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越えられない壁

 早くに両親をうしない、12歳まで父方の祖母の元で暮らした私は、祖父・浜松小源太について色々聞かされながら育った。祖母はよく、お前は絵描きのおじいちゃんと顔立ちが似ていると言って可愛がってくれた。その一方で、叱る時にはお前を置いて出て行った母親にそっくりだと罵った。私の血にまつわる呪縛は、思えばここから始まったのだ。

 その後、家庭の事情という大義名分の下で、私は何度も自分の夢を諦めさせられてきたわけだが、その度に、自身の才能を信じて創作に没頭した祖父への憧れを強めていった。祖父の血を一番強く受け継いでいるのは私だと自分に言い聞かせることで、なんとか自分を鼓舞しようとすらしていた。実際に会うことは無かったが、祖父は常に、永遠に越えられない壁として私の前に立ち塞がっている。

 1911(明治44)年、秋田の大館に生まれた祖父は、師範学校を卒業後、教職の傍ら絵画制作に没頭し、二十代前半は夏休みの度に東京に出て来ては洋画講習会に参加する日々を送っていた。やがて上京し、板橋の小学校で教壇に立つ傍ら、エコール・ド・東京や美術文化協会の結成に参加した。戦前のアトリエ街、いわゆる「池袋モンパルナス」の洋画家の一人として知られる。

 祖父は24歳で上京を決めたが、私も24歳の時に、初めて書いた評論を現代短歌評論賞に応募し、そこから3年連続で候補になった。叔母を亡くして以降うつ病が悪化し、毎日死ぬことばかりを考えていた私にとって、候補の報せは延命措置としてよく効いた。生きていても良い場所を与えられたように感じた。

 1938(昭和13)年、祖父が27歳の年に発表した《世紀の系図》は、朽ち果てたハーケンクロイツと日章旗を背景に描き、当時の軍国主義的風潮を批判した作品として現在でも時折言及される。私も27歳の時には「春の遠足」300首で現代短歌社賞の次席となった。だが、年齢こそ一致したが、孫の私はまだ批評の対象にもならない一若手でしかない。まだまだ負けている。

 祖父の小さな写真を御守りとして持ち歩いている。裏には「昭和十九年四月、ビルマ新聞社庭にて」とある。その前年に祖父は南方派遣日本語教員としてビルマに赴任した。シュルレアリスムの画家として当局から弾圧を受ける側であったはずの祖父が、どうして軍属の日本語教員に志願したのか、その代償によって何を守ろうとしたのか、孫の私は想像することしかできない。1945(昭和20)年4月、現地で消息を絶ち、戦死扱いにされる。34歳だった。

 私も34歳で死ぬのだろうか、と時々考える。無事に齢を重ねられた時に初めて、私はこの血の呪縛に勝てるのだろう。

(初出:「現代短歌」2017年12月号、「もう一人の師」)

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