといつか奇跡は廃れて、夏が終わるよりも静かに人間関係は破綻するだろう。
 でも、目の前の塔名壮一は密室からトリックも無しに消えられるわけでもなさそうだし、少なくとも誘われたステージをちゃんと見に来てくれる。この世の全ての隙間にゼロがあるし、何も無いなんてことはない。
 差し当って、次の約束でもするべきだろうか。一夜の過ちでは塔名を繋ぎ止められないかもしれないが、飲みの誘いなら来るかもしれない。あるいは、もっと冴えた約束さえ思いついたなら。
「あのさ、ステージ脇倉庫での話覚えてる?」
「うん?」
「お前が俺の前から最初に消えた時の話」
「覚えてる」
 少しだけ笑ってから、塔名が頷く。
 時間はまだまだある。世界が終わるまでに話すことも、まだいくらでもあるのだ。

 後日、來山はぐみから藤村の元へメールが届いた。
 文面は簡潔だ。曰く『0×1=0 0×2=0 つまり1=2で2=3で0=100』とのことである。どう考えても何かがおかしい。それでも、藤村にはそれの何処がおかしいのかよく分からない。行ったこともない北欧の街で、二人が笑っているような気がした。
                            (了)


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