閉じた世界の暴力について(「現代短歌」2016年11月号)

 総合誌を読みながら、この記事は誰に向けて書かれているのかと、雑誌の読者層について考えることがある。恐らく、年齢層は結社やカルチャーに属する者のほぼ同じか、もう少し上下に広いかといったところだろう。この辺を、小説の文芸誌と比較してみると面白いかもしれない。小説執筆のカルチャーだって存在するが、その受講者が文芸誌の読者層のマジョリティであることは考えにくい。対して、毎年何かしらの形で繰り返される短歌入門的特集からも分かるように、短歌総合誌は「書き手」がマジョリティとなるメディアである。それ故、提示される読みも緻密に、より精読化していく。それ自体は悪いことではないが、暗に一般読者(lecteur)よりも精読者(liseur)を求めがちな、このジャンルの閉鎖性を感じないこともない。

 勿論、短歌史を少し齧ってみれば、この詩型が生み出し続けてきた豊饒な営みについて認識も理解も及ぶだろうが、このジャンルはどうも、内部の蓄積を外部に開陳することが下手なようだ。下手でないなら不親切だ。そして入門者の多くは、大昔よりも直近の歴史が分からなくて戸惑う。仮に「○○の歌」や「△△を詠んだ歌」といった特集の小文でそれとなく歴史が記されていたとしても、一人二ページの記事の寄せ集めでは、点ばかりが増えて、どうやって線や面を描いたら良いか分かりにくい。『昭和短歌の再検討』以降、もっと言えば篠弘『昭和短歌史』第三巻以降の現代短歌の流れは、まだまだ当事者による口伝に頼っている部分が大きい。この部分を捉え直し、纏まった蓄積として書き残す作業が、これから求められるだろう。私自身、作歌開始当初に繰り返し読み、今現在も同人誌等で現代短歌史を書き継ぎながら念頭に置いているのは、かつて「短歌」誌上で連載されていた共同研究「前衛短歌とは何だったのか」である。この企画が書籍化されていないのが惜しい。

 共同研究のような時間と人数を必要とする企画は、毎号の企画を売りにする商業誌にとっては不向きなのかもしれない。だが、せっかく上の世代から下の世代まで万遍なく(と私は思う)書ける人が選ばれているにも関わらず、多くの企画が単発で、仮にある小文の中に優れた問題提起が含まれていたとしても、そのまま言いっ放しに終わってしまいがちだ。それを掬い取るのが時評の役目だが、時評だけに任せておくのもよろしくない。時評だって多くの場合、言いっ放しなのだ。書き手が多様化することは大事だが、必要なのはその先の、相互理解の可能性の模索にある。

 世代間断層が叫ばれて久しいが、私はこれが本当に世代間の認識の開きであるとは思えない。誰が言いだしたかは知らないが、小説と短歌とでは、文学の潮流に十年ほどの開きがあるとよく耳にする。要は、短歌の方が遅れている、というのだ。実際、純文学の文芸誌では作家や評論家に混じって人文系の研究者が学術的記事の連載を持ったり、鼎談に参加したりする例がよく見られ、小説の方がジャンルとして、社会の深層部にある変化の動向に敏感であるように見える。そんなことは短歌も一緒じゃないか、と言うかもしれないが、どうも短歌の人は、自分達の足場を解体してまで現実を再構築しようとしない。酷な言い方をするが、短歌において世代間断層と思われているものの多くは、社会の価値観やそれを分析し批評する知の動向について行けなくなった人間が、定型という殻に閉じこもり、短歌の伝統を隠れ蓑にして自己を正当化しようとしていることに起因するのではないか。昨今の〈虚構〉論議も〈水仙と盗聴〉の議論も、その言葉から時折、閉じた世界に安住するマジョリティの発した暴力が感じられて、心底萎えた。

 最近、阿木津英『イシュタルの林檎』『折口信夫の女歌論』を読む機会があり、こんな当たり前のことが当たり前のこととして語られてこなかった短歌の歴史に絶望した。ジェンダー論もポストコロニアル批評も、いまや大学の一般教養科目である。「短歌研究」の相聞企画(二月号)も、男性側が執筆すれば済む話ではない。相聞が即異性愛的文脈で読み解かれることへの困惑の声を、短歌はその閉じた世界の蓄積ゆえに潰し続けている。新人賞選考における〈性別当て〉の問題もそうだ。作者の性別の分からない歌が増えたことに不平を言う前に、そうした現象や傾向を、もっと社会の動向を巨視的に踏まえた上でつぶさに省察したらどうか。私達は、自分達の書く言葉そのものに含まれているかもしれないマジョリティ的暴力について、一度死ぬほど反省した方が良い。

(初出:「現代短歌」2016年11月号・特集「わたしの誌面時評」。なお、傍点を付した箇所は太字で表記した)

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