私の中にいる他者について(「現代短歌」2016年4月号歌壇時評+あとがき)

 「分かる/分からない」という二分法はとても便利だ。だから怖い。

 私たちがある作品を読んで「分かる/分からない」と感じるのは、どういう事態であるのか。前回取り上げた「人間」に関する話題も、近年の若手(?)歌人の短歌に対して、何とかして読みのコードを発見しようとしているから生じる議論であるわけだが、それは裏を返せば、作品を読みこなすためにはある種のコードの存在を承知しておかなければならないという、リテラシーの問題に行きつく。そこには、従来の読み方では「分からない」から「分かる」ための別の読み方を探り、作品とのコミュニケーションに必要なコードを何とかして共有したいという思惑が存在している。

 だが、筆者がいま用いたリテラシー共有という言葉に、少なからず苛立ちを覚える読者も存在するだろう。「リテラシー」を短歌的習熟度と言い換えたら、苛立ちの根源がよりはっきりとしてくる。「共有」を同調圧力と捉えて嫌悪する者もいるだろう。筆者が気にし過ぎなのかもしれないが、ひとつのジャンルの中で「分かる/分からない」の話題になると、その言説はどこか啓蒙的で、上から目線の物言いに傾きがちであるように見える。実際、「塔」[2016年]2月号の「短歌時評」で花山周子は、「私を圧迫するものについて」という題のもとで「最近の歌壇」における「時代の焦燥感とない交ぜの啓蒙的欲求」について、次のような危機感を示している。

 ここのところ、世代差や価値観の違いという当然あるべき多様性が、ことさら断絶として強調され、ネガティブに語られるのも、各々がのっぴきならない場所で他者に影響を及ぼそうとする焦りと欲求に根ざしているのではないか。

 筆者がこの花山の文章に触れて思い出したのは、震災詠や社会詠に関する文脈で書かれた、「壜」9号(2015年12月)に掲載された高木佳子の論考「歌という器が容れるもの――原発・安保法制・危機という言葉をきくときに」である。高木は、読みという「場」の問題について、佐藤祐禎の歌集『青白き光』の受容のされ方を辿った上で、次のように述べている。

 一首のみの力ではなく、読み手という「場」によって「物語」が後付け・補完され、ゆたかな読みが与えられていく。通常のときなら豊かに読める「場」となるべきところだが、強者が勝つような読み手の「場」の変容が認められる現在では、歌は恣意的に取捨選択されてしまう。読み手側の状況と評価軸が歌のありように直結するのである。

 その上で、「声を大きくして言った者の道理が通るような、何らかの政治態度を表明しなければいけないような、そんな風潮をこそ、筆者は怖れる」と、ここ最近の歌壇における「性急な勢い」に危機感を示している。

 全く違う文脈で書かれた両者の文章の根底にあるのは、強者的言説への怖れである。読者という解釈共同体が可変性や多様性を失って硬直化し、そこで認められたコードがあたかも唯一の正解であるかのように語られる世界に対する危機感である。私たちは「分かる/分からない」という便利な言葉を用いることで、他者を排除するような「場」を作り上げることに加担してはいないだろうか。

 そもそも、ある作品を読むという行為は、個人の恣意的な営みでは決してない。作者や作品と同様に、読者自身も何らかの社会性を有しており、それ故に、コードというあまりに社会的なものを用いて作品を読み解こうとする。「分からない」とは、自己の中にそれまで蓄積された(生み出してはいない!)コードでは作品とのコミュニケーションがうまくいかなかった事態を指す。だからこそ、「分かる」と感じるためには、「分からない」自己を認めた上で、積極的に他者を自己の内に招き入れる必要がある。勿論、読みに唯一の正解が存在するわけではない。読者が自己の中に他者として新たなコードを受容する時、作品の側も、ひいては短歌というジャンルの側も、他者を受容し、その世界を拡大させるのである。

 だが、この「分からない」を拒絶反応のように用いてはいないだろうか。こう読めば「分かる」と言われても、そんな見方は受け入れられない、短歌的ではない、等と言って、自分が生み出したわけでもない既存のコードに縋り付き、他者を拒絶する。「分からない」という声がある権力を伴って響く時、解釈共同体は閉ざされ、運動そのものも停止する。私たちはそうやって、私の中の他者を殺していく。

 これは何も、最近の若手(?)歌人に対する言説に限った話ではない。筆者はむしろ、下の世代から上の世代に向けて「分からない」と発言されている時の方が悪質であるように感じる。これまで共同体の中で蓄積されてきたコードに対してみずからを分断し、距離を保った上で、適切なコードを提示されると、そんなものは圧力だ、私を侵犯しないでくれと言わんばかりに拒絶する。そこまでして守りたい私の読解も、結局のところ、ある社会性のもとで成立したコードでしかないにもかかわらず。個人の営為を過剰に意識することによって他者との線引きをする時、私たちはそうやって、またしても私の中の他者を殺していく。

 仮に世代間で読解の差異が存在するとしても、私たちに必要なのはその差異を拒絶することではなく、差異を認め合うことではないのか。「分かる/分からない」を、卑近で恣意的な個人としてのから解放し、より広く他者に向けて投げかける必要があるのではないか。蓄積された過去のコードも、生成しつつある現在のコードも、読みという地平においては平等である。「分からない」という経験は、啓蒙云々以前に、私の中で他者を育む行為のきっかけなのだ。

 もう一度言おう。「分かる/分からない」の二分法はとても便利だ。だから怖い。私の中の他者の存在可能性を殺すのは、他でもない、私なのだ。私は私の中にいる他者の力によって、作品を生み出し、読むのである。それが短歌であるかどうかすら、私の知ったことではない。

(初出:「現代短歌」2016年4月号、漢数字を一部算用数字に、傍点を付した箇所は太字に改め、年号表記に関する注を[]で示した)

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 これを書いてからもう一年以上経つが、筆者の基本的な考え方は変わっていない。むしろ、歌会や同人誌や結社といった、短歌にまつわる小集団がややもすると「熟議」と「共有」の場として機能していることに対して、以前よりも否定的になったと言える。

 勿論、「熟議」や「共有」そのものが悪なのではない。けれども、熟議の果てに理想的な共有知の「場」が存在する、という発想自体に疑問がある。「熟議」される手前で既になんらかの選別が行われているだろうし、「熟議」の果てに「何だかよく分からないけど、いい歌だよね」という結論が出るということだってある。当然だ。「分かる/分からない」という状況分析と、「良い/悪い」という価値判断は、別物なのだ。

 恣意的に集められた前提を検討するだけでは「熟議」ではない。それは単なる議論の「調停」である。あらゆる可能性を視野に入れて考えるためには、考慮される可能性そのものを増やす必要がある。そのためには、読みの可能性が発生するメカニズムそのものに対して、より自覚的な把握が求められる。そこには恐らく、読みにおける「無意識」の働きへの再検討が必要となるだろう。

 極端な話、歌の読みや解釈だって「詠み人知らず」ならぬ「読み人知らず」であってしかるべきなのではないか。個人の「分かる/分からない」を超えたところに、歌は存在する。みずからの読解のかけがえのなさを思いやるよりも、その読解を担保している何ものかの存在に目を向け、分析することの方が先ではないか。

 加えて、「熟議」や「共有」という言葉そのものの質感も、少しずつ変容しているように筆者は感じている。これからの時代、短歌において求められる「熟議」や「共有」とは何なのか。「場」についての議論が盛んな現在だからこそ、考えてみる価値のあるテーマであるように思う。

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