夢の中では無敵な君へ


「ヘルヴィー、ストロングゼロまだいける?」
「はい、好きです!」
 少しだけずれた返答をしながら、ヘルベルチカが笑顔で缶を受け取る。それに合わせて、彼女を囲んでいる六、七人の部員が楽しそうな声を上げた。
時刻は午後一時三十二分。公園で酒を飲むにはちょっと早すぎる時間だ。けれど、昼酒を主要な活動に掲げている以上、このサークルは今日も今日とて昼から酒を煽るのだ。
 由緒正しき昼酒サークル・昼酒部に、ドイツからの留学生であるヘルベルチカ・ミヒャエルスが入ってきて三ヵ月が経った。三ヵ月。その短い期間で彼女はこの集団の全てを握った。酒の席で自然と中心に配置されるというのは、紛れも無い強者の証である。三ヵ月。昼酒部が他愛のない飲みサーであることを差し引いても、ちょっと早すぎる絆され方だ。
 見た目は確かに美しい。麦のような金髪も真っ白な肌も、冗談みたいに綺麗だ。だからといって、彼女の持て囃され方は最早ちょっとしたオカルトだった。ちなみに、彼女はヘルヴィーという綽名を冠している。それがやっぱり何とも可愛い。
 美見川江奈は、そんなヘルヴィーを嫌っている殆ど唯一の人間だった。人当たりが良く、無害で、留学生で、なおかつ外見が化物染みて美しい女を嫌うのは難しい。それでも、突如としてサークルに入って我が物顔で酒を飲む女のことを、美見川は圧倒的な決意で嫌い続けていた。単純に妬ましかったのだ。自分より可愛く美しく、人気者な女に嫉妬する感情は、そこまで突飛なものだろうか?
 そもそも、新入生歓迎の為の花見の席で、一杯目にストロングゼロを選んだ時から癪だった。チェスで例えるならば、初手でナイトを動かすような、カラオケで例えるなら一曲目に『ゲット・ダウン、メイク・ラヴ』を入れるような、その不遜さが気にくわなかった。
「お、ストロングゼロ行く? 大丈夫?」
「駄目、ですか?」
「いや、駄目じゃないけど。アルコール強いから」
「大丈夫、です。私の国、ビール、水より安いです」
 ヘルベルチカはそう言って、にっこりとストロングゼロの缶を掲げて見せた。金髪と黒い缶の対比が麗しい。表面に描かれたグレープフルーツが、彼女自身の屈託の無さと健全さを表しているようで、思わず美見川は目を逸らした。そんな目で見られても困る。
「いただきます!」
 ヘルベルチカがストロングゼロのグレープフルーツ味を飲み干すまで、誰も一言も喋らなかった。正確に言うならば、喋る隙すら無かった、と言った方が正しいかもしれない。両手でしっかりと缶を持った彼女は、そのまま一回も口を離さず、三百五十ミリリットル缶を飲み干したのだ。
 彼女の喉の白さと、緩く脈打つ様を、美見川は未だに忘れられない。
「美味しいです。ゴッツアンデス」
 缶を離した彼女がそう言って笑った瞬間、場が一気に盛り上がった。一気飲み一つでこれだけ場を盛り上げることが出来る、その手腕が、いっそおぞましかった。だって、いくらなんでも、コストパフォーマンスが、良すぎるじゃないか……。
 ヘルベルチカがストロングゼロ一つで場を支配した瞬間、美見川は彼女のことが心底嫌いになってしまった。嫌う理由が妬み嫉みなら、ある意味とても素直だ。

 ヘルベルチカは今日もストロングゼロを飲んでいる。『明日を失くす酒』との異名を持つその酒を、彼女は水でも飲むかのように口にするのだ。数え間違いでなければ、空けた缶は三本を超えるだろう。それなのに、彼女は顔色一つ変えやしない。
「おー、ヘルヴィーいくねえ」
「美味しい、です」
 アルコールを心の底から楽しんでいるような笑顔が気にくわなかった。ストロングゼロはそんな風にガバガバ空けていいものじゃないのだ。
 元々、美見川はアルコールが強い方じゃない。昼酒部というのが自分に合っていないことも分かっている。ここに入ったのは、秋学期からでも入
れそうなサークルがここしかなかったからだ。大学デビューに失敗した美見川を待つ、一人ぼっちの試練。勝負は春に決まるのだ。あの時にちゃんとサークルに入っていればよかった。それをどれだけ後悔したことか。
 昼酒部にもそう馴染めたわけじゃない。一人ぼっちは脱したものの、馴染めているかといえば微妙である。昼休みに酒を飲んでいるだけで、何となく仲間に入れた感を出してはいるものの、あまりに弱々しい繫がりだった。その場にいるはずなのに、どこか拠り所のないような。同じ言葉を話しているはずなのに繋がれないこの感覚は、足元から這い寄って美見川を掴む。
「美見川さんもおかわり飲む?」
 そう声を掛けてきたのは、同学年の女子部員だった。
「あ、うん。もらう……」
「そこの酒ボックスから好きなの飲んで」
「あ、うん……」
 ヘルベルチカのことをヘルヴィーと呼ぶ彼女は、美見川のことをさん付けで呼ぶ。後から入ってきたヘルベルチカの方がずっと場に馴染んでいるのだ。雑多な酒が入ったボックスを漁りながら、美見川の自尊心は削れていく。伸ばしっぱなしの黒髪は枝毛が目立った。一体何がいけないと言うんだろう?
 ここで終わればよかった、と美見川は後々思う。ここで終わっていれば、ヘルベルチカ・ミヒャエルスのいけすかなさを語るパートとして、綺麗に纏めることが出来た。そう仕立てられなかったのは、偏に美見川の安いプライドの所為である。ストロングゼロの一本で場を支配するなんて、美見川にはちょっと赦せなかったのだ。それなら、同じことをしてやるしかなかった。同じ舞台に上がってやるしか。
 美見川が手に取ったのはストロングゼロのパイン味だった。見た目にも華やかだし、何よりパインというのがいい。お祭りで食べた冷やしパインの味や、スーパーに売っている小さな飴のことを思うと、なんだか身近に感じられる味である。
「ヘルベルチカ!」
 プルタブを起こしながら、美見川は高らかにその名前を呼んだ。ヘルベルチカの宝石染みた目が美見川を見る。その視線を受け止めながら、美見川は一気にストロングゼロを煽った。

 気づけば美見川はブルーシートに包まれて、地面に転がされていた。辺りはすっかり暗くなっていて、昼酒の陽気さはどこにもない。
 無慈悲だと思うことなかれ。これが昼酒のルールだった。酔い潰れた人間は、こうしてブルーシートに捲かれて放置される運命である。
怠惰の権現のような昼酒だけれど、講義の合間に酒を飲む以上、節度はちゃんと求められる。美見川のように酔って意識を失い、午後の講義を全部飛ばすような人間は切り捨てられて然るべしなのである。勿論、美見川だって普段は、そういう脱落者達をちょっと下に見ている側だった。昼酒で酔っぱらうことなんかなかった。
 全てはヘルベルチカ・ミヒャエルスとストロングゼロの所為だった。あまりの悔しさに涙がでそうだった。簀巻きにされて放っておかれたことも、自分がだらしなく酔っぱらったことも赦せなかった。講義を済し崩しにサボったのも痛い。どうしてこんなことになったのだろう?
 とりあえず帰るか、と思いながら、どうにか身を起こす。その時だった。
「ミミガワさん」
 異国の人間が呟く名前は、どうしてこうも不思議な響きを持つのだろう? ヘルベルチカの呟くその名前は、頭蓋に反響してそのまま耳を抜けていくようだった。つまり、自分の名前がそうとして認識出来ず、なんだかまるで子守歌のように聞こえたわけだ。馬鹿げた話だと思う。けれど、本当のことだった。
「……ヘ、ルベルチカ?」
「ミミガワさん、寝てました」
 美見川には読めない文字で書かれたペーパーバックを閉じながら、ヘルベルチカは軽やかにそう言った。
「みんな、いないですから、私がいました」
「ああ、そうなんだ……」
 流石に公園に置き去りにするのは気が引けたのだろう。誰か一人、お守り役として残していこうという話になったわけだ。そして、手を挙げたのが、心優しいヘルベルチカ。……なんだか涙が出そうな話だった。
「大丈夫、ですか?」
 美見川の薄暗い感情なんか露知らず、ヘルベルチカは親切にもそう尋ねてきた。善意の炎で焼かれそうだ、と思う。
「……大丈夫。ごめん、迷惑かけて」
「いいです、それは」
「ストロングゼロなんか飲んだらとんでもないことになるって分かってるんだ。明日を失くす酒っていうか、今日の午後すら無くなったっての」
「失くしても、大丈夫な日、飲みます」
「大丈夫な日なんてない……ないんだけどな……」
 結局美見川は、ストロングゼロを飲み干すことすら出来なかった。きっと半分も飲めていないだろう。ストロングゼロを一気飲み出来ない人間であることにショックを受ける。ノットフォーミー。単純なその事実が、美見川には気にくわなかった。
 ヘルベルチカはあんなに軽々飲み干して、みんなから一目置かれたのに。その場に馴染めるかどうかが肝臓一つで決まるなんてふざけた話だ。
 ともあれ、美見川に出来ることは一つしかなかった。近くに転がっていたバッグを拾い上げ、やけにきびきびと立ち上がる。
「それじゃあ私、帰るから。本当にごめんね」
「あ、ミミガワさん、これ」
「え? あ……? 何?」
「忘れるものです」
 一瞬、ダブルミーニングかと疑った。忘れるものの忘れ物。ヘルベルチカが差し出してきたのは、飲みかけのストロングゼロだった。律儀に取っておいてくれたらしい。想像だにしない心遣いだ。
本当はもうストロングゼロなんて飲みたくなかったけれど、笑顔で差し出されるのに耐えられなくて、ひったくるように受け取った。
「それじゃあね、バイバイ、ありがとう」
「さよなら、ミミガワさん」
 殆ど逃げるような背に、ヘルベルチカの声が響く。こんなはずじゃなかった、と死にそうな気分で思った。

 一人暮らしのアパートに戻った瞬間、美見川は残りのストロングゼロを一気に飲み干した。電車内でもずっと握っていたお陰で、酷く温い。それでも意地で飲み干した。独特の味が舌を焼く。ストロングゼロなんてろくなものじゃない。

 そこで美見川の意識は一旦途切れる。そうして次に目覚めた時には、彼女は一面の雪景色の中にいた。

 彼女はガッチガチの東京生まれで、雪自体あんまり見たことが無い。ましてやこんな派手な雪原はお目にかかったことすら無い。
 しかし、薄手のカーディガン一枚でいるのに、寒さは感じなかった。これは一体どういうことだろう?
 革の臭いがする。馴染みの無いその臭いの所為で、美見川はうっかり自分が嘔吐したんじゃないかと疑った。最悪の想像だけれど、そっちの方がいくらか現実的だ。そこでようやく、美見川はエンジン音と揺れる身体にも気づく。雪原が流れていく。――何かに乗っている。
「は? え? あ?」
 彼女が乗っていたのは、ウラルのGEAR UP SAHARAだった。砂色の美しい車体に、流線形のイカしたサイドカーが付いている、その筋では有名なバイクだった。そして、彼女はその流線形の中に収まり、雪の中を疾走している。
 もう少しで絶叫するところだった。だって、ブルーシートに巻かれているのとは話が違う! もしかすると、取り乱した勢いのまま、サイドカーから落ちていたかもしれない。
そうならなかったのは、あの時と同じ声が聞こえたからだった。透明で美しく、それでいて、こちらの精神を容赦なく搔き乱す、あの声が。
「美見川」
「あ……? ああ……?」
「何度も会っているんだ。お前も、この顔には覚えがあるんじゃないか? 自分で言うのもなんだが、なかなか目立つ顔だ」
 仰る通り、目立つ顔立ちだった。夢の中までこの解像度なのだから恐ろしい。深緑色のファーコートと洗い晒しのジーパンは、その派手ないでたちに良く似合っていた。
首筋に爪を立てられたような気分だった。震える声で、その名前を口にする。
「ヘルベルチカ・ミヒャエルス……」
「フルネームで呼ばれるのもなかなか気恥ずかしいものだ」
 そう言って、ヘルベルチカは薄い唇からくつくつと笑い声を漏らす。目の前の彼女はとても流暢な喋り方をしていた。片言も敬語も縁遠い。音と音との間が滑らかに繫がり、まるで歌みたいだった。そんな出来合いの例えまで駆使しながら目の前の女の言葉に感じ入っている悪夢!
「ちょっと待って、何でそんな……日本語喋れたの? 隠してた?」
「喋れるわけないだろう。そもそも何で日本語が流暢に喋れることを隠さなくちゃいけないんだ。縛りプレイか」
 そこでようやくバイクが止まった。何処かに着いたというわけじゃない。相変わらず、目の前に広がるのは何もない雪原だ。日差しは柔らかく降り注いでいるけれど、それだけで指針が無い。そこでようやく、ヘルベルチカが美見川の方をしっかりと向いた。
「……なんか、キャラ違うくない? そんなんだったっけ」
「私の中ではそう変わっていないんだが。何が違う?」
「もっとこう……ピュアで……天真爛漫で……異国の留学生らしい……」
「なんだ、私が常に感極まっているとでも思ったか」
「感極まってるとも思ってないけど……」
 それでも、ヘルベルチカはこんな棘のある物言いをしない人間だと思っていた。美見川の知っている彼女はゴツいバイクを乗り回したりもしないし、そういう話し方をしたりもしない。かといって、彼女はどんな人間なのか、聞かれても上手く答えられない。
「言葉が達者でないと侮られるというのは、ままあるのだろうな。実際問題、たどたどしく話すと弱く見える。日本語が喋れない外国人は、同じように見えるだろう?」
「同じように見えるかは……」
「ちなみに私はドイツでたどたどしくドイツ語を喋る日本人を、みんな同じような性格をしているなと思っていた。言葉が喋れないとキャラクタナイズすら難しいな」
 いけしゃあしゃあとヘルベルチカが言う。何から何まで解釈違いも甚だしかった。ヘルベルチカを搦め手の天使だと思っている人間に、今のヘルベルチカを見せてやりたい。
「……あんたはそんなことないでしょ。それより、侮られる要素なら他にある」
「他に何が?」
「……ストロングゼロを飲めないこととか」
 帰り際のヘルベルチカのことを思い出す。心配そうに覗き込んでいた彼女は、あそこで美見川のことを嘲笑っていたんじゃないだろうか。アルコールに強いことで、その場を支配してみせたあの女なら。
 けれど、果たしてヘルベルチカは言った。
「酒なんて嗜好品だろう」
 その通りだった。ただ、それをお前が言ってくれるな、とも思う。会話にすらまともに入れていない癖に、そのルックスとアルコールでその場を牛耳っているじゃないか。あの時、ストロングゼロは単なる酒じゃなく、れっきとした武器であったはずだ。その自覚が無いのだとしたら、それは尚更暴力的だった。
 それでもヘルベルチカは美しい。雪原の中にあって、彼女は余計美しかった。ややあって、美見川は言う。
「……夢かー」
「何が夢なんだ」
「だって、こんなことあるはずないもん。あんたが私とこんな風に話すことなんて絶対にないもん。だから夢。ヘルベルチカはこんな人間じゃないし、私はここにいないはず」
 そう言って、美見川はもう一度シートに沈み込んだ。これはきっと何かしらの夢なのだろう。そう考えた方が納得がいく。それに、そっちの方が精神的にもいい。夢の中であるはずなのに、なんだかやたらと眠かった。このままいけば、きっと綺麗に眠れるはずだ。
「待て、美見川。ここは夢なのか? だとしたら誰の夢だ? 目覚めたら私はここにいたんだ。だとしたら、美見川が私の夢にいるんじゃないのか?」
「はあ? 知らないよ。私が見てるんだから私の夢に決まってるじゃん」
 ぞんざいな美見川の言葉に対して、焦ったようにヘルベルチカが言う。
「……待て、美見川。消えるのか?」
「消えるよ。消える。こんな夢もういいんだから」
「何でこの場所に来たんだ? どうして来た?」
「知らないよ。やっぱストロングゼロなんか飲むんじゃなかった」
 ストロングゼロ、と綺麗な発音でヘルベルチカが呟く。
「あの酒、魔力があるのかもしれないぞ。お前のオーダーメイドの悪夢はストロングゼロから生み出されたのかもしれん」
「どこまでヤバい酒なんだよ。ふざけんな」
「美見川」
 眠りに落ちかけた美見川の手を、白魚のようなヘルベルチカの手が掴んだ。雪のような手なのに、その熱さは筆舌に尽くし難かった。思わず見つめたヘルベルチカの緑色の目に、間抜けな顔が映る。
「――お前がもし『向こう側』に戻れるのだとしたら、その時『向こう側』の私に尋ねて欲しいことが一つある」
「……『向こう側』のあんたに?」
「何、大したことじゃない。今読んでいる『井戸の底の殺人』のオチを聞いてきてくれないか。読みかけのままここに飛ばされたからな。ミステリーだから妙に気になる。あれの犯人、一体誰だったんだか聞いておいてくれ」
 そう言って、ヘルベルチカが笑う。その笑顔まで魅力的で敵わなかった。それが気にくわなくて、わざとぶっきらぼうに返す。
「こんなの夢なんだぞ」
「いいだろう? 目が覚めるまで一緒にいてやったんだからな」
 聞いたことの無い声で、ヘルベルチカがそう言い放つ。言いたいことは山ほどあった。「大丈夫、ですか?」と言っていたヘルベルチカはやっぱり嘘だったのか、とか、別にお前じゃなくてもよかったのに、とか、そういう負け惜しみみたいな言葉が頭を埋め尽くす。
 けれど、どうにもならなかった。やけに凝った悪夢の中で、美見川はもう一度眠りに落ちる。

 目覚めると美見川は、自分の住んでいるワンルームに戻って来ていた。清々しいほどの夢オチだった。けれど、それにしてはやけに繊細な悪夢だった。
 テーブルの上にはストロングゼロの缶が転がっている。
 明日を失くす酒だ。それが嫌だから、美見川は今まで手を出さなかった。もし、失った時間の分を脳が補填しようとしていたんだったら? その為に誂えられたオーダーメイドの悪夢があれなんだとしたら? 何とも言えない想像だった。
 これに悪夢を見せる作用があるとは信じられなかった。その仮説すら、夢の中のヘルベルチカのものなのだ。それが本当だったら、こんなものとうに発売禁止になっていることだろう。
 それはそれとして、気にはなった。夢の中のヘルベルチカの言葉が響く。一緒にいてやっただろう?
 美見川はヘルベルチカのことが気にくわない。あんなことを言われて黙っていられるはずがないのだった。

 ヘルヴィー・ザ・スウィートは優等生なので、そんなに毎日昼酒をしたりしない。――当たり前の話だ! この界隈が爛れているだけで、普通の大学生は白昼堂々飲酒をしない。英知大学の澱みの澱み、底の底を実感して、美見川は密かに青ざめる。このままだとまずいんじゃないか?
 大学のコミュニティーはなかなかどうして馬鹿に出来ない。昼酒部のメンバーに話を聞いてみると、すぐに彼女の居場所は割れた。ヘルベルチカは人気者なのだ。
「ヘルヴィーなら確か『脳行』受けてるんじゃないか? 前に祖師谷がヘルヴィーと一緒に受けてるんだー、って言ってたし」
「脳行……私が抽選落ちたやつじゃん」
「楽単情報が出回るとすーぐ倍率上がるよな」
 楽単を抜け目なく取っているヘルベルチカに対して、心の中で舌打ちをした。彼女の賢さでいけば、楽単を取ろうとしなくても済むはずだ。それは周到さなのか、それを含めての賢さなのか。出席百パーでテストもレポートも無い講義を取るというライフハック。
 ともあれ、これで居場所は分かった。あとは待ち伏せをするだけだった。件の講義が行われている大教室の出入り口で彼女を待つ。普通の相手ならいざ知らず、ヘルベルチカが見つからないはずが無かった。
「ヘルベルチカ」
 案の定、彼女はすぐに見つかった。数人の取り巻きに囲まれている肩を、強引に引く。訝し気な目を向ける周りを無視して手近なベンチに向かうと、そこでようやくヘルベルチカと目が合った。
「ミミガワ、さん? こんちには」
「脳行取ってたんだね。楽単とか気にするんだ?」
「脳、行動学。面白いです」
 そう言って、ヘルベルチカが華やかに笑う。面白いの観点で講義を語れる純真さが眩しい。学生かくあるべきだ。そんな姿勢は美見川には無い。遅れて気づいた。自分が抱いているその印象すら、まだ達者でないヘルベルチカの言葉を通しているものなのだ。
 本当はその面白いが、どういう『面白い』なのかを、ヘルベルチカは感じているはずなのに。
「……ヘルベルチカ、あんたさ」
「何ですか?」
 雪原、言葉、GEAR UP SAHARA。荒唐無稽なその話を、一体どこから切り出せばいいんだろうか。チョコレートケーキはどこから切り分けても美味しいし、与太話はどこから切り分けても与太だ。仮に、この話を『こちら側』のヘルベルチカに聞いたからと言って、一体何が変わるのか。『夢で貴女と惹かれ合いました』じゃ、あまりにもドリーミーすぎる。それに、あれは果たして良いコミュニケーションと呼べるのだろうか?
 ややあって、美見川は言う。
「……あんたの読んでる本って、ミステリーなんでしょ? オチはどうなるの? 『井戸の底の殺人』」
 果たしてミステリー小説のオチを聞くのは人間としてアリなんだろうか? そんな懸念も過ぎったものの、結局はそこに落ち着いた。夢の話をする勇気なんか無かった。あんなものは単なる悪夢でしかない。その悪夢の指図に従っている矛盾は敢えて考えなかった。
 これだけ聞いて、あとはもう忘れよう。そう思った瞬間だった。
「どうして、知ってますか?」
「え?」
「私の本、です。でも、ここに持ってません。家の本です」
 たどたどしく説明するヘルベルチカには、隠しようのない訝しさが滲んでいた。ここに持ってない。家の本。繫がりは悪くても、意味は分かる。犯人にしか知り得ない事実の暴露。なかなかミステリー染みた展開になってきたじゃないか。何も嬉しくない。
「ち、ちが、なんかのアレなんだけど、とにかく本当、私も読んでてさ……その、読めなくなって。とにかくオチが知りたくて、それで」
 舌がもつれて、言葉が上手く紡げない。取り繕う度に何かが削げ落ちていくようだった。夢の中では回った舌がそれ以上もつれる前に、ヘルベルチカが口を開く。
「特別、です。ミミガワさんだけ、教えてます」
 優し気に笑う彼女の中身は、一体どうなっているんだろうか。雪原のヘルベルチカの、あの皮肉気な口調! ただ、今の美見川には、それらを甘んじて受ける以外他が無かった。
「で、結局トリックは何なの? 教えてよ」
「いいですよ。あの、殺人、トリック……」
 そこで、ヘルベルチカの言葉がぴたりと止まった。酸素を求めるようにぱくぱくと口を動かして、そこから赤い舌が覗く。さっきまでの態度とはうって変わって、不安げな顔だった。所在無げに視線を彷徨わせながら、ヘルベルチカが呟く。
「階段、床の、右が、氷の、底? の……」
 まるで繋がらない言葉だった。単語が意味を紡げないまま、ぽろぽろと地面に落ちていく。一体どんなトリックなのか、最早どんな事件なのかすら分からない。それを見て、美見川の方も狼狽した。違う、そんなつもりじゃなかったのに。
「すいません、説明、出来ないです」
 たっぷり五分は待っただろうか。諦めたようにヘルベルチカが言う。
 きっと、複雑な物理トリックと驚天動地の結末が『井戸の底の殺人』には待っていたのだろう。けれど、それを異国の言葉で整然と語れるだけの能力が、今の彼女には無い。美見川が投げかけた質問は、それを思い知らせるような難問だったのだ。
「そんなつもりじゃなかった、ごめん」
 それどころか、この謝罪すら不本意なものだった。そんなことを言わせたいわけじゃなかったのに。
「お役、ないの、すいません」
 ヘルベルチカは困ったように笑って、小さく頭を下げた。面倒な質問をした自分を心の中で詰ってくれればいい、と美見川は心底思う。ドイツ語なら伝えられるだろうミステリーの結末! けれど、美見川の専攻はイスパニア語だった。スペインとドイツはあまりに遠い。
 去っていくヘルベルチカの背も、相変わらず美しかった。そこにいるだけで様になる人間だ。ここが雪原なら、彼女の足跡は整然と残っていったことだろう。
 けれどここは雪原じゃない。ヘルベルチカは、人波に紛れてフッと何処かへ消えてしまった。

 帰り際にコンビニに寄った。買うのは勿論ストロングゼロである。
 部屋に入るなり一気に煽った。パイナップルの濃厚な甘みと、独特のアルコールが鼻を抜けていく。眠りに落ちるまでにそう時間はかからなかった。ストロングゼロで直通する悪夢なんて信じたくもなかったけれど、手段を選んではいられない。美見川はあそこにいるヘルベルチカに用があるのだ。
 そして、目が覚めれば誂えられたような雪景色だ。一貫性があって大変よろしい。これで火山や砂漠に飛ばされていたとすれば、あまりに耐えがたい。バイクを走らせる相手が変わっていないことも、なんだか妙に安心した。
 サイドカーから顔を覗かせる。美しいかんばせが迎え撃つ。
「早かったな。美見川。あれからどのくらい経った?」
「一日普通に授業受けたっての! というかこっちは……」
「そうだな。お前がいなくなって六時間程度だ。気づけばサイドカーにいる」
 浦島太郎現象だ、と美見川は思う。圧縮された時間を思うと、なかなか効率がいい話だ。それでいて、恐らく明確な基準は存在していない。あちらの一時間がこちらでどの程度になるのかは分からないのだ。……一夜の夢であればいいけど、と心の中だけで思う。部屋で三日も四日も眠り続ける自分の姿を想像すると、背筋が寒くなった。
「聞いてくれたか。本の続きを」
「いや、それについてはちょっと文句があるんだけど……例の本って、もしかして大学に持って来てないの?」
「そうだな。『井戸の底の殺人』は自分の部屋の机に置いてある本だ」
「はあああ? どうしてくれんの!? ヘルベルチカの奴、絶ッ対不審がってたんだけど! 私はてっきり、外濠公園で読んでた本がそうなんだと……」
「あれはもう全部読み終わっていた。それにあれはファンタジーだ」
 しれっとヘルベルチカが言う。ドイツ語で書かれたタイトルは、美見川には欠片も意味が読み取れなかった。だけど。だからといって、そんな。
「どーすんの! 私が盗聴器やら隠しカメラ設置してあんたの生活を一から百まで監視してると思われたら!」
「他ならぬ私のことだ。整合性のある説明をつけるだろう。記憶には無いが、その本を一度大学に持って行ったんだろうとか、はたまた、うっかり酒の席でその本の話をして忘れたんだろうと思うんじゃないか」
 あくまで距離を取った語り口だった。顎に手をあてて考え込む姿すら、妙に絵になっている。ヘルベルチカは、美しいのだ。
「ていうかマジで嫌がらせでしょ……。何? やっぱりあんたって私のこと嫌いなの?」
「いや、嫌がらせじゃない。少なくとも意味がある」
「は?」
「お前、『向こう側』に渡った瞬間、私のことをただの夢だと思ったんじゃないか? 単なる倒錯した悪夢として処理しようとしたはずだ。だから、証明させてもらった。ヘルベルチカ・ミヒャエルスしか知り得ない事実を知っているんだから、私はお前の妄想じゃない。そうだろう?」
 淡々と語るヘルベルチカの言葉を聞いた瞬間、美見川は密かに戦慄した。小説のオチは単なるカモフラージュで、本命は美見川への証明だ。二人のヘルベルチカの存在が、夢オチや白昼夢で片付けることを赦さない。『井戸の底の殺人』の一冊が、雪原のヘルベルチカの影を色濃いものにする。
「私はここにしかいないからな、信じてもらえないと困るんだ」
「別にヘルベルチカのことを疑ってるわけじゃなくて、私が疑ってたのは自分の正気……」
「同じことだ。それに、ヘルベルチカはやめろ。一緒に正気を失ってるんだ。そんな距離感だとも思ってないだろう? ミミ」
 わざとらしく呼ばれた外国ライクなニックネームに、背筋が粟立つ。ドッペルゲンガーは精神に悪い。
「……ヘルヴィー、あんたやっぱり大学とキャラ違いすぎ」
「出力の問題だ」
 そう言って、ヘルベルチカがバイクのエンジンを掛ける。それに合わせて、美見川もサイドカーにしっかりと身を沈めた。ドゥルル、と地響きのような音が、辺りを揺らす。
「そうだ。結局『井戸の底の殺人』のトリックはどんなものだったんだ?」
「それなんだけどさ。あんた日本語喋れないじゃん。何もわからなかったよ。階段がどうとか……っていうか何で井戸の底なのに階段が出てくるんだよ」
「ああ……」
 それを聞いた瞬間、ヘルベルチカが少しだけ顔を曇らせる。その表情が、昼間の彼女と被った。同一人物だから当然なのに、そのことに少しだけ驚く。
「この調子で説明出来たら良かったんだけどな。確かにミステリーのあらすじを説明するのは難しいよな。大体、あの小説の導入からして井戸の底から宇宙人のミイラが見つかって、民俗学者の探偵が調査に来るところから始まるわけだし」
「それ本当にミステリー?」
「むしろ結構王道展開だぞ。まあ、断片を聞く限り、なかなか本格ミステリらしい展開になっていくみたいだな。それが分かっただけでも収穫だった」
「よく言うよ。単に私のことを試してたんだろ」。存在証明に使いやがって」
「いいや。それだけじゃない。私はそっちのヘルベルチカと記憶を共有していない。私がここに暮らすことになった以上、あの本のオチはもう知ることが出来ないんだ。やっぱりミステリーを読んでいる以上、解決編くらいは知りたいじゃないか」
 ともすれば聞き流してしまいそうな言葉だった。けれど、聞き流せない言葉でもあった。
「待って、じゃあ、ヘルヴィーの意識はここにあるってこと? 雪原に? このまま一生? それってどうなる……」
「さあな。わからん」
 それは、無間地獄なんじゃないだろうか? すんでのところで出そうになった忌憚のない感想を、美見川は必死に飲み込んだ。わけのわからない雪原に連れてこられて、たった一人バイクと取り残されて、戻る方法すらわからないなんて。想像しただけで気の遠くなるような話だ。仮に美見川がそんな状況に陥ったら、と考えるだけで背筋が寒くなる。
「でも、ミミが来る」
 金色の髪を靡かせながら、ヘルベルチカがそう言った。
「ここに一人取り残されたわけじゃない。お前がいる」
 そんな顔で言わないで欲しい、と痛烈に思う。これじゃあまるで、美見川の存在が拠り所みたいじゃないか。そんなものを背負わされても困る。『向こう側』のヘルヴィーとは、まだまともに話してすらいないのだ。
 ここで出会ったヘルベルチカのうち、一体何処までが本物なのだろう? 昔から、酒の席での人間性は信用するなと聞いている。酒の席の向こう側で、ヘルベルチカは、一体どこまで。
 ややあって、美見川は言った。
「私からも一つ聞いていい?」
「オフコース、Sag es」
「……脳行って本当に面白いの?」
「『大脳から見る行動学』か。試験無しレポート無し出席点のみだ。シラバスがちゃんと読める学生なら取るだろ」
 そう言った傍から、ヘルベルチカはけたけたと笑い始めた。オーケイ、それでこそ。
 単純な話で申し訳ないけれど、その時初めてヘルベルチカに親しみを覚えた。本当に単純な話だった。面倒だから語られないだけの、講義の選定基準が『面白い』。
 ヘルベルチカ・ミヒャエルスだって自分とそう変わらない。
 そう思った瞬間、なんだか笑えて仕方が無かった。サイドカーは笑い声がよく響く。雪原を走るGEAR UP SAHARAのエンジンの音が、笑い声に合わせて小気味よく響いた。
「それで、これからどうするの?」
「遠くの方に風車のようなものが見えるんだ。今は無風だが、この世界にも風が吹くことを示しているんだろう」
 ヘルベルチカが指した方角には、ぼんやりとした影のようなものが見えた。風車に見えるか、と言われれば微妙なところだったが「羽根が回るのが見えた」と言われれば否定する理由も無かった。どのみち、この雪原にあれ以外目立つものは無い。
「……待って、もしかしたら吹雪が来るかもしれないってこと?」
「そうかもしれないな。その為にも、天気が荒れた時用の拠点を作りたいんだ。ミミがいない間に、風車に向かってみようと思う」
「……ヘルヴィー、あんた怖くないの」
「怖くてもそうでなくても吹雪は来る」
 それにしても覚悟が決まり過ぎじゃないか、と思う。正直な話、美見川がいようがいまいが、吹雪には太刀打ちが出来ない。ここにしかいないヘルベルチカは、この中で死んだらどうなってしまうんだろうか。
 そもそも、美見川はいつまでこの場所に来られるのだろうか。ありえないとは分かっているけれど、もしストロングゼロが販売中止になってしまったら、もう二度とこのヘルベルチカには会えないのだろうか。
「……わかった。さっさと行こう。時間が勿体ないよ」
「ミミが運転するわけじゃないだろう」
「そうだけど。ほら行く」
「わかった」
 それから二人は、雪の中を走りながら、ぽつぽつと他愛のない話をした。日本に来たきっかけ、最近観た映画、この国にあるものと無いものの話。サークルメンバーのくだらないゴシップが、雪に紛れて低俗なエンタメになる。
 『井戸の底の殺人』の話もした。その本はヘルベルチカが愛読しているシリーズの最新刊で、毎回ホラーと民俗学、それにラブロマンスが織り込まれているのが特徴なのだという。探偵役のラブデフリーは破天荒な名探偵で、すぐに関係者を射殺しようとする。
「アル中だからな。なかなかどうして自制が利きづらいんだ。大事な場面で嘔吐するから、宿命のライバルも取り逃しがちだ」
「これはまた実写化し辛そうな設定を……」
「最新刊ではついにラブデフリーが病院にかかるんだ。アルコール中毒さえ治れば、彼は無敵の名探偵なんだよ。しかし、そこに襲い来る不可解な殺人事件が……」
 そう言って、ヘルベルチカは淀みなくあらすじを語る。呪われた井戸の殺人。覗き込んだら必ず死ぬ井戸。枯れた井戸の底で発見される、両手両足を切り取られた溺死体。これ見よがしに見つかる聖書を引用した脅迫状!
 滔々と語られるそれを聞きながら、気付けば美見川は眠気に襲われていた。身体の端から溶けていくような、何とも言えない感覚。名探偵ラブデフリーは、果たして三十六人の容疑者の中から犯人を言い当てられるのか?
 けれど、その答えを、美見川もヘルベルチカも知らないのだ。

 『井戸の底の殺人』はドイツでしか発売されておらず、未邦訳であることを知った美見川は、パソコンの前で悶絶した。ヘルベルチカが語ったあらすじは控えめに言っても面白いものだった。正直、あんな不可解な状況に説明をつけられるトリックがあるなら教えて欲しい。何が階段? どれが氷? ガジェットが多過ぎて見当も付けられない。
 通販ページに並ぶドイツ語を見ながら、溜息を吐く。たとえこれを手に入れらとして、分厚いそれを読み通せる気がしなかった。そもそも美見川はまともにドイツ語を習ったことすらない。アルファベットに交じる謎の点や、紛れ込むエスツェットに馴染めない。
 名探偵ラブデフリーシリーズは、一巻目すら邦訳されていなかった。これじゃあ到底『井戸の底の殺人』の邦訳は望めないだろう。この不可解な本はシリーズの八冊目にあたる。よしんば邦訳されるとして、一体読めるのはいつになるだろうか。
 電源を落としながら、美見川はヘルベルチカの顔を思い浮かべた。日本語が喋れる方のヘルベルチカじゃなく、こちら側のヘルベルチカの方だ。こちらのヘルベルチカは話のオチを知っている。けれど、伝えられる語彙を持たない。向こうのヘルベルチカは、語るべき内容を知らない。
 そして、美見川にはどちらも無い。
 昨日煽ったストロングゼロの缶は、澄ました顔をしてテーブルの上にあった。これ一本が沢山の意味を持っている。単なるアルコール度数の高い安酒じゃなく、これは今やヘルベルチカに接続する為のツールだった。
 素の彼女に触れる為の。
 夢の中の彼女は流暢な日本語を喋り、美見川の知らない話をする。ヘルベルチカがいなかったら知らなかったような異国の探偵小説の話をして、少しだけ皮肉に笑うのだ。面白かったと言わなかったら嘘になる。でも、それだけじゃない。
 ストロングゼロの缶に触れる。凸凹とした缶の模様はまるで背骨のようだった。何かを確かめるように触れる。それだけで何がわかるわけでもない。その飲み物は飲んでこそなのだ。

 次にヘルベルチカの元を訪れたのは、美見川の時間では二日後だった。サイドカーで目覚めた美見川は、少し離れたところに立ったヘルベルチカの顔を見て、心臓が止まりそうだったのを覚えている。彼女は駆け寄ってくるなり、少しだけ安心したような顔で言う。
「久しぶりだな、ミミ」
「久しぶり……?」
「もう来ないのかと思っていた」
 ふんわりと笑うヘルベルチカに対して、美見川はぎょっとした顔になった。そんなことがあるはずがない。
 来るのが遅れたのは単純な話だ。この二日ほど、ストロングゼロ運に恵まれなかった。ストロングゼロがツイッターでバズったお陰で、近所のスーパーやコンビニから軒並みその缶が消えてしまったのだ。元々大学生の中では異常に盛り上がっていたものだけれど、まさかここまで広範囲に広がるとは思わなかった。
 誰も彼もがストロングゼロを飲み、同じ文脈に乗っていた。まるで、それを飲むことが何かの合図であるかのように。鯨は同じ周波数で一斉に歌うと聞いたけれど、人間はストロングゼロというミームを使って歌うのだった。
 別にそれについてとやかく言うつもりは無いけれど、物理的な不都合が美見川を襲った。ストロングゼロが無いと、美見川はヘルベルチカに会うことが出来ない。それに気づいた時には半狂乱になりかけた。それこそアルコール中毒者みたいな有様で!
 結局美見川は、ネット通販のお急ぎ便でストロングゼロを買った。それも、グレープフルーツとビターアップル、それにレモンの三種類の味を箱で買った。アルコールに飢えた学生には垂涎のラインナップである。一日一本飲んでも一か月以上は飲み暮らせる計算だ。
 届いた瞬間、美見川はつまみも無しに一気にストロングゼロを飲み下した。少しでも間が空けば、あの雪原は自分を受け入れてくれないんじゃないかと慄いたのだ。
 だから、目が覚めた時、ヘルベルチカに迎えられて、どれだけほっとしたことだろう。あの美しい金髪があってくれて良かった。この雪原で、彼女の髪はとてもよく目立つのだ。
「私がいなくなって、どれくらい経った?」
 そうだな、と言ってから、ヘルベルチカは親指から中指までの指を一斉に立てた。二本ではあまり見ない形のハンドサインだ。
「こちらの感覚では三日と十六時間ほどだな」
「そうなんだ……嘘……そうか……」
 その報告を聞いて、なんだか愕然とする。てっきり『向こう側』の時間よりもこちらの時間の流れの方が緩やかだと思っていたのに、そういうわけでもないらしい。時間の流れは結構気まぐれで、簡単に二人のことを裏切る。
 これ以上離れるわけにはいかないんだ、と美見川は思う。二人の時間が一定じゃない以上、美見川はストロングゼロを一定のリズムで飲み続けなくちゃいけない。大学から帰って、お決まりの晩酌を定着させなければ。そうじゃないと、ヘルベルチカは簡単にこの雪の原に取り残されるのかもしれない。
「……タイムパラドックスみたいな? 夢だからって、そんなのずるいよね」
「まあ、夢なんだから仕方がないだろ」
 ヘルベルチカの軽やかな笑顔を見て、美見川は密かに思う。それなら、大学も生活も、その全てを捨てて、ストロングゼロを飲み続ければ、こっちに居続けられるんじゃないだろうか? そうしたら、ヘルベルチカは一人になんかならない。それはハッピーエンドなんじゃないだろうか。……色々な意味で。
「それじゃあミミも来たことだし、戻るか」
 そんな美見川の気持ちなんか少しも知らずに、ヘルベルチカが言う。
「戻るって何処に?」
「後ろをゆっくり見てくれないか」
 悪戯を仕掛ける時のような声で、ヘルベルチカが言う。その声を受けて、美見川はゆっくりと背後を振りむいた。
 するとそこには、巨大な風車が優雅に聳え立っていた。

 美見川がいない間に、ヘルベルチカはとっくに風車に辿り着いていた。近くで見る風車小屋は、殆ど塔のように聳えている。風車についての知識はあっても、こんなに近くで見るのは初めてだった。大きな羽根は雄大さよりもむしろおどろおどろしさを感じさせるもので、何とも言い難い。
「怖くない?」
「そんなことはないぞ。住みやすそうなところだ。ほら、入ろう」
 エスコートするように差し出された手を掴めなかった。そんな仕草すら様になっているのはよろしくないじゃないか。
 中はシンプルな構造をしていた。中央に聳える柱に、風車の中を這うように伸びる螺旋階段がある。ところどころに踊り場があるのか、一階から中の全部を見上げることは出来なかった。
風を受けて粉を挽くためのものだろうか? 中心に聳え立つ柱には溝が走っていた。奴隷に延々とこれを回させる拷問が無かったっけ? と思ったものの、柱を回す為のハンドルは見当たらなかった。純粋に風力だけで動くものなのかもしれない、と美見川は一人で納得する。
「美見川」
 ぼーっと柱を見ていた美見川を余所に、ヘルベルチカは既に螺旋階段に足をかけていた。慌てて美見川も後を追う。
「ねえ、風吹くの? ここ。それとも風以外に動かす方法あるのかな」
「今のところは全く吹かないんだよな。風車が回ることなんてあるのかね? もしかすると、雪が解けたら風も吹くようになるのかもしれないが」
「雪解けすると思う?」
「さあな。それすらようわからん」
 歌うように言って、ヘルベルチカは階段を上っていく。決して低くはない風車だ。階段もそれなりに多い。
 風車小屋の半ばには、広い踊り場のような空間があって、どうやらヘルベルチカはそこを生活の拠点に定めたようだった。かつて住んでいた人間が丸ごと蒸発してしまったような、跡地のようなその部屋には、小さな棚とテーブル、それにささやかなカウチ程度のものだった。けれど、そのお伽噺のような居城が、ヘルベルチカにはやけに似合う。
「なかなかいいところだろ」
「まあ、いいところって呼ぶにはレトロ過ぎると思うけど……」
「いや、この場所の真価はこんなものじゃないぞ。ここの棚を開けるとな、……ほら」
 そうして暴かれた棚の中には、敷き詰められるようにしてワインが入っていた。ラベルに書いてある言葉は何語なのかわからなかった。少なくとも英語ではなさそうだ。
「ここまで来てお酒飲むわけ?」
「お前はここに来るのに酒を飲んでるみたいだが、私は長らく素面だったんでな。夢の中だからこそ好きにやらせてもらう」
 ヘルベルチカはそう言って、手近にあった小さなグラスにワインを注ぐ。注がれた液体がヘルベルチカの口に移るまで、美見川は瞬きすら出来なかった。特別酒が好きなわけでもないのに、なんだか妙に羨ましく見える。
「どうして昼酒部に入ったの?」
「アルコールが好きだからだ」
 果たして、シンプルな回答だった。アルコールが好きだから飲みサーに入る、というのはある意味結構純な動機である。
「クラブならあちらの大学にもある。だが、飲むのを主軸に置いたものは珍しい。だから、入ってみることにしたんだ。実際あそこのサークルはいいじゃないか。昼から酒を飲んでいる学生はそうそういない。それに、あそこのサークルの人間は、酒豪な人間が珍しいのか、やたら酒を回してくれるだろう。私は優先的にありつける」
 真っ赤なワインを傾けながら、ヘルベルチカが上機嫌で言う。
「……別にあんたが酒豪だから、お酒回してもらえるわけじゃないと思う」
「そうなのか?」
「みんな、あんたと関わりたいんだよ」
 ぽつりと出た言葉だった。
「関わりたい? それで酒を飲ませるのか?」
「そうだよ。ヘルベルチカは綺麗で、高潔で、特別で、だから、誰もがあんたと話したいんだ」
 そう言いながら、美見川は置かれたワインの一本を手に取った。コルクを乱雑に抜いて、黒い飲み口に視線を向ける。
「おい、ミミ、それはちょっとまずいんじゃないか」
「ワインなんかストロングゼロに比べたら大したことないだろ!」
 勿論そんなことは無い。ストロングゼロのアルコール度数は九度だが、赤ワインの十四度だ。この五度の差は案外大きいし、そもそも美見川はそもそもアルコールに強いわけじゃない。
 ワインを一気飲みした美見川は、当然のように昏倒した。あの日の昼酒の再来だった。目を覚ませば、ヘルベルチカはもういない。ワインの色の吐瀉物を吐きながら、美見川は心の底から悔やんだ。あれさえ無ければ、もう少しあそこに居られたのに。
 部屋の端にはストロングゼロが箱で置いてある。乱雑に開けられたグレープフルーツ味の箱が、美見川を呼んでいる気さえした。
 今日は平日で、数時間後には講義が始まる。
 それすら捨て去ったら、本当の意味でヘルベルチカを手に入れられるのだろうか。統計学の単位とヘルベルチカのことを比べて、どうにか前者が勝った。危ないところだった。

「それ、ドイツの三、ですね? ミミガワさん、知ってますか?」
 夢の中のヘルベルチカとどうにか離れられたのに、現実のヘルベルチカからは逃げられなかった。お昼時のピロティで、美見川は彼女にあっさりと捕まった。
 夢の中でヘルベルチカが見せたハンドサインを繰り返しやっていたのがいけなかった。あの奇妙なハンドサインがドイツ特有のものだなんて知らなかったのだ。それが誘蛾灯になって、遠かったはずの留学生を引き寄せてしまったのが尚更よくなかった。
 知っているか、なんて馬鹿げた問いだと思う。美見川はそれを目の前の女から教わったのだ。
「映画で観た……んだったと思う。タイトル忘れたけど」
「私、わかります。『イングロリアス・バスターズ』、好きです?」
 ヘルヴィーが軽く首を傾げながらそう呟く。適当なでまかせだったのに、どうやらそういう映画があるらしい。
「あ、まあ、うん。ヘルヴィーも好きなの?」
「んー……私も、好きです」
 少しだけ眉を顰めながらヘルベルチカが言う。好きな映画を語るには複雑な表情だった。どういうことなんだろう? もう少し深く聞いたら、何か教えてくれるだろうか。それとも『井戸の底の殺人』と同じことになるだろうか? それが怖くて、上手く言葉が出てこない。
 美見川が悩んでいる隙に、ヘルベルチカのゆっくりと開く。
「ミミガワさん、変わるました」
「……変わるました?」
「違います。前は」
 その澄んだ緑色の目が恐ろしかった。綺麗な目だとは思うのに、見慣れない所為で奇妙に映ってしまう。変わったとは思う。その単純な一言で、夢の中の秘密まで暴かれてしまいそうだった。それだけは、絶対に避けなくちゃいけないことなのに。
 こちら側のヘルベルチカは、やっぱり美見川とは別の世界の人間であるかのようだった。同じ相手、同じ考えを持った人間のはずなのに、美見川はやっぱりヘルベルチカと上手く話せない。率直に言ってしまえば怖かった。
「……ヘルヴィーも変わった?」
「私、ですか」
 宝石染みた緑色の目が光る。
「わかり、ません」
 ヘルベルチカに会いたい、と切に思った。今目の前に彼女がいるのに。

「『イングロリアス・バスターズ』好きなの?」
 その日の夜、美見川は何かに復讐するかのようにそう尋ねた。こちらを見つめてくる彼女の目は、同じ色なのに優しく見えた。宝石よりは優雅な自然を思わせる目だ。
「……まあ、観ていてちょっと複雑なところもあるよな。ただ、タランティーノ監督が好きなんだ。ああいったテンポの映画を作る人間って、あんまり多くないだろ?」
「いや、全然観たことないんだ。そもそも映画もあんまり観ない」
「そうか。観るようになったら、これから人生もっと楽しいぞ。ただ、恵右が人生の最初の一歩に『イングロリアス・バスターズ』は勧めないが。ちょっとこう、上手い距離の取り方をしなくちゃいけなくなるだろ?」
 なかなか複雑な感情のある映画らしかった。それだけで、観たくなってくる。『私も、好きです』の言葉だけでは伝わらない細かい感情が伝わってくる。やっぱり、どうしてもこちらのヘルベルチカの方が話していて楽だった。言葉以外の面でもそう思ってしまう。
「そこの階段ちょっと欠けてるから注意してくれ」
 慣れた様子で階段を上がるヘルベルチカは、すっかり風車での生活に馴染んでいるようだった。
「ここであんたに会うと、反省する」
「何をだ」
「私はこのふざけた夢の中で、自分の、自分による、自分の為のヘルベルチカを作り出したんじゃないかなって」
「何だそれ」
「そうだとしたらもう恨まれても仕方ないよね。そういうSFドラマあったもん。好きな女をバーチャル上に人格コピーしてこう……やましいことをするやつ……」
「やましいことの内容が『雪原でバイクを一緒に走らせる』なら、お前の欲望はちょっと倒錯してるんじゃないか?」
 嫌な角度のお話だった。確かにぐうの音も出ない。こんな限界のような世界を創造しないとラブロマンスに持ち込めないのなら、そもそもその時点で不適切だし、こういうシチュエーションじゃないとまともに向き合えないのなら、そもそもヘルベルチカに向き合おうとなんてしないべきだ。
「あんまり深く考えるなよ。ミミ。これが全部お前の作り上げた世界なら、なかなかお前はセンスがいいよ。美女とバイク、雪原と風車。芸術点が高い欲望じゃないか」
「自分でそれ言う?」
「この前は踊り場の部分で止まってしまっただろ? どうだ。良かったら一番上まで登ってみないか」
 ヘルベルチカはそう言って、返事も待たずに階段を上っていく。拒否するつもりなんて欠片も無かった。この上にあるものを、美見川も一緒に見てみたかった。
 階段を五分ほど登って、唐突に階段が終わった。
 そうして見た最上階の景色に息を呑んだ。
 一生沈むことのなさそうな高い日差しが、雪原を照らしている。遮るものの何もない雪景色は寂寥感を与えてくるだろうと思ったのに、そんな生温い感情は少しも抱けなかった。何も無い景色を見る時、人は何もないということが在ることを知るのだ。
「ミミ、どう思う?」
「なんていうか、……言葉にならない」
「こんな夢みたいな空間で、言葉にならないなんてことがあるのか?」
「言葉って本当に足りてないんだよ」
 全部を言葉の所為にするのはずるい、と思う。それでもそうするしか他が無かった。現実のヘルベルチカの隣で笑い合えないのも、名探偵ラブデフリーの行方がわからないのも、全部不完全な言葉の所為であるはずだった。
「私の故郷もこんな感じだ」
 ヘルベルチカがぽつりとそう言った。
「ドイツだっけ?」
「お前は故郷って言われて日本って答えるのか? 名古屋とか愛知とか答えるだろう。普通」
「愛知と名古屋は大体同じだろ」
「私の故郷は愛知や名古屋的に言うと、ヘレラウという街なんだ」
「ヘレラウ」
「聞いたことが無いだろう。ミュンヘンやドレスデンに比べると、やっぱり少しマイナーだからな」
「どんなとこ?」
「美しくのどかな街だ。東京に比べたら刺激に乏しいと思われるかもしれないが、きっとミミは気に入るだろう」
「私はそんなスローライフに憧れるタイプの人間じゃないんだけど」
「斜に構えた人間には逆に好ましいだろう。派手な観光地じゃないからな」
「は? 悪口?」
 美見川の言葉を無視して、ヘルベルチカが続ける。
「ヘレラウは忘れられかけた街だ」
「忘れられかけた?」
「旧東ドイツ時代、街の自慢である祝祭劇場が長らくソ連に利用され、一般人は長らく立ち入ることすら赦されなかった。街の一番の名物が失われていたんだ。あまり嬉しくない記憶だ」
 ドイツの歴史については美見川も知っている。世界史に明るくなくてもわかる、有名過ぎるお話だ。けれど、それはあくまで部外者としての話で、目の前のヘルベルチカから聞くそれとは、やっぱり何処か熱が違う。
「それ以来、ヘレラウはこれといった特徴も無く、静かに生活を営むだけの町になってしまった。ソ連から劇場が解放され、ヘレラウが住民の元に帰ってきても、ヘレラウは失われ続けていた。最近ようやく、ヘレラウは偉大な田園都市の姿を取り戻してきたんだ。春か昔に設計された都市構造が評価され、歴史へと素朴に寄り添い続けた工房が世界遺産に推薦されてな」
「世界遺産になったら嬉しい?」
「思い出されたら嬉しい。ヘレラウが美しい場所であるということを。かつては人々の理想を反映した都市であったことを」
 窓から見えるのは一面の雪原だけだった。それでも、ヘルベルチカはそこにヘレラウの風景を見ているのだろう。
 ヘルヴィーは『向こう側』で、自分の故郷の話を欠片もしなかった。それは、話したくなかったからではないはずだ。単に、彼女の日本語能力と、今言ったようなヘレラウの物語が釣り合っていないから、彼女は敢えて選ばなかったのだ。
 それが、美見川にはなんだか無性に寂しく感じた。ドイツ語で語られてもきっとわからないだろうに、『向こう側』の自分にもヘレラウの話をして欲しくて仕方がなかった。
「……行ってみたい」
「来るといい。見せたいものが沢山ある」
 その言い方をされると、もう駄目だった。いつかヘレラウに行った時は、きっとヘルベルチカがそこにいてくれるだろう。祝祭劇場も田園も、同じ熱度で語ってくれるに違いない。
 そこでふと思った。この世界にもヘレラウがあるんだろうか? もしヘレラウに一緒に行けるとしたら、それは『向こう側』のヘルベルチカと一緒になのかもしれない。その瞬間、うっかり絶望しそうになった。目の前のヘルベルチカと、あちらのヘルベルチカが同一人物だと、分かってはいるのに上手く繫がらない。自分の都合のいいヘルベルチカだけ愛するのは、やっぱり何処かずるいだろうに。
 インスタントな絶望に浸っている内に、お別れの時間が来た。ぐらりと視界が歪み、限界まで飲んだ時のような酩酊が襲い掛かってくる。
「そろそろか」
「待って、向こうに戻る前に、一つ試したいことがあるんだ」
「どうした?」
「これ」
 言いながら、美見川は着ていたカーディガンを脱いだ。意外と寒さは感じなかった。風車の中にいるからなのか。はたまた夢の中であるからなのか。丸めて布の塊になったそれを、強引に押し付ける。
「これ、私が次ここに来るまで持っといて」
「いいのか? いいのか、って聞くのも変だな」
「何かを持ってくることは出来ないけど、何かを残していくことは出来ないのかなって思って」
 あの時の『井戸の底の殺人』のように、例えばこのカーディガンが、美見川の存在の証明にならないだろうか。そう思ったのだ。幻覚を疑うのはヘルベルチカの方も同じだろう。現れては消える美見川は、多分とても心許ないはずだ。
「何かを残すか……」
「逆にヘルヴィーが何かを託すのもアリかもしれないんだけど、こんな何もないところで所持品を減らすのはちょっと……」
 それに、ヘルベルチカの持ち物なんて殆ど無かった。緑色のファーコートを奪い去るのは気が引けるし、何となく『向こう側』に持ち込める気もしない。
「確かにな。それに、向こう側に持っていける気もしない」
「同じこと考えないで」
 それからヘルベルチカは少しだけ黙った。大きな目が、美見川のことを見ている。脈絡なく唇がくっつくまで、数秒とかからなかった。意外とかさついてるんだな、という感想さえ抱かなければ、何かの間違いだと思っていたかもしれない。ややあって、ヘルベルチカが言う。
「……『暗がりに入ったら、私はあなたにキスをするかもしれないが、気にするほどのことではない』」
「……それ、何の引用?」
「スティーブン・キング」
「ええ、はあ、なるほど……」
 ミステリーだけじゃなく、ホラーも好きなのか。ヘルベルチカの読書の趣味は侮れない。ヘルベルチカの方はしてやったりというような感じで、表情の真意が読み取りづらかった。それは一体、どういう顔なんだろうか?
 スティーブン・キングの引用に阻まれた所為で、どういうわけだか反応が遅れた。いつ眠ったのかすら定かじゃない。気づいたら自分の部屋の床に転がっていた。
 初めて見た、夢らしい夢だった。ある意味スマートですらある。夢のピークはヘルベルチカとのキスだなんてなかなか純情じゃないか。なんだか大変死にたい気分だった。だって、欲望がストレート過ぎる!
 自分の夢であるということは置いておいても、何故ヘルベルチカは自分にキスをしたのだろう。そういう趣味は無いはずだ。あれが自我を持ったヘルヴィーのコピーなら、尚更不可解だった。スティーブン・キングの引用は、あの先どう続くのだろう。キングの本なんか一冊も読んだことがないから、そこからの言葉が分からない。

 それから丸一日、美見川はこのことについて考え続けた。自分でもどう結論をつけたらいいのかわからない。キスイコールラブロマンスでは、ちょっとお話が早すぎる。そもそも、ヘレラウではあれは単なる挨拶なんだろうか?
 悩んだ末に、美見川はまたもストロングゼロの缶を開けた。ヘルベルチカがお気に入りだというグレープフルーツをチョイスして、一気に飲む。結論なんかは分からないけれど、夢の中のヘルベルチカに会わずにいることはもう出来なかった。アルコールに耐性が出来て来たのか、二本開けてようやく酔いが回っていく。こうして人はアル中になっていくのかもしれない。
 サイドカーで目覚めても、ヘルベルチカは隣にいなかった。大きな風車が影を作って、とっぷりとバイクを飲み込んでいる。美見川はサイドカーから飛び出して、雪を踏む。ヘルベルチカは、一体どこにいるんだろう?
 答えはすぐに見つかった。風車に隠れるようにして、細長い足が伸びている。雪の上で、ヘルベルチカのファーコートはよく目立った。
「ヘルヴィー」
 返事が無い。嫌な予感がする。そうして、そういう時の予感は大抵当たるものだ。

 まばゆいばかりの雪原の上で、ヘルベルチカ・ミヒャエルスが死んでいた。

 その翌日、美見川は何事もなかったかのように大学へ向かった。堕落したサークルに所属しているとはいえ、講義をサボるわけにはいかない。たとえ、キスまでした人間の死体を目の当たりにしても、だ。
 二限の講義に出席した後、美見川はまっすぐ部室へ向かった。いるかどうかは五分だったけれど、とにかく向かわずにはいられなかった。
 扉を開く。
「あ、ミミガワさん」
 当然ながらヘルベルチカ・ミヒャエルスが死んでいるということはなく、彼女は今日もみんなの輪の中で笑っていた。彼女の上品な金髪はゆるい三つ編みに結われている。きっと誰かが戯れ半分で結ったのだろう。どういうわけだかリボンまで編み込まれたそれは、可愛いヘルヴィーにとてもよく似合っていた。それでこそ。
 美見川があまりに途方に暮れていたからだろうか。いつもよりもずっと優しい声で、ヘルベルチカが重ねて話しかけてくる。
「おはようございます」
「……おはようヘルヴィー。それ、誰がやったの」
「これ、山口さん、してくれました」
「そうなんだ。似合うね」
「そう、ですか? ありがとうございます」
 内心ではどう思っているんだろうか。自分の見た目の麗しさに自覚的なヘルベルチカ・ミヒャエルスなら、憎まれ口の一つでも叩いただろうか。それか、そっけなく受け答えをしてみせるか。
 いや、と美見川は思い直す。全てが自分の幻覚やら白昼夢なのかもしれない。キュートな外見にシニカルな内面を持ち合わせたヘルベルチカ・ミヒャエルスなんて存在するんだろうか? あれすら、自分の中にある何かしらの願望なのかもしれない、と思う。けれど、願望だとしたら、それはそれで、こう、屈折しているような……。
 それに、困ったことに、嬉しいことに、目の前のヘルベルチカは生きているのだ。これこそが、あの雪原が夢であることの証明なんじゃないだろうか?
「ミミガワさん」
 何かを制するように、ヘルベルチカが短く名前を呼んだ。
「え……? うん、何?」
「ミミガワさん、顔、色の悪いです」
「あ、え……うん……そう、ですかね? いや、ですか? あれ?」
「眠れなかったですか?」
 随分手酷いことを仰る。美見川は心の中で舌打ちした。普段よりずっと長い睡眠時間で、ずっと長い夢を見て来たところなのだ。風車小屋の死体。乱れ髪のヘルベルチカ。そういうものに向き合わされてきたことを、目の前の彼女は知らないのだ。
「いや、多分疲れてるだけ……」
「美味しい、安い、種類もいっぱいで、な、お酒ある国、いいです。でも、飲みすぎるのは、よくありません」
 どうやら単純な飲み過ぎだと思われているらしい。昼から酒を飲むサークルの一員なんだから、そこを紐付けられるのは自然な流れだ。
「ドイツも、安くて、ビール、美味しいです。いいです。ただ、酔う人も、多いです」
「……そうなんだ。行ってみたいな、ドイツ」
「来てください。沢山あります。見るもの」
 間違い探しをするのはやめておいた。少しだけニュアンスの違うその言葉を深追いしたら、傷を負うのは多分美見川の方になる。
 彼女が語っているのは〝ドイツ〟の話だ。のどかで麗しい田園都市、ヘレラウの話ではない。『見るもの』の内容はきっとノイシュヴァンシュタイン城やケルン大聖堂で、祝祭劇場じゃない。
 流れるような会話が懐かしかった。心の中ではヘルベルチカがすらすらと語り掛けてくれているのかもしれないけれど、それを知る術は美見川には無い。
「いつか行くよ。きっと行く」
「はい」
 今ここでキスの一つでもしたら、夢の中と同じ顔をするのかすら分からなかった。あれはフロイト好みの屈折した願望かもしれないのだ。

 美見川が夢から覚めると、ヘルベルチカは雪原に一人取り残される。そのことが、今までは何だか心苦しかった。これからはもうその心配が無い。ストロングゼロを飲む必要なんかもう無い。
 けれど、美見川はもう一度夢を見る決意をした。ヘレラウについて語る彼女に、美見川は会わなければいけない。
 今日選んだのは、ストロングゼロのビターアップルだった。美味しいことは分かり切っている。アルコールが途方もなく効くことも、それでいて飲みやすいことも。禁断の果実を選ぶのは気取り過ぎているかもしれないけれど、餞には相応しいはずだ。
 眠りに落ちる瞬間、美見川はこの得体の知れない焦燥に名前を付けようとして、結局やめた。林檎は足がとても速い。色々な意味で。

 戻ってみても、依然としてヘルベルチカは死んでいた。今日、生きている方の彼女と会ったお陰で、幾分か平常心を取り戻している。美見川は一人で唱えた。大丈夫。怖くない。これならいけるはずだ。
 死体に触れるなんてぞっとしないと思っていたのに、ヘルヴィーに触れた時、少しも気持ち悪いとは思えなかった。
美見川の感情はもう既にそういう場所からはかけ離れたところにあった。冷たく正規の無い肌も、ぼさぼさの髪も、恐ろしいことに愛おしい。数段色が褪せてしまった髪も、結ったらきっとまだ綺麗なのだ。
 ヘルベルチカは、雪の中に俯せで寝転んでいるような恰好をしていた。位置は丁度、風車の窓の下だった。あそこから落下したんだろう、と美見川は直感する。あんな高いところから落ちたのに、雪の所為か、遺体には殆ど外傷が無い。落下の際に、きっと首の骨が折れたのだ。それがどんな痛みを生んだのかは、想像もつかなかった。
 いきなり手を放されたような感覚だった。まさかここで死ぬなんて思わないじゃないか、と独り言ちる。キスなんかするからいけないんだ、というところまで思考がいった。あんなところで特別なことをするから、展開がそういう方向に行ってしまったんじゃないか。
「あそこから、何か始まりそうだったのにな……」
 返事は無かった。ミステリーなら始まったのに、ここには名探偵すらいない。
 辺りには吹雪の跡も無かった。雪原は美しく凪いでいて、GEAR UP SAHARAには雪一つ積もっていない。それなら、ヘルベルチカは何に脅かされたのだろう。
「ヘルヴィー……」
 死体に話しかけて感傷を得ようにも、案外上手くいかなかった。物言わない相手に対して語り続けるのは難しい。彼女は結構話し上手なのだ。何かを呟こうとして、結局やめた。
 これからどうしよう、と美見川は思う。
 GEAR UP SAHARAは優秀なバイクだ。免許なんか持っていないけれど、感覚的に運転が理解出来る。何となくだけれど、これにさえ乗れば、きっと美見川も雪原を走っていけることだろう。でも、一体何の為に?
 ヘルベルチカの死体はサイドカーに綺麗に収まりそうだった。だからといって死体と一緒にランデブーする気にもなれなかった。
風車と一緒に心中するか、もう二度とストロングゼロを飲まずに済ませるか。
ここに来ない為には、もうストロングゼロと手を切るしかなかった。箱買いしたストロングゼロの処遇に困る。この夢は、全て遠回りな禁酒だったんじゃないだろうか?

 その時、美見川の頭の端に、一つの可能性が浮かんだ。けれど、それがどういう意味を持っているのかは、やっぱりまだわからないままだった。理由を求めて、風車の最上階に向かう。
 そして美見川は、ヘルベルチカが死んだ理由を唐突に理解した。

「それじゃあ、今週もお疲れっしたー!」
「したー!」
「まあこっからはみんなレポートだろ? 終わったも同然だって」
「とか言って、毎年一人二人留年すんのが英知だろ」
 期末試験が終わったことで、昼酒部の人間は一様に浮かれていた。二週間も経たない内に、英知大学は夏休みに入る。ここまでくればもう夏休みと呼んでも差し支えないだろう。とのことで、一足早い納会が行われていた。狭い居酒屋の中に、美見川を含めて十四人もの人間が集まっている。
 本当はこんなところになんか来たくなかった、と何度目かのことを思う。けれど、本当はみんな同じ気持ちでいるのかもしれない、と思うようにもなった。誰もが似たような諦めの中で、どうにか寄り添っているのかもしれない。……それがまた、何とも言えないくらい寂しかった。
 ヘルベルチカは今日も輪の中心にいた。美見川から見て、左斜め前にいる。絶妙に会話の出来ない位置だ。ニコニコと笑って酒を煽るヘルベルチカは、美見川の方を見てもいない。
 薄いスクリュードライバーをちびちび飲みながら、美見川は彼女のことだけを見ていた。夏休み、ヘルベルチカはヘレラウに帰るのだろうか。
「ヘルヴィーってさ、チャンジャ食べたことある?」
「チャンジャ、ないです」
「ヘルヴィーこういうの無理そう。ね、辛いのとか」
「いや、ゲテモノ好きでしょ。ギャップだよギャップ」
 周辺の取り巻きが、小皿を取りながらやんややんやと騒ぎ立てている。ヘルベルチカが何か言おうとするけれど、一拍遅れる所為で上手くいかない。誰も彼女の話なんか聞いていないようだった。今までは気づかなかったけれど、今は輪の中で置き去りにされているヘルベルチカが見える。あのヘルベルチカなら、今の会話の中に二、三個は面白い返しが出来たはずだ。自分は一言も発せられていないのに、美見川はそう思う。
 会話に入ろうとしてすらいないことがバレないように、必死にアルコールを追加する。頼んだファジーネーブルは五秒ほどで出て来た。どんな仕組みになっているんだろうか。
「ていうか、みんな物足りなくない? これ、そろそろ入れようや」
「お、いいね。正直ここの店のアルコール滅茶苦茶薄いんだもんなー」
「密輸してきたわ、密輸」
 その言葉と共に、鞄からはストロングゼロの缶が出て来た。一本、二本、数えるのも馬鹿らしいくらい大量のストロングゼロが、座敷にそのまま置かれていく。酒を持ち込むのはマナー違反のはずだけれど、熱狂の中で、それを咎める人間は誰もいない。
「やるじゃん野村!」
「さっすがジャンキーは違うわ」
「だろだろ?」
 野村が、誇らしげにストロングゼロの缶を掲げる。隣に座るヘルベルチカは、不思議そうな顔をしてそれを見つめていた。いきなり飲み会に乱入するストロングゼロが理解出来ないのだろう。
 嫌な予感はしていた。雪原で味わったのとはまた違う種類の嫌な予感だ。眼鏡の奥で暗く淀む目が、ヘルベルチカのことを見ている。
「ヘルヴィー、何見てんの」
「はい」
「あ、そうだそうだ」
 空いたジョッキの中に、野村がジョボジョボとストロングゼロの中身を注いでいく。さっきまで梅酒が入っていたそれには、梅干しが未だに取り残されていた。それとレモンサワーのマリッジなんて想像もしたくない。いくらストロングゼロの美味しさが盤石であっても、それはある種の冒涜だ。
 乱雑に缶を放り出す野村の顔は、奇妙な形に歪んでいた。度の合っていなさそうな眼鏡と、ジョッキがぶつかりそうなくらい近づく。
「ヘルヴィー、これ一気してよ」
「イッキ」
 ヘルベルチカが呟くと、それはまるで異国の呪文のようだ。一揆、と美見川の中で勝手に漢字が変換される。居酒屋で酒を持ち込むなんて酷いマナー違反だ。そして、他ならぬヘルベルチカにそれを飲ませようとしているおぞましさ。
 二重の冒涜を前にして、あと少しで叫び出しそうな気分になった。やめてくれ、と切に思う。ヘルベルチカは、そんなことをされていい相手じゃないのに。
「ヘルヴィーはアルコール強いしさ、一気しても平気でしょ」
「アルコール、強いです」
「だったら飲めるでしょ? 一気してよ」
 ねっとしとした声だった。媚びと悪意が同居している。少し前の美見川も、多分同じ感情を抱いていた。誰からも愛される眩しいヘルベルチカを、少しだけ傷つけてやりたい。でも、美見川は絶対にそれを行動に移さなかった。
「大丈夫だよ、ヘルヴィー。な、飲めって」
「あー……」
 困ったような顔をして、ヘルベルチカが笑う。
 けれど、その時美見川は確かに見た。
 微笑を浮かべるヘルベルチカの目が笑っていない。雪原の中で観たのと同じ、表情豊かな冷笑の目だ。――私が楽しんでいるとでも思ったか? と、小さく言うヘルベルチカの幻聴が聞こえる。脳行すら楽しんでいなかった、オーソドックスな感性のヘルベルチカ。それなら、目の前の茶番だって、きっと。
 気づけば、美見川の手が伸びていた。そのまま、野村の眼鏡を奪い去る。時間にしたら二秒もかかっていないだろう。まるで定められていたかのような、綺麗な動きだ。
 そして美見川は、眼鏡を躊躇いなくストロングゼロの中に沈めた。
 私がヘルベルチカの為にこんなことをするのか、と美見川は他人事のように思う。ここに居るヘルベルチカと、自分とキスをしたヘルヴィーは違うのに。それでも、これはリミッターを外す為の密やかなおまじないであり、踏ん切りをつける為の助走でもあった。
 呆気に取られているオーディエンスを後目に、眼鏡の入ったジョッキも奪う。
 眼鏡酒は唇にフレームが当たって飲みづらい。味に大きな変化は無いけれど、眼鏡が酒に入っているという不快感が折角の酒を台無しにしている。けれど、美見川は構わなかった。そのまま一気にジョッキを乾かすと、眼鏡を氷の添え物に変えてやる。
「ミ、ミガワさん」
「ヘルヴィー、行くよ」
 一気飲みの所為で視界がぐるぐるする。けれど、目の前の白い手を捉えることくらいは可能だった。雪を思わせるような冷たい手が気持ちいい。
 ヘルベルチカは、意外にもすんなりと立ち上がった。それでいい。途中退出が出来ないで、何処に会費自前回収制の利点があるだろうか!
 『卒業』の粗雑なパロディをやらかしながら、どうにか二人は赤札屋の店内から逃げ出した。もう戻れないだろうな、と美見川はぼんやり思う。あれだけの蛮行をやらかしたのだ。たとえ誰が気にしなかろうと、彼女自身が耐えられない。みんなのアイドルヘルベルチカは平気だろうが、自分は無理だ。けれど、それで構わなかった。本当は、ヘルベルチカにすら、昼酒部に戻って欲しくはない。
 美見川の土俵にある城なんて、結局のところ外濠公園くらいのものだった。一言も喋らず手を引かれていたヘルヴィーが、ここにきてようやく口を開く。
「ミミガワさん、どうかしましたか」
「ミミって呼んで」
「え?」
「ミミって呼んで。お願い」
「………ミミ」
 あからさまに戸惑った声だったけれど、ヘルヴィーは素直にそう呼んでくれた。そう呼ばれるだけで、夢の中の影と今ここにいる彼女が被る。そこでようやく安堵した。美見川は、どんな手段を使ってでも、雪原のヘルベルチカを取り戻さなければいけなかった。彼女が見出した理解を。あの雪の中に置き去りにした声を。
「野村さん、怒ってないですか」
「……いいよあんなの。怒ってるのはこっち」
「ミミさん、怒ってるですか」
 上手く答えられなかった。
「ストロングゼロ駄目でした?」
「駄目だったかも……なあ、あのノリ」
 果たして、ストロングゼロとは何なんだろう、と考える。確かに美味しい。飲みやすくて酔いやすく、コストパフォーマンスが良い。けれど、ストロングゼロの素晴らしさはそこでは無い。あれは飲み物の形を取った言語なのだ。薄々気付いていた事実に上手い説明をつけられたことに安堵する。
 美見川は一線を越えられない人間だ。羽目を外すこともチューンを狂わせることも怖くて出来ない。それなのに、線の向こう側にいる集団に交じりたくて仕方がない。同じ言葉で喋りたい。
 ストロングゼロで得られる崩壊なんてたかが知れている。その一杯をハローに変えて、そこに混ざれるならどれだけいいだろう。だから、美見川は昼から酒を飲み、ストロングゼロに手を伸ばす。同じ文脈を共有し、そこにいる理由を得る。
 日本に来たヘルベルチカが、昼酒部に入ったのもそれが理由だろう。異国の地で素早く馴染む為の手段。ストロングゼロという、グーテンタークよりも親しみやすいご挨拶。
 美見川が縋っていたのは、ストロングゼロさえ飲んでいればこの場に馴染めるんじゃないかという、どうしようもない期待だ。
 ――ああ、でもヘルヴィー、あんたは、そんな期待を抱かなくていい。そんなものを飲まなくても、同じ言葉を喋れなくても、片言であっても、いつでも中心に、いられるじゃないか……。
「ヘルヴィー、聞いて欲しいことがある」
 美見川はゆっくり口を開く。
「これは、明らかに弱々しい、幼稚なばかの言う言葉だ」
「カート・コバーン、ですか?」
「だから、あんまり深く考えないで欲しい。こんなのは単なる夢の話で、あんたが読んでたミステリーに比べたら何の意味も無い話なんだけど、出来れば聞いていて欲しい。これを言わないと、私はきっと、ヘルベルチカと向き合えないから……」
「私、ミステリー、好きです」
「そうだね。知ってる。名探偵ラブデフリーのことだけは、私もよく聞いてるよ」
 その名前を聞いた瞬間、ヘルベルチカの目が微かに輝くのがわかった。大きな目に
「でも、これはラブデフリーみたいなミステリーじゃない。むしろもっとどうしようもない話。それでもいい?」
「ミミさん、話したいですね?」
「……うん。聞いて欲しい」
 一息ついて、美見川は言う。
「あるところに旅人がいました」
「……はい」
「とある雪原に誰にも使われていない風車があってさ。旅人は、そこを仮の住まいにすることにしたの。風車には多少なりとも蓄えがあって、暮らすには十分な場所だった。旅人の元には、商人が訪れる予定があって、旅人はそれを待つはずだった。でも、そうはならなかった。……商人が風車に着くと、旅人は風車から身を投げて、死んでいた」
 ヘルベルチカは重々しく頷く。それが自分の身にあったことだとは、想像もしていないに違いない。
「旅人の死体を見た商人は、それを不可解だと思った。旅人は世を儚んでいるようには見えなかった。自殺を企てるなんて考えられなかった。何せ彼は旅人なんだからね。どこまでも自由な存在なんだから」
 あの雪原は絶望の坩堝だったけれど、ヘルベルチカはその中にあっても美しかった。
「旅人、死なない人ですね」
「そう。死なない人。……だから、商人は不思議に思った。どうして旅人は死ななくちゃいけなかったんだろうって。自殺でないなら、旅人のことを誰かが殺してしまったんじゃないかとすら思った。商人は、むしろその方がありがたいとすら思っていたと思う」
「ありがたい、です?」
「だって、そっちの方が救われるじゃん。理由もわかりやすいし、納得がいけば先に進める。でも、そうとはならなかった」
「それじゃ、殺されてない、です?」
「ある意味では殺されてたけど、うーん、何だろうな。……言ってしまえば事故だったんだよ」
「事故」
 ヘルベルチカの落下したと思われる窓は、風車の中段にある窓だった。風車のハブに程近い箇所だ。……風車の羽根に触れることも出来そうな、あの窓。羽根の配置によっては、実際に触れることが出来るだろう。タイミングの問題だ。
「風車が回り出したのに、旅人は巻き込まれたんだよ。窓から手を伸ばせば、羽根が触れるくらいの位置関係だったんだ。自殺なんかするはずない。だから、きっと旅人はそれに巻き込まれた」
「不幸な、事故です」
「そうだね。でも、風車は巨大で、そうそう動かないように見えた。風が吹けば粉を挽くのに使えただろうけれど、雪原にはそんなに強い風が吹いた形跡が無かった。旅人が乗っていた白いロバにすら、雪がかかっていなかった。商人は、この風車自体を不思議に思った。恒常的に風が吹いているならまだしも、どうしてそんな場所に風車を立てたんだろう?」
「不思議、です」
「でも、風車を動かす方法は必ずしも風じゃなかったんだ。あの風車は自由に動かすことが出来たんだよ」
 つまりあれは、風車でありながら、大掛かりな機械でもあったのだ。風が吹かない日にも小麦粉を挽ける、とても実用的な代物だ。
「非効率的だよね。風が吹かない時は別の動力で動くようにしてたんだ。そうまでしてそんな機械作る必要ある?」
 それとも、あれはやっぱり夢の中の不条理な代物なんだろうか? そもそもGEAR UP SAHARAの存在する世界に風車が両立していいものか。ヘルベルチカ・ミヒャエルスと二人きりの世界と同じくらいナンセンスだ。
「税金、必要です」
 けれど、ヘルベルチカはまっすぐにそう言った。たどたどしい日本語で、必死にジェスチャーを混ぜながら。
「領主、風車や水車に、料金つけます。農民、粉にします。領主が、お金になります」
「……ああ」
「手は、お金になりません」
 つまりは、税収の問題なのだ。麦を粉で納めさせ、ついでに粉にする時にもこの装置を使わせれば、領主は二重に金を取ることが出来る。美見川には思いつかなかったけれど、言われれば理に適っている話だった。
 もしかすると、ヘレラウにも風車なり水車なりがあるのかもしれない。何しろヘレラウは田園都市なのだ。
「……何にせよ、旅人もそれが人為的に動かせるものだと知ったんだと思う。旅人は賢かった。だから、旅人はレバーを引いて、実際に羽根を動かした。それが原因で、旅人は死んだんだけど」
「どうして?」
「どうして動かしたか? どうして死んだか? 多分それは同じ理由」
 風車が自分で動かせると気づいた美見川は、これが原因でヘルベルチカが落下したんだろうとあたりをつけた。実際に動かしてみれば羽根の力強さは言うべくもない。これに巻き込まれて落下したんだ、とは何となく思った。あの窓は
 ただ、腑に落ちない部分もあった。
 何故ヘルベルチカは羽根を避けられなかったのか。風車が回り始めたと知って、彼女はすぐに窓から離れるべきだったのだ。それなのに、ヘルベルチカはそうしなかった。動かなかった。それは一体何故だろう?
 美見川は最初、それをヘルベルチカの希死念慮だと思っていた。心の何処かに、ヘルベルチカはあの場所を拒んだんじゃないだろうかという疑いがあった。何でもかんでもメタファーで片付けるのは趣味じゃないけれど、それこそ、誰も言葉を交わすことが出来ないあの雪原は、『こちら側』と似たような孤独だっただろう。覚えのある孤独に、果たして人間は耐えられるものなのか。
 でも違った。そんなことじゃなかった。答えは簡単なところにあった。
「旅人は、一枚のケープを持っていた」
「ケープ?」
「そう。死んだ旅人はそのケープを持っていなかったんだ。商人は、旅人がそれを手放すはずがないと思っていた。信じたかっただけかもしれないけど。だから、商人はケープを探すことにしたんだ」
「あった?」
「あったよ。最上階まで登ったらすぐに見つかった。馬鹿げた話だったな。それで全部わかった」
風車の羽根の裏側に、カーディガンが絡まっていた。
 ヘルベルチカは、きっと最上階に行った時に、カーディガンを飛ばしてしまったに違いない。カーディガンは羽根の端に引っ掛かり、ヘルベルチカでは取れない位置にまで行ってしまった。
 だから、彼女は羽根を動かそうとしたのだ。
 何かしらのスイッチによって動き始めた風車は、どんどんスピードを上げていった。身を乗り出していたヘルベルチカは、どうにかカーディガンを取ろうとしていた彼女は、羽根の予想外の加速に付いていけず、何処かを引っかけたか、ぶつけたか、バランスを崩したか。そのどれかはわからないが、結局死んでしまった。
 ヘルベルチカはカーディガン一つの為に死んだのだ。
 つまりは、そういうことなのだろう。
 後悔の気持ちは湧かなかった。申し訳ないと思うくらいなら、そもそもあんな夢を見るべきじゃなかった。殺人の罪すら背負えないだろう。美見川が出来たことは、ただただキュートな知人を夢に見ただけなのだ。
「旅人が死んだ理由を知った商人は、納得がいった。そういうことなんだと思った。旅人は寒さを凌ぐ為のケープを取ろうとして死んでしまったのだと」
「商人は、悲しいですか?」
「悲しかったよ」
「商人はどうなりますか?」
「……さあねー。話はここで終わりだから。この先は無いよ。物語の主役は旅人で、商人じゃないから。旅人が死んじゃった時点で全部おしまいなんだと思う」
 美見川はそう言って、物語を閉じた。
 さて、ヘルベルチカがいくら日本語のリスニングに精通しているとはいえ、今の話を完全に理解出来ているかは怪しかった。纏まりも救いも無いミステリーだ。そもそも、単なる知り合いが、悲壮な顔をして語るそれは、控えめに言っても奇異なものに映っただろう。
 鏡が無くてもわかる。美見川はきっと酷い顔をしているに違いなかった。
「……ミミさん。悲しいですか」
「何て言ったらいいのかわかんないんだよね。悲しいことは悲しいんだけど、ただ悲しいっていうのもまた違うんだよ。上手く言葉に出来ないっていうか……」
「わかります」
 ヘルベルチカが『わかる』のは、果たして悲しみの方だろうか。それとも、上手く言葉に出来ないということだろうか。会話というものはとにかくハイコンテクストなところに乗っていて、こんなささやかな会話ですら上手く流してくれないのだ。
「ミミさん」
「……なーに」
「飲みます」
 そう言って、ヘルベルチカが傍らの黒いバッグを開けた。
 ルーズリーフ、ペンケース、電子辞書。それらの模範的な荷物の中に、二本のストロングゼロの缶が入っていた。
「……どうしたの、これ」
「さっき、ストロングゼロの缶、席に置いてました」
 ヘルベルチカは『ストロングゼロ』の発音だけ妙に上手かった。流れるように綺麗な発音で、異国の酒の名前を呼ぶ。
「ちょろかし、です」
 悪戯っぽくヘルベルチカが笑う。その華麗な手管には覚えがあった。何の躊躇いも無くバイクを走らせた大胆不敵なヘルベルチカだ。心の中では不躾な先輩に嫌気が差していたのだろう。このくらいなら十分小粋な復讐だろう。気づけば美見川の方も併せて笑っていた。
「……ちょろまかし、ね」
 言いながら、適当な一本を取る。
 美見川の指に触れたのは、寄りにもよってDRYだった。甘くないことを売りにしている、アルコールの為のアルコール。散々甘くないものを見せられた後に、飲むのがこれとは窮まっている。プルタブを開けて飲み下したそれは、何とも激しい味がした。
 横目で見たヘルベルチカは、お気に入りのグレープフルーツを手にしている。あの席ですら結構飲んでいたはずなのに、ヘルベルチカの頬には赤みすら差していなかった。白い肌。
 つやつやと光る唇は、あの夢の中と同じ感触がするんだろうか? と、馬鹿げたことを思った。あの夢のヘルベルチカは、もうどこにもいないのに。
「美味しい、です、これ」
「そうだね。……ストロングゼロは美味しい。多分、この国でも一番か二番目くらいに良いものだと思う。……私さ、ストロングゼロが好きすぎて箱で買ったもん。四つくらい」
「それは、凄く、好きですね?」
「一生分買おうかと思ったんだよ。全然足りないんだろうけど」
 冗談だと思ったのか、ヘルベルチカが楽しそうに笑った。けれど、美見川の中では本気だった。その何リットルかのストロングゼロで、美見川は目の前の女の人生を買い上げようとしていたのだ。本気で。
「……ねえ、ヘルヴィー」
「ミミさん、なにありますか?」
「…………私、もう少しだけあんたのことが知りたいんだよ」
 ストロングゼロがここにあってよかったというのは単なるその場凌ぎの嘘じゃなかった。ストロングゼロは、もうその場に馴染む為の単なるツールじゃなかった。ストロングゼロはネットミームの一部でも無かった。
 ストロングゼロがここにあってくれてよかった。ストロングゼロが言葉であってくれてよかった。色々な意味を持っている振りをしてくれてよかった。ここに沈黙が無い振りをさせてくれて良かった。同じ言葉を使えないヘルベルチカと、会話をさせてくれて良かった。
「ヘルヴィー」
 小さく呟きながら、美見川は必死に覚えたばかりの一文を辿る。正直なところ、話せる文は挨拶とこれしかない。それでも、アルコールに浮かされた脳の中で、彼女は必死にそれを口にする。
「Was für……ein Ort ist deine……Heimat?(ヘルヴィーの故郷は、どんなところ?)」
 その瞬間、ヘルベルチカの目が、一回り大きくなった気がした。

 ストロングゼロを飲んで眠りについたので、美見川はそのまま夢を見た。サイドカーで目覚める雪原の夢だ。
 風は吹かない。風車は大掛かりな墓標としてそこに在るだけで、ただただ沈黙していた。カーディガンを失ったお陰で、なんだか少しだけ寒い。このまま吹雪になったらどうなるんだろうか?
 事件を解決したからといって、特に褒美が与えられるというわけではないようだった。相変わらず、美見川がいるのは色気の無い雪原で、そこにはヘルベルチカ・ミヒャエルスの死体がある。
 寒いところではそうそう死体が腐らないんだろうとは予想していたものの、予想以上に彼女は綺麗だった。この雪景色が変わらないものだとすれば、ヘルベルチカの身体はこのままずっと美しいままなのかもしれない、とすら思う。
 この雪原には、相変わらずヘルベルチカ・ミヒャエルスが欠けている。これからも欠け続ける。
 その中で、美見川は想像する。
 美しきヘレラウ。彼女の語った故郷の話を。

                         
(了)

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