鷺沢萠ノート(1)助手席と共同

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 2018年は、鷺沢萠(1968~2004)の生誕50年にあたる。35歳で亡くなった作家について「生誕50年」という言い方をするのは心痛いものがあるが、それでも彼女の誕生月であるこの6月には、講談社文芸文庫から最初期の作品集『帰れぬ人びと』が復刊されると聞いている。昨年末には『ウェルカム・ホーム!』の新潮文庫版が小山鉄郎氏の解説を加えて復刊され(文庫初版の三浦しをん氏の解説も健在であった)、往年のファンや読者を喜ばせている。

 往年の、と書いたが、私が鷺沢萠を読み始めた時には、既に鷺沢はこの世の人ではなかった。国語便覧に載っていたその名前に惹かれて初めて手に取ったのが、新潮文庫版の『葉桜の日』で、高校2年生の時だった。その年にリニューアルした河出文庫の新刊で『私の話』を買い、更には修学旅行に向かう飛行機の中で『大統領のクリスマス・ツリー』を読んでいるのだから、相当なのめり込みである。だが、生前の鷺沢の活動をリアルタイムで追っていたわけではないので、例えば公式ホームページ「オフィスめめ」の日記の更新を楽しみにしていたファンの方々とは若干の距離がある。『過ぐる川、烟る橋』の文庫解説で北上次郎氏が「正直に書いておくと、私は鷺沢萠のいい読者ではなかった。「いい読者ではない」というのは、全作品を読んでいないということだ。デビュー作からずっと追いかけて読んでこなかった、ということだ」と書いているが、私もだから「いい読者」では必ずしもない。

 それでも、こうして鷺沢萠の作品について何か書きたいと思うのは、彼女が亡くなって12年が経ち、書店ではなかなか手に入りにくい状態になってしまっているというのに、鷺沢の小説やエッセイに残された言葉が、今読み返してみても重たく心に響くからである。一読者の戯言としてお読み頂けたら嬉しい。

 文庫復刊を果たした『ウェルカム・ホーム!』を久々に読み返した時、より正確に言うと、「児島律子のウェルカム・ホーム」を読んだ後で小山鉄郎氏の解説中の「鷺沢萠の文学の特徴は男性の主人公が非常に多いことでした」という記述に触れた時、真っ先に思い出したのは同じ作者による『大統領のクリスマス・ツリー』の主人公・香子のことだった。

 この二作の主人公、律子と香子は、数があまり多いとは言えない鷺沢作品の女性主人公の中でも、共通項が多い二人である。

 まず、二人ともアメリカ留学を経験していること。律子は二度の留学と現地での就業を経験して帰国する。香子に至っては、小説の最初から最後まで、大学卒業後の僅かな時間以外をアメリカで過ごしている。

 そして、離婚。律子は二度の離婚を経験しているし、香子の方は——これは些かネタバレになるが——小説の最後で治貴と別れることになる。

 だが、詳しく見ていくと、この二人は共通項こそ多いが、小説の方向性の違い(別れに向かっていく恋愛小説である『大統領』と、いわゆる「負け犬」を新しい時代の生き方や価値観として正面から描いた「児島律子」)もあってか、両者はむしろ相反する特徴を示していることに気づく。例えば、留学の動悸について、律子についてははっきりと、語学研修で刺激を受けて「アメリカには律子が知らなかった何かが、確実にあった。その「何か」が何であるのかを知りたい、と思った」という動機が記されているが、香子に関しては文中に殆ど理由めいた記述もなく、ぼんやりと「アメリカ」が好きであることが仄めかされているだけである。しかも、香子が再度アメリカに戻った理由も、ロー・スクールに進んだ治貴と一緒に暮らすためというものだった。現地の証券会社で先物取引を扱う仕事に従事する律子とはかなりの違いがある。

 はっきり言おう。私は『大統領のクリスマス・ツリー』を読み返すたび、香子のこの、治貴との「恋」に自分の人生の全てを尽してしまう感じが、どんどん嫌になっていったのだ。

 例えば、『大統領のクリスマス・ツリー』から二つの場面を引く。

 (…)ひとりバスルームに残された香子は、やっとちょろちょろ出だした水で叩きつけるように顔を洗い、ゴシゴシと乱暴にタオルで顔を拭いてから鏡の中の自分に会った。
 ——綺麗だな……。
 自分で言うのもなんだがほんとうにそう思った。そのころの香子はいくら食べても太らなかった。実際、食事の他にも始終ドリトスだのプレッツェルだのを口に放りこんでいたが、一日じゅう働いて身体を横たえるのは純粋に睡眠しているときだけ、という生活のせいか余分な肉の付くヒマもなく、すっきりした顎の下には白くて細長い首筋があり、きめ細かい肌の下で鎖骨が生きものみたいに動いている。
 何よりも、自分が馬車馬みたいに働かなければすぐに転覆してしまう生活の中では香子は常に緊張せざるを得ず、しかもそういう生活を一過性のものだと信じているから顔になんともいえない張りがある。恐いもの知らず、若いとき特有のむこうみずなほどの自信が、顔と身体全体にあふれている。
 若さではち切れんばかりのジョナの身体。大輪の南国の花のようなジョナの笑顔。引き締まった浅黒い肉が格好よくついたふくらはぎ。金色のブレスレットがよく似合う、細いけれどしっかりした腕。そのブレスレットはいつか落ちこんでいる香子の話相手になってくれたことのお礼の意味も込めて、香子が何年か前の彼女の誕生日に贈ったものだった。
 香子はふらふらと立ち上がった。ちょうど立ちあがったところの視線の高さに、壁に掛けられた鏡があった。
 木綿のパジャマを着た、化粧もしていない自分の姿が見えた。たしかな生活を一歩一歩築いてきた女の顔があった。
(…)ジョナは今いくつなんだろう……。ふとそんな疑問が頭に浮かぶ。二十三、四、それとも五……? なぜだか急に、香子は自分はそれくらいの年齢のとき、何をしていたんだっけ? と考えた。
 まだ治貴がロー・スクールに通っているころだ。昼も夜も働いていた自分。水道の出が悪いアパート。そうして香子は、あのアパートのバスルームの鏡に映った自分の姿を不意に思い出す。綺麗だな、などと思わず心の中で呟いてしまったような、あの日の自分の姿を思い出す。
 ——ジョナはあれくらい綺麗だってことなんだ……。
 無意識のうちにそんなことを考えてしまってから、どす黒く赤い何かが身体の中で渦を巻くのを感じた。ついさっきリヴィングの壁にかけられた鏡の中に見た、パジャマ姿の女のことを思い出した。

 一つ目は、小説の前半、アルバイトをしながらロー・スクールに通う治貴と同棲する香子は、二人での生活を支えるために休む間もなく働いている。一方、二つ目の引用は、小説内の時間が進んで、治貴と香子の間に一人娘・有香が生まれて数年後、治貴とジョナの浮気に気づく場面である。直接のきっかけはジョナからの留守番電話であったが、そこにジョナの身体に関する描写と現在の自分との対比を描きつつ、「鏡を見る」という行為を通じて、鷺沢はかつての香子の姿と現在のジョナの姿をそっと交差させているのが分かる。香子はジョナの向こう側に、かつての自分自身の身体を見ているのだ。

 そして、この二つの場面は別の対比構造も持っている。

 その時点で、ふたりはもうチームだった。香子にも治貴のために働いているという感覚はまったくなく、働いているときは何も考えていなかったが敢えていえば「ふたり」というチームの、自分の役割をこなしているという感覚だけがあった。
 治貴は、父の援助を受け入れることで、父を自分たちの生活に介入させたのだ。
 おこがましい言い方になるのを承知でいえば、治貴は、父が孤立する状態を防ぐために父の援助をあんなにもすんなりと受け入れたのである。つまり治貴は父を「仲間に入れて」あげたのだ。
 結婚してからはもう何年も経つけれど、今までの自分たちはチームだった。香子はがむしゃらに、ほんとうにがむしゃらにチームの一員としての役割を果たすために暮らしてきた。けれどこれからは、一心不乱にというのではなく、治貴にとってのはじめての家族を守るための穏やかな暮らしがはじまるのだ。

 出会い、同棲、治貴の父の死、香子の帰国と再出国、結婚、一度の流産を経ての出産、という時間経過の中で描かれたのは、香子が治貴との関係を、香子がこのように「チーム」として認識している、という事実の積み重ねであった。要するに、この部分に至るまでに繰り返される「チーム」という語にまつわる様々な場面の蓄積は、治貴とジョナの関係が明るみになることで過去のものに成り下がり、同時に、香子自身を治貴の「チーム」の一員から脱退させてしまうのである。香子がジョナに対して抱いた「どす黒く赤い何か」の正体は、夫を奪われたという浮気への怒り以上に、「チーム」から落とされた、あるいはいつの間にか落ちてしまっていた香子自身に対する哀しみと、それ故に湧き起こるジョナへの嫉妬が入り混じったものではないか。

 「ジョナ、ずるいわ、あなたには「前」があるじゃない」、「治貴とジョナは、今同じ方向を向いているのではないか」、「前だけを見ないで、ハル。一枚の布を織りあげるようにしてきた、あたしたちの後ろにあるものも見てみて」といった、香子の内面吐露(台詞ではない)がこの後続く。治貴の「チーム」の一員であることは、要するに治貴と同じ「前」を向き、現在を生きることである。一方、香子はいつの間にか「後ろ」すなわち過去に属する存在になり、浮気によって、治貴からは「チーム」の一員として扱われなくなってしまう。現在のジョナを通して過去の香子が想起させられ、更にそれらが現在の香子の姿と比較されるのは、現在志向である治貴の「チーム」に属する者と属さない者、より正確に言えば属すことをゆるされた者とゆるされなくなった者(=過去、「後ろ」に位置する者)との対比を浮き彫りにする意味合いを持つ。

 この「チーム」の基準は、香子視点に沿った三人称小説を採るこの作品では、あくまで香子が自分で考えたものとして描かれている。あくまでも「チーム」という概念は香子の認識でしかない。しかし、「チーム」の基準は今や二人共同のものではなく、絶対的基準は既に治貴にある。——私が読み返すたびに、納得がいかない、と思うポイントはここである。

 家庭事情の複雑さから、治貴は自分の生い立ちを語りたがらない、という設定を当初から与えられていた。換言すれば、それは治貴の中で過去や「後ろ」に属するものの価値が低くなりがちであるということでもある。ジョナとの浮気によって描かれるのは、単に治貴という人間が家庭を顧みない人間である、ということではない。彼が顧みないのはあくまで過去や「後ろ」であり、その中に不幸にも香子が入ってしまった、ということだ。

 小説の最後、香子は治貴の浮気を、それまでの悶々とした思念を吹き飛ばすかのように受け入れてしまう。過去や「後ろ」に属するものであるとして、自身が「チーム」から下ろされてしまった事実を認めてしまうのである。受動的すぎると言われても仕方がないくらいに、なぜ香子は治貴の基準を受け入れてしまうのか。

 ここで同じ作者の『スタイリッシュ・キッズ』のラストシーンを思い出してほしい。「好きなうちに別れたい」、「だってあたしたち、あんなにカッコ良かったんだもん」という、理恵のあの台詞である。別れの場面で「あなたはあたしのクリスマス・ツリーだったのよ」、「でも、あたしたちのクリスマスは終わっちゃったみたい」と言ってのける香子の思考は、同じ作者が三年半ほど前に描いた理恵の思考に似ているように見える。理恵の思考は要するに、自分自身で「終わり」を設定したい、という強い欲望である。

 だが、同じ車の中での別れ話であるのに、この二作も後味が全く異なっている。『スタイリッシュ・キッズ』では理恵は車を降りてしまい、突然の「終わり」の先刻に戸惑う主人公・久志が車の中に一人残される。場面としての効果は断然こちらの方が高いのである。だが、『大統領のクリスマス・ツリー』では、「終わり」の調停が結ばれても、香子は車から降りることなく、助手席に座ったままだ。結果、どれだけ「終わり」の主導権を握ろうとしたところで、男(治貴)に尽くしている、という印象がギリギリのところで拭い去れない。相手を好きであることと、相手や「恋」に尽くしてしまうことは、本質的に別のものではないのか、という疑問が浮かぶ。

 ただ、こう考えることも出来る。「チーム」として、香子が治貴と同じ方に向かって走っている時は、恐らく香子は治貴に尽くしているだなんて、微塵も感じていなかったはずだ。それが恐らく「チーム」という語を香子に選ばせているし、恐らく作者・鷺沢萠の意図もここにある。「チーム」内で意思疎通が図れなくなった時、共同の「終わり」が訪れる。しかし、「チーム」を動かす力だけは働き続けてしまうため、一方がもう一方の立場を貶めるようにして「チーム」から排斥してしまう。立場の差が明確になってしまった結果が、「尽くす」という印象の源なのだ。

 もしかすると、香子は「チーム」の「終わり」を認めるという最後の「共同」作業によって、一時的ではあるにせよ「チーム」内での立場の平等を図ったのかもしれない。「共同」である事柄に主導権は存在し得ない。つまり、『スタイリッシュ・キッズ』の理恵と違って、香子は何も別れの自主性や主導権を求めているのではなかったのだ。むしろ、「チーム」の一員として、別れの「共同」作業を最後に求めていたのではないか。だからこそ、別れを決意したのちの香子は、僅かながら前向きに、今後のことを考える心の余裕が生まれたりしているのではないか。そう思うと、助手席に居続けるから主導権を放棄している、という私の読みは些か乱暴すぎた。教習車ではないのだから、それが「共同」であるという合意がある限り、助手席にまでブレーキやアクセルを取り付ける必要はないはずだ。

 文庫版の解説で、俵万智は次のように書いている。「男女が出会い、歴史を紡ぎ、そして別れてゆく。けれど別れは、その歴史を無にするものではない。むしろ、それを無にしないために選ばれる別れもあるのだ——香子が選んだ答えは、そんなことを考えさせてくれる」——。

 助手席はむしろ、「共同」の回復の象徴だったのかもしれない。

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