感情が突沸する時――染野太朗『人魚』書評

 「まひる野」所属の作者による、5年10ヶ月ぶりの第二歌集。記載はないが、412首を収める。

父の揚げた茗荷の天麩羅さくさくと旨しも父よ長生きするな
教壇に黒板消しを拾い上げおまえも死ねと言ってしまいぬ
あなたへとことばを棄てたまっ白な壁に囲まれ唾を飛ばして

 読み進めていくと、こうした強い言葉や感情を伴った歌と頻繁に出会う。引用した歌ではそれぞれ、肉親や、生徒や、「あなた」に対する〈私〉の感情の発露が詠まれているが、描かれる感情は時に暴力的なまでに強い。前作『あの日の海』(2011年、本阿弥書店)と比較してみてもその頻度と強さは明らかだろう。

怒りとは逃避なのだが はつ冬の欅の影に雀来て去る
さびしさが地蔵のように立っている怒りがそこに水を供える
性欲が不意に兆せり二時間につき百円の駐輪場で

 こうした、感情の沸点の低い傾向は、内省(=内声)的感情が発露した歌にも見られる。感情の中でも、この歌集は「怒り」と「性欲」に関連した語彙が目立つ。削ろうと思えば幾らでも削ることのできる、こうした「不意に兆」した感情の突沸を、作者は敢えて前面に押し出し、時に露悪的と取られかねない表現をも辞さない。恐らくこの作者は、静的な一視点としての〈私〉ではなく、より動的で可変的なものとして〈私〉を描こうとしているのだろう。ここで突沸する感情は〈私〉にとって、今ここで生起し続ける現実との、終わりなき触れ合いの成果なのだ。性や暴力に関する語彙はそれゆえ、現実と相対した〈私〉の身体の、表現としての発露であると言えよう。

好きなものを好きと言えないわたくしを仏像として拝んでほしい
憲法ゆしたたる汗に潤える舌よあなたの全身を舐む

 聖俗の別で云うなら明らかに俗の方に身を置き、性や暴力といった身体に直結した語彙を敢えて用いる。だが、それゆえに返って歌に詠まれた一瞬の現実には、愚かしい尊さが宿っている。

尾鰭つかみ人魚を掲ぐ 死ののちも眼【め】は濡れながらぼくを映さず
君の手の触れたすべてに触れたあとこの手で君を殴りつづける

 集中、「人魚」や「とんぼ」や「蝶」といった、他者とも、もう一人の自分ともつかない象徴的存在が詠まれた歌(あるいは連作)にも、暴力的語彙が目立つ。これらの表現は、如何にも短歌に詠まれそうな真っ当な主体像に対する抵抗なのかもしれない。第一歌集において鬱病と向き合い、教師として生徒や同僚と向き合う〈私〉を描いた作者は、誠実さというナイフをより強く研ぎ澄ませ、無意識という未開の領域にまで刃を入れようとしているのではないか。

 なお、作者はこの歌集に収めた歌以降の作品においては仮名遣いを旧仮名に改めている。仮名遣いの変更が、言葉としての身体にどのような影響を及ぼすのか。変化し続けるこの作者から今後も目が離せない。

(「塔」2017年5月号:歌集・歌書探訪)

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