いたみつづけること――清原日出夫小論(「塔」2015年1月号)

 1963年4月、清原日出夫は「短歌」(角川書店)誌上に「暁闇」30首を発表する。のちに歌集『流氷の季』に収められた際にも、歌集後半、第III部の中心として据えられた連作である。

高層に組まれゆく鉄骨荒々といまだ生身の脆さ親しき
すでに明日は今日の心と来て重しわが双の掌ゆ逝きし〈労働〉
〈自由〉この捕われの身のさながらに事務服の群来たり立ち読む
さしあたり何求めんといし書店楽を流しいてバルトーク来る
防波堤破りさわだつ親潮にわれははかなき動悸していつ  /清原日出夫「暁闇」(「短歌」1963年4月号)

 初出と歌集とでは若干の異同があるが、ここでは初出から数首引用した。作中には「米軍ポラリス」(ロッキード社建造の潜水艦発射弾道ミサイルのこと)を詠んだものが見られるが、これは前年の1962年12月にアメリカ・イギリス間で取り交わされたナッソー協定に因むものであろう。このことから、作品のおよその制作時期を1962年末から翌63年初頭と推測することができる。清原は当時、兵庫県庁に就職して一年目の冬を迎えたところであった。

 清原の故郷である道東の原野になぞらえて、彼の内に「言いようもなく寂しいもの」や「清冽の気」を見出していたのは高安国世だが(『流氷の季』序)、高安は同時に次のようにも指摘していた。「清原も農家の出身とは信じられないくらい繊細で、いたいたしい感じがつきまとう。」人物評とも作品評とも判断のつかない言い方だが、この言葉はそのまま、「暁闇」をはじめとする清原の安保闘争後の作品に対する評としても有効であるように見える。「暁闇」30首は、闘争における敗北以後の〈冬の時代〉を象徴するように、冬の荒寥かつ沈鬱なイメージで覆われている。連作の中に、参加すべきデモはもはや存在していない。あるのは日々の生活と「〈労働〉」である。連作を通して一向に回復することの無い「私」の精神は、まさに「いたいたしい感じ」のまま、都市の冬の風景の内に燻り続けている。

 だが、この「いたいたしい感じ」は、清原の安保期の作品を知っているからこそ読み取れるものではないだろうか。作品を読む上で重要な鍵になる、背景としての安保闘争とその敗北が、連作中に明確な形では描かれていないのである。50年を経た現在、作中に見られるのは、「米軍ポラリス」「自衛隊」「カリブの海」といった、社会情勢を示す言葉の残骸ばかりである。「暁闇」は最初から、安保闘争後という時代の文脈で読者に読まれることが想定された作品であったと言える。

 こうした作歌姿勢を、読者に甘えたものとして批判することは容易であるが、それでは論が安直すぎる。ここで検討したいのは、安保闘争後の「転換期」の作品において、清原がいかなる模索を繰り広げていたかという点である。

 「暁闇」30首に対しては、発表時から清原の模索状態を指摘する声が多かった。二ヶ月後の「短歌」6月号には、塚本邦雄、秋村功、島田修二、水野昌雄という四者からの評が掲載されているが、その評価は概ね厳しいものであった。

 これらの作品の烈しい苦悶の表情は、思想、肉体の両面で急速な変貌を遂げようとしつつ、まだ彼自身の必然的な方法を自覚し得ない、焦慮と期待のゆえだろうか。彼もまた系譜やエコールの外に一度は身をおき、可能性に賭け、みずからの作風を発見すべきだ。(塚本邦雄)
 常識的な発想に足をすくわれぬよう注意する必要がある。(秋村功)
 傍観的というのは当たらない。ただ、その葛藤がかつての彼の秀作のように内部的ではないのである。技巧的な整調が発想を規制して、妙にちんまりしている。(島田修二)
 いずれにしても「平穏の生」としてこの「生」をとらえる限り、現実を直視する姿勢はもはやくずれ去ってしまっている「平穏の生」によりかかってどのような比喩をこころみようとしてもしょせん空しいのではないか。(水野昌雄)

 四者とも、清原の今後に期待はしつつ、作品に対しては不満を率直に指摘している。かつての学生歌人における「転換期の苦痛」(塚本邦雄)が、模索の真っ只中にある作品群を通して暴き出された形である。もっとも、この模索は何も「暁闇」に始まったことではなく、それ以前の「壁」(「短歌」1961年11月号)や「旗の孤独」(「短歌」1962年3月号)といった安保闘争以後の作品からは等しく見出すことができる。事実、「短歌」1962年12月号の座談会で上田三四二は、清原の作品に対し「作品が事件的な物に振り回されて少しさわがしい感じ」がすると指摘し、「もっと根源的なものを歌うというようなものがないと、作品が荒れてしまう」と苦言を呈していた。

 奇しくも、四評者による「暁闇」評が掲載された同じ「短歌」1963年6月号誌上には、清原の評論「思想の表現について」が掲載されている。以下の部分は、思想詠における〈写生〉の問題について述べられた箇所であるが、これらはそのまま、清原自身の作品に向けられた自己批判であるようにも読める。

 即ち、〈物〉を叙して〈物〉の本質を描出するという〈写生〉の神髄は、論理としてはそれ自体完璧性を備えていようとも、歴史的社会的に規定された〈事件〉を叙して、その本質を描き出して見せるというには、フォルムの短小性という点からいっても、現実にはひじょうに困難な場合が多いのだ。しかもなお、〈写生〉に拠る作家に主張したい、訴えたい〈思想〉があるときには、偶発的な〈事件〉を待たねばならなくなり、詩の主体は機会【チャンス】にその生死をゆだねることとなる。かくて、主体が主体であることができなくなり、〈写生〉の論理は死物化する。(「思想の表現について」)

 安保闘争後の作品である「暁闇」では、叙すべき対象としての〈事件〉は背後に隠れてしまっている。

何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口見ゆ
国会デモをめぐる反目に会議終う帰らん帰りて毛を読むべく
闘いつつ迷いはつきずまた想うピエール・タラーグの〈世界の重み〉  /清原日出夫『流氷の季』

 これに対し、デモや運動の中から詠まれた作品が優れた〈写生〉によって、現在の〈事件〉の存在を深く抉り出した点で、かつての清原の作品は高い評価を得ていた。社会詠や思想詠の類はどうしても、対象や主義主張に対する作者の意識ばかりが先行し、没個性的作品になりがちである。清原にも当然そうした傾向の作品がかなりの頻度で見られるが、それでも彼の安保詠には、作中の自己が安易にプロパガンダと化さないように、優れた工夫が施されたものも多い。

 注目したいのは、清原が現在の〈事件〉を詠む際に、歌の中に生じるある種の余裕についてである。一首目、「デモにつきまとうポリスカー」という巨視的把握の施された上の句から、「無電に話す」警官の口へクローズアップされる下の句へと向かうこの歌は、デモの主張内容に関わりなく、作品における写実の技法が、美しい構造とともに歌の世界観を構築している。昂揚したデモの最中にあって、作中の「私」には「ポリスカー」の中で何が話されているかまでは判り得ないが、発せられたであろう体制側の言葉は、反安保という主張にとっては単なるノイズでしかない。だが、理想に対立するノイズであるからこそ、無音なる口の動きはかなりの脅威として迫ってきたに違いない。ふと見えてしまった「無電に話す口」によって一首が纏められることで、歌は単なる反安保的スローガンの域を超えて、デモという喧噪に入り乱れる人間模様を提示しようとする。運動の全体を客観的に見つめるだけの余裕が、一首の中にも、作者である清原の中にも存在したが故の成果だろう。

 二首目や三首目においても、目の前の運動をより深く、総体として捉えようとするがために、理念の要素と現実の要素が対をなして描かれていることが分かる。「反目」や「迷い」を表現するために、作者はみずからの認識を、毛沢東やピエール・タラーグ(クロード・モルガンの小説『世界の重み』の登場人物)を経由しつつ歌に書き記す。無論、50年の歳月を経ることで、毛沢東の著作もクロード・モルガンの著作も、読者との共通認識たり得るものではなくなってしまったわけだが、それでもここに「私」の理想に関わる含意が含まれていることは理解されよう。

 しかし、こうした歌も、あらゆる場面が現在の〈事件〉に即していることに変わりはない。運動の真っ只中にいるということは、その思想を描く文体に対し、必然的に現在形の多用を強いることを意味する。現在起きている、あるいは起こりつつある〈事件〉を詠み、そこに付随する「私」の現在の心情を描くには、現在時制における〈写生〉の手法が極めて有効であると、恐らく清原は最初から理解していたのではないか。清原の安保詠に見られるリアリズムは、〈写生〉のリアリズムである以上に、現在形によるリアリズムなのである。

 だが、それ故に、安保闘争のデモの現場から離れて以降の作品において、清原はみずからの方法上の壁にぶつかることになる。彼の〈写生〉の方法はどうしても、現在形とともに詠われることによって保障されていた側面が強い。一九六三年の時点で、安保闘争は既に過ぎ去った出来事になりつつあった。闘争で味わった敗北のいたみを歌に表現しようとすれば、どうしても過去の時制を用いる必要がある。だが、彼の〈写生〉の方法は、過去の〈事件〉を回想し、そこから現在まで続く「私」の感情の変化を、時間の流れを含めて描くことには極めて不向きであった。作中における「私」のいたみは、根拠が不明瞭な、宙に浮いた設定としてしか存在し得なくなってしまう。

 冒頭に引用した「暁闇」の歌をもう一度確認してみよう。「私」のいたみを表現するために、清原は「鉄骨」や「防波堤」を持ち出すが、これらは全て現在の事象として描かれている。だが、現在の対象から導き出される感情は、「いまだ生身の脆さ親しき」であり、「はかなき動悸していつ」であり、現在における一瞬の機微ではないことに注意したい。「いまだ」と呼ぶからには感情の継続があり、「動悸」とはそもそも持続である。しかもここでは、「つ」という完了を示す助動詞を伴って詠われている。それ故、現在の事象と感情との間の結び付きが、時制を共有していないために不明瞭となってしまっている。これは、安保闘争という社会的〈事件〉が過去のものと化したために、単に文脈が古びて読者に伝わらなくなったためだけではない。時制表現に関する方法上の行き詰まりが、ここにははっきりと存在しているのである。

 では清原は、みずからのいたみを過去のものとして決着させようとしていたのだろうか。闘争そのものが過去のものと化し、いたみの原因という文脈においてしか表現しなくなったのは、それで良いと考えていたからなのだろうか。恐らくそうではない。その根拠は、清原にとってのもう一つのいたみが、やはり同じ「暁闇」の中に詠われていることからも判断されよう。そのいたみとは、かつての盟友・坂田博義の死である。

湖心まで凍る湖夭逝の白鳥ひとつ来たり住みつく
還りたき尋ねゆきたき雪原の真中の君の墓標の孤独
雪原を最後に走る極光はひととき君の死を装おいつ  /清原日出夫「暁闇」(「短歌」1963年4月号)

 「暁闇」の最後三首は、「君」の死をいたむものとして作られており、連作全体を通して見ても、この三首のみが独立した部分として位置づけられていることが分かる。作中に坂田の名前こそ登場しないが、「夭逝」「雪原」「墓標の孤独」といった言葉から、同じ北海道出身の坂田の自死を想定しているのだと、容易に想像することができる。

 興味深いのは、この三首においては、現在を〈写生〉しようとする作者の意志がそこまで強くない点である。「夭逝の白鳥」とはあくまで隠喩であるし、「湖」も「雪原」も具体的な場所として導かれているわけではない。この三首において清原は、それまでの〈写生〉による現実表現が薄れ、一人の人間の死の記憶をイメージとして現前させ、その死をみずからの内でいたみ直そうとしている。ここに存在するのは、作者の余裕ある現実認識ではなく、「私」のいたみの切迫感である。

 「思うに清原は坂田の死を最後までゆるさない一人に違いない」と澤辺元一が述べていたが(「塔」1965年2・3月号)、他者の死をみずからの中でいたみ続けることは、やはり相当のエネルギーを必要とする。何故なら、他者の死を繰り返し「悼む」ことは、みずからの「痛み」を延々と再生産し続けることであるからだ。死は過去の事実となるだろうが、いたみは常に現在に属するものである。過去と現在の距離が開けば開くほど、清原はいたみを詠むことに耐え切れなくなってしまったのではないだろうか。加えて、清原にとっては、短歌という詩型そのものが安保の敗北や坂田の死の記憶と深く結びついている。みずからを苦しめるいたみの存在が作歌という行為によって復活することも、そのいたみを表現しなければならないという作家の宿命も、彼にとっては乗り越えなければならない課題であると当時に、可能なら避けて通りたいものでもあったのではないか。

 清原が安保闘争後にぶつかった壁は、方法論的模索であるとともに、作歌という行為に立ち向かうみずからの精神の葛藤でもあった。結果的に、彼はいたみつづけることをみずからに課すことができなかった。作歌上の停滞と沈黙を経て、第二歌集『実生の檜』が刊行されたのは、清原の死の年(2004年)のことである。

(初出:「塔」2015年1月号、一部漢数字を算用数字に変更し、ルビは【】で示した)


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