武蔵野市騒動から組織変革を考える

激しい逆境から何とかDXを始め、変革のスタートを切ることが出来ましたが、
昨年の武蔵野市住民投票問題から教訓を得ていました。

武蔵野市住民投票問題とは

2021年11月から起こった問題です。
市長が住民投票条例を提出、特に外国人投票権につながる箇所があり、市内外で大きく論争が起こりました。結局、2021年年末の議会で賛成11人、反対14人で否決されました。

松下玲子市長は、市民への周知不足を課題に挙げて、時期未定ながら、見直し再提出すると新聞に書かれていました。
また、最近では、再提出に向けて、外部有識者を集め組織化する旨が市報に書かれていました。

私のポジション

以下の理由から当初より懐疑的な立場にあります。

①何がしたいのか分からない、自分にとってどんな意味があるのかさっぱりわからない

市長のTwitterや市報などもよく読みましたが、この施策が中長期的にどのように市の発展に繋がるのかのストーリーがイマイチ分かりませんでした。
当然ながら自分にとって賛成する理由も思い浮かびませんでした。

②今やることなのか、そもそも市のレイヤーで議論する問題なのか?

自分も市民なのですが、全く住民投票とか需要はありません。子育て世代なので、まだまだそっちとかで喫緊の問題あるのですが。。。
特にメンバーシップの話は相当にセンシティブな問題なので、市のレイヤーで勝手に進めて良いものだろうか?謎すぎました。

③最中の市長、及び推進者の態度に腹が立った

市長は、反対している人、懐疑的な人に対して、終始、丁寧な説明を避けていたように感じます。
特に途中で、反対者は差別主義者と決めつけ、総務省のヘイトスピーチのサイトリンクしてみたり、コメントブロックしてみたりしていました。
推進者についても過激な言動が目立っていました。

④そもそも前から市長が嫌いだった

一期目の市長選で、彼女は当時住んでいたマンション入り口前に選挙カーを停めて演説していました。そのため、ベビーカーが入れず、退くまで待ちました。
Twitterでは彼女が、再三にわたり、駅の福祉車両の駐車スペース前を塞いで演説することが言われています。

二期目の市長選では、マンションの車止め前で大声で演説していました。当時、二人目が生まれたばかりということや、在宅勤務もあり相当迷惑でした。
という些細なことから、市長に対しては、良い感情を持ち合わせていません。
嫌な奴は何を言っても響かないのです。

教訓

ここから自分の教訓です。
で、何をしたのか?どう態度を改めたのかなどは後日に譲ります。ちょっとした考察まで。

①教条主義に陥ってないだろうか?
市長は明らかに謎の先進性を追求しているように感じます。
そうなると、反対する人に対しては、知識などの個人的資質やその人たちの人格的欠落をなぜか原因だと考えるようです。(その後の別の市の演説でもそうのようなことを言ってました)

さらに教条主義に陥っている時は、自分が十分に説明を尽くしていると思い込むみたいです。
相手との距離が遠いし、相手を知識のない奴だから教えてやるということがあるので、相手に刺さる説明、理解可能な説明をしていません。
そもそも価値観は異なれば、成功などの定義も何も違うのに、自分の価値観での定義で話しがちです。
よく、偉い人と話していて、「やっている」と言っていることをしっかり調べると、(私にとって)「全くやれていない」と写ったりすることがあります。
よくよく考えると、自分も、「こいつらバカだから」「古い考えしか持てない奴だから」と考えることもあります。特にトラディショナルな環境でデジタル云々を進めようとする時は。
でも、反対、懐疑はそんな単純なことではありません。
また、自分は精一杯説明していると思い込むことがあります。ただ、説明は伝えることを意識するのではなく、伝わることを意識すべきなのでは?


②そもそも嫌われている時点でアウト
よくいろんな人に「嫌われ役になれ」と言われてきました。で、それに徹したこともあります。でも、マジで嫌いな人間に何を言われても響きません。少なくともニュートラルな感情を持たれない限り、何を言っても聞いてもらえません。

今でも武蔵野市の問題は続いています。
確かに嫌な思いや怒りはしましたが、この時、反対してみて、改革っぽいことに対して反対する側に立てたのは良い経験でした。

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