世界滅亡後探偵

――To every action there is always opposed an equal reaction.
 (どんな行動にも、必ずそれと等しい反対の反応があるものである)
                    アイザック・ニュートン

 世界が無いので真実も無かった。
 世界が滅亡してから四百十一日が経つ。相変わらず復興の兆しは見えない。続原常連は、荒廃した世界を見ながら小さく溜息を吐いた。復興どころか、相変わらず、人間自体が見当たらない。
 正確に言うならば、世界自体は残っている、のかもしれない。ただ、見渡す限りが瓦礫と破壊の跡、あるいは抉られた地表に覆われたその場所は、続原の求める世界では無かった。彼にとっての世界とは、人々が各々の意思に基づいて活動している場所のことであり、文明のことなのだ。
 今ここに文明と呼べるものなんて殆ど無い。ここから人間が再び立ち上がることなんて殆ど不可能だろう。焼けた鉄に水を掛けるようなものだ。その鉄板は広く厚く、続原の歩く道を覆いつくしている。
 ――果たして、この世界において、自分は一体何者であるのだろうか? なんて、今時多感な高校生のようなことにまで思いを巡らせてしまう。画家ならこの破壊の風景をキャンバスに取ったかもしれない。あるいは、作曲家なら、この崩れた壁に五線譜でも書き綴っただろう。けれど、続原はこの世界においてあまりにも無力だった。
 何故なら、彼は滅亡前の世界では、探偵を生業にしていたからだ。
 続原常連は名実ともに名探偵だったが、果たしてその肩書が今も適用されているかは怪しい。何せここでは事件が起こらない。犯人も被害者も誰一人いない。探偵が解くべきミステリーなんて存在しない。そんな状況で、続原は何者でもないのだ。
 強いて言うなら『果たして世界に何が起こったのか』は、続原に残された唯一の謎だろうか。けれど、数多の事件を解決してきた彼にとっても、この謎は難題過ぎた。視界を埋め尽くす滅亡の跡は、確かに大きな証拠であり雄弁な証人である。ただ、彼が相手にするには、滅亡後の世界はあまりに大き過ぎた。
 続原は高台に――この中で一番高く積みあがった瓦礫の上に――上ると、括り付けた赤い旗を確認する。これだけでも、ここに人間が居ることは示せているはずだ。けれど、ここを訪れた人間の気配はない。朝起きるとすぐに確認する習慣がついているが、この旗が生存者に届いた様子は無い。
 落胆しなかったといえば嘘になる。けれど、強風に煽られて旗が駄目になるよりはマシだ。成功などこの一年一度も味わっていない。大丈夫だ、と続原は呟く。高台から見ると、辺り一帯は一層絶望的な地形だった。かつてビルだったものの残骸が死体のように倒れ伏している。割れた地面が瓦礫を飲み込み、連鎖的にヒビが増えていく。
 続原は緩く頭を振ると、急いで下りて『住居』に戻ることにした。絶望的な状況に煽られるだけなんて、探偵のやることじゃない。彼は絶望の中にあって、真実を明らかにしてきた人間なのだ。ここで立ち尽くすわけにはいかなかった。

 続原の住んでいる『住居』は、旗から十分ほどの距離にある巨大なマンホールだった。その上に立って、マンホールに巨大な鍵を差し込むと、ゆっくりと円状の金属が降下を始める。マンホールが降下するのに合わせて、続原の頭上ではゆっくりと保護外蓋が閉じていくのが見えた。
 この大仰なエレベーターと、地下三十メートルという距離、そしてあの忌々しい保護外蓋が、続原の命を守っている。今もそうだ。この核シェルターさえなければ、続原はあの都市や他の人々のように、影も無く消え去っていたことだろう。
 エレベーターが下に着くと、潜水艦の中のような部屋に出る。冷たい金属に覆われたその場所は、変わったビジネスホテルのようにも見える。エレベーターからまっすぐに進むとダイニングとキッチン、そして食料貯蔵庫に繋がっている。右に進むと続原の、そして、向かって左は同居人の私室だ。少しだけ逡巡してから、左に向かう。形式的なノックをしてから中に入ると、案の定同居人はまだベッドの中に居た。小さく舌打ちをしてから、続原は丸まった身体を叩く。
「怪盗、起きろ。もう八時だ」
「ううう……」
 二十代後半の痩せた男が、小さく呻き声を漏らす。眠たげな目がちらりと続原を確認してから、もう一度閉じた。
「おい、こっちを見ただろう。寝るな」
「……起きて何をするっていうの……。だって、外あれじゃん。無理だよ無理無理、滅亡前に頑張れなかったってのに絶対無理」
「黙れ。ここには私とお前しかいないんだぞ。その二人が揃って秩序を失ってどうする。起床時間くらいは守れ」
「そもそもそれ、続原さんが勝手に決めたタイムスケジュールじゃん……」
 言いながらも、男がゆっくりと身体を起こす。肩の辺りまで伸びた長い髪の毛が、ここに閉じ込められた年月の長さを窺わせる。自発的に整えている続原と違って、彼の髪の毛はここに来て以来放置されている。そのことも、何だか気に食わない。社会生活から少しずつ離れているようなそれが、続原には恐ろしい。
「ほら、シャキッとしろ。朝食の時間だ。お前も手伝え、怪盗」
「……盗むものが無くなったのに怪盗って呼ばれるのも妙な気分がするよね」
 怪盗と呼ばれた男が、にんまりと笑う。
「私は別にハツでも構わん」
「いや、俺はそれも納得いって……いや、まあ続原さんにとってはそうなんだろうけど」
「そうだ。私にとってお前はハツだ」
 ぶっきらぼうにそう言って部屋を出ると、ハツも遅れてやって来る気配がした。重い扉を閉めながら、二人でダイニングに向かう。
「外はどう?」
「異常なしだ」
「そっか。何より」
 そう言って、ハツはけらけらと楽しそうに笑った。この状況で笑えるというのも才能なんだろう、と続原は思う。何しろ、異常が無いということは、また何も変わらずここに閉じ込められる一日が始まるということなのだ。
 時計を確認する。まだ、八時十二分を過ぎたところだった。また、殆ど変わらない生活を、正気を保ちながら過ごさなくちゃいけない。
 それがどれだけ難しいことかも理解していた。恐らく、続原はそう長くは保たない。こうして息をしているだけで発狂しそうな状況を想像したこともなかった。
 貯蔵庫から乾パンと蜜柑の缶詰を取り出す。タンパク質が恋しいのか、ハツは塩漬けのハムを見ていたが、結局は続原と同じ缶詰と乾パンを取った。窓の無い部屋のテーブルにそれを並べて、二人で向かい合う。
「いただきます」
 いつでも先にそう言うのはハツの方だった。遅れて続原も手を併せる。缶詰の蜜柑は消費期限が近付いている所為か、以前より一層甘く感じられた。
「続原さん、そろそろお肉に手を出してもいいんじゃないでしょうか」
「駄目だ。肉類はまだ消費期限に余裕がある。それに最後の最後でエネルギーになるのはそれらの食物だ。なら、後の方に回した方がいいだろう」
「後の方、ねえ……」
 その含んだ言い方が気に入らなくて、わざと音を立てて缶を置く。後の方、肉に手を付けるような未来のことは考えたくもなかった。こうして食卓を囲みながら、最後の乾パンを齧る日のことも考えたくない。
「それと、お前は水を使い過ぎじゃないか。いつ雨が降るか分からないんだぞ。それまでは今貯水槽に残っているものを使わなくちゃいけないんだ。分かっているな」
「えー? 本当に? というかそれを言うなら続原さんって毎日シャワー使ってるよね? なのに俺の方が使用量多いの?」
「私を疑っているのか? いいだろう。なら排水溝を塞いで使用量を記録してやる。言っておくが、私はそれでもお前より少ない水で生活している自信があるぞ」
「あーはいはい分かったって。そんなに目くじら立てなくても大丈夫」
 宥めるようなその口調も気に障る。本来だったら、絶対に相容れないような人種だ。彼と暮らすようになってから、続原は自分の沸点の低さに驚かされた。この閉鎖空間が良くないのかもしれないが、とにもかくにもハツの一挙手一投足が気に食わない。まるで憎めば響く音叉のように!
 それでも、続原は彼に感謝しなくてはいけないのかもしれない。何せ、続原が辛うじて正気を保っていられるのは、一緒に暮らしているこの男のお陰でもあるからだ。あるいは、さっさと殺してしまわなければいけないのかもしれない。目の前の男さえいなければ、続原はとっくの昔に正気を手放すことが出来ていただろうからだ。

 世界が滅んだ日、続原は名探偵として『怪盗』を追っているところだった。
 怪盗などと呼べば聞こえはいいものの、一旦存在を腑分けしてしまえば住居侵入罪と窃盗罪に過ぎない。予告状に至っては威力業務妨害だ。厳めしい漢字に直せば、どんなロマンチシズムの魔法も解ける。探偵なんてものを生業にしている人間には言われたくないかもしれないが、怪盗というものの時代錯誤さと言ったら!
 続原は探偵だった。それも優秀な名探偵だった。怪盗との対決なんておぞましい茶番だって、完璧にこなす予定だった。続原の知っている世界では、探偵は怪盗に勝つものだった。クリスマスにチキンが焼かれるべきだし、パフェにはチェリーを載せられるべきだ。それは、当然の様式美だった。
 けれど、そうはならなかった。続原はハツを捕らえられなかった。パフェグラスは倒れた。そして、世界は終わった。
 あの日のことはよく覚えていない。続原は怪盗のことを追っていた。依頼されたからには捕まえなくちゃいけない。それが正しい。
 続原はあくまで最善を尽くした。だからこそ、捕まえる寸前のところまではいったのだ。一番近くに寄った時には既に、足元のマンホールが地下に潜り始めていた。あまりのことに、まともに言葉が出てこなかった。目の前の怪盗は、シェルターへと下りながら、何だか途方に暮れているようだった。数時間を泣き腫らした子供みたいにも見えた。
「お前が怪盗なのか?」
「うん、そうだけど。続原さんは探偵の人だよね。よく聞く」
 間近で見た怪盗の姿は、驚くほど普通の人間だった。怪盗なんてものをやっているよりは、街でギターでも弾いているのが似合いそうな普通の男だった。赤いマントに黒いスーツは怪盗仕様とでも言うのだろうか? それさえ脱いでしまえば、きっともう誰にも彼の職業が分からないだろう。
 二人は、シェルターの中で殆ど初めて顔を合わせた。エレベーターが降り、保護外蓋が閉まる地響きのような音を聞きながら、続原は『ハツ』とまともに対面した。
「……ところで続原さん、その眼鏡って予備ある?」
 さっきまで敵対していた人間の言葉とは思えない。だから、うっかり素直に答えた。
「……あ? いや……」
「いやー、参ったな。それ割れたら大変だね」
「……視力のことを心配しているのなら心配ない。これはただの伊達眼鏡だ」
「あ、そうなんだ。やっぱり探偵って賢そうな方が便利なんだね。怪盗が無駄にマント付けるのと一緒一緒」
 冷たく暗いシェルターの中で、ハツはそう言って笑った。
「とにかく、キャラ付の為にもそれは大事にしておいてよ」
 それでいて、まるで全てを諦めたような顔だった。この時の続原はまだ、世界滅亡のことなんて知らなかった。ハツだってそのはずだ。けれど、その奇妙に凪いだ声は、これからの荒漠を予感させるものだった。続原の伊達眼鏡に触れながら、ハツが言う。
「もう二度と眼鏡なんか手に入らない生活が始まる」

 朝食を終えたら、各々の自由時間だ。ハツは欠伸をしながら部屋に戻って行った。恐らく、これからまた寝直すのだろう。彼は寝るのが好きらしく、隙あらば睡眠を取っていた。自堕落な生活だ、と思うが、案外冴えた暇潰しの方法でもあった。眠っている時は、滅亡なんて関係が無いのだ。
 続原は部屋に戻ると、ここに来る前から持っていたノートを取り出した。半分ほどが埋まったそれを開いて、今日の日付と『異常なし』の言葉を書き入れる。ここ一ヵ月はずっとその調子だ。
 少しだけ考えてから『この世界が何らかの実験として作られたシミュレーションの一部、仮想現実?』と書く。けれど、結局はその文言も黒く塗り潰してしまった。この世界が悪趣味なシミュレーションであったとして、それに対して何の抵抗が出来るだろう?
 記録が終わった後は、運動の時間だ。この状況下でも筋肉が衰えないよう、すっかりルーチンになってしまった筋トレを始める。北極の観測隊がやっているという室内用のトレーニングを全部こなすと、それだけで一時間が消費出来る。終わったら、水の消費量に気を付けながらシャワーを浴びる。
 その後は、耐え難い空白が訪れる。
 世界が滅亡してから何かのバランスが崩れたのか、外は酷く日差しが強い。だが外に出れないほどじゃない。ただ、外に出たところでそこには何も無い。無事に帰って来られるまでの範囲はもう探索し尽くしている。あちらこちらに深いクレバスが刻まれた地面を歩くことで、怪我をしないとも限らない。必然的に部屋の中で過ごすのがベストということになる。
 この部屋には簡易ベッドと机、それにクローゼットしかない。それ以外のものはほぼ無いと言っていいだろう。シェルター全体を見ても、生存最低限のものだけが揃えられている。続原は昔、本を読むのが好きだった。この部屋には活字が無い。
 このシェルターは元々は四人用を想定して作られている。恐らくは一家族を賄う為のものなのだろう。この近くには同じようなシェルターが何戸かあるようなのだが、今のところここ以外のマンホールが上下することはない。鍵を持っている人間は、きっとみんな死んでしまったのだ。
 時間はまだ十一時だった。昼食は十二時半と決めている。それまでの一時間半が途方も無い長さに感じた。諦めて、自分もベッドに寝転んだ。低い天井を見つめながら、かつて在った生活について考える。続原は探偵をやるのが好きだった。名探偵だったのだ。
 伊達眼鏡を外し、ベッド脇のチェストに載せる。視界は殆ど変わらない。
 余談だけれど、続原の眼鏡は一年経った今でも傷一つついていない。風が吹けば瓦礫が飛んでくるこの状況において、それはなかなか奇跡的なことだ。落としそうになっても、失くしそうになっても、すんでのところで眼鏡は守られる。
 それが、続原にとっては心の拠り所だった。探偵らしい風貌を、探偵らしい振る舞いを。それを求めた先に辿りついた続原のセルフプロモーション。それをこの世界で失ってしまったら、一体どうなってしまうのだろう。
 それからは、かつて読んだことのある小説のあらすじを思い出したり、人類の歴史を端から思い出すことで暇を潰した。この生活のお陰で、頭の中で出来る一人遊びには随分熟達した。自分に思い出せることがあることがありがたかった。
 そうして時間を潰していると、アラームが鳴る。十二時半、昼食の時間だ。

 十二時半になると、流石に寝飽きたのかハツが自主的にダイニングにやって来た。昼食は食料の節約の為に、どろどろとした栄養食のスムージーを飲むことになっている。バリウム染みた飲み味のそれを、それでも二人は向かい合って飲むことにしている。別に部屋に持ち帰って飲んでも変わらないはずなのに、この習慣だけは自然と根付いた。
「このどろどろに栄養が入ってるなんて誰が証明出来るんだろ」
「このどろどろに栄養が入っていないことだって誰も証明出来ない」
「出た、そういう論法嫌いだなー」
 そう言って、ハツはけたけたと笑った。
 盗むものを失った怪盗と、解き明かすものを失った探偵は、アイデンティティーの危機という点ではどっこいなはずだった。けれど、スプーンをロケットに見立てて遊んでいるハツにはそんな悲壮さは見られない。続原だけがこの焦燥に焼かれるべきじゃないだろうに。まるで、進化をし損ねた魚のようだった。続原だって地上に上がりたい。けれど、あんな風にはなれない。
 繰り返す日常に適応出来る人間と、適応出来ない人間がいる。ハツは、繰り返しに強かった。続原はそうじゃなかった。
「こんな形で生き残って苦しくないのか」
 ハツがあまりにも普通に生きているものだから、続原はそう尋ねてみたことがある。自分達だけ生き残ったことが辛くはないのか。死にたいと思ったことはないのか。何せ続原は辛かった。人間が同じ状況に置かれているのだから、辛くなければ不公平だとすら思った。
 果たして、ハツは何でもないことのように言う。
「いや、命があるだけでありがたいなっていう。何だかんだで死ぬのは怖いし、こうして死ぬまでの心の準備が出来るようになったっていうのは嬉しいなと思うし」
 本当にそうだろうか?

 昼食を終えれば、またしても自由時間に襲われる。
 続原が呼び止めない限り、ハツはそのまま部屋に戻ってしまう。今日も、特に呼び止める理由が無い。見送って、自分も部屋に戻った。
 シェルターに閉じ込められて半年が経った頃は、二人でトランプなんかもやった。この怪盗相手に遊ぶ気になるなんて思わなかったけれど、同じ場所に閉じ込められたらチュパカブラとも遊べる自信があった。カードを持てるだけの手があれば何でもいい。
 ハツはありとあらゆるゲームが強かった。思いつくものは殆どやったと思う。けれど、そのどれもでハツが勝った。何様のつもりなのか、そういう時にハツは決まって申し訳なさそうな顔をする。それを見てはヒートアップした。続原は負けず嫌いなのだ。それでも、まだ彼には勝てない。
 数時間をトランプにくべた後、続原はふと我に返る。確かにいい暇潰しではあった。ハツに勝ちたい。けれど、自分の人生がそれの為にあったなんて思いたくない。密室でトランプをする為に生まれてきただなんて困る。
 でも、やるしかなかった。ここにはトランプくらいしか無いのだ。
 このシェルターにそれが備え付けられている意味を痛いほど知った。この他愛無いゲームが、人間性を繋ぎ止めてくれる気がしたのだ。
 それにすら、いつしか飽きてしまった。どちらがやらなくなったのかは思い出せない。夏が終わりゆくように、ささやかな暇潰しの波は終わった。

 世界というのは何だろうか。本当は何も滅亡しておらず、これが正しくあるべき姿なんじゃないだろうか。そんなことも考えた。

 午後六時に差し掛った辺りで、続原はもう一度外に出た。保護外蓋がゆっくりと開き、真っ赤な光が雪崩れ込んでくる。
 世界が滅んでから、夕焼けは一層暴力的になった。遮るものが何も無く、光量もあまりにキツいので、目を開けることすらままならない。この赤さは世界滅亡と何か関係があるのだろうか。結局答えは出ない。この夕焼けが一層勢力を伸ばし、いつの日かシェルターをも飲み込んでしまうかもしれない。このままいけば、明日もきっと晴れるだろう。
 日が沈むと、この辺りは一気に暗くなる。文明的な明かりが無い暗闇は、想像よりも数段昏い。その分、月だけは以前よりもずっと大きかった。世界が終わっても、月には関係が無いのだ。

 夕飯は、ハツの強い要望でシチューになった。シチューは二十五年保存がきくタイプの缶詰だったので、少しだけ抵抗があった。でも、二十五年後には、きっと二人ともが死んでいる。
 鍋にキューブ状の具材を開け、水を入れる。IHクッキングヒーターに掛けて十分ほど加熱すると、そこには久方ぶりのチキンシチューが現れていた。保存食の技術が進化しているというのは知っていたものの、ジャガイモや鶏肉がこの薄暗い地下の中で料理としての形を保っていることが感動的だと思った。
「ほら、たまにはこういうのもいいでしょ。やったー、久しぶりのあったかい食べ物嬉しいな」
「こういう加熱が必要なものはなるべく後に回すべきだ。それに、電気だって――あ、」
 言うより先に、部屋の電気が落ちる。慣れた手つきで懐中電灯を取り出しながら、ハツが溜息を吐いた。
「また停電? あ、続原さん待って。鍋は俺が持つから。暗い中で動いたら眼鏡落とすよ」
「落とさない」
「なんか嫌な予感するからさ」
 懐中電灯を続原に渡しつつ、シチューの鍋をテーブルに運ぶ。暗闇の中だというのに、ハツの足取りはしっかりしていた。
「最近よく電源落ちるよね。もうソーラーシステム自体が駄目になってんのかな。それとも俺の設置の仕方の問題なのかな?」
「いや、私が設定を低くした。電気の節約になるだろ」
「え、本当に? やめようよ、不便だし危ないよ」
「備えられる時に備えておかないでどうする」
 懐中電灯をプラスチックのボウルの中に入れて、簡易なランプを作る。白い半球に照らされたテーブルは、おしまいを強く感じさせて何だか寂しい。鍋のシチューを二皿に取り分けて、固いクラッカーを並べた。これでも、大分上等な類だ。
「ブレーカー上げに行かないの?」
「行かない。今日はこのままでもいいだろう」
「暗闇の中でご飯食べると鼻とかにつかない?」
「つかない。どんな身体感覚をしているんだ」
 いただきます、とハツが言うのに合わせて、続原も同じように呟いた。
 缶詰にしては、チキンシチューはとても美味しかった。ささくれ立った心を癒すように、舌から喉へ温かさが伝わる。
「ところで、続原さんは今日も外へ探検に行ったの?」
 暗闇の中で、ハツが尋ねる。
「そうだ」
「飽きないね。何か分かった?」
「いいや」
「めげないね。どうして?」
「私達は、何故こんな目に遭ったのか分からないままここに閉じ込められているんだ。どうして世界が滅んだのかが明らかになれば、何かしら出来ることがあるかもしれないだろう。私には真実を明らかにする義務がある」
「探偵を名乗っているから?」
「それも当然ながらある」
 言うなれば、今回の一件は人類史上最悪の殺人事件だった。一人が死ぬだけでも大ごとだというのに、今回の被害者はそれこそ計り知れない。どんな事件だって犯人を明らかにしてきた続原の最後の大仕事としては、相応しい凶悪さだった。
「だが一番は……人間だからだ。かつてこの世界で文明を築いていた者の責務だ」
 このまま何も分からないまま続原とハツが死んでしまえば、この星に起こったことは終ぞ明らかにならないままだ。途方も無い奇跡を超えて、どうにか繁栄を掴み取ってきたのに、結末がこれならどうして人類は繁栄したのだろう。洞窟に絵を描き、音楽を愛して言葉を生み出したのに、これではあんまりにも皮肉だった。
 続原の言葉を聞いたハツは、何とも言えない顔をしていた。勿論、馬鹿にしているような様子は無い。けれど、その目の奥にあるものがあんまりにも悲しそうなので驚く。そんな目で見られても困る。
「俺は馬鹿だし、世界滅亡のこともよくわかんないし、多分このまま死ぬんだろうなと思うんだけど……続原さんのことは凄いと思う。うん、普通に凄いよ」
「……なんなんだ、その感想は」
「だからちょっと怖い」
 わざわざスプーンを置いてから、ハツが言う。
「続原さん、その内死んじゃうんじゃないかなって」
「そうだな。あまり長くはもたないだろう。その内、きっと自棄を起こして死んでしまう」
 続原はあっさりとそう答えた。
「あれ、意外だ。否定するかと思ったのに。ていうかほらー、思い詰めてるからだよ、それ」
「答えが明らかなものに対して何が言えるというんだ。……それに、私だけじゃない。いずれはお前だって死ぬ。世界を復興するにしても、二人というのはあまりに無力だ」
「確かにね。うん、食料だっていずれ無くなるし、シェルターだっていつまで保つか分からないし」
「そもそも、人間はこの極限状況で会話することなく自我を保っていられるのか? 私が死んだら、お前はとうとう一人きりだぞ」
「まあ、俺は一人ぼっちに強くはあるんだけどね。――それはそれとして、続原さんはこの世界に大切だと思うよ」
 確かに、目の前の男はそういったものに強そうではあった。孤独。単調。繰り返し。そういったものに対して、ハツは恐ろしく自由であるように見えた。そんなものに足を取られるのは続原だけだろうに。ややあって、ハツが言う。
「だから、俺が何とかしてあげましょう」
「……何とか、って何だ。お前がこの世界を元通りにしてくれるとでもいうのか。おめでたい話だな。出来るものならしてみろ。そうしたら、私はお前を見逃してやろう」
「いや、そっちじゃなくて。だって、世界は終わっちゃったんだし。でも、こんな世界でも続原さんって探偵なんだよね。そして、俺だってまだキッチュでキュートな怪盗だ。この世界の無謀で無辜な生き残り。だったら、俺達だけはやり直せる」
 言い聞かせるような言葉だった。滅亡した世界でのたった二人の生き残りが掲げるには力強い言葉だった。
「何をするつもりだ」
「さすれば俺は続原さんから奪ってみせましょう。俺が盗んだものが何か当てられたら、続原さんは今でも探偵だ。もし、何か分からなくても、俺が怪盗に戻れる」
 ね、いい提案でしょう、とハツが笑う。
「……奪う? 何を奪うって言うんだ」
「それは続原さんが推理して」
「……生活必需品を奪うと、シェルター内に問題が発生するんじゃないか? ここにあるものは大体がその類だろう」
「いや、流石にそんなものは盗まないよ。それに、いくらなんでも続原さんにすぐバレそうだし」
「それ以外に盗めるものなんかここに無いぞ。お前もよく分かっているだろう、馬鹿め」
「いいや、俺は怪盗だ。俺が盗むと言ったなら、必ず盗むんだよ、探偵さん。それが世界との約束だから」
 そう言ってハツは颯爽とウインクを決めてみせた。怪盗によく似合う、過度に過剰なパフォーマンスだ。そもそも、約束を果たすべき世界なんて当に滅んでいる。目の前にいるオーディエンスだって続原一人だ。
 それなのに、目の前の怪盗はまるで世界の期待を背負っているような顔をしている。もう彼を囃し立てる人間なんて誰もいない。予告状を撒いて世間の注目を浴びることももう出来ない。怪盗としてのハツはもう死んでいる。その上でまだ怪盗をやろうというのなら、続原がやることは一つしかない。
「……いいだろう。ならば盗んでみせろ。挑戦は受けてやる。その謎、この続原常連が託されよう」
 本当に久しぶりに口にした口上だった。かつて名探偵だった頃に、オーディエンスの前で宣言した言葉だ。解決したって何にもならないような『事件』だというのに、今ではこれが世界に残る唯一の謎だった。奮い立つような熱が湧き上がってくる。世界が滅ぶ前と同じ構図で、続原は怪盗に向き合っていた。
「……いいね。続原さんがそうして奮い立ってくれると、こっちも張りが出るよ」
「お前がどんなものを盗むか見物だな。探偵を生業にしていた者の矜持、見せてやろう」
 そこでふと、とあることに気が付いた。他愛の無い言葉遊びではあるが、このシェルター内の限られた資源、という点で無視は出来ないものだ。ややあって、続原が口を開く。
「……私はこういうパターンに慣れていないんだが、私のことを殺して『命を奪った』ということにはしないんだろうな?」
「笑えないんだけど」
 殺すという言葉が苦手なのか、ハツは困ったように呟く。
「怪盗は命以外のものを奪うんだ。そういう、どうにも夢のある存在じゃなきゃ」
 一から百までドリーミーな定義だった。こういうところが、やっぱり続原とは相容れない。けれど、さっきの質問をしたことだけは、少し後悔した。怪盗であるハツに尋ねることじゃない。傷つけたのかもしれない、と遅れて思う。
「だから、楽しみにしてて」
「……そうだな」
 薄暗がりの中で、続原が頷く。
「でもさ、問題があって。ここじゃ予告状作れないんだよね。ちょっとダルくなってきた。やっぱ無しでいい?」
「おい、ふざけるな」
 結局、続原の大切なノートを一ページ切ってくれてやる羽目になった。よったいな文字で『明日、あなたの大切なものを頂きに参ります』と書いては、笑顔で渡してくる。署名が無いのは、彼がシェルターに入る前の怪盗ではないからだという。その妙な線引きがおかしかったが、彼にも色々あるらしい。
 探偵やら怪盗やらをやる人間がまともなルールで動いているはずがないのだ。

 次の日も変わらないアラームで起きた。単調な音で目覚める繰り返しの日々。けれど、今日は違う。今日の続原常連は、怪盗を相手に取る名探偵だった。正直に言おう。続原は高揚していた。目が醒めて死にたくならないなんて久しぶりだ。
 なんだか今朝は身体の調子まで良いような気がする。久しぶりに自分を取り戻したからだろうか。あの怪盗の妙な提案一つで精神が安定したとでもいうのだろうか? 心持一つで左右されてしまう自分が本当に悔しい。それでも『生きている』と感じたのは久しぶりだった。
 部屋の中を見回して、数少ない持ち物を点検する。とはいえ、着替えの類も、予備の毛布も、記録用のノートも筆記用具も全て揃っている。ハツは外から物を拾ってきて溜め込む癖があるが、続原にはそんな趣味は無い。部屋の備品は何も盗まれていない。
「……まだ盗んでいないのか? いや、タイムリミットが日付の変わる前だということは、もう動き出さないとまずいはずだ」
 そう独り言ちながら、枕元の眼鏡に手を伸ばす。トレードマークのそれも、至って変化は無い。別のものにすり替えられているということもないだろう。特注品の眼鏡の弦には「TSUDUKIBARA」と刻印されている。世界が滅ぶ前ならいざしらず、今の状況でこれを複製することは難しいだろう。なら、盗まれたのは眼鏡じゃない。
 ダイニングに向かう。表向き変わったところは何処も無かった。朝に弱いハツは、まだ眠っているらしい。勝負の日だというのに悠長なものだ。もう盗んだのか、それともこれから盗むのか。続原が起きてしまった以上、これからは彼の監視下の中で盗むことになる。そんなリスクを怪盗が犯すだろうか?
 色々な可能性を考えるのは楽しかった。怪盗がどんなことを考えているかを想像するのはわくわくする。ともあれ、彼が起きてこない間はこちらも出来ることが限られてくる。まずは、日課の方を先に済ませておくことにした。
 エレベーターに乗り、レバーを引くと、馴染みのマンホールがぐんぐんと上昇していく。ゆっくりと開く保護外蓋の隙間から、抜けるような青空が見えた。シェルターの中からは外を見ることが出来ないので、この瞬間はいつでもホッとする。隙間から雨が雪崩込んでくることも少なくないからだ。
 続原の気分とは裏腹に、外は相変わらず貧相でつまらない景色が広がっていた。溜息を吐きながら、旗の方へ向かう。
 日を追うごとに、土地が腐っていくのが分かる。手つかずの自然ならまだ良かったのだろう。けれど、一度切り開かれた場所が更地に戻るというのは本当にどうしようもないことなのだ。自然でも文明でもなくなってしまった場所は、ゆっくりと腐り落ちていくしかない。
 地平線まで続く破壊の跡。見渡す限りの人工的な荒野。
 続原はその先を見たことが無い。推理にもならない予測だが、きっとその先も同じような光景が広がっていることだろう。滅亡が局地的に起きたとは思えない。いくら経っても復興の見込みが無いところからも、この被害が大規模かつ致命的なものであったことは察せられる。
 だが、この目の届かないところに人間が居る可能性は否定出来ない。空に光る暗黒星も、まだ見ぬ先の黄金郷も、滅んだ世界で言葉を交わす誰かの存在も、否定することは誰にも出来ない。ディーラーまで死んだこの世界で、旅に出ることは決して無謀な賭けなんかじゃなかった。
 ただし、『まともな交通手段があったら』の話だが。
 交通網は当然のことながら死んでいる。それに、風の吹き荒ぶ地上には、車の一台も見当たらなかった。鉄屑を車と呼んでやる義理は無い! 相変わらず徹底的な破壊だ。地上にあるものは揃って薙ぎ払われてしまい、後には感傷も残らなかった。
 とはいえ、徒歩で旅をするのは無謀だった。旅情溢れる自殺だ。生存を第一に考えるなら、シェルターから離れるべきじゃない。シェルターから離れた時点で、続原は安全な寝床と浄水機能、当面の食糧を失う。その状態で生きられる日数なんてたかが知れている。誰とも巡り会わずに死ぬのがオチだろう。生存者が居たとして、同じような状況に陥っているが故にそこを離れられないのかもしれない。続原は大掛かりな生命維持装置に繋がれているも同然なのだ。
 陰鬱な気分に陥り掛けた時、続原の目がとあるものを捉えた。
「は……?」
 思わず声が出る。

 件の旗が、倒されていた。

 いや、倒されていたというのは正確じゃないかもしれない。旗は、それを括り付けていた支柱の根元からぽっきりと折られていたのだ。異常ありだ。ここ一年で初めての異常だ。それは即ち、続原以外の人間がこの旗に触れたということだ。
 ――自分達以外の生存者が居る。
 その可能性に思い至った瞬間、柄にも無く高揚した。一年の間何の音沙汰も無かった狭い世界が、突然開けたかのようだった。
 咄嗟に辺りを見回す。そして、あらん限りの声で叫んだ。誰かいますか。返事をください。ここに生きている人間が居ます!
 背の高い建物が無いお陰で、声は簡単に散って行った。メガホンか何かがあればよかったのかもしれない。少し待ってみても返事は無かった。懸命に耳をこらしては、もう一度叫ぶ。
「駄目か……クソ、いつ来たんだ……誰が……」
 せめて旗の近くに手がかりでも残していってくれなかっただろうか。必死の思いで探してみるものの、目立った痕跡は無かった。入れ違うにしても、メッセージの一つでも残していてくれたら。
「でも、まだだ……生きていることを示していれば、希望はある。私達はまだ負けていない、負けていないぞ……」
 そう言いながら、続原はもう一度旗を立て直した。旗の一部を破って無理矢理結び付けたお陰で、前よりもずっと不格好になったが、構わなかった。

 シェルターに戻ってからも、続原は旗のことが頭から離れなかった。あれを折ったのが誰なのか。生存者がいるのか。冷静でいようと思うほどに、頭がそれで埋め尽くされていく。
 意外なことに、ハツはもう既に食卓に着いていた。普段より元気に見える。あるいは、続原が日課を済ませに行っている隙に何かを盗んだのかもしれない。だが、相変わらずダイニングには目立った変化が見られなかった。
「続原さん、この蜜柑のやつもうそろそろ駄目かも」
「よし、なら全部食べてしまうか」
「え? 本当に? 絶対駄目って言うと思ったのに。ねえ、こっちのアップルパイも開けていい?」
「それは駄目だ」
「あ、そこは駄目なんだね」
 渋々といった様子で、ハツが蜜柑と桃の缶詰を二つずつ開ける。何だか、普段よりずっと空腹だった。普段は生活のリズムを狂わせないように義務的に取っていた食事だ。こうして人間的に食べるのは本当に久しぶりだった。
「続原さん、なんか元気?」
「いや、実は――」
 そう嬉々として話そうとして、結局止めた。
 あの旗を折ることで『続原の希望を奪う』を暗に示しているのかもしれない。ハツがそういうことをするタイプには見えなかったが、あの旗は続原の数少ない私物だ。狙い目としては悪くない。なおかつ、旗自体を狙わないことで、盗んだものが何かについてすぐには思い至らせない。なんて狡猾な奴だろうか。余りのことに怒りを禁じえなかった。
 だとすれば、ここで旗のことを持ち出してはしゃぐのは愚の骨頂だ。他に生存者がいる可能性があるかもしれないが、同時に目の前の男が嫌がらせで旗を折った可能性も捨てきれない。あるいは、さっきの仮説通り、旗を折ることで続原の何かを盗もうとしたのかもしれない。ここでハイタッチをしたところで、裏では嘲笑われているのかもしれないのだ。考えれば考えるほどさっきの高揚は散り、ハツへの怒りが沸いてきた。赦さん。絶対に赦さん。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。そもそも、お前はどうなんだ? 私が外に出ている間に、無事に世界の約束とやらは果たしたんだろうな」
「いや、そこはご心配なく。俺は怪盗だから、その辺りはばっちりですよ」
「……無くなっていたものは無かった」
「部屋に戻ったらもう一度確認するといいかもね。そこから先は探偵の領分だよ」
 そう言って、ハツは美味しそうに缶詰の桃を食べていた。朝が弱いこの男も、フルーツくらいは楽しそうに食べられるようになってきたのだろうか。あるいは、いよいよ賞味期限が迫っていることに焦りを覚えてきたのだろうか。……いずれにせよ、節約して分け合っている食料だって無限ではない。四人を賄える食料が一年分。二人で分ければ二年分。切り詰めれば三年に化けるだろうか。けれど、どれだけ節約しても、消費期限の問題がある。医者なんかが機能していないこの世界で、身体を壊すことは致命的だった。
 この生活は必ず負ける戦争のようなものなのだ。勝てる見込みはまるで無く、消耗を強いられていくだけの生活。
 そんな中で、新しく何かを始めるというのも狂っている。解き明かしたって何の意味も無い謎に取り組むなんて馬鹿げている。
 それでも、続原は丹念に部屋の中を検めた。やはり無くなっているものは無かった。
 ハツの盗みそうなものについて考える。怪盗が盗むに足る価値のあるもの。そんなものが、シェルター内に、あるいはこの世界にあるだろうか?

 ところで、続原はハツのことを良く知らない。そもそも、彼の本名すら知らない。

 『ハツ』というのは、警察関係者が呼んでいた号のようなものだ。それまでの続原は、ハツのことを怪盗としか認識していなかった。依頼を受けて捕まえようとするまで、ハツの名前すら知らなかった。続原の専門は館モノや密室やダイイングメッセージであって、ドラマチックな大捕り物なんかじゃない。
 探偵と怪盗はフィクションの中ではとても相性の良い組み合わせだけれど、実際に組み合わされることなんて殆ど無かった。どうしてあの時、怪盗ハツを捕まえる依頼を受けたのだろう。いつまで経っても泥棒一人捕まえられない警察を、心の中で下に見ていたからだろうか。助けてやろうという慈愛に満ちた驕り! 
 だから、続原は地獄に落とされたのかもしれない。世界から弾き出されて自分だけ地下に潜る羽目になったのかもしれない。
 あの日、ハツが狙っていたのはとある映画の衣装だった。ハツのターゲットになるものの価値はまちまちだったが、大抵が盗むのに難儀するものだった。古い村に伝わる仮面だとか、あるいは数千年に一度しか取れないような天然ものの巨大サファイアだとか。
 彼らはいつでも予告状を送り付け、その通りにそれらを奪った。まるで人々が抱いている怪盗像に寄り添うように、派手なパフォーマンスで不可能を可能にしてみせた。
 続原が気に食わないのは、それらの宝の殆どが、盗まれた後丁重に返却されるところだった。返すつもりなら何故盗むのだろう? 決まっている。みんなに愛されるキッチュでキュートな怪盗は、そういうものだからだ。盗むこと自体が目的なのだ。それで世間が夢を見られるなら、それが彼らの報酬なのだろう。その部分が癇に障った。
 盗もうとしていた件の衣装は、かつてアルフレッド・ヒッチコックがさる映画にカメオ出演した際に着ていたものだという。映画祭でのリバイバル上映に際して、特別に展示されていたものだった。各界の大物が訪れるイベントだった為、それなりに警備も厳重だった。そこがお気に召したのだろう。
 ハツはいつもの通りに予告状を出し、警察を挑発し、挑発された警察は、高名な名探偵・続原常連に依頼をし、続原は万全の体制で警備に当たった。ハツが侵入してくる経路をいくつも想定し、考えられる限り全ての対策を施した。
 けれど、続原はハツを捕まえることが出来なかった。
 直前になってハツがターゲットの変更を申し出た。新たに狙うのは、お台場にある新興企業のものだと宣言し、映画祭をほっぽり出したのだ。突然の変更に食らいついたのは続原だけだった。観覧車が見えたことは覚えている。潮の匂いがしたことも覚えている。突然計画を変更したハツに違和感を覚えたことも覚えている。
 けれど、そこから先は覚えていない。
 シーンが切れてしまった映画フィルムのように、そこからの記憶は極めて断続的だ。繋いでみようとしても、上手く繋がらない。痛み。誘導。暗い部屋。怪盗。シェルター。マンホール。エレベーター。
 気が付いた時には世界が終わっていた。世界が終わったので真実も無かった。名探偵・続原常連はあそこで死んだ。そうして残ったのは、残ったのは…………何だろう。

「無くなっているものは無かった」
 昼食の後、続原は静かにそう呟いた。朝食の後から今に至るまで、続原は丹念に部屋の中を点検した。無いとは分かっていても、食料貯蔵庫まで調べまわった。だが、無くなっているものは一つも無かった。その間、ハツはいつものように部屋で微睡んでいるばかりで、一歩も外に出てこなかった。
「なので、お前が盗んだものは簡単に露見するものじゃないということだ。面白くなってきたな、ハツ」
「続原さんのそういう真面目なところ、割と好きだよ」
 遠隔で盗めるような仕掛けをしていない限り、もう既に犯行は終わっているということだろう。
 ともあれ、中に手がかりが無いということは、やはり鍵はあの旗にあるだろう。もしかすると、あの旗を折った人間が再び訪れてくれているかもしれない。行くだけの価値はあった。
 けれど、レバーを引こうとした続原の腕を、何故かハツが止めた。
「続原さん、折角だし久しぶりにトランプしようよ」
 言葉通り、彼の手にはトランプが握られている。ハツがそんな提案をしてくるのは本当に久しぶりだった。一時期は狂ったようにやっていたものなのに、今ではもう懐かしい。
「……何が『折角だし』なんだ」
「あ、もし負けるのが嫌なら、別に受けなくてもいいよ。でも、今日は俺との勝負の日でしょ? それとも、推理に集中したい?」
 きっと、ハツはハツで退屈していたのだろう。今日はとことんエンターテインメントの日に当てたいに違いない。こんなもの、受けない方がいいに決まっている。
 それでも、困ったことに、おぞましいことに、続原常連はプライドが高く、負けず嫌いだった。およそ探偵と相性の良い悪癖を、彼もまた持ち合わせているのだ。
「……分かった。その勝負、続原常連が託されよう」
 トランプを奪い取りながら、続原はそう宣言した。それを聞いたハツが、見るからに嬉しそうな顔をする。そんな顔をしないで欲しい。そんな顔をされると、いよいよここが何処なのか分からなくなってしまう。
「何する?」
「ババ抜きだ」
 有無を言わせずそう告げる。ハツは文句も言わなかった。ジョーカーを一枚抜き出して、カードケースの中に戻す。シャッシャッという小気味のいいシャッフル音が辺りに響いた。
「お前は何で怪盗になろうとしたんだ」
 手札を配りながら、そう尋ねる。世の中に怪盗というものはそう多くない。現代においては刀鍛冶よりも希少な伝統芸能だ。ややあって、ハツが答える。
「怪盗って世の中にあんまりいないじゃない。でも俺は、怪盗っていう時代錯誤でロマン溢れる言葉が大好きなんだ。いないんだったら俺がなろうって、本当にそれだけ。自分が見たかった夢に自分がなったんだ。向いてる気がしたしね」
 怪盗というものをまるでパティシエやアイドルかのように語る。
「それこそ、続原さんは何で探偵に? 小さい頃から青い鳥文庫とか読んでるタイプだった? それで、そのまま講談社ノベルスにスライドして――」
「それもお前と似たような理由だ」
「俺と?」
「私には向いていたんだ。真実を明らかにする、というのが」
 自分がどんな子供だったかは一口には言い難い。強いて言うなら普通の子供だった。成績は悪くなかったし本は好きだった。けれど、続原常連が名探偵になるだなんて誰も予想出来なかっただろう。高校生の頃には、教室内で起こった盗難事件を解決した。修学旅行では京都での連続殺人事件を解決した。初めて密室に出会ったのが卒業式だ。何かの試験のように誂えられたそれらを、続原は解決し続けた。
「好きとか嫌いとかないの?」
「嫌いではない。だが、相手は人間なんだ。医者が手術を楽しむのは勝手だと思うが、私自身は、ここに来るまでそんなことを考えたことも無かった」
 ここにやってきたことで、もしかしたらそれを楽しんでいたのかもしれないと思うようにもなった。けれど、事件が起きなくなった世界でそんなことを自覚したところで仕方がない。続原は過去の自分を語る。
「私は名探偵として数多の事件を解決してきた。そこに矜持がある。責任もある。他人の事情に土足で踏み入り、解決の名目で暴き立てることについて、私は何の申し開きもしない。探偵としての続原常連に、私は誇りを持っている」
「……なるほど」
「勿論、事件を解決することに躍起になっている探偵も居るし、絵画のように事件を愛する探偵も居るだろう。ちゃんと事件を解決出来る有能な探偵であるならば、私がそれらを否定しようとは思わない。ただ、私は自分へのけじめとして、事件にそうして向き合う探偵でありたい」
 それを聞いたハツは、ちょっとだけ傷ついたような顔をした。トランプの縁を指で触りながら、まるで泣きそうな顔をしている。思わず「どうした」なんて言葉が出た。
「いや、続原さんって、本当にこの生活に向いていないタイプの人なんだなーって思っただけ。だって、そんな風に生きてた人だったら、ねえ。ほら、仕事一筋に生きてきた人が定年後に異常に老け込むのと同じ理屈ってーか」
「なんだ。馬鹿にしているのか」
「そんなことないって。続原さんは世界に求められていた人間だったんだなってことを噛みしめてる。そりゃあ世界が無くなったら辛いだろうね」
 気づけば、続原の手札はジョーカーとダイヤの七の二枚という破滅的なラインナップになっていた。ここまでつつがなくやってきたはずのゲームで、こんなに追い詰められているのが信じられない。さりげなくその二枚をシャッフルしながら、ハツの方を見る。二分の一の確率で負けてしまう。
「続原さんさ、」
「なんだ」
「無くなってるのがトランプの中の一枚だと思ったんじゃない? ババ抜きを提案してきたのは効率的だよね」
 ハツはそう言って、するりとダイヤの七を抜き取った。二分の一の確率だ。続原の手の中に、ジョーカーが取り残される。ポーカーフェイスには自信があった。けれど、ハツは迷うことなく正解を引く。
「全部ペアになったね」
「そのようだな」
 ジョーカーを箱に戻しながら溜息を吐いた。トランプが盗まれていないことは確認していた。だが、その中身までは確認していない。この中の一枚を盗むというのは、割合現実的なラインではあったのだ。
 でも、それが怪盗的に面白いかと言われればそうじゃない。
「映画の衣装を盗もうと思ったのはどうしてだ」
 そもそも、あれさえ予定通りに盗んでいれば、こうしてシェルターに入ることも無かったのだ。映画の衣装と一緒に世界規模の心中が出来たはずだろう。土壇場で、ハツはあの衣装を諦めた。そして、お台場に向かった。この、シェルターがある場所にだ。
「確かに希少なものだ。だが、衣装そのものに価値があるわけじゃないだろう。どうせ返すから、何でもよかったということなのか」
「あの映画、俺が予告状出した途端にリバイバル上映始まったでしょ」
 続原は無言で頷いた。犯罪行為に便乗した形に見えなくもないのだが、ハツの予告状が出ればその映画がどんなものか、くらいの興味は沸く。あの映画は続原も好きな映画の一つだった。名作がリバイバルされるきっかけになったことは否定出来ない。
「そうなるだろうなって思ったし、それが嬉しかった」
「それが価値か? なら、盗めなくても構わなかったのか? だからターゲットを変えたのか」
 ハツははっきりとは答えなかった。その代わり「俺が勝ったんだからもう一戦付き合ってよ」と言う。そういう約束だ。
 結局二人は、日が暮れるまでトランプに興じた。こんなに二人で過ごしたのは久しぶりだった。

 あの日のハツが新たなターゲットとして掲げた新興企業は、様々な事業を担っている複合研究施設といったもので、主に紫外線LEDによるセンシング技術や、熱や酸に強く、長期の耐久性に優れるジオポリマーコンクリートなどの開発支援を行っていた。何度か、新聞においてその名前や技術を見たことがあった。
 その企業が五十年以内を目途に市販すると語っていたのが、個人用の少人数核シェルターだった。マンホール上の出入り口と、特殊保護外蓋の二重によって保護されたそれは、好事家の興味を擽るのに足る出来だった。限られた土地を最大活用する為に、従来のものの一・六倍の深さに作られた居住区。
 勿論、市販には至っていない。だが、レセプションの為に誂えられた何基かのシェルターの鍵は、ハツの手の中にあった。映画の衣装を盗むはずだった怪盗は、代わりにシェルターの鍵を持っていた。
「運が良かったんだ」
 奇妙なマンホール――核シェルターに続くエレベーターの上に立ちながら、ハツはそう言って笑っていた。嘘だ、その言葉だって定かじゃない。どうしてこんなにも記憶が曖昧なのか分からない。思い出す度に、少しずつ記憶が変化していく。あの時ハツは泣いていたかもしれない。運が良かったのか悪かったのかも定かじゃない。
 保護外蓋の隙間から、眩い光が線のように降り注いでくるのを覚えている。あの時に戻れたら、続原は一体何をしただろう。

 その時、不意に続原は、ハツが何を盗んだのかを悟った。こんな状況だからこそ、盗めるものだった。

「話がある」
 パンだけの夕食を済ませ、考えを整理した後、今度は続原がハツを呼び出した。こうして食事の時間を区切りにするしかないのが悲しい。本当はもっと複雑であってもいいだろう人間の生活が、単純に腑分けされていく恐ろしさ。ハツはいつもの通り部屋に籠っていたが、続腹に促されて素直にダイニングへと出てきた。
「お前が盗んだものが分かった」
 ハツは少しだけ驚いたような顔をした。そして、いつもの悪戯っぽい顔に戻ると、首を傾げる。
「もう解決編でいいの? まだ日付変わるまで時間あるのに」
 時刻はまだ九時を過ぎたところだった。丸々三時間のゆとりは中々の好成績だろう。続原だってそう思う。
「いいや、私には無いんだ。そうだろう」
 含みを持った言い方で、続原はそう言った。その言葉を聞いて、ハツも意図に気が付いたのだろう。狭い食卓に着いて、じっと続原の方を見る。それを受けて、如何ともしがたい懐かしさに襲われた。かつて続原と共にあり続けたものが、そこには確かにあった。続原も再びテーブルに着く。
「探偵は皆を集めて『さて』と言い――とはいえ、ここにはお前しかいないけどな」
「不足?」
「物理的に不足だろう。容疑者は多ければ多いほど面白い……いや、数万人単位だとアレだな。四人から七人までが面白いからな」
 今ではその人数ですら贅沢だ。崩れ去った都市の深みと、自分の抱いた期待の浅ましさを同時に感じた。ややあって、続原は言う。
「旗を倒したのはお前だな、ハツ」
「いや、そうだけど……うん、そうだよ。ごめんね。続原さんの大切な旗だったのに」
「そこで謝るなんてらしくないじゃないか。何せ、お前は怪盗なんだ。怪盗は何かを盗む時に手段を選ばないものだろう。お前が『目的のもの』を盗む為には、あの旗がどうしても邪魔だったんだ」
 旗が折れていた時に、無邪気に期待した自分が恥ずかしい。本来なら『どうして旗が折られていたか』を一番に考えるべきなのに。一年近く続けられた祈りは、変化にとっても弱いのだ。自嘲するように、続原が言う。
「お前は私のことを随分高く買っていたようだな。実際、そこまでする必要なんかなかった。私は大分鈍ってしまっている。相変わらず無事な旗を見ても、ルーチンを確認するだけで何も感じなかっただろう」
「いいや。続原さんは探偵だから。ていうか、折ったのに気づいたんだから、折らない状態で気づかないわけないよ」
「……どうだろうな、今となっては分からない」
「それじゃあ続原さん。何で俺が旗を折ったんだと思う?」
「旗の支柱から下りる影が邪魔だったんだろう」
 少しだけ息を吐いて、そのまま続けた。
「お前が奪ったのは私の『時間』だな? あのシェルターでこの私が所有しているもの、私が拠り所にしているもの。なかなか洒落た真似をするじゃないか。流石世間から持て囃されただけのことはある」
 そして、恐らくは価値のあるものでもある。このシェルターで、怪盗が盗むに足ると思ったものでもある。
「お前がやったことはシンプルだ。シェルター内の時計を二時間ほど早めて、実時間よりも二時間遅く時間が流れるようにした。俺は今日も七時に目覚めたつもりだったが、実際に起床したのは九時だった」
 この閉鎖的な空間で、彼の体内時計はとっくに狂っていたのだ、と続原は思う。アラーム一つを弄られたことで、続原の起床時間はあっさりとズレた。
 続原は元々ロングスリーパーだった。欲を言えば十時間くらいは眠りたい体質だった。けれど、シェルターに入った後は、一緒に暮らしているハツに合わせる意味でも、警戒を解かない意味でも、睡眠時間を七時間に設定していた。けれど今日は二時間ズレている。合計九時間の睡眠を取った続原は、いつもより調子が良かったのだ。
「ここの時計はダイニングにあるものと私の部屋にあるもの、それに予備として倉庫にあるものとお前の部屋にあるものの五つだ。そう手間のかかる作業でも無い。ここを出れば外は廃墟の荒野だ。時間を示すものなんて何も無い楽な仕事だっただろう。だが、お前は気づいてしまったんだ。私が毎朝目覚める度にあの旗を確認するってことに。その旗の支柱が『日時計の役割を果たす』んじゃないかということに」
「まあ、そのくらい思うでしょ。だって探偵はどんな手掛かりも見逃さないんだから。あの支柱が立ってたら、地上に伸びる影の位置がズレていることに気づいてしまっていたかもしれない。そうしたら、おのずと時計を弄ったことがバレてしまう」
 世界が滅んだけれど、太陽は終わらなかった。世界滅亡の一因として想定されていた太陽の死は、少なくともまだ訪れていない。地球の外側では、滅亡後も変わらず同じ時間が流れているのだ。太陽はゆっくりと回り、時間を正確に伝えてくる。
 実際の続原がその違和感に気が付いたかは分からない。けれど、想定してしまったら対策を講じないわけにはいかなかった。何せ、彼は怪盗なのだ。時間を奪うと決めたなら、徹底的にやらなければ。
 旗を折った後は、何食わぬ顔をしてシェルターに戻ってきたのだろう。いつもよりもずっと早くに起きていたから、ハツの寝起きも普段より良いように見えたのだ。桃を齧る彼の姿を思い出す。こう考えてみると単純な話だった。
「トランプもそういうことだったんだろう」
「……まあ、そういうことだね」
 そして、昼食の後。ハツは久しぶりにトランプを持ち出してきた。目の前の男がそれに何の意味も持たせていないはずがないのだ。夕暮れに外に出れば、時間のズレに気が付いてしまう恐れがある。時計上では一時半だったはずだが、外では既に四時近い。太陽が普段よりぐっと低くあることを、不自然に思われてしまうかもしれない。
「私がトランプに乗らなかったらどうしていたんだ」
「それはもう、ありとあらゆる可能性を考えてたから。たとえ断られていたとしても、絶ッ対に外へは出さなかった」
 ハツがあまりにはっきりと宣言するので、少しだけ背筋が寒くなった。彼は時折、こちらの行動を全て見通しているような顔をする。神の視点ともまた違う、まるで鏡の中の自分が話しかけてくるような薄気味悪さがある。
「……これで分かっただろう。私には時間が無いんだ」
 その薄気味悪さを拭うように、続原は口早にそう言った。
「だから、なるべく早く切り出したの?」
「ああ、そうだ。……今のところ、時計は九時半過ぎを示しているが、実際のそれは二時間遅れているんだろう? 実際の時間は十一時半過ぎということだ。私がギリギリになって真相を明かしたら、もう日付が変わっているというわけだろう。随分狡猾な奴だな」
「流石にそこまであくどいことはしないよ。大体、二十四時間の制限時間を想定していた相手に二十二時間しか与えないなんて、ルールが破綻してるし。続原さんがあの時計が日を跨ぐ前に正解してたら、俺はちゃんと正解にしてたよ」
 そう言って、ハツがからからと笑う。プライドはそれなりにあったことだろう。怪盗としての矜持も。それでも、ハツはとても屈託なく笑っていた。目の前の相手をどう見たらいいのか分からない。これを解き明かしたところで、そこに続くものなんて何も無いのだ。
「――続原さんの勝ちだよ。見事怪盗に勝ったってわけだ。……まあ、生憎と、泥棒を引き渡す場所はもう残ってないけど」
「……悔しくないのか。劇場型犯罪者はその犯罪にプライドを以てあたっていることが多く、自分の犯行を邪魔されることに敵意を燃やす。私を嫌いになったりしないのか」
「そこまで思い詰めて考えなくていいよ。どうせここには俺と続原さんしかいないんだから」
「お前が盗んだものに価値はあったか」
「そうじゃなきゃ盗まない」
 ハツはしっかりとそう言うと、まっすぐにこちらを見据えた。
「俺は続原さんがどれだけ自分の時間に価値を見出しているか、世界が滅んでしまうなんてとんでもない展開に真面目に取り組んでいるかを知っている。続原さんの時間に一番高値をつけてるのは、多分続原さん自身だよ」
 どう答えるべきなのか、続原には分からなかった。
「世界は個人の裁量を簡単に超えて、築き上げたものを全部粉々に砕いていく。ねえ、探偵ってそんなに責任が重いの? 俺はそうは思わないよ。オーディエンスもいないのに」
「……私はそうやって生きてきた」
「人類は今まで上手くやったよ。知ってる? 人間がこうして繁栄して、文明を築き上げる可能性は殆ど無かったんだって。それこそ、猫をキーボードの上で歩かせて相対性理論について書かせるみたいな作業でさ」
 その話なら知っている。全く以て不安定な世界で、人類がどれだけ苦心して歩んできたかを咽ぶ程に知っている。そうじゃなきゃ、彼はこんなに悲しかった。
「悔やむ続原さんの時間は、恐らくここで一番価値がある。続原さんもそう思わない?」
「思わない。事件を解決できない探偵に価値なんて無いからな」
 続原がそう言うと、ハツは静かに笑い出した。それでこそ、と彼が言う。探偵が不要になった世界で、その続きに何の意味があるのだろう?

 夜に外へ出るのは久しぶりだった。街灯も無いこの世界で、夜に出歩くのは自殺行為だ。それに、仮に生存者が居たとしても、暗闇の中では見えるはずも無い。
 ただでさえ殺風景な景色はいよいよ暗闇に沈み、辺りには何一つ希望が見えなかった。だが、保護外蓋が開いた時、続原は一瞬息を呑んだ。世界が滅ぶ前には見たことの無いような、満点の星空が広がっていた。月がずっと近く、大きなものに見える。地球の表面がこんなことになっても、空は全く意に介していないようだった。
 そのままぼんやり空を眺めていると、背後のエレベーターが動く音がした。地響きのような音を立てて、ハツが出てくる。
「続原さん今日は夜更かしだね」
「お前の所為でスケジュールが狂った」
「だから続原さんが早起き過ぎるんだって。もう少しスローライフを謳歌していいんじゃない?」
「そういうところから堕落が始まるんだ。今だって、何の弾みで死ぬか分からないだろう。今だって、足を滑らせて谷底に落ちるかもしれない」
「その心配については大丈夫」
 暗闇を前にしながら、ハツは暢気にそう言った。怪我の一つでもしてしまえば命に関わる状況なのに、ハツは怪我というものをあまり恐れない。
「俺はとっても運がいいんだ」
 満月を眺めながら、ハツはそう呟いた。
「運がいいから、きっと絶対に死なない。ロシアンルーレットだろうと、もっと確率の低いギャンブルだろうと、絶対に正解を引き寄せられる。仮にここで続原さんと勝負をしたとして、俺はきっと勝っちゃうよ」
 ある意味夢のある話だった。この世界において、死なないという言葉がどれだけ力強く響くことだろう。それなのに、彼の声にはどこか諦念が滲んでいた。
「だから、きっとそんなつまんないことでは死なないよ。続原さんもしばらくは大丈夫。続原さんが探偵を続ける意思がある限り」
 全てを続原に委ねるその姿勢が疎ましい。それならハツは何の為にここに居るのだろう。
「それにしても、こんな暗い中に居るの怖くない? 俺は怖いよ」
「都市は記憶する」
 ぽつりと続原がそう零した。
「設計した人間の意志を記憶し、日々の生活によって形作られた習慣を記憶し、人間の生きていた痕跡を記憶する。私達が忘れてしまうことも、都市という大きな記録媒体が覚えていてくれた」
 探偵はその場所の記憶を読み取る仕事でもある。少なくとも、続原はそういう意識で臨んでいる。その場所で起こったことを推理の過程で再現するのは、ある種考古学と似ているのかもしれない。
「だから、あの荒野を見ていると、ずっと大切にしてきた日記帳が破られたみたいな気分になるんだ。見えた方がよほど怖い」
 だったらいっそ、暗闇の中にあってくれた方がどれだけいいことか。そんな、探偵にあるまじきことまで思ってしまう。
 ふと、続原は気が付いた。怪盗がこの世界にいる意味。この滅びた世界に怪盗がいる意義。怪盗は価値を生み出すものなのだ。
「大丈夫だよ、続原さん。続原さんが名探偵であることを止めない限り、いつかきっと謎は解ける」
 ハツが歌うように言う。外があまりに暗く、月明かりがあまりに眩いので、本当に彼がそこに居るのかすら定かじゃなかった。絶対にしてはいけないことだと分かっているのに、その身体を思い切り突き飛ばしてやりたくなった。だって、たった一人のこの彼こそが非実在でない証拠など何処にある?
 そんな続原の心の内を知らないで、ハツは優雅に言う。
「大丈夫。狂うほど時間はあるからさ」
 世界が無いので真実も無かった。事件が起こるはずも無かった。けれど、続原はまだ名探偵だった。遠くの方に、月に照らされた不格好な旗が揺れていた。

(了)

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斜線堂有紀

短編小説

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