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青春を弔うために――清原日出夫と岸上大作

 冨士田元彦によると、中井英夫は決して岸上大作を認めなかったらしい。「かたくななまでの拒否反応を示しつづけ」、岸上の自死を冨士田が知らせても「いとも冷然と『清原でなくてよかったね』などという答えが返ってきて、くさらされた」という(『冨士田元彦短歌論集』国文社、1979年)。

 そんな角川「短歌」歴代編集長の間で評価の一致した稀有な例の一人が、清原日出夫(1937~2004)である。清原の第一歌集『流氷の季』(初音書房、1964年)は、大学に入学し「塔」へ入会した1958年から就職2年目の1963年までに作られた335首を収める。

不意に優しく警官がビラを求め来ぬその白き手袋をはめし大きな掌
何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口見ゆ

 歌集冒頭に収められた連作「不戦祭」は、「塔」から「短歌」1960年4月号に転載され、清原の中央歌壇デビューのきっかけとなった作品である。デモという運動の渦中にありながら、即物的なまでに突き放したリアリズムの手法を用いることで、個人と社会の間に存在する権力や支配といった、構造そのものや根源を探ろうとする。「あのころの政治的運動のまんなかから、直接行動に参加している人間として、これほどなまなまと誠実の声をうたい上げた歌人はなかったと思う」と、歌集の「序」に高安国世は記しているが、その「誠実」の理由は、構造そのものをメタ的に把握しようとする優れた目の存在にあると言って良い。

国会デモをめぐる反目に会議終う帰らん帰りて毛を読むべく
投光器に石を投げよと叫ぶ声探り光は定まりて来る
細胞の君らに持ちいしある負目闘いを経ていまわれになし
一瞬に引きちぎられしわがシャツを警官は素早く後方に捨つ
スクラムのなかというのも無援にて君の轍の深きを出られず

 Ⅰ章「五月の檄詩」から更に引こう。歌集刊行から50年以上経過した現在、「毛」が毛沢東だと瞬時に理解する人の方が少数派だろう。これは『流氷の季』に限ったことではないのだが、社会詠を読む時には、どうしても使用期限の過ぎた名詞群に目が行きがちになる。筆者(1988年生)のような、その時代を直接には知らない読み手にとっては尚更だ。「スクラム」や「ジグザグ」や「流れ解散」の質感は伝聞でしか知らない。「細胞」や「ピケ」はスマホで検索した。しかし、例えば一首目のようにみずからの拠り所となる書物は、思想的云々は措くにせよ現代の私たちにも恐らく存在しうるものだし、二首目に描かれた権力側による監視の有り様は、むしろ監視社会化が著しく進んだ現代の方がより切迫した問題として捉えられるかもしれない。目の前にある〈物〉は変わっても、目に見えない〈敵〉は今なお変わっていない、ということだろうか。

 ところで、五首目に引いたスクラムの歌は、岸上大作の代表歌「血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする」(『意志表示』「黙禱」)への返歌と言われている。他にも、岸上の死を念頭において作られたと思われる作品が連作「流氷群」(「流氷の季」改題、「短歌」1961年6月号)に幾つか見られる。

雪の峰片面を染めている落日許してはいず友のはやき死
いつまでもわが掌に重し〈十月の理由〉を問いて術なき手紙

 俗に「東の岸上、西の清原」等と呼ばれることがある二人だが、その地理的距離や活動時期から、「短歌」1960年10月号の座談会「明日をひらく」以外で直接的な接点があったとは考えにくい。しかし、同時期の学生歌人として互いに意識し合っていた形跡はある。岸上は冨士田宛の遺書に「清原さんはぼくなんかにはとうてい及びえない立派な人だとおもいます。実にうらやましい!」と綴った。一方の清原は、岸上の自死後に書いた評論「近藤芳美氏の場合」(「短歌」1961年8月号)で次のように記している。

 彼[岸上]の死が敗北であり卑怯であっても、そしてそれが死者のかかわり知らぬことであったとしても、後に残った同世代の者は、その死の意味を担い次に歩を進める以外に道はない。(…)岸上は自分が短歌に希望をつなぐことの理由に、近藤氏と岡井氏とを想っていた。私とて短歌を「抵抗」という点にだけ限ってみるならば、この二人以外に求めようがない。

 筆者は以前、清原の安保詠、特に『流氷の季』Ⅰ章に収められた歌群の特徴が「現在形のリアリズム」にあると書いたが(「いたみつづけること――清原日出夫小論」「塔」2015年1月号)、その認識は今も変わっていない。清原自身、ある評論で「〈物〉を叙して〈物〉の本質を描出するという〈写生〉の神髄は、論理としてはそれ自体完璧性を備えていようとも、歴史的社会的に規定された〈事件〉を叙して、その本質を描き出して見せるというには、フォルムの短小性という点からいっても、現実にはひじょうに困難な場合が多いのだ。しかもなお、〈写生〉に拠る作家に主張したい、訴えたい〈思想〉があるときには、偶発的な〈事件〉を待たねばならなくなり、詩の主体は機会(チャンス)にその生死をゆだねることとなる」と記しているが(「思想の表現について」「短歌」1963年6月号)、これがそのまま、清原本人の歌のアキレス腱でもあった。

 岸上が自死した翌年、今度は「立命短歌」の盟友・坂田博義の自死という憂き目に遭う。運動が退潮していく中で、友を喪い、みずからも一人の社会人として心を燻らせたまま、日常を生きていかざるを得なくなる。

眼醒めたるときに最も疲れいて階下に昼を呼ぶにまかせいる
防潮堤破りさわだつ親潮にわれははかなき動悸していつ
還りたき尋ねゆきたき雪原の真なかの君の墓標の孤独

 Ⅲ章「旗の孤独」の歌に対しては初出時からあまり評判は芳しくなく、清原は表現上の過渡期にある、という評価が優勢だった。だが、これらの歌からは、「死」という孤独な敗北を身近で目の当たりにした人間が、みずからの敗北の形として「生」を、生き続けることを選ぶという、精神の動悸が感じられる。引用二首目に助動詞「つ」を用いるまでに、清原に流れた時間を筆者はおもう。清原は闘争の歌人である以上に、弔いの歌人でもあった。

あるところで一歩及ばざりしわれか岸上大作の場合坂田博義の場合

 岸上特集だからこそ敢えて書くが、筆者は岸上にまつわる言説から滲み出る、あの「青春と闘争に生きて死んでいった俺たちの名誉童貞」的ホモソーシャル性を強く嫌悪している。これまで、清原論も坂田論も小野論も書いてきたが、ある時代の青春の典型を懐古趣味的に書いたことは一度もない。さて、岸上を殺し続けているのは、誰か。

(初出:「現代短歌」2017年9月号、特集「岸上大作」)

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