得意分野は人それぞれだ――旧仮名歌人企画冊子「はつか」とその周辺②

 前回の続きです。

 ゲスト寄稿が8名。「編集長推薦 いま読みたい旧かな歌人」という特集の扉の文句に、呼ばれた方からしたらかなり恐縮してしまう。7首連作から、自分以外の7名の歌を引く。

茉莉花茶【ジャスミンティー】のみほしたのちまなざしはたがひに硝子のごとく澄みゆく  /碧野みちる「奇形果」(「はつか」p.27)

 茉莉花茶のあまり濁りのない色合いから、「硝子のごとく澄みゆく」「まなざし」へと色調が微妙にスライドしていく。「硝子」に二人の距離感を読みたいのだが、隔てるものとしてあるのか、透過するものとしてあるのかによって変わって来そうな気がする。連作の中では一番大人しい歌だけれど、無言のうちに満たされていく感情がここにはあって、心地よい。

かたすみに茫とゐるひと たましひの火葬のやうに煙草を燃やし  /有村桔梗「旧かなづかひ」(p.28)

 三句目以降の比喩に痺れた。勿論、短くなっていくものとしての「煙草」と終わるものとしての「たましひ」は確かに近いものだが、ぼんやりと煙草を吹かしている人は、みずからの「たましひの火葬」を、それこそぼんやりとしたままにやってしまっているのだろうか。自分の「たましひ」を指先で弄んでしまっているこの人への眼差しは、どこか寂し気でやさしい。

丈の合はないカーテンが裾を引きずつて朝の向かうに帰つてしまふ  /飯田彩乃「ゆめゆめ」(p.31)

 夢から覚めて現実に意識が戻って来る瞬間の、何とも言いがたいあの引き戻され感が伝わってくる。「丈の合はないカーテン」そのものが、ここでは非日常的なもの(ここでは恐らく「ゆめ」なのだろう)の出入り口なのだろう。あるいは、劇場の幕のようなものだろうか。一首の言葉のすべてが現実と非現実の対比に費やされてしまってはいるのだが、「帰つてしまふ」の口惜しさは切なく胸に残る。

月かげにぬれたる床に鍵ひとつ落とせばここを氷河と思【も】へり  /漆原涼「戴冠式」(p.32)

 フローリングやリノリウム張りの床なのだろう。月明かりの反射が冷たく光っている。ただ光に濡れていて川に見立てるのではなく、鍵が落ちても流れていかない、ここは凍った川なのだ、という把握が面白い。でも、凍っていたら果たして「ぬれたる」で良いのだろうか、とも思う。「氷河」という遠い過去を感じさせる言葉が、夜の眠りのイメージにもつながる。

ひなたみづぬるくまどろむ わたくしがゐないとだめなあなたでゐてね  /太田宣子「試されてゐる」(p.34)

 一首全体が平仮名書きで、呪文のような印象を受ける。束縛する愛は確かに「ぬるく」てゆるい毒なのだが、眼の前で「ひなたみづぬるくまどろ」んでいるのだとすると、ちょっと印象が近すぎるようにも感じる。むしろ、「ひなたみづ」に相対する時と「あなた」に相対する時で全く同じ調子を貫いている主体の不穏さに、個人的には惹かれる。

咽喉【のみど】よりとび去りしつぐみただきみの変声期前のこゑのききたし  /楠誓英「きりぎしの夜」(p.36)

 韻律の話をすると、二句から三句への着地と、四句から結句への着地が構造的リフレインをしていて心地よい。変声期を迎えた「きみ」の咽喉から消えた声を、「つぐみ」で象徴させている。手に入れることの出来ない、相手の過去に対する切なる欲望、と読んだら読み過ぎだろうか。ここまでくると思わずBL読みをしたくなるが、Pixivが荒れるので自重する。

旅先はつね寝不足のおもひにて駅までの朝の道をあゆめり  /山下翔「六地蔵」(p.40)

 この冊子の歌の中で個人的に「ザ・ベスト・オブ・それな」なのがこの歌。夜行で目的地に着いたり、着いた先で延々と飲み明かしたりして、楽しい旅はいつも寝不足との戦いになる。駅に向かっているということは、次の目的地に行こうとしている、ということだろう。「つね寝不足のおもひにて」という言葉のねじ込み方、好みは分かれるだろうが僕は好きだ。

 さて、こうして歌を見てきたところで、旧仮名や文語について、ごく個人的な視点から、ちょっと考えたことを書いてみようと思う。

 実は僕自身は、「旧仮名/新仮名」「文語/口語」の対立軸の存在を、あまり快くは思っていない。話し始めると大体いつも喧嘩になるから面倒なのだ。喧嘩したがる人たちは、自分たちの陣営こそが至上、と信じて疑っていないから、自分たちが暗黙の了解のように共有しているヒエラルキーが壊されることを怖れている。僕は、ヒエラルキーを含んだ対立が大嫌いなので、ここでもそういう類の話はするつもりはない。

 新仮名、などと言っているが、戦後70年以上が過ぎ、義務教育を旧仮名で少しでも教わったことのある世代(昭和14年度生まれ以前)は、いくら高齢化社会とはいえ、限られた存在になりつつある。仮名遣いそのものに政治や思想の臭いが纏わりついていた時代も、とうに過ぎた。私たちの生活空間の殆どは新仮名(現代仮名遣い)で占められ、旧仮名(歴史的仮名遣い)に出会う機会は圧倒的に少ない。旧仮名に定期的に触れる人はもはや、日本史か日本文学か日本思想史のどれかを専門としている人か、古本コレクターか、読書家か、一部の物書きくらいだろう。中学で古文の授業を受ける以前であれば、知っていても「てふてふ」か「おもひで」くらいではないだろうか。かく言う僕も、醤油が「せうゆ」じゃないと知って驚いたりしたものだ(本来は「しやうゆ」)。「おもひでぽろぽろ」に対して「やーい、誤字ってるー」と指差した人間がいなかった、とは言わせない。要するに、旧仮名は既にこの現実の生活世界からは殆ど締め出されてしまった存在なのだ。

 それは恐らく、文語も同じだろう。だが、「文語/口語」の話は仮名遣いよりも厄介だ。

 言語そのものが可変的なものであることくらい、『古事記』と『源氏物語』と『平家物語』と『南総里見八犬伝』を並べてみるまでもなく分かることだ(『古事記』に至っては、発音体系だって現代とはかけ離れていたはずだ)。それ故、ここで言う文語とは、近代になって規範化された、いわゆる「近代文語」のことである。そして、国家や民族の単位で言語の規範を作る、という発想が近代のナショナリズムの産物であることを、忘れてはいけない。

 明治期の「近代文語」の確立と、その一方で起きた文学における言文一致運動は、双方ともにツール(単語、語彙)以上にメソッド(規範、体系)の更新をも兼ねていた(一応言っておくが、ここで「ツール」と表現したものの、僕はなにも、言語を安易に道具的なものとして即物的に見ているわけではない)。だが、ツールが変化したり増えたりしてもメソッドが変わらないのであれば、そのメソッドは急速に古びてしまう。加えて、新聞などのマスメディアの口語化や、ラジオ放送や映画といった口語そのものを記録し流通させるメディアの登場も、口語側が常にツールとメソッドの双方を更新し続ける契機になったに違いない(話し言葉としての口語と、書き言葉としての口語は、当然分けて考えるべきことだが、これらの差異を曖昧にされるのはやはり、音声を伴うメディアの発達が要因だろう)。

 しかも、「近代文語」の場合、ツールそのものが過去からの借り物である以上、更新される機会はめったに訪れない。かつて西欧人の教養としてラテン語があったように、「近代文語」も結局はリテラシーを伴う体系だったのだ。明治時代の時点で、「近代文語」はあくまで書き言葉であったのだ。言い換えれば、知として共有される「場」があって初めて、「近代文語」はその力を発揮することが出来るのである。結局のところ、やっていることはツールとメソッドの硬直化で、それは近代が否定した和歌的なもの(この場合は、古今的なもの、だが)と何ら変わっていないのである。ある「場」を否定しておきながら、別の「場」を作っているだけなのだ。

 一方で、口語は時代とともに変化し続けることをみずからに課している。口語の「場」は現実の生活世界、「近代」の人間だったら「大衆」とか言っちゃうようなマジョリティに近いものであるから(書き言葉としての口語を想定する限りにおいて、ここは永遠にイコールにはならないだろう)、次から次へとツールである語彙や用法が生み出され、流行っては廃れていく。少し狭い口語の「場」であれば、それはスラングと呼ばれるものになるだろう。妙な言い方だが、数年前の流行語なんて殆どが「旧口語」なのではないだろうか。そして、「近代文語」よりもむしろ「近代口語」とは何だったのかを考えてみることの方が、短歌史においては重要なのかもしれない。

 ここで「場」同士の張り合いをしても無意味だ。広範であるという点においては、文語は口語に、旧仮名は新仮名に勝つことは、それこそ法改正でもされて「場」が強制されない限り、あり得ないことだ。どれだけ豊穣な歴史や用例があったところで、日本語の歴史は既にそういう方向に舵を取っているのだ。「場」同士で張り合う見方をしている限りにおいては。

 そうなのだ。考えたいのは「場」の否定の否定、もしくは否定の拒絶である。旧仮名がもはや現実世界における異分子であるなら、その異化作用を存分に発揮させることが、現代の(contemporain)、あるいは現在の(d’aujourd’hui)旧仮名に課さられた新たな役割なのではないだろうか。文語も、単に過去の豊饒さを単に誇るのではなく、そうした「場」の歴史を引き受けつつ新たな創造行為をするという、ある種の職人的美意識の世界に到達しようとしているのではないか。僕自身は字面が苦手なのでやらないが、新仮名で文語の歌を作る歌人だって大勢いるし、「ポトナム」のように誌面上では新仮名のみという結社だって存在する。いつぞやの「たいらし調」ではないが、文語と口語がミックスされた文体がある程度浸透している背景にも、言葉の背景にある「場」を相対化し、新たな現代の、あるいは現在のことばの「場」を作り上げようとする志向が存在しているのではないか(勿論これも、やり過ぎると「短歌固有の語法」として、「場」のジレンマに陥ることになるのだが)。

 口語かつ新仮名が圧倒的に優勢、という現実の生活空間という「場」に属している点は、今この日本という国に生きてしまっている限り、誰しもに当てはまることだろう。その中で、旧仮名や文語を作品内で選択することは、それらがかつて共有されてきた「場」の歴史を引き受けつつ、今現在の(présent)「場」の相対化や異化を志向することに繋がる。

 ここで僕は唐突に、ベケットの『勝負の終わり(Fin de partie)』に、立ち上がることの出来ないハムと座ることの出来ないクロヴが「得意分野は人それぞれだ」と突然納得して沈黙の生じる場面があったことを思い出す(2006年の上演がテレビで放映された時の記憶で、手元に訳書もないので、台詞や場面が本当に曖昧なのだが)。旧仮名も新仮名も、文語も口語も、ことばとしての得意分野をそれぞれが持っている。そして、それぞれの得意分野は、用例が蓄積されるにつれて変化していく。そこに新たな変化をもたらすのは、書き手としてのあなたかもしれないのだ。肝心なのは、あなたが日本語のどの側面を引き受けて、あなた自身の作品にするか、である。

 後半、時評かよってノリになってしまった。僕が「はつか」に参加して考えたことは、まあ、こんなところです。

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