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自己肯定感というBuzzWord:その6●親のモノサシと能力問題

●親に勘違いがあっても無知でも満足が大事

 子供時代の自己肯定感は「親のその子に対する満足度に比例する」といっても過言じゃないと思います。
 コドモにとって親は最初の社会だし、価値観のお手本だからです。

 価値観の始まるその時には、世間並というモノサシすらなく、コドモはただただ親の基準、親のフレームを飲み込みます。もう丸のみ。親が美しいと言ったものは美しく、親が良きものとしたものは価値のあるもので、親が正しいと教えたものは選ばずに正しいと仮定して、人生を出発するのです。

  だからこの時期に、親が自分に満足してくれていたら、もう即、「自分ってサイコー!!」ってことになる。自信つけて、将来厳しいとこに出て行っても平気な人になる確率は高いと思います。

 ほどなくして知識が増えて疑問が生じ、よその価値観との軋轢を体験するようになりますが、それでもおおざっぱ言って、10歳ぐらいまでは、親の価値観の外で暮らすことは非常に難しいのじゃないかしら?
   コドモは親を選べない。だから「自分ってサイコー!!」の反対・・・つまり親がコドモに不満な場合、それがどんな理由であったとしても、そりゃ環境はきついです。

 親のソレが若干「難あり」の価値観だったとして、(っていうか個性ってものは価値観の歪みを含むものでもあるので、必然的に難はあるはず)親のソレに対して批判力を身に付けて、独自のものを育て、反抗期を経て親の価値観の外へと出てゆくまでは、時間がかかります。だから善かれあしかれ、どっぷり浴びちゃう、それが子供時代と言うものだと考えます。

 さて、そのどっぷり浴びるものの中に、優秀じゃなければならない、って条件が含まれていたとしたらどんなでしょうか?しかもそのモノサシがけっこう世間とも関係なくて、親が定めた勝手なところに目盛りがついている感じで。

●よその人にはとやかく言えない

 能力コンシャスな環境は、どこにでもあるでしょう。多分能力について何かと比べられるってことは、それによって人間の価値を否定されたりしないなら害のないことなのです。

 でも比較や競争があるところには妬み嫉みがうごめき、軽蔑や優越感が漂います。何より親の失望は毒になって子に伝わるでしょう。

 これは「愛情があるからオールOK」なーんて単純なものではないと思ってます。失望って口に出さなくても伝わるんだよね。
 
 あたしはそれがいわゆる「自己肯定感を刈り取られた」子供時代の正体だと思うわけです。理由は様々でしょうが、親がコドモを他者と比べて「劣る」とか「優れている」とかがんがん断罪していて、合格点をくれなかったら、コドモの自己肯定感はぼろぼろですよ。


 身近なきょうだいとかイトコとかと、安易に気楽に悪気もなく比べられて育つ例から、自分が自分の能力に不満なまま大人になった親が、子供にどことなく嫉妬しながら、事あるごとに自信をちくちくつぶしてしまう例もあるでしょう。しかし理由はなんでも同じ。とにかく満足があるかないかがポイントと思います。

 親は子供に満足するのが何よりのギフトだけれども、親のほうも、いろんな理由でそれが難しいこともあるでしょう。我が子だったらこれぐらいであってしかるべき、ってな心理もあります。DNA問題は厳然としてあるしね。 

 私の知っていた家族に、家族全員、とんでもなく運動能力が高いおうちがありました。小学校ではかけっこが速く、学生時代は国体とかいくし、アルバイトはスキーや水泳の指導員、プロスポーツに進む人もいて、その家にあっては、普通であることがむしろあり得ないことでした。兄弟も多くて、競争関係はいやがうえにも激化する。スタンダードがあらかじめ高いことは、その家の誇りでもあり、よその人がどうのこうの言う事柄ではないのですが、でもその中でちょっとでも劣っていた子は不必要につらかったかと思います。劣っているとか言ったって世の中的にはスポーツ万能の域ですから、そんな悩みは誰にもわかってもらえなかったでしょう。むしろ「悩みが自慢に聞こえる」わけです。

 音楽家の家や、学者の家ってのがあって、同じようなことはどこにでもあります。芸事の家に生まれた先輩は、「きょうだい全員がレッスンを強制されたが、日本舞踊の才能のあったのは自分だけだったから、試験を受けて昇っていったけど、家を継ぐ気は全然なかった。とはいえ、他のきょうだいには継ぐこと自体許されなかった」と言ってたことがあります。そのように、才能のあるなしが、ハッキリと言い渡される文化の家だってあるわけです。これも他人にはどうこう言えません。

 夕食の時に数学の問題の面白さが話題で、おじいちゃんから小学生の孫までそういうことで盛り上がる、ていうお宅もありました。そういう家に生まれたらまああたしなんか疎外感ばりばりだったろうなあ。でも楽しくて仕方がない子供もいるはずです。

 DNAに含まれる能力は、文化やその家の誇りや時には驕りも内包したまま、同じ傾向をもらって生まれたコドモの中で常識化したりするってことです。中高一貫校から東大に行った友人たちは子供が出来たら同じコースを取らせると言ってました。
 別の知人は学者のおじい様から、「12歳で人間が選別されるシステムは理にかなっている」という意味のことを言われて中学受験について納得したそうです。(彼女は超有名校に合格しました)

 なんかえらそうなことを言ってやがるなとか、そういう子供じゃなかったらどうすんの?的な意見はその家には届かないことが多いでしょう。DNAはかなりの確率で親に似た能力をその子にもたらすからです。
 そういうんじゃなくても、ケンカで負けるなんて許さねえ、って家もあるでしょう。泣かされて帰ってきたら「相手をぶんなぐって来い!」と命令されて家からまた出される、とかね。あたしなんか完全に落ちこぼれちゃいますね。はい。殴られても親にはかくしておきます、とりあえず。

●各家庭の偏りのはざまで子供はサバイバルする

 とにかく、各家庭はそのようにそれぞれ偏った目盛りで人間を測定しており、その家のスタンダードからはみ出た子供が生まれない限り、「独自目盛りつき価値観」は温存されるわけです。

 親も、はみ出た子供を持ってこそ、経験値が上がるもんだぜよ、とあたしはいい加減いい年になったこの頭で考えますが、コドモの時にはもちろんそんな知恵も余裕もなくて、自分の家の親たちの、「独自モノサシ」の中でのサバイバルに四苦八苦していたわけです。

 子供三人いて、三人目がとんでもなくはみ出ていたがために、経験値をあげたお母さんが実際いました。二人までは自分によく似て普通以上に優秀だったため、何も手がかからず、もしここで止まっていたらもしかして鼻持ちならないママになっていたかもしれないと言っとりました。

 鼻もちならない親ってのは、DNAによるラッキーを自分の手柄のように自慢して、子育てなんてカーンタン、とか言ってる感じでしょうかね?
 学校の担任が自分の子供の例をひいて教育の成果だと自慢をこいていて、めっちゃ嫌われている例の話もききました。要するに無知な親ですな。
 
 しかしこの無知ですら、子供にとってはサバイバルのチャンスだったりするわけです。コドモはとりあえず自分の親の満足を引き出せればOKだからです。

 繰り返しますけど、家庭内の偏りは「個性」と呼ばれ、うちはうちでよそはよそ、多少ひん曲がったフレームをもっていようと、他人がとやかく言えることではないし、さらに言うなら当事者にはそのひん曲がり具合は見えないのであります。

 次回は我が家の「独自モノサシ」がどんな風にひん曲がっていて、コドモであったあたしがそれをどのように見てたかってのを・・・・・まあ当事者であるからして、「見えてない」部分もあるには違いないけれども、書いてみたいと思います。

*画像は富士山のような「最高」な山が複数あるような世界を表しております。昔の油彩画です。

 


おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。