寅 薬 師     第二日目

 初日は大いに楽しんだ。充実の一日であった。二十三番まで巡ってしまった。ご朱印をいただく要領もだいたいわかってきた気がする。4月8日金曜日、天気も申し分なし、勇気凛々出発だ。
 坂戸市の最北部、島田へ直行する。二十四番薬師堂は菜の花が黄色く咲きそろった越辺川の土手を背にポツリとたたずんでいた。ささやかなお堂が、やわらかな黄色と真っ青な空とを背景にとても美しい。地元の方がお二人、お堂を開けて待っておられた。書置きをくださる。お堂の奥の簡素なお厨子に、金色の後背のまぶしい薬師立像が安置されている。尊いお姿に見うけられ恭しい気持ちにさせられる。「12年にいっぺんだけ扉を開けるんですよ」という。いいですよ、というので写真を撮らせていただいた。
 二十五番東蔵寺もほど近い。寺号を名乗るも、やはり土地の人々が書置きを下さる。本当に、集落で守られている薬師であり行事なのだな。
 二十六番は越辺川の流れに沿って少し下った赤尾の薬師堂で、林家薬師堂、赤尾瑠璃殿とも称されるらしい。その昔、名主を務めた林邸の大きな長屋門から道を隔てて、林家墓所の隣に木立に囲まれて建つ。お堂内部の天井中央には大きく龍が身をくねらせ、周囲の格天井は瑠璃色で円く縁取られ、48枚もの花木や鳥の装飾が施されている。須弥壇にも彫刻、仏画の数々が上品にあしらわれ、とても個人のお堂とは思えない。短冊状の大きなお札をいただく。
 ここから越辺川を越えて川島町のお堂めぐりとなる。二十七番東光寺は、…と、ここで思い違いが判明する。下見の記憶から次はあそこだな、とイメージしていたお寺ではない!なんと、全部の札所の下見を完了させたつもりが、二十七番を失念していた! 近いところ近いところと巡ったときにうっかり抜かしてしまったようだ。これはしたり今から探さねばならない。ガイドブックの略図と道路地図とを見比べて、中山のあたりをきょろきょろと廻る。中山小ってここだったのか、でも東光寺は…、発見に意外と手間取った。看板でも出てないかな、などアテも外れ、寺院らしいたたずまいに接近しても別の寺だったり。ようやく共同墓地に赤い幟を見つけ、その奥の集会所がそれとわかりホッとする。
 集会所ではあるが僧侶がおられ朱印帳に筆を執ってくださった。近くの金剛寺のご住職だそうだ。金剛寺は比企氏の菩提寺で比企能員の子孫一族の墓所となっているらしい。今年は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のファンが次々と訪ねてくるそうだ。
 やれやれ一安心、勘違いをした二十八番下伊草東福院へと向かう。ここから先は下見ができているところが多い、順調に訪ね当てるが残念、気配がない。幟はもちろん、ひと気も感じられないのである。まあ、しかたがない。
 二十九番伊草大聖寺。山門をくぐると薬師堂前に幟が見える。掲示板には中武蔵七十二寅薬師の由緒、開扉開帳の案内を記した住職の挨拶文。庫裡で声を掛けるとご住職、書置きを下さる。「桜ももう終わっちゃったけど牡丹の頃はまた綺麗ですよ」とのことであった。
 さて、ここまでは比較的越辺川に近い地域だったが三十番平沼大福寺からは平らな川島町の内陸部へと進んでいく。大福寺は鴻巣県道からも場所が予見できそうな、集落の中の旧来のご寺院といったたたずまいであった。本堂には複数土地の人が詰めていて、ひとまわり大きな書置きのご朱印をくださる。渡しながら「ちゃんとご住職が書いたものですよ」など言い訳をなさる。
 さらに桶川寄りに進んで三十一番牛ケ谷戸小高家薬師堂である。下見で訪ね当てるのに周囲を彷徨ったところであったが、幟もあり戸も開け放たれている。お堂の中に男性がお一人、先客と言葉を交わしている。近づいてみると建物が随分と古びていることが分かった。なんでも、泥棒に調度類すべて盗られてしまったと。残ってるのはお薬師様だけ、さあ手に取ってください、と。これにはびっくり、両手の上に手渡されたお薬師様、ずいぶんと傷んでお気の毒だったけれど、直接触れられるとは思いもよらなんだ。なんでも「うちはいつもは四月十二日から御開帳をするんだけど、‛一番'から七日から開けろと言われて」今回は開けているらしい。ちょうど今年発行のガイドブックが置いてあり、手に取ってパラパラと見せてもらった。例の、下見でたどり着けなかった東松山の札所、草叢の写真しかなかったのはどこだったか―。堂主はずっと語っているし、見本と10年前の本とを見比べるわけにもいかないし、少なくとも今回は、どの札所も建物があるようだ。
 堂主の語ることによれば、この地を牛ケ谷戸というのは、能登から見て丑の方角にあたることによるという。ん?なぜに能登?と聞き返せば、能登の名家、時国家の直系に当たるご一族なのだと。時国家と言えば平時忠に始まる旧家。いただいたご朱印がまさに丸に揚羽蝶、平氏の家紋である。いまでこそ朽ちかけたようなお堂になってしまったが、隣接する墓所も立派だったそうで、祭祀の日には露店も立つような賑わいがあったらしい。同じ敷地内には明治の頃、荒川治水に功績のあった幾代か前の当主の顕彰碑が、大隈重信の篆額で聳えていた。…かれこれ1時間、すっかり話に聞き入ってしまった、いかん追い上げねば。
 ところが三十二番三保ノ谷養竹院、三十三番畑中霊松庵、三十四番大塚大福寺、三十五番下八ツ林善福寺と、どこも御開帳をしていない。順に巡ってだんだん盛り下がってきてしまった。筆者が頼りにしている12年前のガイドブックでは、どういうわけか善福寺が三十六番も兼任している。養竹院と善福寺は墓園もあるような住持のありそうな寺院、霊松庵は集会所で大福寺はいかにも無住の小堂であるが、幟はもちろん人の気配もないのだった。
 しかたがない、三十七番だ、下八ツ林威徳寺。これは堂々とした間口の朱塗りの薬師堂、赤い幟も翩翻としている。意気込んで参道を行くと、すれ違いざまの男性から声をかけられた。「寅薬師様なら3時で今閉めたところなんです。明日来てください」という。おや営業時間が決まっていたのか。「‛一番'から土曜日は3時半までは開けるようにいわれてます」とも。なるほど、一番龍福寺さんからお達しでそれぞれの札所が対応しているわけか。まあよい、川島町の風土を満喫した一日であった。

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