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天地人・楽器の響き 〜原始の石笛を含む〜

楽器を、神聖な音具として、序列ではなく意味合いとして、天地人にたとえると、
天・・・弦
地・・・鼓
人・・・笛
それぞれの波動発令の役割が、次元により区別されると想像します。

私は物心ついて以来、音を出すものが好きで、
父が器用だったので、自然の中で、音の出る草を教えてもらったり、笹の節で笹笛を作ってもらい、夢中になっていたことが大切な記憶です。

楽器は、得手不得手はあるものの、すべてに惹かれました。
最初から巧くできないのを「下手くそ」とさんざん貶されて、挫折したり、苦手意識を刷り込まれたこともありましたが、
それでも楽器を抱き、奏でている時は、孤独を感じず、愉しくて幸せな、充足のひとり時間でした。

小学校まではやたら病弱だったので、習いごとを続けるのが難しかったものの、
休みがちながらも箏曲を習えたのは、今となれば本当に幸せだったと思うし、
当時から日本の横笛に憧れ続けて、
実践が叶うこと叶わなかったことを含め、すべての憧れと経験、そして「好き」という思いが、
今の自分の源になっていると感じます。

近年、創作琴で活動し、
最近では、直感的に、手がかりのない未知の横笛を得たことで、
楽器・音具につき、その音や波動につき、改めて気づきや学びを自分なりに得られているので、
それらを書き残しておきます。

  吹き音と響き

笛には、ホイッスルやリコーダー、オカリナのように、そのまま息を吹き込んで音を奏でるもの、
オーボエや篳篥のように、リードを震わせて響きを音にするもの、

そして、多くの横笛や尺八のように、唇を直接唄口に当てず、吹く息の半分くらいを吹き込んで、息の入れ方の加減により音を調節するものとがあります。

息の強弱などで、音色が変化するのは、人の息吹で音色を奏でる「笛」という音具の特質ですが、
ある程度、笛に馴染んでくると、大切なのは単に音を出すことではなく、
響き・波動にあると、体で理解するようになります。

私は横笛が好きで、十代の頃にフルートを少し経験、大人になってから能管を長く習いました。
同じ横笛の形態で、和洋や素材の違いはあれど、楽器内に全部の息を入れるのではなく、半分ほど楽器に息を入れて、半分逃がすような吹きかたは変わりませんが、
演奏方法や音の出し方の理念、息遣いが全然違うことを学びました。

フルートは、タンギングや、息を吸いながらでも音を続けるテクニックなど、舌を使ったり、一音ごとを捉えるような吹き方をする印象があり、

和の横笛は、音を切らずにひと息を継続させて、そのひと息内の音色を流れのように滑らせる印象があります。
そして、特に篠笛などは、竹に穴を開けただけのようなシンプルな造りでありながら、それゆえに奏者の息(意気)が顕著に影響し、
息吹や氣の入れ方で、音色に微妙な、文字通り「色」や「香」を加味させる印象があります。

人が、笛に顕れる。

六年前に石笛と出会い、自分の石笛を手にした時に、それはさらに顕著に感じられました。

ナチュラルな天然石が好きな者、笛が好きな者、音に鋭敏な者にとって、
石笛は究極であり、笛の原理はここにあったことを直感しました。

  石笛の魅力

石笛は、自然物ゆえに、造られた笛のように、もともと音を出しやすいようにはできていません。
最初は、音が鳴るまでがひと苦労。
でも、ただ音が出せれば、「石笛が吹ける」というわけではありません。

最近は、翡翠や輝石などに、人の手で穴を穿った、人工の石笛もありますけれど、

天然の石笛は、自然による偶然の造形物といえるもの。
ある種の貝が、自衛のために、特に硬い石に、長い長い時をかけて穴を穿って、籠もった。その貝が命を終えた痕跡。いわば“命の穴”です。
この、貝により穿たれた穴の刻みは、人の手でも機械でも、決して再現できないものと言われていて、
その刻みが、微妙な波動のもととなっています。

そんな、川や海でころがる、穴の空いた石に、音色を見出したのは、はるか太古の人々。

想像するに、たとえば熊野の花の窟のような、自然石の岩壁の穴に、強い風が当たって鳴るところがあって、そこから神の息吹たる天啓を得たか、
またはシンプルに、子供がストローで音を出す遊びのようなことから、神聖な響きに気づき、発祥したのでしょうか。

私は、横笛の応用で、最初から音は出せましたが、
石笛の響きは、シンプルでありながら、奥が深い。

多くは、能管でいう“ヒシギ”の高音に近く、古来、神事に使われるのがわかります。
切り裂くような高音で、次元や時空の境を開き、波動を同調させる響きを発する。
それは、スピリチュアル的にいえば、吹く者の持つ波動にも関わるため、本来の神事では、霊位が高い者のみが鳴らす資格を得ます。

(おそらく、能楽で異界との境界を切り裂いて繋ぐ“ヒシギ”は、この石笛の音によるものの再現と思われます。
能管は“ヒシギ”を発するために、管内にわざと音を出にくくする細工がなされ、それゆえに奏者には全身全霊を注ぎ込むほどの、息吹を要します。
石笛はそこまで力を要しませんが、“意気を込める”を意識する意味で、能管のヒシギは息吹を要するのかと思います)

石笛でも、貫通穴や唄口の形状、吹きかたによって、音階らしき変化や、旋律も奏でられますが、
ただ音を出せればいいわけではない。

たとえれば、いわゆる指圧マッサージのたぐいが、ただツボを押せればいいのではないのと同じです。
施術者の資質は、圧されてみてわかる。
体の芯まで熱が届き、内側から命が呼び覚まされるような力が吹き込まれ、呼応する。
それが快感であり、元気が蘇るのです。

音も同じ。
石笛は天然石であるがゆえに、音の波動が、吹いている者との共鳴が強く、
吹いていても、骨伝導の響きが強い。

そのため、太古の昔は、音具のつとめを許されるのは、極めて霊力の強い、祭祀者や首長などに限られました。
神に繋ぐ波動を発すると共に、吹く者の波動も神の領域に高め、
この世界全体を、清めと強化の波動で満たす働きのものであったろうと思われます。

文字通り、息吹により、音として響きとして、
さまざまな影響を、現実世界に発動させるのが、
本来の「笛」の働き。

それが最も顕著なのが、天然の石笛の波動です。

  音具(楽器)による波動の発動

弦をはじく琴も、神具として、古代より弾く者を選び、神の波動を発令させる響きを、弦により波及させるものとされていますが、

笛は、人が息を吹き込むゆえに、人の側の資質が、さらに問われる神具でした。

その人の自我が入りやすく、奏でる者に邪念や顕示欲があると、その波動が増幅されてまき散らされ、目に見えぬ邪氣がベタベタと粘着して、なかなか離れず取り憑かれるモノになり、
世の中のネガティブを増幅させる羽目になります。

笛に限らず、音が美しく感じられ、よく響く音具ほど、その影響力は強い。

それゆえ、音を奏でる者には、ある種の責任があると、本来は心得ていなくてはならず、
一層、責が重くなります。

(プロの演奏家は、名声を顕示しなくては成り立ちませんが、おそらく、奏でているその時だけは、自我を手放し、楽器と一体になって、音そのものの清らかさに委ねられる人達なのでしょう)

音楽としては、上手か下手かでジャッジされがちですけれど、
下手に聴こえても心地よい響きがあったり、
すごく上手なのに、感動がなかったり。

緊張して、ジャッジされながら奏でるのではなく、
無心に、そして心から音を奏でることを楽しんで、その喜びを、音で拡げる……それこそが真の「音楽」と思うのです。

さまざま音楽を経験してきて、
最終的に行き着いたのが、私の場合、即興でした。
誰もが知ってる曲ではなく、その時にその場で浮かんできた響きを、
その場の波長に同調して、ただ発動し、歌う。

それが叶ったのが、私の場合、ハープ型の創作琴・眞琴でした。

(弦楽器は、弦の押さえや、琴柱などで一弦の音律を変えられる、古琴や箏、琵琶や三味線、バイオリンやギターのようなものと、
ハープのように、一弦に一音が定められたものとがあります)

直感で弦をはじくだけで、旋律と響きが奏でられ、それに身を任せることで、もうひとつの直感に繋がることができる。

現在、御神前ご奉納や、演奏会などの際には、
期せずして、
天…眞琴(弦楽器)
地…麻の神楽鈴(打楽器)
人…石笛(吹奏楽器)
のバランスで、和歌を導き、調べを発動させています。

眞琴・麻鈴、見えていないけれど石笛を握っている

  未知の横笛の可能性

最近、直感的に導入したのが、ネパールの横笛。

当初から、資料も手引きもないのを、自分で吹き方や音階を探り、練習曲の譜を作り、
現時点で、自己修練まだ4ヶ月目で、理想の音にはまだまだ遠い段階です。

けれど、新しい発見も多く、日々、吹くことが楽しくてなりません。

いずれは、これも即興で自分の調べを奏でるつもり。
ただし笛は単音のため、琴よりも、独奏即興は難易度が高く、まだまだ修練を要すると思います。

最近、自分で音を確認するために録音して聴き直すようにしてみたら、
なんていうか…この笛、独特の音色をしています。

同じ種類の笛であっても、実は同じ音はふたつとなく、
同じような創りであっても、笛は、それぞれ音が違うものですが、

ネパールの横笛は、特に低音に特徴が出やすいのですけれど、 
どことなく、泥臭いというか…薄暗い雨あがりの夜道みたいなニオイというか…音だけれど独特の臭気のようなものを感じる。
(実際の匂いは、木製に漆を塗ったもの)
西洋音楽に馴染んだ耳には、綺麗に聴こえないかもしれません。

濁ってはいないけれど、澄んでもいないというか。

そもそも、これは楽器というより、民芸品に近いものらしいという話もあり、音具としては素朴なものなのでしょう。

でもこの泥臭さ・薄暗さを、
泥の沼の中から伸び上がる、月夜に光を放つ、蓮の花弁の趣にできるのは、
これからの私次第。

あまり知られておらず、少なくとも日本では吹く人もまばらな笛だからこそ、
自由に楽しめて、奏でられる。

楽器は、愛着を持って深く関わり、奏でるごとに、
見知らぬもうひとりの自分の境地に導いてくれるように感じます。

自分が楽器を奏でるのか。
楽器が自分をいざなうのか。

日々、琴と笛と鈴、そして歌と調べと共に、
自分の知らぬ自分自身を奏でていきたい。

今回、打楽器については書けませんでしたが、
これも機会があるかもしれないので、
その折には、探求したく思います。

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