看護における真意



看護学校というものは想像以上に過酷だ。特に専門学校ともなると大学で4年で学ぶ内容、もちろん大学ではより専門的な知識も学ぶのだろうがーを3年間で詰め込む。そしてなんといっても看護実習。看護師はよく気が強いというセリフを聞くがこの地獄とも言える実習を乗り越えた人間は、自然と気も強くなる。生半可な精神状態で乗り越えることは難しく、豆腐のようなメンタルの持ち主は指導者からの根拠責めでまず打ちひしがれ、そのままフェードアウトしてしまうことも少なくない。    

この援助を用いた根拠は?それをして患者さんはどうなるの?そう考えた根拠は?ーおかげで私は根拠という言葉が大嫌いになった。   

 私は決して強靭なメンタルの持ち主ではない。どちらかといえば弱く、時に自分以外の全員が敵に見えてしまうことさえある。  

 実習以外でも課題、レポート、技術練習など与えられるミッションは山積みである。常に何かに追われている感覚があり、何もしなくて良い、何も考えず手放しに自分の好きなことをする、そんな時間はあまりなかなったように思う。心が休まる暇なんてない。度重なるミッションをこなしてもこなしても月々と表れる次なる課題。実習。指導者からの圧。そして訪れる最大のミッションである国家試験。これらを乗り越えた者にのみ与えられるのが看護師免許であるが、これはある意味試されていたんだな、とさえ思う。この程度の試練で払い落とされてしまうようであれば到底看護師は務まらないと。

  私は社会人経験を得て、運良く友達に恵まれ、旦那や家族に助けられ、なんとか看護学生時代ー数年以上前の話になるがーを無事に乗り切ることが出来たが、自分1人の力では到底無理だったと思う。ここだけの話、過去問やー出回ること自体本来禁止されているー友達と協力して課題をこなしー何人かで範囲を決め手分けするーなどしながら、励まし合い、これさえ乗り越えれば看護師になれる、お金もある程度手に入る、一生食いっぱぐれる心配ない職業につける、ということだけを考えながら無心でこなした。  

小児実習の時、何の流れでそんな話になったかはもぅ記憶にないが、ある教員から言われたことがある。  

 「鳥濱さん、看護師にとって1番大切なものはなんだと思いますか?」 穏やかな口調でそう言われて私はありきたりな答えを述べた。知識、技術、共感力、優しさ…。するとその教員はこう言った。 

 「もちろんそれも大切です。しかし、看護師にとって1番大切なことは、自分自身が強くなることです。自分がまず強くなければ看護は出来ません。」

 優しさだけで看護は出来ない。誰かを守る、命を支えるということはまず自分自身が強くなければならない。その教員はそう教えてくれた。当たり前のことのように思えるがその頃の私にはその言葉が深く胸に刺さった。私の弱さを、薄々勘づいていたのだろう。  

 心は鍛えられるものだろうか。看護師になって何人もの死に目や、辛い場面に遭遇し、場数も踏んできた。先輩から怒られることや、意地悪なそれこそ視界に入るだけで気が滅入るような人もいる。それは今でも。しかし、決して私は慣れることはなかった。自分が一生懸命関わって、看護してきた人が亡くなる時はいつも泣いてしまう。先輩はいずれ慣れると言うが慣れなかった。というのも、私はいつも患者と関わる時は、自分の大切な誰かや、家族だと思って看護にあたる。その根本があるから、例え他人であっても、人の死や悲しい場面になれることはない。確かに日々の忙しさに忙殺されて毎回毎回時間をかけて話を聞いたりすることは難しいし、病院では毎日何人かの患者が亡くなり、病と戦い、苦しみ、その苦しみはもちろん本人だけのものではなく家族も同様に苦しむ。そしてその看護にあたる看護師の数は限られており、患者は1人でなく何人もいる。  

 実習の時、こんなことがあった。与薬の見学をさせて頂いてる時にある看護師が、患者さんに飲ませる薬を一粒、患者さんの目の前で落とした。こんなことはよくあることではある。小さい粒だ。袋を開ける時に落としても無理はない。しかしその後私は信じられない光景を目にした。そのままその落とした薬を患者さんの口に放り込んだのだ。患者が嚥下したのを確認して、何事もなかったかのようにその場を去った。患者はもちろん何も言わなかった。  学生の頃は純粋であったから、なんて酷いことを。そう思ってその看護師の人間性を疑った。確かに落としてしまったとしても新しい薬と取り替えることは無理がある。しかし、謝る、軽くティッシュで拭く、取り替える振りをする、など相手に不快感を与えない方法はあるはずだ。そう思ったが、もちろん私も何も言わなかった。  

 しかし実際看護師になって、臨床の場に出てみるとその時の看護師の気持ちが分からない訳ではいことに気がついてしまった。いや、気持ちなんてそこにないのかもしれない。ただ業務として薬を投与すること。それが最優先であり、その時の患者の気持ちなどいちいち考えている余裕はない。こう書いてしまうと様々な誤解を与えてしまいそうだが、誤解を恐れずに言うと、看護師とは、医療の現場とはそんなものである。物的、人的、金銭的要素の兼ね合いで綺麗事では済まされない場面は多くある。忙しい時にダラダラと同じような会話や愚痴を溢されると、良い加減にしてくれよ、と思うこともある。  

 そしてそんな時私がまず考えるのは、この人が自分の家族であったら、こんな対応をされているのを見てどう思うだろうか。そうやって自分を客観的に静止する時間を5秒でも10秒でも設けてみる。自分の看護の根本に帰ってみる。この人は自分の家族ではないが、かつては誰かの大切な子どもであって、家族であったのだ。そして今は自分がその人の家族であると思いなおす。 「今は他の患者さんのケアがあるから、時間が出来たら必ず今日中に話を聞きにきますから、待っていてください」 すると、そう言葉を発するができる。

 看護師も医者も医療者は皆人間である。誰もが強く清い心を持ち、熱い看護観を持ち、どうしてもなりたい職業であったとは限らない。 しかし、人間は強くなると、優しくなれることに気づいた。強さは優しさに比例するのだと。そしてその優しさは辛い場面では涙に変わり、同情に変わり、この人の為に何か自分に出来ることをしてあげたいという思いに変わる。 

  看護師は強くなければ務まらない。ただ単純で当たり前の言葉かも知れないが、強さが基盤となり良い看護に結びつくのだろう、とこんな状況の今だからこそ改めて思う。だから私は自分の弱さをまず認め、その弱さと向き合い続ける。心を鍛え続ける。冷酷になるのではない、弱さと向き合うことは強さを見出していくいずれ自分の力になる。 そう信じて今日も明日も看護にあたる。
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