詩型が持つ錨について――川野里子『七十年の孤独 戦後短歌からの問い』書評

 総合誌等に発表された文章を集めた評論集で、「出発について」「源について」「今について」「未来について」という、時代の流れに即して配された四章から成る。版元はここ数年話題の書肆侃侃房である。
 戦後七十年であった昨年(2015年)は、現代短歌のこれまでの流れを改めて問う機会が雑誌等でも多かった。川野はまず、冒頭の「七十年の孤独――第二芸術論の今」において、「現代短歌とは、第二幻術論以後の短歌のことだ」、「第二芸術論に代表される否定論を核として抱きながら展開してきた戦後の詩型のことだ」と規定する。この文章そのものが、評論集全体の総論となっていると言って良いだろう。戦後という時代の文脈を自らの身に引き寄せた結果として、塚本邦雄や寺山修司らの前衛短歌運動、葛原妙子や馬場あき子、山中智恵子らのいわゆる「女歌」の仕事が俯瞰され、それらに続く事象として、著者自身を含む現在活躍中の歌人たちについて論じられていく。
 こうした論の立て方や、一冊の章立てには、短歌という詩型に対する川野の問題意識がはっきり現れている。後半、時評的文章として書かれた論考においても、「極論すれば、私たちは長い近代の最後尾に立っている、そんなことさえ思われるのだ」(「〈われわれ〉なき〈私〉――『現代』は本当に始まっているのか?」)という言葉が示す通り、筆者の姿勢は一貫している。近代や戦後、文語といったキーワードが、戦後七十年経った現在においても、短歌という詩型において錨のようなものとして存在していて、その錨が今もなお、短歌を何ものかと結び付け、何ものかで在らしめているのである。本書は言うなれば、その「何ものか」が何なのかを考察する試みである。
 無論、この本を手にする人が最初から、これまでの短歌の歴史に明るいとは限らない。「戦後」や「近代」という言葉をどうしても他人事のように感じてしまう、という読者も少なくないだろう。そんな人には、四章の「未来について」から逆走して読むことをお勧めしたい。永井祐、笹井宏之、内山晶太、石川美南、渡辺松男らの作品を読みながら、川野は「長い近代の最後尾に立っている」という自覚のもとで、歴史や過去との接続/非接続を分析していく。文語と口語、あるいは〈私〉といった、近年さかんに議論されている内容にも触れられているので、ここから徐々に歴史をさかのぼって読んでいくと、これらのトピックを、歴史性を帯びた文脈として再認識することができる。「史」的思考の入門編としても手に取りやすい一冊である。
 戦後七十年であった昨年のうちに出版する意図があったのだろう(筆者も、「歌壇」の連載「空間の短歌史」の単行本化の方が早いと思っていた)。「あとがき」にも、急遽出版された旨が記されているが、扉ページにおいて著者名が脱落しているのにはさすがに驚いた。加えて、読者の一人としては、巻末に人名索引が欲しかったように思う。このような評論集であれば、索引の見渡すことで作者の問題意識の在り処が見えてくることもおのずとあり得るだろう。歴史とは何も束縛ではなく、あくまで問題意識の顕在化の一例なのだ。

(「塔」2016年5月号:歌集・歌書探訪)

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