寅 薬 師  結願へ・・・

 第五日目、4月11日。思案した。
 初日、二十番北谷山薬師堂の項に筆者は次のように記した。『傍に立つ回向柱の文字に目を奪われた。たいていは日付が「令和四年四月吉日」か「四月七日」と書かれているが、ここでは「四月十二日」とされているのだ。わけを尋ねてみるが「うちはいつもこの日付を書く」としか答えが得られない。以前からの仕来たりなのだそうだが理由は特にないと笑うばかりである。』
 さらに二日目、三十一番牛ケ谷戸小高家薬師堂には『「うちはいつもは四月十二日から御開帳をするんだけど、‛一番'から七日から開けろと言われて」今回は開けているらしい。』とある。
 図らずも4月12日という日付が符合している。しらべてみると、どうやら縁日らしい。お薬師さまの縁日が毎月8日と12日なのだと。すると「寅薬師」期間中の12日が特別な日なのかもしれないし、日曜日に開けていなかった札所も明日こそ開帳するかもしれない。ならば無駄足覚悟で、再度めぐってみるか。そのためには、今日、できるだけ多く巡っておくべきだ。
 前日に引き続き東松山市内の札所からスタートする。都幾川左岸堤防直下の五十四番下押垂薬師堂、開扉されたささやかなお堂をのぞくと、奥に薬師像が安置されている。ご朱印対応は行わないが開帳するとの張り紙。合掌。  田んぼの中を、将軍塚古墳に近い五十五番下野本無量寿寺の堂々たる伽藍へ。本堂に上がると机を前に座する人々、丁寧にもてなされ三尊への焼香に導かれる。五十六番南吉見長源寺、朱印帳を預けている間に祈願文にご署名をと促される。参拝の人々の「家内安全」「無病息災」「身体健勝」といった願いの綴られた芳名帳が用意されている。仏前にてご祈祷くださるそうだ。五十七番柏崎萬松寺は高台に建つ。市ノ川の流れを挟んで吉見丘陵の見晴らしがいい。あいにくお留守だった。
 たくさん回らねば、との思いからついつい先を急いでしまう。景色など眺めて一息入れて、五十八番へ向かおう。しばらくは吉見町の寺々だ。久保田無量寺薬師堂。境内入ってすぐの右手にお堂があり幟もはためく。張り紙にはご朱印は庫裏へ、との案内。広い敷地を進み長屋門の奥の本堂へ、傍らの玄関を訪うと若いご住職が座敷へ招き入れてくださる。近くで拝んでいただこうと、薬師様はこちらにご安置しているのです、どうぞ、という。朱印帳に筆を走らせ、書き上げたものを薬師像に供え、おもむろに真言を唱えたうえで、喝!のパフォーマンス、有難い有難い面白い。
 五十九番下細谷薬師堂は共同墓地の奥のささやかなお堂である。予想通りひっそりしていたが、町役場に隣接する六十番明王院で書置きご朱印をいただけた、六十六番江綱寶性寺のものまで三カ寺分。
 吉見中学校に近い六十一番和名薬師堂は、和名第二集会所になっている。広々とした庭にはブランコ、すべり台もある。回向柱の傍らには石仏や宝篋印塔なども残る。吉見観音のお薬師さまと同等の仏様なんですよ、と地元の方がにこやかに対応してくださりお札の形のご朱印をいただく。
 その吉見観音が六十二番だ。御所安楽寺、坂東十一番観音霊場。鬱蒼とした森を背景に境内は参拝者で賑わう。源範頼ゆかりの三重塔がひときわ目を引く。左に薬師堂、赤い幟と回向柱。奥の寺務所で朱印帳を受けていただく。大仏や彫刻の数々など、あらためてゆっくりと参拝に来たいところだ。
 六十三番北吉見龍性院、赤い幟は立っているのだが扉が閉ざされインタホンにも返事がない。さてどうしよう、諦めかけたところへ、境内の隅で弁当を使っていたご夫婦が、敷地内の民家に声をかけるよう教えてくださる。ご住職が留守だそうで奥様から書置きご朱印をいただく。
 けれど六十四番松山城恩寺は、境内でしきりに修繕工事が行われているものの、反応がない。赤い幟はあるのだが。そして下見で突きとめられなかった六十五番札所は、まちなかの本町曹源寺、このたび中武蔵寅薬師に復帰したということである。ご朱印は雄々しい虎の姿やファンシー風の薬師像も交えたユニークな図柄であった。六十六番江綱寶性寺のご朱印は六十番でいただいた。いや、スタンプラリーではなく、薬師霊場を巡拝するのが大切なのだが、江綱はいささか遠い。巡るだけ巡り、今日の帰途に立ち寄るのでもよかろう。
 六十七番市ノ川清岑寺。ほんのささやかな祠である。しかし建物も境内も隅々まで手入れが行き届いている。傍らの掲示板にはこのお堂の由来、5年前の改修工事の経緯などが示され、その末尾には、ご朱印希望者への案内も書かれている。備え付けの封筒にお代と住所氏名を記してポストに入れる。修復記念碑も読み、裏面に刻まれた寄進者の中に親族の名を見つけおおいに驚く。
 北上して東平の交差点近く、六十八番覚性寺。以前から見慣れたご寺院だが立ち寄ったことはなかった。車で通りかかって一番目立っていた建物が薬師堂だった。本堂はその奥、道を隔てた木塀の中であった。
 それから西へ、梨園や野菜畑の中を行く。広々とした里の広がりに溜池が点在するような風景に、ふと遥々来たなあ、との感慨を覚える。もう六十九番だ。野田西明寺は周囲を畑に囲まれた中に孤高を保つがごとく屹立する。参道左手に八重桜と薬師堂、距離を置いて正面に山門、奥に本堂。朱印帳にいただいたのは黒々とした「薬師」の文字、デザイン化された筆書きの寅の顔。
 ついに七十番羽尾東松庵。下見のとき「発見の喜び」を初めて体験したくだんの札所だ。ちゃんと赤い幟が立っている。訪ねた小さなお堂には案内札も掲示されてあった。『12年に一度寅年の春に、普段お会いすることのできない「秘仏」お薬師さまの厨子の扉を開いて直接お参り頂ける「御開帳」を行います。』
 大きなご寺院からささやかな祠まで、いにしえからの祈りの伝統と、そこに集う土地の人々のまごころにより、ささえられ続けられてきた寅薬師の行事なのだな、また一層想いを深めたものである。残りは滑川町の二カ寺、それは薬師縁日の明日にとっておこう。帰りすがら六十四番城恩寺を再度訪ねると、インタホン越しにご僧侶が、体調不良なので玄関にあるご朱印を使って、と答えてくれた。

 第六日目、薬師縁日の12日。
 残念。再々度巡りなれてしまった寺々であったが景色に変化はありはしなかった。うん、しかし思い残すことはなかろう、今日はフィナーレとなるはずだ、今までより少し離れた仕上げの二カ寺が待っている。
 七十一番伊古圓光寺は、集落、田畑から逸れ、山あいに細道を登った先に位置していた。薬師堂は本堂からさらに奥まっており、土地の人々が茶菓でもてなしてくださる。庫裏でも丁寧にごあいさついただく。
 七十二番加田慶徳禅寺。寺沼の奥、やはり山懐に抱かれ広い境内に、四天王門、伽藍、どっしりとした威容のご寺院。庫裏へ声をかけると、薬師堂は参拝したかと問われ、場所を伺い、山道を登っていく。小丘の頂き開けた草原に建つお堂は、扉が開かれ風が吹き抜けていく明るさに満ちた空間であった。天井画、彫刻の数々、額、絵馬、おびただしい千羽鶴といった装飾の奥に結願の薬師像。
 ああ、これが中武蔵七十二寅薬師であったか。かれこれ半世紀にならんとする過去の自分が出会い、そこはかとなく追ってきたものがこれだったのか。街中に、住宅地に、田園に、集落に、山麓に、様々な土地の、それぞれの善男善女にささえられた信仰の形が、この寅薬師の行事を守り育んできた、そんな文化の分厚さの中に、自分自身の50年間もすっぽりと包まれていたのかもしれない。勘違いではあろうけれど大乗曼荼羅の中に身を置いたとすら思えるような春の6日間であった。

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