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映画「ドラえもん のび太の月面探査記」を観ました。

※この記事はネタバレを多分に含む考察記事です。

ドラえもんファンで知られる直木賞作家・辻村深月が脚本を手掛けたことも、「新・大魔境」(2014年)「新・日本誕生」(2016年)というリメイクを超えた創造を成し遂げてきた八鍬監督が初めてオリジナル作品に挑むことも、前評判としては凄かったが、何より映画39作目にして遂に「月」を舞台にした作品を生み出した、という時点で、ドラエモニアン(ドラえもんファンのことをシャーロキアン風にこう呼ぶ)にとっては狂喜乱舞ものだ。

大昔、ドラえもんの映画の舞台設定は「地球」「宇宙」「時間旅行」「仮説」の4パターンのどれかに収まっている、というのを何かで読んだことがある。「地球」の代表例が「大魔境」(1982年)や「竜の騎士」(1987年)、「宇宙」は「宇宙開拓史」(1981年)「宇宙小戦争」(1985年)「アニマル惑星」(1990年)など挙げ始めたらキリがない。「時間旅行」は「恐竜」(1980年)「日本誕生」(1989年)「太陽王伝説」(2000年)など、「仮説」には「魔界大冒険」(1984年)や「夢幻三剣士」(1994年)が入るだろう。勿論、各大長篇および映画はこの4つの属性を複数有していることも珍しくはない。例えば「創生日記」(1995年)は4つ全部を横断していて、それゆえ少々難解な作品に仕上がっていた。

今回の「月面探査記」は、「地球」「宇宙」「仮説」の3つを絡ませる地点として、「月」という絶妙な場所が選ばれたということだろうか。

そもそも今回、「異説クラブメンバーズバッジ」が物語の主軸の道具に選ばれたという時点で、原作からのファンは鼻息荒くして映画を観たのではないだろうか。

オリジナルの短篇(てんコミ23巻所収)では道具の力で地底人を作り出していたドラえもんとのび太は、今回は道具の力で月に「ウサギ王国」を作り出す。その王国に行くためには、バッジを着けて異説クラブのメンバーにならなければならない。道具の設定そのものが最初から、仲間とか友達といったものありきで作られているのだ。

だから私は、「異説クラブメンバーズバッジ」が描かれた制作発表告知イラストの時点で、これは確実に「友達」や「友情」の物語を導き出すだろうと思って、期待しつつ警戒した。「ドラえもん」という作品が、一歩間違えれば簡単に泣くためだけのコンテンツに落とされかねないという事実を、私たちはあの良いとこ取りの大失敗作「STAND BY ME ドラえもん」(2014年)で知ってしまっている。あんな無残なドラ映画はもう観たくない。

だが、そこは八鍬監督だ。「新・大魔境」ではペコとジャイアン、更にはペコとのび太との友情を更に掘り下げ、「新・日本誕生」では原作ではキャラの薄かったククルに終盤で決定的な見せ場を与えることで作品としてのメッセージ性を強めた、あの手腕が発揮されれば、何の問題も無いだろう。そう踏んでいた。

結果は、想像以上の出来だった。恐らく私が辻村深月の小説をほとんど読んだことが無かったから、そちらの側からの予測が全く出来ていなかったこともあるだろう。読んだことがあるのは「Pen+」の藤子F特集号(2012年)に載っていた短篇「タマシウム・マシンの永遠」(『家族シアター』所収)だけ。せめて『凍りのくじら』くらい読んでおけばよかった……と後悔。

それにしても、原作者藤子・F・不二雄への尊敬の念をこの二人が惜しみなく注ぎ込めば、そりゃあこれだけの作品ができて当然ですよ。これは間違いなく、声優交代後の映画の中でも指折りの名作である。私がそう言い切れる理由は一つ。「80年代ドラ映画や原作者へのリスペクト」を多分に含みつつ、作品自体は「2010年代のディストピアもの」として成立している。――これに尽きる。

まず、80年代リスペクトについて。のび太たちが作り出したウサギ王国の住人・ムービットの姿形を見ると、やはり「宇宙開拓史」のチャミーを思い出さずにはいられない。そして、ルカたちエスパルを捕らえるためにゴダートたちの宇宙船がカグヤ星からやってくるという構図は、「宇宙小戦争」でパピを捕まえるためにドラコルル率いるPCIAの宇宙船が地球にやってくるのと酷似している。最後に処刑されかけてからのどんでん返し、というのも「宇宙小戦争」と似たクライマックスだ。

敵っぽく登場しておきながら最終的には剣を抜いて共に戦うゴダートは、その年上っぽさや兵士設定からして「海底鬼岩城」のエルっぽいし、そもそもラスボスであるディアボロが人工知能だったというのも、もうまるっきりポセイドンだ。モゾが破壊兵器目掛けて突っ込んでいくラストを観て「バギーちゃん!!」と叫びそうになった人も多いのではないか(そしてバギーがネジ一本を残して爆発四散したのに対し、モゾは無事に生還する)。

更に、しずかちゃんだけが別行動を取って勝利へのきっかけを導くのは、治療する相手がリルルからルナに変わっただけで、スペアポケットを使っている辺りまで含めて「鉄人兵団」(1986年)と完全に一致する(もっとも、スペアポケットを通路のように活用するのは「ブリキの迷宮」(1993年)や「ねじ巻き都市冒険記」(1997年)なので、ここだけ90年代なのだが)。

気づいたものを列挙してみたが、他にも、昔からのファンならリスペクトやオマージュだと気づく要素が多分に含まれている。「エスパーぼうし」のくだりなんて、カットしようと思えば出来てしまうような他愛のないものだが、そこを敢えて挿入したのは、短篇の「エスパーぼうし」(てんコミ7巻所収)を知っているファンに向けてのサービスだろう。そして、映画の一番最後、あれだけオリジナルの大冒険を繰り広げた5人は、「異説の世界を守るためにバッジを埋めてしまう」という短篇「異説クラブメンバーズバッジ」の場面を再現する。これはドラたち5人にとっては、映画=大長編という「冒険の世界」から短篇という「日常の世界」へ戻るための儀式だったのではないか。冒険と日常を地続きにしつつ切り離すのは、藤子流SF=すこし・ふしぎの基本であり、全てである。辻村&八鍬はそれを全部分かってやっている。なんと恐ろしいほどのリスペクトだろう。

しかし、リスペクトとオマージュにあふれていても、「月面探査記」はやはり2010年代の映画だった。それもいわゆる「ディストピアもの」として申し分ない出来の、もっと言えば震災後文学として捉えられてもおかしくない作品だ。

実は、10年代ドラ映画と震災の関係は結構深いものがある。ゲストキャラをまさかの父親=のび助に設定した「奇跡の島」(2012年)が家族の絆を前面に押し出すきっかけとなったのは前年の震災の影響だと言われているし、翌年の「ひみつ道具博物館」(2013年)に関しては批評家の杉田俊介が『東日本大震災後文学論』(2017年)の年表の中で次のようにまとめている。

・明らかに震災後アニメ。おっちょこちょいの偶然のミスで科学技術や人類の叡智全てが消し飛びうる世界の中で、「友情」のはじまりだけは忘れない。勉強も運動も全部だめだけど、君は「いいやつ」だと。明日たとえ秘密道具がぜんぶ消滅するとしても、それでも人類の達成を善用し、友達でい続けよう、と。
限界研・編『東日本大震災後文学論』(南雲堂、2017年)p.xxvi(年表部)

そして今回、「月面探査記」ではカグヤ星という、セカンドインパクト後かと思わんばかりの惨状を晒した世界と、エーテルという特殊能力を持つ人工生命体エスパルの関係が、ドラ映画史上でも類を見ないほど悲惨な設定によって描かれている。

エスパルの有するエーテルの力を兵力や軍事力として利用しようとしたカグヤ星人は、人工知能であるディアボロの謀反的行為により、月の一部破壊とそれに伴う生態系・環境の変化に晒され、危機に瀕することとなる。カグヤ星脱出から千年が過ぎても、いつ来るとも知れない追っ手に怯えながら月の裏側に隠れ住むエスパルたち。その力を追い求めるディアボロ――。この構図、どこかで見たことがないだろうか。

小説版のルカの台詞を引こう。

「ボクたちは結局、争いの種にしかならないんだ! どうしてそれがわからないの!?」
 父も母も、だから、ルカたちを星の外に追いやったのだ。ルカの声が弱々しくなる。自分たちは邪魔者であり、見捨てられたのだという思いに激しく胸を掻きむしられる。
 だから、帰ってくるべきでは、絶対になかったのに。
「ボクたちだって、好きでこんなふうに生まれたわけじゃないんだけどな。父さんも母さんも、ボクたちを作ったこと、後悔したのかも……」
(辻村深月『小説 映画ドラえもん のび太の月面探査記』p.175)

ルカたちエスパルは、生物学者であるゴダール夫妻によって生み出された、11人しかいない人工の種族である。彼らの特殊能力であるエーテルは、花や緑を生き生きと育てる一方で、月の一部を破壊するだけの力を秘めてもいる。見方を変えれば、生物兵器としてこの世に生みだされてしまった存在なのである。

思い出してほしい。かつて「海底鬼岩城」の鬼角弾が、作中で堂々と「地上で言う、核ミサイルみたいなもの」と言及され、そこではムーとアトランティスの対立が東西冷戦の隠喩として描かれていたことを。そして、「月面探査記」には「海底鬼岩城」を思わせる描写が少なくないことを。

エーテルの力を発揮する時、エスパルたちは青白く発光するキュリー夫妻が発見したラジウムのように、放射性元素のように光を放つのだ。これはもう完全に私の深読みなのだが、エスパルたちは、実は原子力エネルギーの隠喩で、カグヤ星はその力が「悪い方向」に働いた場合のもしも的ディストピアとしての地球なのではないだろうか。

エスパルたちは、自分たちの力が悪用されると破壊しか生まないことを知ってしまっていた。そしてルカは途中まで、自分を生み出したゴダール夫妻の想像力のことすら、憎んでいる節があった。「彼奴らの想像力が破壊を生み出したのだ」と言うディアボロに、ドラえもんがはっきりと「想像力は未来だ! 人への思いやりだ! それをあきらめた時に、破壊が生まれるんだ!」と突きつける場面は、想像力の二面性以上に、あらゆる物事の二面性をあぶり出している。勿論、エスパルやエーテルのことをも。

死ぬことのできない身体を持つルカたちエスパルは物語の最後、「超能力のない、普通に年を取って死んでいく人間に、ボクたちはなりたい」と言って、エーテルの力をみずから手放すことを決める。死ねる身体が欲しい、と言ってきたゲストキャラがこれまでにいただろうか? 彼らの願いを叶えてあげるこのラストシーンは、友情という意味では美しく、宿命という意味ではあまりにも残酷だ。

エスパルが放射性物質の隠喩だとしたら、その死は半減期のことを指すだろう。放射性元素から半減期を早めてくれとお願いされるという構図、考えたことがありますか? いくら彼らが人間として生きて死ぬことを望んでいるにしても、ちょっと人間の側の勝手すぎやしないだろうか。

いや、だからこそ、ドラたち5人は彼らを他の存在から守ろうとしたのだろう。「想像力は未来だ! 人への思いやりだ!」と叫んだドラえもんは、エスパルたちと共生可能な未来について諦めたわけでは決してなかったはずだ。ただ、今現在では無理だと判断して、未来に託しただけなのだ。唐突にバッジの封印を提案するのが未来から来たロボットであるドラえもんであることの意味は、だからとても大きい。そもそもドラえもんはユートピアとしての未来からの使者なのだから、ディストピアになりうる可能性について自覚が無いはずはない。

私には「月面探査記」のラストにあるものが希望なのか絶望なのか、判断がつかない。正直、どっちとも取れるのだ。いや、むしろ「どっちとも取れる」という二面性を、このラストはそのまま投げかけているのかもしれない。割り切れなさを引き受けながら生きていくことを、そのためには想像力が何より大切なのだということを、ユートピアとディストピアの狭間から突きつけた稀にみるドラ映画が、「月面探査記」だったのではないか。

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