ビジョン・ミッション・バリューの浸透は手段であって目的ではない

この会社の実現したい世界、そのために果たすべき使命、それらを日々確かなものにするための羅針盤。

組織が小さいうちは阿吽で共有化・血肉化できていたものが、いつしか手触りのあるものにしないとその濃度を維持できなくなり、伝達可能なものにしないと組織の隅々まで行き渡らないようになる。

必要に迫られて、もしくは転ばぬ先の杖として、多かれ少なかれある一定数のヘッドカウントを抱える会社・組織はその"信念"を明文化する。

明文化した後に、多くの組織が課題に突き当たる。

明文化した信念の「浸透」だ。

明文化した「信念」は、ビジョン・ミッション・バリューなどと呼ばれコーポレートサイトに掲載されたり、社内のポスターとして掲示されたり、採用・人事評価項目に並んだりするのが常だ。

明文化した瞬間から、空気のようなものだった"信念"が形を持ち、そしてその形を持った「信念」を再インストール、時には新規インストールさせる作業に入る。それがしばしば「浸透」と呼ばれるプロセスとなる。

でも待って欲しい。

形を持った瞬間に「浸透」が目的になるのは間違っている。
いや、形を持ってしまったが故に「浸透」が目的になってしまうのだ。

明文化するプロセスが間違っているとは言わない。むしろ推奨する。
しかしその後の「浸透」でしばしばすれ違いが発生する。

なぜ「浸透」が目的になると問題なのか?
しっかり明文化された"信念"が組織の末端まで浸透することこそ明文化以上に重要なのではないか?

ここで重要な視点が組織構造に対する圧倒的なリアリティと、文化というものの本質だ。

まずカルチャーの「明文化」と「浸透」が必要になっている時点で組織は大抵100名は超えている。その際に「浸透」の旗手となるのは大抵人事か、もしくはそれに該当するような部署、責任者、担当者だ。

また、文化を強化することは、本質的に短期で結果が出るものではない。そしてボディーブローのように効いてくるこの活動に短期的かつ定量的な結果は伴わないことが多い。

そうすると「浸透」が目的となったオーナーがすることは、浸透の施策としてわかりやすいことをするのだ。アクションのアウトプットがわかりやすいものへと力学が働く。それが先に挙げたようなサイトへの掲示、ポスターの掲示、もしくは関連するエピソードの可視化や体現している人の表彰だ。

これらが悪いとは言わないし、効果がないとも言わない。
しかし、本質ではない。
見た目はマッチョだがインナーマッスルが弱い見掛け倒しのレスラーと同じだ。組織として大事なのはピカピカな見た目より、いざという時に土俵際で踏ん張れるかどうかだ。

カルチャーの明文化や浸透というHOWではなく、組織改革において本質的にやりたいことはつまりこういうことである。

思い出して欲しい。

1. 自分が過去、一番情熱を燃やしたもの。寝食惜しんで没頭していたもの。その時に目指していたもの、なんとしても掴みたかったもの。
2. 何かを誰かと取り組む際に、分かち合えた喜び。心が震えたチームワーク。

この二つの要素が組み合わさった時、人、チームは最高のパフォーマンスを発揮する。

要は、誰しもがそんな状態の会社・組織を作りたいのだ。
情熱と、あらゆる創意工夫と、圧倒的なチームワークで何かを成し遂げる体験は、人や組織を成長させ、何より生きる喜びを全身で噛み締められる。

そんな、ある種トランス状態を組織がどれだけ拡大しても、市場や時代がどれだけ変化しても維持させるのが目的であり、"明文化した信念を浸透させる"のは手段の一つでしかない。

かつ、そこで行われる「浸透」に対するアクションプランは往々にして的外れなものが多い。

必要なのは短期的に結果が出ないものを信じてやり続けられる真のオーナーシップであり、それを許容・エンパワーする一部の支えであり、一般解の無い特殊解を見つけ出すその組織の洞察力に溢れた嗅覚だ。

これは決してコンサルができるものでない。コンサルという職業の根底にある力学こそ文化という本質に対して相性が最悪である(あくまで一般論として書いています)。

誰かのスピーチ1発で一気に心が傾くかもしれない。

抜擢人事1発で深い文化への共感が生まれるかもしれない。

誰かが毎日コツコツ積み重ねたものが、気がついたら大きなはずみ車となってものすごい文化の推進力を発揮するかもしれない。

ひとつ言えるのは、そこにセオリーは無く、固有のセンターピンを見つけるしかないのだ。

そして、「明文化した文化の浸透」というフィルターを通すと一気に視点が狭くなる。まずは「浸透」というフレームのリフレーミングから再スタートすることをオススメしたい。

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