振れ幅と混沌(「現代短歌」2016年5月号歌壇時評+あとがき)

 鳥居、という名の歌人が出した第一歌集『キリンの子』(KADOKAWA)が話題になっている。歌集と同時に、彼女のこれまでの境遇に関する新聞連載をもとに加筆修正されたルポルタージュ『セーラー服の歌人 鳥居』(岩岡千景著、KADOKAWA)も出版され、鳥居本人も[2016年]3月17日に最終回を迎えたNHK総合の「クローズアップ現代」に出演するなど、メディアの注目は熱い[注・同番組は2016年4月4日より「クローズアップ現代+」と名を変え、リニューアルされた]。

母は今 雪のひとひら地に落ちて人に踏まれるまでを見ており   /鳥居『キリンの子』
橋くぐるときに流れはかがやきをふいに手放す 茜の時間
ふいに雨止むとき傘は軽やかな風とわたしの容れものとなる

 一読して、うまい歌だと感じる。歌会に出てきても、○が多く付くだろう。鳥居のこれまでの境遇についてはルポルタージュに詳しいが、歌集においても、自殺した母親や友人を詠んだ作品、あるいは社会的弱者の立場から詠まれた作品が随所に散りばめられているおかげで、一冊を通して読めば、作中の「私」の境遇は凡そ理解できるようになっている。歌集の解説を担当した吉川宏志は、「鳥居の歌は、不幸な人への同情によって読まれることがあるかもしれない。しかし、彼女の歌はそれを超えるような暗い存在感を抱えこんでいることに、すぐに気づくであろう」と記し、「過去と現在、そして死と生の間を、言葉によって行き来する」鳥居の歌を評価する。大口玲子やいとうせいこうも帯文を寄せている。

 吉川の指摘するように、鳥居の歌には弔いの感情や、壊れゆくものへの愛情が通奏低音となっており、歌集とルポルタージュを通読しても、歌そのものに対してはやはり完成された作品であるという印象を抱く。みずからの不遇をひけらかしているのでは決してなく、むしろ彼女はその先を見据えている。「そんな自分の姿が、どこかの誰かに寄りそうこと、手をつなぐことにつながれば……」という彼女の言葉に、筆者はふと、かつて河合隼雄と対談した吉本ばななが「『この本を読んでいる間は、ちょっと死ぬことを忘れてたから、もう今日は寝ちゃおうかな』というふうになるような小説が書きたいですね」と語っていたことを思い出した(『なるほどの対話』新潮社)。

 ただ、気になるのは歌の文体である。見方を変えれば、端正で抑制の効いた表現にも、既に確立されたある技法の模倣のようにも見える。作中の「私」が背負った境遇が作品において物語性を強く演出する一方で、ごく一般的なリアリズムの文体が作品の下支えをしている。筆者は何より、かつて「たいていの人はこの『本当らしさ』を思いっきり信じて、近代小説をいまだに書いちゃうか、ファンタジーにいく」(「文藝」2013年春号)と語っていたいとうせいこうが、それこそ近代短歌的とも言える技法を巧みに摂取して作られた鳥居の短歌やその物語を受け入れて帯文を書いていることに驚かされた。鳥居の歌は、妙な言い方だが、その際立って特徴的な物語にもかかわらず、すんなりと読めてしまうのである。作品が広く受け入れられたのは、彼女の文体が物語の邪魔をしていないことも大きかったのではないか。

 ここ最近メディアで取り上げられた短歌としては、服部真里子の例の「水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水」(「短歌」2015年4月号)の一首を思い出す人も多いだろう。だが、本誌(「現代短歌」)[2016年]2月号で黒瀬珂瀾が述べたように、服部の歌を取り上げたメディアは「『わからない』という感想」をそのまま視聴者に投げ出していた。黒瀬はそれを「『何だかわからない言葉』があるということ、それを巡って終わらぬ議論を真剣に続ける場があるということが、分かりやすく流通性の高い言葉に囲まれた人にとって、新鮮に感じられたのではないか」と分析しているが、こうして見ると、仮に同じ詩型であっても、作者ごとの表現の志向性や、それぞれの読者が作品と接した際に受ける意識の有り様が、極めて多岐にわたっていることが分かる。服部の歌に関する論争で繰り返された「わからない」は結局のところ、服部の使う文体が内容の把握を拒んでいるように見られたことに由来したのではなかったか。

 今更、文体と内容の二項対立について話をするつもりは毛頭無い。当然ながら両者は作品において有機的に絡み合っており、どちらかに優位があるわけでもない。だが、両者にどれだけの負荷や実験を加えて作品化しているかは、作者ごとに、あるいは作品ごとに微妙に異なる。その両方の振れ幅が大きかったのが、千種創一の第一歌集『砂丘律』(青磁社)である。

砂の柱にいつかなりたい 心臓でわかる、やや加速したのが   /千種創一『砂丘律』
紫陽花の こころにけもの道がありそこでいまだに君をみかける
実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶へる

 [2016年]2月14日に名古屋で開催された歌集批評会においても、千種の歌は口語や破調を生かした文体やその修辞について語られる一方で、中東在住であることによって生じる独自の文脈や内容に関しても大いに議論の対象となった。歌の背後にある物語を、修辞を駆使することで敢えて見えにくくしている部分と、中東という文脈を強く意識して顕在化させた部分が、歌集の中に混在している。筆者は例えば、引用三首目を収めた「或る秘書官の忠誠」という連作のみが歴史的仮名遣いで書かれた点も、その緊迫した中東情勢に取材した内容以上に、歌集一冊の中で「私」を巧妙にずらす移人称的試みとして注目した。

 無論、文体や内容における、目につきやすい革新性ばかりを持て囃すのは、安易な進歩主義でしかない。だが、短歌という詩型には、小説であれば純文学と大衆小説に区別され得るものが、同じ詩型の中で既にジャンル横断的に抱え込まれている。この宿命的な混沌に疲れ始めると、批評は硬直化する。疲れた評者に優しくするような親切さは、短歌には無い。どこへでも行こう。

(初出:「現代短歌」2016年5月号、漢数字を一部算用数字に、傍点を付した箇所は太字に改め、年号表記に関する注を[]で示した)

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 先日、鳥居の『キリンの子』が第61回現代歌人協会賞を受賞した。昨年末には第42回現代歌人集会賞の方でも候補になっており(こちらは虫武一俊の『羽虫群』が受賞した)、刊行から一年経って、鳥居の歌が歌壇(とは?)の内部でも広く注目され、受け入れられたことの証明となったと言えよう。

 この時評の発表後、鳥居に関する言説で印象に残ったのは、吉田隼人(奇しくも前年度の現代歌人協会賞受賞者である)が「ユリイカ」2016年8月号に書いた「現代短歌とフランス文学 抒情詩の〈私〉をめぐって」であった。吉田はここで、ウェブサイト「橄欖追放」における東郷雄二の『キリンの子』評や、「短歌研究」2016年7月号の「作品季評」欄(栗木京子、島田幸典、広坂早苗の三名による)の議論においても、「一冊の歌集、一篇の連作を読みながら、それこそ『作品と作者と〈物語〉』を無前提に『事実』として一緒くたに扱いたがる奇妙な慣習」を垣間見ることができると指摘する。私もこれに概ね同意する。

 歌に詠まれた内容が「事実」であるかどうかなんて、所詮読者には分からないことだ。作者みずからが自歌自注をしたり、自伝的な語りをしたりしてみたところで、それが「事実」である保証はない。作者とは、言うなればプロの嘘つきのことである。ちょうど最近、恋愛禁止を謳った某アイドルグループの総選挙後に結婚を発表した者がいたが、それと似たようなものだ。舞台や活字は本人とは別のアバター的自己を創造する働きを持っている。視聴者や読者が目にするのはどこまで行っても偶像的な、アバター的作者像でしかない。

 鳥居の歌はたしかに巧いと私は思う。だが、現時点ではあくまで秀才的な巧さに留まっていると考えている。『キリンの子』を文体について論じた人が殆どいないのは、やはり皆、文体に彼女のアキレス腱を見出しているからではないか。技巧面においては、あくまでこれまで自分が吸収したものを手際よく切り分けたようにしか見えず、背景や物語の先入観なしに読めば「アララギ系のどこかの結社の若手が出した歌集」で済まされたかもしれない(もっとも、この手際よさもクセモノで、凡人はこんなに手際よく出来ないのだが)。鳥居は一人の作者として、みずからの歌集の読む者の心の内に、悲劇のアイドルとしての主体像を作り上げることに成功した。読者の心に強く訴えかける主体が描けている、という意味では確かに優れた歌集だが、この歌集によって読みや詠みが何か拡張したかというと、そうではない。

 技術的手際よさ、という意味で並列できそうな歌集がこの後登場した。沼尻つた子の『ウォータープルーフ』(青磁社)である。私は『ウォータープルーフ』批評会の懇親会でマイクが回って来た際に、歌集全体が一冊のコミックエッセイのようであると指摘し、何人かから賛同を頂いた。沼尻もまた巧い作者なのではあるが、彼女もまた、強い作者意識で歌集の読後感をコントロールしているように思う。

 文体的実験や模索が多かったり、作中の主体が一定であるように読まれなかったりする場合とは違い、『キリンの子』も『ウォータープルーフ』もそういう意味では文体が内容や主体像を邪魔しないタイプの歌集だった。ただ、『ウォータープルーフ』には、起伏こそ多いが延々と続いていく生活と日常が根底に描かれているため、一冊を読み切った時に「続き」を楽しみに待つ余裕が読者にもある。

 だが、『キリンの子』は違う。私には、「悲劇のアイドル」として描かれた『キリンの子』前半の強烈な主体像が、「私」が少しずつ平穏さと日常を獲得していく中で段々と弱くなっていくように感じられた。つまり、読者は「悲劇のアイドル」としての主体を否応なしに消費してしまい、結果として、素朴な味わいを湛えた鳥居の日常詠を見ると、何となく比較して物足りなさを感じてしまっているのではないか。念のために言っておくが、私は鳥居という作者ではなく、そういう消費の仕方しかできない私のような読者の方を責めているのである。デビュー作の印象だけで作家が食い殺されてしまうようでは、困るのだ。誰にだって、幸せになる権利はあるし、日常は平等に過ぎてゆくものだ。自己に取材した主体を描く手法を取る作家に対して、主体が持つ物語性の強度を文体以外の側面から論じることは、結局のところ主体の消費でしかないのだ。

 無論、一度切ったカードは、一生ついて回る。だからこそ、私は鳥居が「悲劇のアイドル」から卒業するであろう第二歌集が出るまで、彼女への評価は保留しておくことにしている。今回の協会賞受賞が鳥居にとって、次に進むための幸福な契機であることを、願うばかりだ。

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