寅 薬 師   第三日目

 いくつかの札所で七十二カ所の一覧表をいただいた。そのおかげで下見で発見できなかった六十五番真福寺が、今回は曹源寺になっていることに気付いた。東松山市域を訪ねる際さがしてみよう。四十番薬師堂にも実はたどり着けなかった、今回は薬師庵という名称になっている。
 そして驚いた、第三日目最初に向かう威徳寺、すなわち前日「明日また来てください」と言われた朱塗りの薬師堂だが、今回の一覧によれば、三十五~三十八番を兼任する下八ツ林薬師堂なのだそうだ。ネット情報では薬王・威徳・光勝の三寺廃寺に伴いこうなったとある。
 前日も、屋根がのびのびと広がった雄大なお堂だな、感心したのであるが、午前中の日差しを浴びて、朱がことさら美しく映える薬師堂に、立派なものだとつくづく思わされた。四カ寺兼任だが、ご朱印は三十五番善福寺、三十七番威徳寺の書置きをくださった。
 三十九番、一本松圓泉寺、町道から細い参道を行く。奥まった先に、けれどそこそこ広い境内、しかし幟も気配もなく、青い空と野の花とを愛でて次へ向かう。
 さあ、もう一つたどり着けていない四十番吹塚薬師庵だ。下見の時も隈なく見回ってみたのだが訪ねあてられなかった。ここら辺りの筈なのだがな、と視界の隅に赤いものが見えた気がする、もう一度…。幟だ!が、しかし畑の中に赤い幟?いや違う、たった一本の赤い幟、南無薬師如来と染め抜かれた赤い幟の隣に、幟の半分の高さにも満たないほどの、小さなお堂が佇んでいるではないか。幟があるなら間違いはない、近づいてみる。軒下に下げられた白い紙の文字に目を走らせる。
 「昔は手厚くご供養されていた薬師様も、時の流れの中しだいに寺は寂れ お堂も廃れ、今では正しくお祀りもできず小さな厨子に安置しているだけになってしまった。遠路遥々おいでいただいて有難いけれどもおもてなしもできず相済まない。中に薬師様とともにご朱印があるのでご自身で押してほしい。」
 概要そういったご挨拶文であった。かがんで扉を開いてみると、確かにお薬師さんの前に「中武蔵四十番」「薬師庵印」のふたつの文字印、朱肉が置いてある。ふうむ、こういう祈りの形もあるものなのだな。むしろ懇ろに感謝の思いが涌いてくる。ますます刺激的な寅薬師ではないか。
 ドキドキしたのもつかの間、北園部医音寺は戸を閉ざし幟も見当たらなかった。のどかに流れる長楽用水路の景色など楽しみながら行くと、四十二番戸守超福寺三佛堂の赤い幟が遠くからも見えた。境内に入ると「四十六番常安寺でお受けください」との張り紙。実にバラエティーに富んだ川島町の十六カ寺であった。
 早俣橋で都幾川を渡ると、ここからしばらくは東松山市内を旅することとなる。自然堤防上に広がる古い集落の中に、四十三番早俣光明寺がある。堂守の男性に出迎えられ、ご朱印をと請うと朱印の入った箱を示される。自分で押して、と言うのだ。びっくりしたけれど四十番の経験がある、自分で押したっていいのだ。見ると一つは蓮台に乗った梵字、もう一つは寺号だ。どういう位置に押すといいのか助言をもらい、無事押印、ペットボトルのお茶をいただく。
 四十四番高坂長松寺は法事のため午後来てほしい旨貼り紙があった。四十五番毛塚薬師堂。地区の集会所の敷地に薬師堂が建つ。ここの薬師如来坐像は東松山市の指定文化財だそうだ。説明板によれば、砂岩に彫られた石像で江戸時代中期の造像、何より珍しいのは、眼に水晶を用いていることだそうだ。玉眼の石像というのは極めて珍しいらしい。集会所内で女性二人男性一人、差し出した朱印帖を前に互いに譲り合い、墨印・朱印、美しく押してくださる。そして四十六番西本宿常安寺、高坂駅西口から真っすぐ西へ行って関越道を越えて右折したところ。米山薬師と称する寺院。ひと山境内のような大きなご寺院の様子。山を登り薬師堂を拝し庫裏でご朱印、四十二番のご朱印もいただく。
 ついで四十七番正法寺へ。むしろ坂東十番岩殿観音、との呼称が有名か。西へ向かって高度を上げる。右手の山裾に沿う細い道を行くと足利基氏塁跡、坂上田村麻呂伝説の鳴かずの池、惣門橋を渡れば仁王門まで一直線に続く門前通り。石段を登りきって見下ろすと門前通りの家並が一望される。源頼朝、北条政子、さらに比企能員と関わりが深かったそうで、ご多聞に漏れず「鎌倉殿の…」の文字が目に付く。
 来た道を戻り惣門橋を渡り、九十九川沿いを遡って四十八番神戸長慶寺を目指す。登り坂に自転車で挑む人々の多い高本山峠を越えると都幾川の流域に降りる。川に沿ってひろがるのどかな景色の中に長慶寺はあった。空が広く青い。眠気の誘われる風景である。今日はそろそろ引き上げようか。四十四番長松寺に立ち寄って帰ることとする。

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