風通しの良い「場」を目指して(「現代短歌」2016年8月号歌壇時評+あとがき)

 「歌壇」[2016年]6月号の特集「結社の進路――結社の近未来を考える」を読んで、しばらく考えさせられてしまった。寄せられた文章のタイトルだけを並べると、「歴史の蒸発、地方の死」(山田富士郎)、「かなり暗い」(五十嵐順子)、「少し楽観的に」(中地俊夫)、「わたしたちの、不断の文学活動が大切だ」(岡井隆)という調子で、目次を開けただけで気が滅入りそうになる。だが、結社構成員の高齢化や、若年層の結社離れについては、何もここ数年で始まった問題でもないわけだから今更驚く必要も無い。では一体、何に考えさせられたのかと云うと、結社という存在の多様性についてである。

 件の特集の、「わが会のビジョン」というトピックには、20の結社から文章が寄せられている。執筆者個人の見解も含まれているだろうが、これらを読むだけでも、個々の結社にはそれぞれ特色があり、各々が「場」としての使命を果たそうとしている様子が見て取れる。筆者にはそれが、各結社が自身の存在意義を問いながら、自分たちの多様性を保っている、あるいは、保とうとしているように見て取れたのである。

 ひと口に短歌結社と言ってもそこには多様性があり、だからこそ、歌壇という言葉で安易に一般化してしまうと、それらはないがしろにされてしまう。同号で米川千嘉子が記しているように、結社とは「歌という形式の豊かな秘密を汲み取りつつ、自分の表現をあくまでも継続的に開き深めてゆくための『場』」である(ことが理想的だ)。裏を返せば、そうした個人の文学的営為が忘れられた時、結社は衰退を始める。無論これは、短歌結社に限らずあらゆる組織において当てはまることなのだが――。

 とは言うものの、これだけ多くの結社が存在しているにもかかわらず、ではその特色や独自性が正しく伝わっているかと言われると、怪しい。総合誌の広告欄では小さすぎて伝えきれない(だからこそ、見本誌を請求してくれと書くわけだが)。ここ数年はホームページやブログに加えて、ツイッターやフェイスブックといったSNSを活用して広報をする結社も出てきたが、それが外からの来訪者に対して開かれたものとして機能しているかについては、疑問がある。内輪ネタは確かに空気感を伝える材料にはなるが、結局それは空気でしかない。

 「歌壇」の特集では小林幹也が、結社への風通しの良さを確保するために「結社の合同説明会」の実施を提案していたが、そういうブースに関しては、筆者にも身に覚えがある。文学フリマである。実際、[2016年]6月12日(日)に開催された第2回文学フリマ金沢では、「未来」の北陸メンバーが結社のブースを出し、見本誌や全国大会のチラシを並べていた。確かに、文学フリマの会場で、各結社がバックナンバーや会員の歌集を頒布し、自結社を紹介するフリーペーパー等を作って配布していたら、同人誌をベースに活動している歌人とも接点が生じて、面白いことになりそうな予感はする。

 ただ、文学フリマという催し物が企画された経緯を思うと、筆者は少々複雑な気分にもなる。文学フリマは元々、笙野頼子と大塚英志による純文学論争の際に、大塚が「不良債権としての『文学』」(「群像」2002年6月号)で提示した「既存の流通システムの外に『文学』の市場を作る」という案の実践だった。但し、そもそも大塚の発言は、純文学の文芸誌が出版社の非採算部門であるという認識に基づいた、文学の独自性を商業的側面から切り捨てる見解であった点は留保しておきたい。売れないと批判した文芸誌で「文学」の威を借りて文章を発表する大塚の姿勢を、実作者である笙野は徹底して批判し続けたのであった(笙野の『徹底抗戦!文士の森』等を参照)。あの会場で「文学」について語ること自体、欺瞞的行為であるかもしれない、と思う瞬間が、今でも筆者にはある。だが、「文学」を「短歌」に入れ替えると、事情は変わってくる。本誌[「現代短歌」]2015年2月号の歌壇時評に石川美南が書いていたように、「もはや『文学フリマに行って本を買い押さえておかないと、短歌の最新シーンが摑めない』という感覚」が筆者にもあるのだ。

 文学フリマの出店者で、純文学論争について言及したことのある歌人を、筆者は寡聞にして、瀬戸夏子以外に知らない(「率」3号)。その瀬戸が、この春[2016年春]に出た「早稲田短歌」45号のインタビューで、やはり文学フリマについて言及していた。近年、文学フリマで詩歌俳句のブースが増加傾向にある現状を、瀬戸は純文学論争を念頭に置きつつ、短歌は小説と違って自費出版や謹呈文化で成り立っている現状があり、金銭的な意味で「プロ/アマの分離がそんなにない」ため、「同人誌を買う文化に対してそんなに抵抗がないんだと思う」と述べ、「文学フリマに短歌という文学がすぽっと入れたんじゃないかな」と指摘する。

 瀬戸の「すぽっと入れた」という印象は、実際の文学フリマを見ているとよく分かる。例えば、[2016年]5月1日(日)に開催された第22回文学フリマ東京では、「新鋭短歌シリーズ」等で話題の出版社・書肆侃侃房がブースを出していた。一部の書店が積極的に詩歌を取り扱う一方で、出版社の側も、需要が見込まれる場所にみずから出向いている現状がある。「場」の文芸としての短歌についてはこの時評でも何度か言及してきたが、流通においてもこの「場」の独自性が生きている。もっとも、文学フリマのみで「場」が閉じてしまうことも、大きな課題なのだが――。

 短歌というジャンルを、商業的側面から切り捨てるのは、簡単なことだ。だが、短歌との出会いを求める人にとって、この「場」は常に開かれていなければならない。短歌という「場」に関わる私たちには、良い作品を生み出すと同時に、良い「場」を作り、育んでいく責任があるだろう。

 そこで、ひとつ提案です。筆者も参加している短歌史プロジェクト「H2O企画」では、次回の文学フリマ東京(11月23日開催予定)で、結社の見本市スペース(見本誌の閲覧、結社紹介冊子の配布等)の設置を計画しています。ご賛同いただける結社の方は、筆者までご一報ください[注・盛況のうちに終了しました、ありがとうございます。2017年11月の東京でもやりますので、詳細は追ってTwitterで]。

(初出:「現代短歌」2016年8月号、漢数字を一部算用数字に改め、年号表記に関する注を[]で示した)

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 半年の時評のどこかで、文学フリマについては触れなければいけないと思っていたが、結局最後にもつれ込んだ。まあ、もつれ込んだ結果として『早稲田短歌』を入手することができたわけなので、結果オーライというところだろうか。

 個人的な思い出から話すと、文フリに対する私の第一印象は、失礼ながら、正直「けっ」というものだった。プロの創作者になりたいと思い、そんなことは誰にも公言せず一人でこそこそと新人賞に応募していた頃の私は、「趣味で創作」をやっている層のことが全く理解できていなかった。その道で食えない者同士が傷のなめ合いをして何が楽しいのだろうと、心の底から不思議がっていた。アマチュアのいわゆる愛好者層がジャンルを支えていることにまで、想像が及んでいなかったのである。高校生の終わり頃に笙野頼子にハマり、図書館で借りた『徹底抗戦!文士の森』を通して文学フリマという存在、並びに大塚英志のことを知ったのだから、まあ負の印象が先行していたと言えなくもない。それに、当時の私はまだ小説しか書いていなかったから、純文学よりも「文化資本」扱いされない短歌のことなんかこれっぽっちも考えていなかった。その後、大学4回生の時に、今なお「京都ジャンクション」の仲間である高瀬遊から同人誌をやろうと声を掛けられるまで、自分が文学フリマで作品を売ることになるなって、夢にも思っていなかった。作品が初めて並んだのが2010年12月の第11回が最初で(3週連続の演奏会本番と卒論を控えていたので東京行は断念した)、実際に毎回足を運ぶようになるのは、「京都ジャンクション」の創刊号を搬入した2011年11月の第13回の時からのことである。実際に足を運んでみて、同人文化の強みのようなものにも気づくことが出来た。

 大塚英志のネオリベラリズム的発想が、市場価値と作品価値をイコールでしか見ることのできない典型的な市場至上主義(思いつきで書いたが語呂が良いな)であることは改めて言うまでもない。そうした思想の背後や根底に女性蔑視(ミソジニー)やこじれた権威主義が存在していることを「文学」の力で叩きのめしたのが、笙野の例えば『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』や、「だいにっほん」三部作であった。三部作の最後が『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』であったことを思い出そう。ろりりべ、即ちロリコンリベラリズムに席巻された社会の地獄絵図。あれ、なんかどっかで見たことあるような気がするんだけど、はて。

 文学フリマが、大塚が主張したような「市場」の外に作者みずからが「市場」を作り出す機能にまで発展しているかというと、どうもそんなことはなさそうだ。コミケ等に見られるいわゆる「壁サークル」的な大手同人がいて、その他のサークルが「島」の部分を形成している、というよりも、常連のサークルと新興のサークルが程よく入り乱れて和気藹々としている、という印象の方が強い。私がいるブースはわりと壁際であることが多いのだが、これは純粋にジャンルごとに配置した結果なので、売り上げ見込みや搬入数による本部の配慮があってのことではない(前回、長野まゆみ氏が出店した際にはさすがに入口に近い場所にブースが設けられていて本部の配慮を感じたが)。この現状は、「市場」という競争原理よりもむしろ「共同体」の発想に近づいていった結果だろう。そしてこれは、何も文学フリマに限ったことではなく、あらゆる同人イベントにおいても当てはまることだと思う。ここに存在するのは、言うなれば共同体の内部の市場である。市場価値は、共同体の持つ文脈によって幾らでも変えられる可能性がある。

 さて、時評の文中で私は「『文学』を『短歌』に入れ替える」等と面倒な言い方をしているが、短歌をはじめとする短詩型はそもそも世間一般には売れないものとされているので、最初から(幸運にも? なのか??)ネオリベ的市場至上主義から逸脱したところに作品への評価基準というものが作られていると言える。このことは一面では専業作家が成立しにくさに繋がり、プロとアマの境界の曖昧さの要因にもなっているが、他方で、瀬戸が『早稲田短歌』のインタビューで語ったように、同人誌という形式そのものに対する敷居の低さや非商業媒体への寛容さに繋がっている。最初から「場」の文芸であったのだから、共同体的な市場を内側に取り込むことは容易なことだったのである。

 小説というジャンルは、日本においては明治の終わり頃から、市場を受け入れ、それを利用することで「文学」における代名詞と化すまで発展した。だが、これも煎じ詰めれば「文学の市場」を作ったというまでのことであり、コンテンツ市場全体を席巻したわけではない。一方、近年のコンテンツ市場は作家やその周りの人物に、職人であると同時に興行主や商売人であることを求める傾向にある。従来は、作家と読者の間に出版社という仲介人が存在したおかげで、そうした作品価値の外側の部分が支えられていたが、電子書籍やWebコンテンツの進化によって、クリエイター自らが読者へ作品を届けるケースが増え始めている。「文学の市場」そのものが低迷し、より広いコンテンツ市場に晒された現代においては、クリエイターや編集者が生き延びるために求められるスキルがこれまでよりも過剰になっているのではないか。

 そんなことを考えていたら、パロディ漫画家で最近では『うつヌケ』がヒット中の田中圭一の連載記事「田中圭一のゲームっぽい日常」の最新回「ウェブマンガのこれから」に出会った。

 そう、ネットがメディアの中心になりつつある時代で、かつマンガ以外の魅力的なコンテンツが数多く存在する現代には、その時代に即応したスキルが求められる。中身の濃いおもしろいマンガを描いてさえいれば大きな舞台に立てた時代は終わろうとしているのかもしれない。(田中圭一「ウェブマンガのこれから」)

 文中で田中は、「『クリエイター』だけではない『プロデューサー』『プランナー』『マーケター』の資質を持ち、自身の売り込み方を心得た」現代の新たな作家たちの傾向を、「ユーチューバー的」と表現しているが、言い得て妙だと思う。

 私自身は、皆が皆ユーチューバー的なんでも屋になれるとは決して思っていないし、なる必要もないと思っている。もっと言えば、そういうなんでも屋ばかりを有り難がって消費する社会や共同体はとても安易でかつ危険である、とすら思っている。同人作家はいざ知らず、一人で何役も兼ねた結果として、「中身の濃いおもしろい」ものを生み出すことに対してプロのクリエイターが集中できないようでは元も子もない。そうした仕事を他人に任せることが出来ないというのは、結局はみずからの共同体の「島」化を助長するばかりか、他者の介入という名の仕事の配分や雇用の創出も生じない、閉じた「場」の中の利権争いでしかない。今の時代の風潮の中で生きのびられたものだけが勝つのだ、と上から目線で言われているのと同じだ。本当に見据えるべきものは「今」ではなくて「未来」であるにもかかわらず。

 もう一度、短歌に戻って考えてみよう。よく考えなくても、歌人が歌集を自費出版で出す時はある程度マルチプレイヤー的なことをしなければならない。出版社に見積もり依頼を出し、どこから出すかを取り決め、栞文や解説の依頼を出し、出版の費用を捻出し、謹呈者のリストを制作し、批評会の会場やパネリストの準備をする――。市場そのものが共同体的な閉じた「場」であるから、歌集の段階においても作者その人に同人作家的なマルチさが求められている。要は、文学フリマで同人誌を売ることと、自費出版で歌集を出版することが、ほとんど同じ位相の行為として存在しているのである。(だから私も、歌集は出さないのに同人誌は出すのである。瀬戸さんも以前ツイートしていたが、私にとっても、遠くの百万円より近くの五万円である。)

 当然ながら、従来の「場」ではない部分にまで歌集を届けるためには、これまで以上の「仕事」が必要になる。書肆侃侃房の「新鋭短歌」シリーズは、読者の側からしても、全国の書店でも比較的手に入りやすいという魅力があった。売る努力、というと眉をひそめる人もいるかもしれないが、届ける努力をもう少し、この「場」に関わる人はしてみても良いのではないか、と思う。それは結局のところ、「場」そのものの新陳代謝を促す行為でもあるはずなのだ。

 文芸誌の売り上げ不振が叫ばれる中、新潮社の「新潮」がYahoo! Japan等と共同で、上田岳弘の新連載小説「キュー」をスマートフォン向けWebサイトで同時配信を開始した(紹介ページはこちら)。スマホを使ってサイトに行けば無料で最新作が読める、ということで、ますます本が買われなくなるのでは、という疑念もあるが、スマホで漫画や動画を楽しんでいる人たちに「読書」「文学に触れる」という機会を届ける、という意味ではとても刺激的な試みであるように思う。近接ジャンルでも「場」の新陳代謝はこうして試みられているのだ。短歌の出版界も黙っていてはどんどん落ちぶれてしまう。

 こんなことを延々と考えていたところ、「短歌人」2017年9月号の「編集室雁信」で小池光がこんなことを言っている。

●歌集が次々に出て慶賀に耐えないが歌集というものは売る物でも売れるものでもなく差し上げるものである。少し分厚い名刺である。名刺だから差し上げて、それでなんの余得も欲してはならない。差し上げた未知の人から返事がきたりして嬉しいものだ。それで十分と思わねばならぬ。(小池光「短歌人」2017年9月号)

 確かに、短歌に限らず、文学作品については、売る、よりも、届ける、という言い方の方が適切なのかもしれない。現代短歌社の新しい叢書名も「Gift10叢書」である。歌集の売り上げの10%が地域のNPOの活動基金へ寄付されるという、短歌の「場」と地域社会を結びつける新しい試みである。

 しかし、である。歌集を出すことはよく、車を買うことに喩えられたが、車を買わなくなった若者が同額程度の金を歌集出版につぎ込むはずもない。この「少し分厚い名刺」はこれまで「場」への入場券を兼ねたものであったわけだが、そんな高い入場券を買ってまで入りたいという魅力が、今この「場」にあるのか、甚だ疑問である。何度も言うが、遠くの百万円(歌集自費出版)より近くの五万円(同人誌発行費用)である。文学フリマが盛況なのは若手の金の動きが変化したからだと言えなくもない。大体、名刺の管理など、スマホアプリに取り込んだらそれでおしまいなのが今の時代である。裁断されて電子化されることもないまま、謹呈の栞が挟まったままブックオフに売られていく歌集が、どれだけ多いことか(私はわりと頻繁に見つけて、100円とかになっていると、あーあ、と思って買っている)。

 届ける、ということは、受け取ってもらうこと以上に、誰かにそれを残してもらうことを祈念する行為である。贈与は循環して初めて意味を成す。だが、その贈与の循環を生み出すには相当なエネルギーが必要だ。そのエネルギーの全てを歌人その人に課して、マッチョなユーチューバー的歌人ばかりを生み出して、一体何が面白いのだろう。いい加減、閉じた「場」のアマチュアリズムの上に胡坐をかくのは辞めてみてはどうだろうか。その時、短歌の出版業界も、あるいは文学フリマの短歌「島」も、今とは少し違った表情を見せているかもしれない。

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濱松哲朗

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