努力は必ずしも報われるものではなく、正義は必ず勝つわけではない。

社会人生活においてはまず「努力は必ずしも報われるとは限らない」ことを心得ておくことが重要だと考えます。
学生時代、テストの点数なら必死に勉強すれば大抵は点数に結びつきます。余程ズレた学習法をしていない限り。しかし社会ではそうではありません。学生時代に自分より成績が劣っていた人が自分より仕事で成績を上げる事はよくある事です。それはよく言われるように勉強が出来る=仕事が出来るは比例しないことと、社会で大切なのはモチベーションとコミュニケーション力が重要になるからです。これもよく言われている事です。ですが、いくらモチベーションが高くコミュニケーション力に長けていたとしてもそこに基盤となる人間性、いわゆる人格者でない限り持続的に見た大成はしないでしょう。
では人格者とはなんぞや、と言う話ですが結局のところ他者を慮ることがが出来る、共感性(してるフリでもいいのです)、弱者をに手を差し伸べることが出来、権力に立ち向かう事が出来る人です。正しい事を正しいと言う、間違っている事に対して指摘をするのは簡単な事ではありません。しかしそれが出来る、自分の中の確固たる信念がある人の元には自然に人がついてきます。もちろん、社会というのは必ずしも正義が勝つようには出来ていません、黒い部分やグレーな部分は少なからずどんな企業でもあります。しかし上記で私が述べたように、人格者である事が何故大切であるのかは、人間の性善説に基づいているからです。理不尽で独裁的なリーダーであったとしてそれについていく人は結局の所少数派となります。それは人間の本能が善であるが故、悪に対する反発心が生まれ人は自ずと離れていく為です。

白い巨塔、というドラマが昔ありました。唐沢寿明演じる出世欲が高く傲慢でプライドは高いが外科医としては確かな腕を持つ財前医師と、出世や自身の成功より、寡黙に研究を続け、それがいずれ世の為人の為になることを信じ弱者に迷う事なく手を差し伸べる事が出来る里見医師、その2人の対極性が描かれた医療、というよりは人間ドラマです。
 財前は自身の成功の為なら他者を陥れることも厭わず、手段を選ばず成功を勝ち取りますが、職業倫理に反し、医師としては最終的に裁かれる立場になる人物です。長い物にもどんどんと巻かれていきます。コミュニケーションスキルやモチベーションには長けています。対して里見はモチベーションは高いもののコミュニケーションスキルは高いとは言えず、医局内でも扱いづらい存在として描かれています。弱者に手を差し伸べ、間違っていることを指摘し正義を振り翳しますが、先程述べたように正しい事が必ずまかり通る社会ではない為、医師としての立場は失脚してしまいます。
 視聴している側から見れば里見の自己犠牲の強さに心を打たれ、里見目線で見入ってしまうのですが、里見からすればそれは自身の揺るぎない信念に基づいた行動であり、決して自己犠牲ではないのです。里見にとっての自己犠牲とは信念に反する行動をとる事であり、ただ自分に率直に生きただけです。
 しかし、2人とも共通していることは、医師としての志は同じであった事です。
財前に置いても里見においても、自分の理想とする医療や最先端の医療技術がいずれ世の為人の為になると信じていたことです。そしてその理想を実現しようとする過程が、お互いに対極であり対立してしまった、と言うことです。
医療における誠実さはどちらが間違っているか決定的な判断は誰にも下せないと思います。
 財前は信念に率直でありつづけたことにより医療ミスを引き起こし、裁かれます。里見は財前に対立する立場として裁判に協力し主張を続け、結果財前は裁判に負けてしまいます。
このドラマの本質は、悪と見られる財前が敗北し、善と見られる里見が正しかった、と言う事を単純に伝えているのではなく、財前の里見に対するコンプレックス、本当にこれが自分の理想としていた医療でありやり方なのかという人間的な苦悩、自分の理想としていた白い巨塔(ここではがんセンター設立とそこのトップとなり最新の医療を駆使し最高の治療を行うことを指すと思われます)は傲慢さと人間性の欠落によって脆くも崩れ去るのだ、と言うことだと思います。
財前医師も人間的に根っからの卑劣な男というわけでは決してなく、それぞれの局面で苦悩します。心の奥底では里見が正しいということには気付いていた、しかしそれが正しければ自分が今までしてきたことはなんだったのか。確固たる信念の中にも迷いや揺らぎがありそこに財前という1人の人間の人間臭さが描かれているのです。

 財前のように野心と志の高さ、狡猾さ、そしていくら優秀で優れた頭脳と技術を持ち合わせていても、そこに人間性が伴わなければ成功してもそれは一過性のものとなってしまいます。反して里見のように財前と同じく優秀で優れた頭脳と技術と勤勉さを持ち併せ、志も高く人間性が伴っていても、社会に置いて信念を貫き通すということはリスクを伴うものです。時として長いものに巻かれる必要があることもでてきます。どの視点から見てもそれが正解だとしても、必ずしもそれが社会にとって正しいこととは限らないのです。それに立ち向かう姿勢は素晴らしい物でありますが、里見に足りなかったものは柔軟さ、であると思います。そして上手く周りと調和する力が多少欠けていたのではないか、と思います。

 高い志を抱き、勤勉にその道を極め、その業界の発展に貢献したとしても、冒頭で述べたように、必ずしも努力が報われるわけではなく、正義が勝つわけでもないのです。
社会とはそういうものだと思います。

ナイチンゲールの言葉にこんなものがあります。
【犠牲なき献身こそが真の奉仕である】
これは看護師に向けての言葉ですが、どの業界においても言えることだと思います。
他人を犠牲に、自己を犠牲にして生まれた結果は真の成果とは言えない。  
社会は個人の歯車の集大成によって成り立っていますが、自分も他者も大切にしながら生きてください。あなたの代わりはいくらでもいる、それは一つの安心材料として考えてください。
何かを犠牲にしなければ生まれない成果は望むべきではないのです。自分の精神を極限まですり減らして会社に貢献する必要はないということです。
そして財前のように傲慢であってもいけないし、里見のように実直すぎてもいけない。
いくら世渡りが上手かろうが、そこに人間性が伴わなければ成功はしない。

難しいことですか、それだけ社会というものは一筋縄では行かない複雑な物であるのです。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?