言葉を信頼して「読む」こと――北村薫『うた合わせ 北村薫の百人一首』書評

 「小説新潮」誌上で五〇回に渡って連載された、小説家・北村薫による短歌鑑賞エッセイを纏めたもので、巻末には藤原龍一郎・穂村弘との鼎談も収録されている。
 とは言え、この本は普通のいわゆる「秀歌鑑賞」の本ではない。毎回、テーマに沿って、著者が古今東西の歌集から対となる歌を引いてくるわけだが、何よりその組み合わせが特異で、毎回驚かされる。例えば、「祈り」の章で斉藤斎藤の「シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい」(『渡辺のわたし』)と並ぶのはなんと、葛原妙子の「疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ」。どちらも言わずと知れた名歌だが、この組み合わせはなかなか思い付かない。しかも北村はここで、斉藤斎藤の歌の「土下座」という語彙から、ドストエフスキーの『罪と罰』でラスコーリニコフが土下座する場面を連想し、「土下座」という行為に存在する「自己満足の甘さ」と「演技性」を指摘した上で、葛原の歌における「天に届かない」祈りの「非情な恍惚」に話が及ぶ。お見事、という言葉に尽きる。
 恐らく、歌壇においてごく一般的な短歌鑑賞の方法を用いた場合、斉藤斎藤の歌を読みながら『罪と罰』に言及するような真似はご法度だろう。「祈り」で纏めるにしても、行為する主体が一人称である斉藤と、三人称の葛原(一人称はあくまで「うたごゑ」の知覚者である)を並べることに、歌人は抵抗するだろう。歌に書かれていないことを、勝手に読み込むな、と。
 だが、これは本当に勝手な読みなのだろうか。そうではない。私たち歌人はどうも、一首を目の前にした際に、その作者における表現の独自性ばかりを妄信して、無理くりにでもそれらを探り出そうとしがちである。作者その人における時間や歴史(「人生」?「人間」?)については幾らでも食いつくが、目の前に配置された語彙そのものに含まれる歴史については、少々無頓着に過ぎることが多いのではないか。語彙の歴史は当然ながら、一首の外側に存在する。北村の、語彙そのものへの執着は、例えば藤原龍一郎の「散華とはついにかえらぬあの春の岡田有希子のことなのだろう」(『夢みる頃を過ぎても』)や、小池光の「万華鏡におほき熊ん蜂閉ぢこめて見むとしたれどいまに見るなし」(『時のめぐりに』)の鑑賞時にも発揮される(小池の歌に関する章は、まさに圧巻だ)。
 北村の読みが優れているのは、「土下座」や「散華」「万華鏡」という語彙を短歌の世界の中だけに閉じこめておかず、古今東西の様々なジャンルの用例に照らし合わせた上で歌と出会おうとしていることだ。一首を短歌的な「読み」のエコールに閉じこめるのではなく、より開かれた「読み」の地平を提示しようとしているのである。穂村弘が「原液でもなくて、カルピスウォーターでもない濃度の、オリジナルカルピス作りみたいな感じ」と指摘しているが、この「オリジナル」さは決して歌を殺さない。この「オリジナル」の配合こそが北村薫という作家の技量であり、目の前の言葉に対する信頼感の強さであり、作品を新たに生まれ直させる「読み」の力なのだ。

(「塔」2016年11月号:歌集・歌書探訪)

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