死体埋め部の停滞と展望

「告白する時って絶対イケる! って確信がないと出来なくない?」
「俺今彼女いるんで」
「何それ。自慢? 牽制?」
「どっちもです」
「お前ね、先輩と血で血を洗うような真似していいの? 近頃の若者はすぐキレるんだからね。俺は嫌だなぁ、可愛い後輩を山に埋めんの」
「キレるの度合いがあまりにもじゃないですか? 振られますよ」
 奈緒崎はそう言って、やる気なくテキストを捲った。試験は四限に迫っている。頭に入ってこないドイツ語が、溶ける視界の中でゆらゆら揺れていた。
 本当に勉強をする気なら部室じゃなく図書館に籠るべきだし、部室の隅で椅子を鳴らしている織賀のことも無視するべきだ。結局のところやる気がない。殆ど諦めている割に、最後の足掻きと言わんばかりに教科書を捲るのは、健気と呼ぶべきか往生際が悪いと呼ぶべきか。どっちにしろ、その部分は成績評価の対象外だ。
「お前の彼女知ってるぞー。あれだろ、小宮癒奈。いいよなあー、俺も青春したいしたーい!」
「げ、何で知ってるんすか」
「俺は概ねなんでも知ってるから」
 そう言って、織賀は楽しそうに笑った。素肌に大学のロゴ入りの赤ジャージを着た姿は傍目に見ても暑そうだが、彼は頑なにそれを脱ごうとしないのである。訳の分からない人だ、と奈緒崎は密かに思った。人懐っこそうな雰囲気も、張り付いた笑顔も、なんだかどこか底知れない。
 限界まで腕捲りをしてジャージを着るのと、大人しく半袖を切るのとにどれだけに違いがあるのか、奈緒崎にはそれすら分からなかった。生物部の部室は暑い。申し訳程度に置かれた扇風機は生温い空気をかき混ぜるだけだ。このままいくと、織賀が熱中症になっても何らおかしくはなかった。
 おまけに、織賀の座っている古いロッキングチェアは致命的なまでにギシギシうるさいのだ。この音が居心地の悪い部屋を更に一段階最悪な場所にしている。色々な意味で苦しい場所だ。
 そんな奈緒崎の気持ちを余所に、織賀は上機嫌だった。椅子を揺らしながら、部屋の主が楽しそうに笑う。
「ていうかお前の彼女の話は良いんだっつーの。俺が話したいのはもっとこう……深淵な話なわけ。そういう卑俗な話でなく」
「今告白がどうこうって言ってたじゃないですか」
「例えだよ。例え。つまり、俺が言いたいのは、関係を壊すようなことを告白する時って絶対に受け入れて貰える確信が無いと言えなくない? ってとこを言いたいのよ。全てはスクラップアンドビルド、一度茹でた卵はヒヨコに戻らねえだろ? そういうことだ」
「はあ……。だからこそ、絶対イケるって保証が欲しいと」
「そうそう」
「そんな保証なんてあるんですかね。結局はそれもわかんないじゃないですか」
「いや、一つ俺が考え出した方法がある」
「何すか?」
「絶対にこっちを裏切れないような弱みを握るんだよ」
「普通にヤバい話かよ」
 そうして二人は一頻り笑い合った。和やかな風景なのに、やっぱり何処か緊張感がある。
 それもそのはず、二人は殆ど初対面なのだ。
 初対面の相手と会話を弾ませるのは、なかなかどうして難しい。それが見るからに奇矯な先輩であったら尚更だ。
「そういうわけで、織賀先輩は今日も心と椅子を揺らしているのでした……」
「はあ、なるほど……」
「お前マジでそのテンションでずっとやっていくつもりなの?」
 今日この部室に来たのも、偶然が重なった結果だった。四限が試験なお陰で、友人と一緒に時間潰しがてらゲーセンに繰り出すことに躊躇いを覚えたのだ。かといって図書館で真面目に勉強に励むのも嫌で、とりあえずブラブラ構内を歩く。
 そこを、織賀善一に捕まったのだ。
 メインストリートを赤ジャージで歩く彼は、赤い色も相まって周囲から奇妙に浮いていて現実味が無かった。いざ話しかけられるまで、奈緒崎にはその男が悪趣味な蜃気楼のように見えていたくらいだ。その蜃気楼が、片手を挙げて奈緒崎のことを待っていた。
「あ、お前『奈緒崎浅葱』だろ。何してんの? 暇?」
 確実に暇ではなかった。けれど、その現実味に乏しいシルエットと、久しぶりに呼ばれたフルネームが判断を鈍らせた。
 だらだらと汗を流している癖に、赤ジャージの男はそれなりに様になっていた。奈緒崎はゆっくりと記憶を辿る。最後にそのジャージ姿を見たのは、確か桜の木の下だったはずだ。
「俺だよ。生物部部長の、織賀善一。覚えてるか? 親切な『奈緒崎浅葱』くんよぉ」
「……久しぶりっす。名前貸した時以来っすね」
「なあ、暇だろ? ここはいっちょ、お前が所属してる生物部の部室遊びに来ない? な、いいだろ?」
「所属……」
 入学したての春の話だ。「名前だけでも貸してくれ」という謎の『生物部』に、奈緒崎はあっさりと学籍番号とフルネームと受け渡した。喫煙所での貰い煙草よりも安い。
 それを見て、織賀が楽しそうに笑ったのを、奈緒崎は何となく覚えている。そのまま済し崩しに週末の活動に誘われたのを、どうして断ったのかは思い出せなかった。
 漠然とした嫌な予感がした気もする。茫漠とした期待感があったような気もする。けれど結局、奈緒崎は生物部の活動に参加したことがなかった。
 だから、今日は乗ってみた。それだけの話だ。前回カレーを選んだなら、今回はエビフライ定食を選びたい。前回行かなかったなら、今回は飛び込みたい。それだけの話だった。
 そうして訪れた生物部室は、意外なことに殆ど物が無かった。目立つのはロッキングチェアに、長テーブル。それに扇風機と冷蔵庫くらいのものだ。
 エンターテインメント性に乏しい部屋だった。三秒で帰ろうかとすら思うほどの殺風景さ! 結局は織賀の派手な駄々こねによって留まることになったけれど、こんな部屋ですることがあるはずもない。何しろ、ジェンガすら無い部室なのだ。
 仕方なく長テーブルに着き、やる気なく教科書を開いて三十分が経とうとしていた。暑さで内容は頭に入ってこないし、極めつけは織賀の謎の恋バナである。沈黙を埋める為に恋バナを始めるようになってはいよいよおしまいなのだ。
「……まあ、織賀先輩には色々あるってことで」
「ちょっ、纏めんなって! だから、うん。俺は迷ってるわけよ。告白すべきかするまいか、この関係を壊していいものか否か。受け入れて貰えなかったらもう殺すしかねえし、織賀パイセンの繊細な心がわかんだろ?」
「殺すこたないとは思いますけど……アレなら告白待ちすればいいんじゃないですか? 待ってれば自然とそっちから言ってくるでしょうしね」
「はあー、なるほどな。お前そういうとこだぞ」
「どこですか」
 いよいよ勉強を諦めた奈緒崎は、大人しく教科書を閉じてテーブルに頭を預けた。どうして自分がここにいるのかもよくわからなくなってくる。自分をここに連れて来た先輩はロッキングチェアーで揺れている。とはいえ、自分から話題を提供する気にもなれなかった。
「お前ってさ、何でそんな感じなの?」
 そんな奈緒崎の様子に思うところあったのか、織賀が困ったようにそう呟いた。
「そんな感じって何すか」
「そういう……何に対してもつらっとした感じみたいなさあ……」
 織賀はロッキングチェアを高速で揺らしながら不服そうに言う。
「なんつーか、その……わかんないですけど、そのつらっとやっていくやつ、そういうので困ったことが殆ど無いっていうか。俺はこれからもそこそこにやってくんだろうし、それが見えてるから……なんつったらいいのかな」
「なんつーかが多いところがまた何とも言えねえな」
「ただ一切は過ぎていきます、みたいな……」
「お前まだ一年生だろ? 今からそんなんでどうすんだよ。もっとこう……迸る好奇心的な……」
「いや、そんな俺でも一つだけ気になっていることがあるんですよ」
 奈緒崎はそう言って、長テーブルの端に置いてあるビニール袋に視線を滑らせた。がばりと開いた袋の口に不吉さを覚えるほど豊かな感受性じゃない。中身が丸見えで困るようなものでもない。中に入っているのは、スーパーカップにチョコモナカジャンボといったような、とてものどかな代物だった。クーリッシュもあるしパピコもある。平和なラインナップ。
「さっきこの席着いた時にいいなーと思ったんすよ。ここはいっちょチョコモナカ貰おうかなって。んで、手に取ってショックでした」
「お前、あの短い間に躊躇いなくアイス頂こうとしてたのかよ。強気だな」
「このアイス……何で全部溶けてんですか?」
「おっと奈緒崎。お前に教えてやるけどな、アイスってのは溶ける」
 諭すような優しい声で、織賀が言う。けれど、流石にそれで誤魔化されるはずもなかった。頬杖をついたやる気のない格好のまま、奈緒崎が返した。
「そこに冷蔵庫があんのに? 入れろって話じゃないすか、それ」
「そこに気づいちゃう? だよなー、浅葱くんったら賢—い」
「マジで無いっすわ……俺のアイスなのに」
「お前のじゃねぇーよ」
 言いながら、織賀がつまらなそうに袋を突く。それを見て、奈緒崎はもう一度歯噛みした。この暑い日だ。アイスを食べるにはうってつけの日だった。自分もジャージの先輩も、あからさまに汗をかいている。買ったばかりの新車に傷をつけられたような気分だ。そのどれもが自分のものじゃないのに、奈緒崎の気分がもう一段階沈む。
「つーかこれもしかしてパピコだったらあんまり気になんなかったり」
「ていうかじゃあ、ゲームでもしねえ?」
 恐ろしいほど冴えたタイミングだった。蒸し暑い部室の中で声が重なる。
 相手はまがりなりにも先輩だった。パピコに伸ばす手を止めて、織賀のことを見る。
「なあ、俺はどうして冷蔵庫にアイスを入れなかったんだと思う? 俺が言うのもなんだけど、あの冷蔵庫結構上等な奴なんだよ。上半分が冷凍庫。ちゃーんと入れときゃ、お前のアイスは無事だった。さ、この理由考えてみ」
「俺のメリットは?」
「パピコが食いたいだろ? 当てたらやるよ。クーリッシュとか、あれ溶けてもそこそこ美味いよ。冷やせばまあまあ元通りになるし」
 その時、変わらず微笑む織賀の雰囲気が、何故か一変したような気がした。その変化が正しく理解出来ていたかは怪しい。表情だけはさっきと変わらない。明確に変わったのは声くらいのものだ。さっきまでは懐っこく響いていた声が、煮え立つ空気と同じ熱を持っている。
 それには、茶番に突き合わせるだけの引力があった。ややあって、奈緒崎が言う。
「……入れ忘れ」
「その回答だけは無いわー。最悪」
「えー、買ったこと自体を忘れていた」
「お前それ俺に失礼過ぎる上にさっきと同じだろ」
「はい。降参です。ていうかそこにあったパピコとか絶対ぬるい液体になってそうですし、もう要らないっていうか」
「二重に最悪!」
「俺は名探偵じゃないんですよ。そういう役割を求められるのはお門違いです」
 それに、四限には試験が控えているのだ。脳に活動限界があるのかはわからないけれど、なるべくなら難しいことを考えずにいたい。究極、アイスが溶けた理由もどうでもいい。アイスは溶けるし単位は落ちる。人間は死ぬ。そのレベルの話だ。
 それを不服だと思うのは偏に織賀だけだった。ロッキングチェアから跳ね降りた彼は、そのまま冷蔵庫を優しく抱きしめた。腕に抱かれた冷蔵庫は、テディベアのような顔をしてすましこんでいる。
「もうちっと考えろや! あのアイスがあることを俺が知らなかったとか、俺以外の人間が持ってきたけど何かの理由で外に出なくちゃいけなくて、結果放置されたとか! あんだろ別解が!」
「あれ、織賀先輩が買ってきたもんじゃないんですか?」
「俺が買ったけど……」
「じゃあやっぱ入れ忘れじゃないっすか」
「もうこれ色々とオワリって感じじゃんか」
 前提が破綻したゲームほどつまらないものは無い。最初から富豪の人生ゲームや、盤面が埋まった状態で始まるオセロは、ナンセンスを通り越して怒りを覚えるような代物である。やる気のない奈緒崎と、一人で盛り上がっている織賀とがまともに遊べるはずがないのだ。
「はーあ、どんなくだらねえ話でも俺の話には付き合って欲しいんだよなぁー。そこも減点対象だわ」
「さっきから俺は何を計られてるんですか」
「全部!」
 冷蔵庫をドラムのように叩きながら、織賀がぎゃあぎゃあと喚く。謎の中心にある冷蔵庫だけが、この部屋で唯一押し黙っていた。
 それを見て、あるいはそれを聞いて、ふと奈緒崎は一つの可能性に思い至った。アイスを無残に溶かすのに足る、とてもシンプルな結論だ。
「一つ思いついたことがあるんすけど」
「聞いてやるよ。一席頼むわ」
「……織賀先輩が帰ってきたら、冷蔵庫のコンセントが抜けてたから、とか」
 当然のことながら、冷蔵庫は電気を供給されないと動かない。例えば、それが抜けていたとしたら。冷蔵庫はただの豪華な箱に成り下がる。この部屋の冷蔵庫は、きっとさっきまでそういう状態だったのだ。アイスを手にして帰ってきた織賀は生温い冷蔵庫を前に愕然としたに違いない。大量のアイスを買い込むなんて、相当浮かれていたに違いないのに。
「どうですか、織賀先輩」
 ややあって、織賀が言う。
「コンセントは差すところだろ。差す方はプラグ」
「あ、そうか」
「はーっ……ついでに否認するわ。それ、つまんねえもん」
「つまんねえも何も無いじゃないっすか。だってそうなんすよね?」
 不遜なことに、奈緒崎は殆ど勝利を確信していた。だって、それ以外、罪の無いアイスが溶かされる理由が見当たらない。これは丸々不幸な事故だったのだ。
 けれど、最適解を出した奈緒崎をちらりと見ながら、織賀は言う。
「……実は、この冷蔵庫の中には、さる筋から受け取った生首が入ってるんだよ。それを山に埋めに行く前に、一時保管する必要があってさ。でも、一仕事終えて達成感に満ち満ちた俺は、浮かれてうっかりアイスを買ってきちゃったわけ」
「…………マジか」
「なんちって」
「だよなー」
「俺は職務には忠実だけど、こういううっかりさんなところもあるわけよ」
 そう言って、織賀はパッと冷蔵庫から離れた。そして、足元から黒いプラグを拾い上げる。奈緒崎の座っている位置からは見えなかったけれど、プラグは抜けたまま転がっていたらしい。織賀はつまらなそうにそれを一瞥した後、それを床に乱雑に投げる。
「まあ、お前ので正解だよ。何かの弾みにプラグ抜けちゃってたみたいでさ、冷蔵庫って使う二時間前には電源入れてないと蒸し風呂状態になっちゃうのな。それを忘れてて、生温かい箱になった冷蔵庫を見て泣いたね俺は」
「溶ける前に食えば良かったじゃないっすか」
「あ、その袋の中、もう既にちょっと食ってあんのよ。ハーゲンダッツのグリーンティーが。でも二個目行く元気が無くてさ」
「ハーゲンダッツ食ってたのかよ……」
「あーあ、マジで萎えるわ。何がプラグ抜けてただよ。今回は俺の勝ちな」
「生首説よりマシっすよ」
「はー? マジで? それっぽいだろ?」
「いや、人間の生活にそうそう生首は介入しないっていうか……そもそも、普通そんな状況で俺のこと部室に呼ばないんじゃないかって」
「奈緒崎。お前やっぱつまんねーわ。もう少し考えられる可能性があるだろ?」
 そう言って、織賀が冷蔵庫にしな垂れかかる。生物部の部室に冷蔵庫があることは珍しくない、と奈緒崎は思う。活動内容がわかっていないけれど、親和性は高そうだ。何かよくわかんない試験管とか、魚のエサとか、冷やさなくちゃいけないものは沢山あるだろう。生物なんか飼っていなさそうだけど、冷蔵庫はこの部屋にあってもおかしくないはずなのだ。
 何をやっているかは知らないが、生物部の織賀善一は、それを使う理由がある。生首を冷やさなくても、考えられる可能性がある。
「……可能性って?」
「……お前を共犯者にしたかったのかも」
 緩く目を細めながら、織賀が今日一番の笑顔を見せた。口の端から茶目っ気のある八重歯が覗く。
 その瞬間、今までの全てが盛大な前振りで、ここからが本編なのかもしれない、なんて馬鹿な妄想まで浮かんだ。自分は真の意味で織賀善一に会ったことなんかなくて、生物部がどんな活動をしているかも知らない。
 奈緒崎は密かに息を呑む。未知というのは引力だった。好奇心は断るまでもなく毒だ。オフホワイトの箱の中身は、数メートル先にある。今立ち上がって手を伸ばせば、今まで見たことのないものが見られる可能性があった。
 『告白する時って確信が無いと出来ないよね』というくだらない雑談が過ぎる。あの時奈緒崎は自惚れても良かったのかもしれない。けれど、その方向性は予想もつかないものだった。
「織賀先輩、」
「ところで、俺が悪い人間で、この冷蔵庫に本当に死体が入っていたとして、」
「…………」
「それでもお前に黙っていて欲しい、頼むから協力して欲しい。一緒にそれを埋めに行って欲しい。……その代わり、見たことのない世界をやるよ、って心の底からおねだりしたら、お前どうする?」
 織賀の声は、さっきの声とも普段の声とも違う響きを帯びていた。濡れる夜露のような、木立ちから漏れ出る光のような、何とも言えない声だ。その声を聞いた瞬間だけ、奈緒崎は場違いな感情に襲われる。何かいけないところに連れられるような、はたまた何か麗しいところに引かれるような、そんな気分がした。
 夏場でも赤ジャージの、奇矯で麗しい先輩がこちらを見ている。少しだけ考えてから、奈緒崎は言った。
「とりあえず、パイプ椅子から立って……畳みますかね、これ」
「ほほう、何で?」
「武器になるものがそれくらいしかないんで」
 その声がどこまでも真剣だった。まるで神様に見張られてでもいるような声をしている。さっきまでとうって変わって、二人の間に沈黙が下りる。ここで目を逸らせば、意地の悪い第三者がとんでもない石を投げこんでくるんじゃないかと、そう思わせるような空気が満ちる。
 先に声を出したのは織賀の方だった。正確に言うなら、最初に漏れたのは笑い声だった。くつくつと笑う度に、部屋の温度が少しだけ下がる。ややあって、織賀が言った。
「今のはちょっと面白かったわ」
「マジですか、どうも」
「いやー、俺お前のことそんな好きじゃないかも」
「ちょっ、何なんですか。流石に面と向かってそういうこと言われるのは心にくるんですけど」
「嘘吐け。俺の言葉なんて何にも響かねえよ、お前には」
 それを言う織賀がどんな気持ちでいるのかはわからなかった。何せ、会話すら殆ど今日が初めてなのだ。それを唱える織賀が、何だかとても寂しそうであることすら何かの間違いかもしれない。
「何かが見つかったら、きっとお前はとんでもないことをしでかすだろうさ。俺が予言してやるよ。きっとお前は、どうしようもないことになる」
 赤いジャージを着た首筋に汗が流れている。それも併せて、織賀善一には現実味が無かった。暑い部屋と相まって、熱を出した時に見る悪夢のようだ。ここにいない誰かを見るように笑いながら、織賀はつらつらと続けた。
「お前は多分俺じゃないし、俺もお前じゃないんだわ。そういうことだよ」
「……そうなんすかね?」
「だから、俺は俺の運命を待ってるよ」
 その時、三限の終わりを告げるチャイムが鳴った。英知大学のチャイムは音自体が耳障りな上に、若干音が割れているので、聞いているだけで気が滅入る。ただ、その煩雑さが今回ばかりは上手く作用した。さっきまで流れていた張り詰めた空気が一気に弛緩して、うだるような暑さに回収される。
「鳴ったな」
「鳴ったっすね」
 そう言って、奈緒崎は立ち上がった。結局四限の試験は殆ど勉強せずに挑むことになったわけだ。ヤバいかもな、とぼんやり思う。ドイツ語なんか単語一つも入っていない。奇妙な先輩との馬鹿げた推理ゲームで、得られるものなんて一つもなかった。
「それじゃあまたな、奈緒崎」
「あー……今日はどうも。じゃあまた、機会があったら」
 織賀が静かに片手を挙げる。気障ったらしい仕草だったけれど、それが妙に似合っていた。機会があったら、なんて言葉に意味は無かった。何せ奈緒崎は、今日織賀に話しかけられるまで、自分が名前を貸していたことすら忘れていたのだ。
 背後で扉が閉まる音がする。何の根拠も無い予感だけれど、もう自分がこの部屋を訪れることなんてないんじゃないかとぼんやり思った。
 試験の教室へ向かいながら、奈緒崎は少しだけさっきの余興について考える。
 ——例えば、冷蔵庫のプラグが抜けていたとして。
 それで冷蔵庫の中が蒸し暑くなってしまっていたとして。アイスをそこにいれても何の意味も無かったとして。
 それなら何故織賀は電源を入れ直さなかったのだろうか。彼自身が言っていたように、パピコなんかは冷やせばリカバリー出来る類のアイスだ。だったら、電源を入れて冷蔵庫を冷やし、それらだけでも中に入れればよかったはずだ。
 それをしなかったのもうっかりだろうか。
 奈緒崎は、あの時の織賀のことを思い出す。織賀は冷蔵庫に近づきながら与太話の推理ゲームをしていたけれど、あれが全てフェイクだったとしたら? 本当は冷蔵庫に近づくことだけが目的だったんだとしたら? あの時、冷蔵庫に近づかなくちゃいけなかった理由なんて一つしか思いつかない。織賀は『正解を作りにいった』のだ。
 あの時、織賀はわざとプラグを抜いて、それを自分に見せたんじゃないだろうか?
 長い廊下を歩きながら、そんな思考が止まらない。だとすれば、あの時の正解は正解じゃなかったことになる。プラグは抜けていなかった。それでも冷蔵庫は使えなかった。それなら、理由は一つしかない。あの時冷蔵庫はいっぱいだったのだ。それで、それは——。
「んなわけないか」
 生物部部員である奈緒崎は、誰もいない廊下で一人呟く。振り返ればもう奈緒崎には、部室が何処にあったのかもわからなくなっていた。

 (了)


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