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ジャッキー弟子入り海外渡航計画

やりたいことというのはただ心がそう感じるだけで、本人にとってその理由は特に要らないと私は思うのですが、同時に人が何かを一生懸命やっているのを見るとその理由が知りたくもなります。

なぜシドニー?

時々、「なんでシドニーに来たの?」と日本とオーストラリアの人たち両方から聞かれることがあるので、それについてちょっと書いてみようと思います。

結論から言ってしまうととてもシンプルで、留学したいアートのコース内容が良さそうなうえ、その学費が他の国より安かったということで、何が何でもシドニーっていう訳ではなかったのです。

なぜ49歳で海外に?

では「なんで49歳で海外?」って聞かれると、理由はいくつかあるのですが、
おおもとは
ー 14歳からの夢をだった
子どもが生まれてからは
ー 日本だけじゃなくどこでも生きていく力を子どもにつけてほしかった
48歳で亡くなった母の年を自分が越えようとし始めて
ー これをしなければ絶対に後悔することがはっきりした
あとは
ー 子どもと自分の人生を拓きたい
ー まだ自分をあきらめたくない
という感じでした。

もちろん、これができたのは子どもも希望して一緒に何年も節約してお金をためてくれたからでもあります。


このシルクスクリーンのイラストに描いたのは私が高校卒業まで住んでいた北九州の小さな町です。私の母は私が大学3年の時に亡くなったのですが、ここは母が生きていた頃一緒に住んでいた町で、母の記憶とその後長いことその町を離れて次第に薄くなる記憶を想像が補った、現実のような現実で無いような私には特別な町です。

14歳、いつか海外に住みたい

今でもはっきり覚えているのは、その町にある中学校で14歳の時、「いつか海外に住みたい」と紫色のインクの万年筆でノートに書いたことです。昔のことで、海外はすごい遠い未知の世界だったし、自分の周りにも海外に行っていた人なんてひとりもいなかったのに、何がきっかけでそう思ったのでしょうか?不思議なことにきっかけ自体は覚えていないのです。

15歳、いますぐ海外に行きたい

しかし、その思いは案外強かったようで、翌年、私は父を困らせ、母を泣かせることになります。
中3になり高校受験が近づいてきた頃、私はある決心をしました。そして母にこう告げたのです。
私:「おかーさん、私、高校受験せんで香港に行く!」
母:「はあ?何ち言いよると?」
私:「やけん、高校は行かんで香港に行って、ジャッキー・チェンの弟子になると!」
母:「なんバカなこと言いよると?高校行かんでどうするとね?ジャッキー・チェンの弟子??」
私:「そうさ、カンフーやると。早くやらんと身体が硬くなるけん、もうはよ行かんといけんっちゃ!」
母:「カンフー?そんなんどうやってジャッキー・チェンの弟子にしてもらうと?」
私:「やけん、香港に行くっち言いよるやん!」
母:「行ったってジャッキー・チェンに会えんやろうもん!?」
私:「待つと!事務所の住所はわかっとるけん、その前で会えるまで待つと!」
母:「待っても会えんかもしれんやろうもんね?」
私:「来るまで待つと!待って弟子にしてくれっちお願いすると!」

もし母が「あんた日本語以外話せんやろ!」ってつっこんでくれたら私も目が覚めたのかもしれませんが笑。

しかしこれを書きながら、自分はこれを言っていた15歳からほとんど成長してない気になりました。タイムマシーンがあったらその時の自分の耳元で囁やいてやりたいですね、「あんた、49歳になった時もそんなこと言ってるよ」。

それはさておき、当時、母親、困ったでしょうね笑。その後、父を含めて3人で家族会議です。しかし話は平行線。「行く!」と言い張る私と「何をバカなことを!」と言う両親。夜な夜な険悪な家族会議が開催されました。

そのうち、すぐ諦めるだろうと思っていた両親は私の決心が変わらないのをみて、作戦を変えてきました。懐柔策です。「高校受験が終わったら香港に連れて行っちゃるけん。ね?高校だけは行かんといけんよ、ね、ね?」今考えたら、海外旅行なんか行ったこともない両親です。香港に連れて行くという提案は当時、かなり大きなものだったんだろうなと思います。しかし思春期真っ盛りの私は、「親は全然わかっとらん!身体がまだ柔らかいうちにカンフーはじめんといけんっちゃ!高校行っとる時間はないけん!」。私の中では今というタイミングが重要で、高校卒業してからでは遅いわけです。あとで考えると、いや、中3ではもう既に遅いやろ!って思うんですが笑。

そうこうしているうちに、突然、母がさめざめと泣きだしたのです。泣くなんて思ってもいなかった私は、これには本当に面食らいました。私のやりたいことが大好きな母を泣かすなんて、なんだかとても悪いことをしている気になったのです。一気に私の「ジャッキー弟子入り海外渡航計画」の勢いはなくなり、それ以来、海外の話を両親に二度とすることはありませんでした。

当時、ジャッキー・チェンやカンフーの大ファンだったこともありますし、予選落ちでしたが陸上部で全国大会まで出場した自分の体力にかなり自信があったこともあり、自分にはカンフーができる!と思い込んだわけですが、それが何だったかは別として、この頃にはすでに海外で何かやりたいという夢があったんだと思います。

人は達成できなかった事や中断している事のほうを、達成できた事よりもよく覚えているという現象をツァイガルニク効果と言いますが、私の場合はこのツァイガルニク効果がずっと効いていたのかもしれません。「いつか海外に住みたい」と書いた14歳当時の私は知る由もありませんでしたが、それ以降、49歳になるまでその思いは私の中で生き続けていたのです。

つづく。

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