魂の設計

 第二章 「結城」 

                1
 夏の終わりに本田真智子は、末期ガンで、余命三ヶ月と宣告された。
 三十四歳になったばかり。長女の寛子は小学校三年生、長男の結城は一年生になったばかりだ。
 目の前が真っ暗になった。
「先生、本当に私の癌は治らないのですか?」
 隣に座っている夫の浩之は、青ざめた顔で下を向いている。
 医師は、無念致し方ないという表情で病状を説明した。
「乳癌から、恐ろしい速度で肺、腎臓、肝臓に転移を始めています。今まで痛みが余り出なかったこと自体が、奇跡でしょう」
 一言一言、噛みしめるように説明をする医師の言葉が、真智子の残り少ない命の現状を明らかにした。
「どんな病状であっても、包み隠さず、正直に教えて欲しいんです。主人と、真摯に受け止めます」
 真智子は、隣で倒れそうなほど驚愕している浩之を見た時、医師に言った言葉を後悔した。
 浩之は泣きそうな表情で医師に質問をした。
「どのような治療をしても、三ヶ月なのですか?」
 医師は、やるせない表情をしながら気散じ程度に説明した。
「化学療法や様々な治療により、延命効果が期待されます」
 机の上に掲げられた電光板の写真を指さしながら、説明が続く。
「問題は、転移した癌がどれほどの速度で痛みを発生させるか、でしょうね」
 医師から聞いて、数日前から痛み始めた背中の中心あたりが、急にキリキリ激しく痛み出した。
 ともかく、もうこんな所で死の宣言を聞いていたくない。
 真智子は浩之を急かして帰宅した。
 タクシーの中で浩之は何を想っているのだろうか、見当もつかなかった。
 真智子は「子供たち、まだ小さいのにね……」と言ってみた。
 夫は横を向いて窓の外を見つめていた。
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 お姉ちゃんの寛子は、まだ三年生なのに家事や手伝いを率先して行う、出来た子供であった。
 それに比べ、弟の結城は一年生になったというのに、幼稚園児のように母親に甘えている。
 早生まれのせいか、身体も小さく、言葉使いも赤ちゃんのようだ。
 台所に立って炊事をしていると、結城がやってきて赤い靴下を履いた真智子の足にしがみつきながら、甘ったれた声を出した。
「ネェ、ママー、アショボウヨー」
 真智子は、呆れながらも結城に言って聞かせる。
「ゆうちゃん、ママは忙しいから、お姉ちゃんと遊びなさい」
 しがみつく子供を可愛いと思いながらも、努めて優しく諭した。
「やだ、やだ! ママとアショブー」
 結城は駄々を捏ねて真智子の足を強く抱きしめた。泣きそうな顔をしながらも、結城の顔は安心感でいっぱいだ。
 あと、三ヶ月したら、この子がしがみつく足も永遠になくなると思ったら、真智子は哀しくて、今すぐにも死んでしまいそうだった。
 しゃがみ込み、結城と同じ目線になって語りかけた。
「ゆうちゃんは男の子でしょう、強くならなければいけないのよ」
「ゆうちゃん、いっぱい、べんきょうしゅる」
「そうね。ゆうちゃんは、ごほん読むの、とっても上手だもんね」
「ゆうちゃんね、おねえちゃんのコロコロ、全部、読んだんだよ」
 お姉ちゃんが読んでいる分厚いコロコロコミックという漫画雑誌を、結城は吹き出しを無視して全部すっかり読んだらしい。
「えらいねぇ。ゆうちゃんは大きくなったら、何になるの?」
「仮面ライダー龍騎、だって、ゆうちゃん、でんぐり返しできるんだよー」
 結城は、得意そうな顔で仮面ライダーの真似をした。
「すごいねぇー。ママに見せて」
「いくよー、ええぃ」
 結城は頭から転んで、受け身も取れず、背中を打ち付けた。真智子は心配して、急いで結城を抱き上げた。
「ゆうちゃん、大丈夫?」
「うん、だってぜんぜん、ゆうちゃん、いたくないもん」
 結城は少し泣きそうな顔だが、強がって胸を張る。
「すごいねぇ、ゆうちゃん。つよいんだね」
 結城は走り出し、仮面ライダーのオモチャを取りに行った。
(この子に、あと三ヶ月で何をしてあげられるんだろう)
 結城の小さな背中を見ながら、また真智子は泣き出しそうになった。
               3
 結城に頼まれて、真智子は西葛西駅前のレンタルショップ《ツタヤ》に『仮面ライダー龍騎』のビデオを借りに出掛けていった。
 真智子は《ツタヤ》まで自転車に乗っていくだけで、いかに自分が体力を奪われているかを実感した。
 学生時代は陸上選手として活躍し、週二回は近所のスポーツクラブでボクササイズを習っていた真智子は体力だけは、自信があった。
 それなのに、ペダルが錆び付いたかのように異常に重く、自転車がなかなか前に進まない。病が身を蝕んでいることを、自覚せざるを得なかった。
《ツタヤ》の前に自転車を止めていると、薄汚れた看板が目についた。
「誰でも強くなれる空手 松栄塾 会員募集中」
(こんなところに空手道場があるなんて、全然、知らなかった……)
 看板には屈強な男と、少年少女たちが満面の笑みを浮かべている。真智子は「誰でも強くなれる」という文字に気を引かれた。
(あんな結城でも、強くなれるかしら?)
 何かに引かれるように、ふらふらっと階段を登り、エレベーターのボタンを押す。
 道場は4Fのテナントにあった。
 最初、真智子は奥まった道場へは入りづらく、入口の辺りから中を覗いてみた。
 小さな子供たちが、エクササイズ・ボールを使って遊びに耽っている光景が見えた。
(これだったら、結城にもできるかしら)
 先生らしき人から号令が飛ぶ。
「はい、かたづけて集合!」
 子供たちが慌ててボールやマット代わりに使っていたミットをかたづけた。
 すごい統率力で集合を完了する子供たち。三十秒も時間を掛けずに、横一列に整列した子供たちを見て、真智子はある種の感動を覚えた。
(こんな小さな子供たちが、良く躾けられているなぁ)
 入口に近づき入会の案内をもらおうと思った。
 玄関に入ると同時に稽古が始まった。
 先生の与える指示に、幼稚園生のような子供まで大きな声で「押忍!」と返事をしている。
 入口に立った真智子に気づき、先生が指示をした。
「たつる」「押忍」
 アトピーで顔がブツブツだらけの、黒帯を巻いた少年が走って駆け寄ってきた。
「何か、ご用でしょうか?」
 両手をきちんと前に揃え、しっかり真智子の顔を見て訊ねた。
「あのー……入会の案内みたいなもの、ありますか?」
 こんな小さな子に言って分かるかなぁと思いながらも、訊いてみた。
「どうぞ、お入りください」
 黒帯の子はスリッパを揃えて置きながら、中に入るよう勧めた。
 スリッパに履き替え、入ろうとしたときに、
「お母さん。ここは道場なので、靴を揃えてください」
 ぴしゃりと言われ、真智子はまた感動した。
「あっ、ごめんなさい」
 と即座に謝り、(なんて礼節の行き届いた道場なのだろう)と思いながら靴を揃え入って、すぐの指導員室で入会案内一式を貰った。
 帰り際、同じ少年に聞いてみた。
「今、何年生?」
「一年生です」
 黒帯を締めた、たつると呼ばれていた少年が答えた。結城と一緒だ。
「ぼくは、どれくらい空手をやっているの?」
「幼稚園の時からです。だから、もうすぐ三年です」
「そう、立派ね」
「いえ、そんなことありません」
 直立不動でハキハキと答える黒帯の一年生を見て、真智子は結城にも習わせたいと真剣に思った。
                 4
 自宅に帰り、借りてきた仮面ライダーのDVDをかけながら、真智子は結城に聞いてみた。
「ゆうちゃん、空手って、知っている?」
 結城はクリクリの目玉を更に大きく見開いて、元気よく答えた。
「しってるさー! えいっ、ヤッー、ってやるやつでしょう?」
 拳を振り回し、結城が楽しそうに空手の型を真似した。
「へー、知ってるんだ」
 真智子は、息子が意外に物知りなことに、驚きの気持ちを隠せなかった。
「うん! だって、同じクラスの健太くんもやってるよ」
 また、結城は空手の真似をした。そこで真智子は、静かに聞いてみた。
「ゆうちゃん、空手を習ってみない?」
「やだよ、だって痛いもん、ゆうたん痛いの嫌ーい」
 結城は赤ちゃんのような顔で、甘えるように答えた。
 どうやら結城は、友達から空手の話を聞いて、ものすごく痛いものだと思っているらしい。
「それなら、ゆうちゃん、今度ママと一緒に空手を見に行かない? ママ、さっき少し見たんだけど、かっこよかったよ」
 少し考えて結城が答えた。
「かっこいいなら、ゆうたん、空手、見てみたい」
 さっきの赤ちゃん顔から、少しだけ少年の顔になって、真智子に微笑んだ。
「じゃあ、パパと相談して、今度の日曜日に、見に行こうね」
 真智子は、ともかく自分が亡き後、この子が強く生きていける道を少しでも探してあげようと決意をしていた。
 子供に、何かをしてあげられる時間が三ヶ月しかない。それは、余りにも短い期間であった。
 そこで、その夜、夫の浩之が帰宅した時に食事しながら相談をしてみた。
「ゆうくんに空手を習わせようと思うんだけど、どう思う?」
 浩之は少し険しい顔になった。
「無理だろう、あの小さな体だし。それに、お前の今後の治療だって考えたら、結城の送り迎えなどできないだろう」
 真智子は少しムキになって反論した。
「今日、見てきたんだけど、体の小さな一年生の子が黒帯を巻いていたよ。その子、身体中にアトピーがあって、見られたものじゃなかったけど、すごく礼儀正しくて、私、感動しちゃった」
 真智子はやや興奮気味に浩之に話した。浩之はただ、無言で頷く。
「お前……体は、大丈夫なのか?」
 浩之は顔を上げ、真智子の目を覗くように、ゆっくり言葉を選んで訊いた。真智子は少しでも浩之が心配しないように、微笑みながら答えた。
「うん、たまに背中が痛くなるけど、自分のことを考えているより、子供のことを考えていたほうが力が出るし」
 浩之はまた、目を伏せて静かに諭した。
「そうだろうけど……現実を考えたら……今は治療に専念しなければ……」
 真智子は立ち上がり、食事の皿などを片し始めた。
 そんなことは分かっている。でも今は、子供たちに何を残せるか、そっちを最優先に考えなくては、と真智子は焦っていた。
 浩之に背中を向けたまま、語り出した。
「でもさ……もし、三ヶ月なら……今しかないと思うんだよね……」
 食器を洗う水道水の音が、真智子の言葉を打ち消した。
「えっ、何?」
「だから……」
 大きく一つ、溜息をつく。真智子は、蛇口を閉めて話し出した。
 「このままじゃ、死んでも死にきれないよ……」
 真智子は、浩之と目を合わせないように寂しく言った。すると、急に浩之は怒って声を荒げた。
「まだ、三ヶ月と決まった訳じゃ、ないだろう!」
 真智子は何も言えなかった。うつむき、手の中の皿を見ている。結城の好きな仮面ライダーが描いてあった。
「治療の進み具合によって、一年でも二年でも延びることだってあるさ」
 真智子を悲しく追い込んでしまったと思ったのか、浩之は諭すように言った。
 沈黙の中に皿を拭く音だけがしている。
「諦めるなよ。病気と闘っていこうよ」
 浩之の気持ちは、痛いほど分かる。いつのまにか、食器を拭く手を止めて泣いていた。
 声を出さずに肩を震わせ、悲しみに堪えていた。声を出さないで泣くことが、これほど辛いと、今、初めて知った。
 浩之は、言葉を失っていた。同時に、自分たち夫婦は弱く儚い存在なんだな――と認めざるを得なかった。
「分かったよ。今度の日曜に、見学に行こう。もし、結城が習いたいと言うなら、習わせてあげようよ」
 真智子は、背中を向けて泣きながら、小さな声で「ありがと」と呟いた。
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 空手の稽古は日曜が休みで、通常の練習はしていなかったが、たまたま見学した日曜日は、昇級昇段の審査を行っていた。
 道場を埋め尽くした、少年から一般までの受験者たちの気合いが、外まで響いていた。
 真智子夫婦と結城は初め、余りの人の多さに驚き、出直そうかと思った。
 入口の付近で覗いていると、たくさんの少年たちが新しい帯を目指して、審査に臨んでいた。
「あのーすいません、会員ではないのですが……今日って見学できますか?」
 と真智子は、見学している父母にさりげなく聞いてみた。
 入口付近で会場を整理していた生徒の母親らしき人が親子に気づいて頷いた。
「あっ、どうぞどうぞ。大丈夫だと思いますので、お入りください」
 婦人は背中に、まだ生まれたばかりの赤ん坊を背負っている。自分と同じぐらいの年齢だろうか。顔には満面の笑みを浮かべている。
 真智子夫婦は軽く正面に会釈をして道場に入り、隅のほうへ移動した。結城は心なしか、緊張のせいか顔が青ざめている。
 その姿を見て真智子は「やはり、うちの子には無理か」と少し悲しい気持ちになってしまった。
 審査会は基本の稽古が終わり「型」の審査が行われていた。師範と名乗る、一番画体の良い中心者が型の説明をしていた。
「空手の型とは、攻防武技の連続体であります。昔の拳聖達人が幾星霜、超人の難行苦行を経て、理技両面より基本となるべき妙技を、統計的に連結し、組み合わせて編み出した、臨機応変、千変万化する理想的な技の集大成であります。 空手の型は技の命であり、神髄極意を極める最高唯一の道程であります。真剣、気合い、一呼一吸、一投足、一撃一蹴りの型によって、無我の境地に入り、その奧技を極めることを目的とします。型なくして、空手なし、神髄奥技なき空手は単なる体操であります。空手の型は、前後左右、四方八方に相手を仮想し、一定の開手線上において統計的に攻防の基本技を演じます。開手線とは、前後左右に相手を仮想して攻防進退、転身呼吸の基本武技を演ずる線であります」
 師範の話は、まるで別世界のようで、真智子たちは聞いていて何のことか、さっぱり分からなかった。
 すると、師範がニコリと笑い「まぁ、そんな理屈は、どうでもいいんです」と語りかけるように言った。
「要するに、それぞれの稽古には、その稽古の目的があり、その目的を知ったうえで鍛錬を積む、それによって(どんな人でも必ず強くなれる)それが空手の醍醐味です」
 真智子夫婦は、難しい空手の解釈は分からなかったが、師範の言った「どんな人でも必ず強くなれる」という一言が気になった。
 型の審査が始まった。
 最初は、習い立ての白帯たちが恐る恐る、覚えたばかりの基本型を辿辿しく行っていた。
 中には、結城と同じくらいの少年もいて、真智子には親の前で胸を張って演武をする子供が羨ましく思えた。
「ゆうちゃん、かっこいいね、ゆうちゃんも空手を習ってみたら」
 と隣でかしこまっている結城に声を掛けてみた。でも、返事は帰ってこなかった。結城は真剣に型を演じている少年たちを一心不乱で見つめている。
 一通りの審査が終わり、黒帯たちの特別演武が行われた。
 先日、パンフレットを貰いに来たときの少年が凛々しく鮮やかな型を披露した。
 その少年の型は、まるで目の前に敵が現れたかのような迫力に満ち、小さな体が見えない敵を相手に全力で闘っているかのようであった。
 真智子は、すっかり空手の魅力に感動し、絶対に結城を習わせようと心に決めていた。
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 帰り道、近くの通称「恐竜公園」に寄って、結城に話しかけた。
「ゆうちゃん、空手どうだった?」
 結城は少し考えて、笑顔で言った。
「お兄ちゃんたち、みんな、かっこよかったね」
 自分には余り関係ない、と言った気のない口調である。言うなり、たちまち恐竜公園の砂場に走って行ってしまった。
 真智子は、結城の無邪気な背中を見ながら考えた。
(どうしたら、空手に興味を持ってくれるだろう)
 夫の浩之が近づいてきて、結城を見ながら声を掛けた。
「まだ、赤ちゃんだからな、空手はやっぱり無理じゃないか」
 結城は夢中になって砂遊びを始めている。
「そうね、やっぱり無理かしら……」
 溜息をつくのを堪えて、真智子は同意した。
 諦めて家に帰ろうとした時、反対の道から空手着を着た小さな女の子が歩いてきた。お父さんらしき大柄の男性が手を引いている。
 見ると、まだ幼稚園前の三歳ぐらいだ、空手着が半纏のように見える。思わず真智子は声を掛けてみた。
「あのー……松栄塾の方ですか?」
 一緒にいた割烹着を着たお父さんが、答えた。
「ええ、そうです、うちの子は二歳から習ってるんですよ」
 目玉が飛び出しそうな笑顔で微笑みながら話すお父さんは、少し自慢げだった。
 真智子は驚いて聞き返した。
「えー! 二歳から空手なんか、できるんですか?」
「本人は、なにやってんのか、わかんねえだろうけど……キッズクラスってのがあって、幼稚園児からできるんすょ」
 お父さんは、ニコニコしながら説明してくれた。真智子は父親の恰好を見て疑問に思い、聞いてみた。
「あのー、失礼ですけど、何かお店でも経営されているんですか?」
「あっ、そこの角を曲がったとこで、焼鳥屋やってんですよ」
 父親は屈託なく笑って見せた。
「そうですか、二歳から……」
 真智子は、つくづく思った。
(そんな歳からできるんなら、きっと結城にだって、できるはず)
 そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
 砂場で遊んでいる結城に走り寄り、しゃがみ込んで聞いてみた。
「ゆうちゃん、やっぱり空手やってみようよ。あんな小さな女の子も、やっているんだって。ゆうちゃんにも、きっとできるよ」
 諭すように、真智子は一言一言を噛みしめるように語りかける。
「ゆうちゃん、ママ、君に本当の強さを身につけて欲しいんだ」
 砂で遊ぶ手を止めて、結城が聞いた。
「本当の強さって、なーに?」
「怖くても、逃げないことだと思うよ」
「それ、どういうこと?」
 結城が母の顔を見つめ、困った顔で聞く。
「んっ……勇気を出すってことじゃない」
 結城は自信なげに言った。
「ゆうくん、勇気なんか出ないよ」
「大丈夫だよ。ゆうちゃん、勇気を出して、って言うでしょう」
 結城は母の顔を見ながら真剣に聞いている。
「出してっていうんだから、誰の心にも勇気はあるはずでしょう」
 真智子は必死に説得を続けた。真智子はともかく、自分が元気なうちに、この子が強く生きていける何かを伝えたかった。
「ゆうちゃんの中にも、きっと勇気があるから、それを出してみようよ」
 懸命に言いながら、真智子は自分に言い聞かせているような気持ちになっていた。
 ふと見上げると恐竜公園にはたくさんの桜の木が植わってあった。
 秋の初め、桜の木はみな一様に葉を落とし寒々しい枝を伸ばしていた。
「あの桜の木が花を咲かせるまで生きていられるのかしら…」
改めて真智子は自分に時間がないことを思い知った。
(くよくよ、している時間などない、今は結城が強くなることだけを考えて生きよう)真智子は強く決意をした。
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 数日後、真智子は結城を連れて、空手道場に入会手続きをしに出掛けていった。
 学校が早めに終わった月曜日だったが、結城は行くときにまた、空手をやることを渋った。
「ゆうくん、テレビも見なければいけないし、お勉強もしなければいけないから、空手はできないよ~」
 結城は泣きながら「行きたくな~い」と駄々を捏ねる。
「ゆうくん、強くなるって、ママと約束したでしょう」
 毅然とした態度で真智子は言い切った。
(まず、自分が強くならなければ、この子を強くするなんて絶対できない)
 懇々と真剣に語りかける母親を見て、結城は仕方なさそうに母と一緒に道場へ向かった。
 稽古前の数分間、入会の説明があった。
 所定の書類に記載事項を書き、真新しい道着を結城に着せた。
 小学校一年生用の0号の道着は、それでも結城には大きすぎて、紙細工の“やっこさん”みたいだった。
 それでも新しい道着を着られて、結城は少しご機嫌になった。
 大はしゃぎで、真智子の前でパンチやキックの真似を見せたりしていた。
「結城君、では道場の礼儀作法を教えるよ」
 師範は結城の帯を締め直して、諭すように話しかけた。
「道場に来たときは、入口で大きな声で、押忍と挨拶をします」
 体の大きな師範が優しそうな顔で結城に説明をする。
 顔を少し赤らめながら、結城が「はい」と答える。
 師範が結城の顔をしっかり見つめて、はっきりと言った。
「押忍だよ」
 訳が分からず、結城は目をパチクリさせている。
「すべての挨拶は、押忍と言う!」
 師範が大きな声でもう一度、結城に教えた。
「お、押忍」
 うつむき加減で恥ずかしそうに、結城は挨拶をした。
 その姿を見て真智子は(来て、良かった)と素直に思えた。そこで真智子は、師範に恐る恐る聞いてみた。
「あのー、一つ質問をしていいですか?」
 真智子を見下ろすような背の高い師範が、笑顔で訊いた。
「何でしょうか?」
「どれくらい練習したら……強くなるものですか?」
 一瞬、何を言っているんだろうという表情をした師範が、すぐに笑顔になって答えた。
「さぁ、それは。強さにも、いろいろな考え方が在りますから、一概には言えないでしょうね」
 師範は困った表情で腕を組み、頭を少し倒しながら続ける。
「お母さんにとっての強さとは、どういうことを意味しているのですか?」
 今度は、真智子が考え込む番だった。
「えっーと……それは……結城に関して言えば、やっぱり苛められないとか、独りでも暴力に向かっていけるとか……ですかねぇ」
 少し、しどろもどろになっていると自分でも気づきながら、それでも希望を持って、真智子は話してみた。
「一応の目標としては、やはり黒帯ですかねぇ。有段者になって、誰かに苛められたとか、誰かを苛めたという話は、聞いたことがありませんので」
 師範は微笑んで断言した。
 真智子は、微かな望みを持った。そこで、道場の片隅で型の稽古を黙々と行っている少年を指さしながら訊いてみた。
「例えば、あの子みたいに黒い帯を巻くのに、どれくらい懸かるものですか」
「そうですね。体力や稽古量にも依りますが、通常は三年。早くても、二年は掛かると思いますよ」
 早くて二年と聞いて、真智子は少しガッカリした。
 思わず暗くなった真智子の表情を見た師範は、心配そうに訊いてきた。
「何か、早く強くしなければいけない理由でもあるのですか?」
「いえ、そういう訳ではないです、あっ、ありがとうございました」
 頭を一つ下げると、真智子は逃げるように師範室を出て行った。
                  8
 一日目、結城の稽古は最悪だった。
 最初の準備体操では、股割ができなくて、押してくれる先輩を睨み付けて「痛い痛い」と叫び、目に一杯の涙を浮かべてた。
 基本稽古では、みんなの号令について行けず、手足の動きがバラバラになった。
 型稽古はまだ無理なので、見学をして見取り稽古(人の姿を見て学ぶ稽古)をしなさいと師範に言われたが、座って皆の型稽古が始まると、すぐに寝てしまった。
 見学をしていた真智子は気が気でなかった。それどころか、稽古の途中で辞めさせて連れて帰ろうかと思ったほどだ。
 みんなが真剣に見取り稽古をしているのに、結城は横になって、いびきをかき始めた。
 真智子は慌てて結城の側に駆け寄り、起こそうとしたが、師範に制された。
「眠いなら、寝かせてあげればいいです。子供は毛穴から入っていくものですから、心配しないでください」
 本来なら笑いが出るところだが、誰も笑おうとしない。いや、むしろ真剣だ。
 道場に於いて師範の言うことは絶対に信じて疑わない純真な子供たちが、そこにいた。
 休憩時間に入り、目を擦りながら起きた結城が、また駄々を捏ねた。
「ゆうくん、眠いも~ん、うちに帰りたい~」
 真智子は結城に言い聞かせた。
「あと、もう少しだから、頑張ろうね。ゆうちゃん、最後まで頑張ったら、アイスを買ってあげるから」
「本当~?」
 目を擦りながら、結城は甘えた声を出す。
「約束する。最後まで頑張って!」
 真智子は結城に向かって、ガッツポーズを作って見せた。そこで、思い直したように結城の顔が変わり、大きな声で返事をした。
「ゆうくん、最後まで頑張る!」
 白帯の輪の中に入っていく結城を見ながら真智子は誓った。
「ママも、最後まで頑張るから」
                9
 初日の稽古は何とかこなしたが、真智子は結城が本当に空手を続けられるか、とても不安だった。
 毎日の送り迎えは、体を案じて家に手伝いに来てくれている結城の祖母に任せられる。
 問題は自分がいなくなってしまった後、結城が独りでも空手を続けられるか、だ。そこで、意を決して、空手の師範にすべてを打ち明けて相談しようと決めた。
 前もって祖母に連絡を取り、結城を預けて、練習が休講の次の日曜日に、夫婦で道場に向かった。
 師範室に通された夫婦は席に着くなり、話を始めた。
「師範、実は事情があって、妻は来年、入院をしなければならないんです」
 夫の浩之が深刻な顔で道場の責任者である師範に相談の口火を切った。
「奥様は、お体の具合が悪いのですか?」
 師範がさりげなく訊き、夫婦は顔を見合わせた。
「実は、妻は癌で……来年には、入院をしなければならないんです」
 浩之は青ざめた顔で一つ一つ言葉を選ぶように師範に告げた。一瞬、重い空気が部屋全体を包んだ。
 一つ、深呼吸をしてから、師範が大きな声で話し始めた。
「それは、大変ですね。でも、どうか負けないでください。自分は、初めてお母さんが見えたときに、何か深い事情があるのだなと思いました。まさか、そんな大病を患っていたなんて思いもしませんでしたが……」
 姿勢を正して下を向く二人に師範は言った。
 真智子は溢れてきそうな涙をこらえていた。
「それで、ご相談というのは?」
 師範は真智子の体調を考えてだろうか、速やかに本題に入ろうと持ちかけた。
「結城のことなんですが……」
 真智子は心に決めたことを、ずばり言い切った。
「身勝手なお願いなんですが、絶対に空手を辞めさせてほしくないんです」
 師範は「おやっ」というような顔をした。隣にいた浩之が言葉を引き継いだ。
「あのように体も小さく気も弱い結城ですけど、僕たち夫婦の、かけがえのない子供なんです。師範、どうか結城を強くしてやってください」
 浩之の口調には真剣の二文字が含まれていた。
 夫婦は揃って頭を下げた。
 師範は恐縮して「頭を上げるように」と勧めた。
「なんだ、そういうことですか。いゃー、深刻な顔をされているから、入ったばかりなのに、てっきり辞められてしまうのかと思いました」
 少し笑顔で師範が続ける。
「もちろんです。結城君は責任を持って、強い男の子に鍛えるつもりです」
 真智子は、さらに念を押すようにお願いをした。
「結城が成長して黒帯を巻くまで続けさせて欲しいんです、師範。どうか、宜しくお願い致します」
「はい、もちろん、結城君が成長するよう、全力で努力をします。しかし、最高の才能とは「続ける」ことなんです」
 師範が、判りきっていることを確認するように、切々と真智子に話した。
「どんな子でも、続ければ、必ず強く成長します」
 不安がる夫婦に師範は断言した。
 真智子は心の中で「何が起きても結城が空手を続けていける環境」を作っていこうと強く決意した。
 帰りがけに真智子は、気になることを師範に質問した。
「師範。黒帯って、資格が、なくても買えるんですか?」
「記念に、というわけにはいきません。ですが、将来のために買っておくことは、可能です」
 師範は先のことを考え、未来を信じて黒帯の購入を許可した。
                10
 結城の修行が始まった。
 真智子が見ていても、気が弱くて体が小さな結城が皆と同じに稽古をこなすのは、想像していた以上に大変だった。
 特に、組手の稽古では幼稚園生にボコボコにされ、いつも泣いて帰っては、真智子に「行きたくなーい」と駄々を捏ねた。
「ママ、ぼく、もう空手を、続けたくなーい」
 結城は泣きながら真智子に訴えた。両手で目を擦りながら、同意を求める。
「ゆうくん、痛いのイヤだし……空手の練習、厳しいし……」
「ねえ、ゆうくん。空手を頑張って強くなるって、言ったでしょう? ママ、約束を守れない子なんて大嫌いよ!」
 厳しい口調で叱る真智子を見て、結城は不安そうな顔になった。
 きっとこの子は(何でママは、ボクのこと、こんなに厳しくするんだろう?)と思っていることだろう。
 今までだったら、つい甘やかしてしまっていた。でも、今の自分には、もう余り時間が残されていない。
 真智子は自分の心を鬼にする決意をした。他のことならともかく、空手のことだけは絶対に妥協せず、厳しく言い切ろう。
 強く決意した心とは裏腹に、真智子の体力は日に日に病魔によって蝕まれていった。
 家事を続けることすら辛くなり、やむなく母親に来てもらうことにした。
 寝床で安静にしている時間が多くなり、心配になった結城は、お祖母ちゃんに聞いた。
「ねぇ、お祖母ちゃん、ママは病気なの?」
 お祖母ちゃんは、明らかに暗い表情で答えた。
「ゆうくんのお母さんは今、重い病気に罹っているのよ。ゆうくんも、お利口さんにしていなければねぇ」
「どれくらい重いの?」
 お祖母ちゃんは手で顔を隠して、肩を震えて泣いていた。
 真智子の進行性癌は、意外なほどの速さで、気力を根こそぎ奪っていった。
 年末には、一時検査入院をして化学療法を勧められた。だが、真智子は頑なに拒み、自宅療法を選んだ。
 真智子の思いは、一つだけだった。
(少しでも子供たちと一緒にいたい……何としてでも、結城が強くなる姿を見守らなければ……)
 どんなに激しい、刺すような痛みが襲ってきても、子供たちの前では真智子は、努めて明るく優しいお母さんであり続けた。
 空手の送り迎えが母親から祖母に代わった頃、なぜか、結城は稽古で泣くことがなくなってきた。
 聞けば、空手の稽古の中では、基礎体力を向上させる厳しいトレーニングが行われていた。
 腹筋二百回、背筋二百回、スクワット百回、拳立て百回、それらの稽古を結城は、いつも途中で諦めていた。
 しかし、真智子の執念が、この少年の心を変えていった。
 真智子は病床にあっても稽古に通い続ける結城を励まし続けた。結城のために、空手着を形どったお弁当を作った。お弁当のご飯に海苔で作った黒帯を巻いたのである。
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 結城は、母親が作ったお弁当を食べながら、思った。
(重い病気に罹っているのに、ママは僕が強くなることを信じて、ずーっと見守ってくれている)
 身体の調子が良いときは、真智子は祖母と一緒に稽古を見学してくれた。
 母が見ていると、自然と稽古にも力が入る。結城は、大きな声で気合いを入れると、母まで元気になるような気がした。
 しっかりと母に見守られている。その事実を思えば思うほど、強くならなくてはと結城は決意をした。
 ある日、腕組みをしながら、師範が「結城君、最近は本当によく頑張っているな!」と声を掛けてくれた。
 結城には一番の悩みがあった。空手の稽古には慣れたのだが、組手をするのが、もの凄く怖いのだ。
 そこで、思い切って、そのことを師範に相談してみた。
「押忍、師範、どうすれば組手が強くなれますか?」
 師範は思いがけない結城の質問に驚いた様子で、また、意欲的になっている姿勢に笑みを浮かべながら、はっきり答えた。
「うん、基本稽古をたくさんやって、それとスパーリングを頑張ってやるしかないな……あとは、負けることを恐れない。これが大事だね」
 結城は(ママが言ったことと同じだ)と思い、不動立ちで腕を十字に交差させながら元気に返事をした。
「押忍。師範、僕、頑張って強くなります」
 師範は結城の頭を撫でながら「頑張れよ!」と激励してくれた。
 不思議と師範に「頑張れ」と言われると(自分は強くなれるんじゃないか)と思えるようになってきた。
 今まで嫌だった稽古が、少しずつ楽しくなってきた。
「ゆうくん、最近、空手に行くと、生き生きしているね。空手が好きになったの?」
 真智子が嬉しそうに結城に聞いた。
「うん、僕、強くなって、大人になったら、ママのこと守るよ。だから、安心して早く良くなってね」
「ありがとう、ゆうちゃん、ママも頑張って早く病気を治すから、ゆうちゃんも頑張ってね」
 もはや歩くことも辛そうな母の姿を見て結城は心が痛んだ。
                 12
 年明けには、昇級審査があった。
 稽古の後、結城は師範に呼び止められ、審査を受けることを聞かされた。
「結城君、本当は三ヶ月以上の修行がなければ審査は受けられないんだけど、君は本当に頑張っているから、思い切って受験しなさい」
 結城は突然の話に、少し戸惑ってしまった。
「押忍、だけど……僕、まだ、型とかできないし……」
「頑張って稽古すれば、きっと年内に憶えられるよ。だから、頑張って受けてみなさい」
「押忍、頑張って受けます!」
 結城は生まれて初めて試験を受けることに緊張しながらも、喜びを隠せず、真智子に報告をした。
「ママ、師範が、ゆうくんも試験を受けていいって」
「良かったね、ゆうくん、何帯になれるのかなぁ……」
 寝床に横になりながら真智子は、結城の手を握りながら聞いた。
「一つ上がったらオレンジ帯で、飛び級したら、空帯だよ。ゆうくん、飛び級したいなぁ」
「頑張って稽古すれば、飛び級できるよ、ゆうくん、頑張ってね……」
「うん、わかった」
 結城は元気に答えた。
 必ず良い結果を出してママに喜んでもらおうと、結城は自分の胸に固く誓った。
 その時、真智子は体を起こして姿勢を正し、結城に話し始めた。
「それから、ゆうくん、ママと約束して欲しいことがあるんだけど……」
「なあに……」
 結城は母に見つめられ、少しだけ緊張した。
「ゆうくん、強くなって黒帯になるまで、空手を絶対に辞めないでね」
 母の眼は今まで見たことないぐらい清く澄んでいた。
「うん、ママ、約束するよ。だから、ママも早く良くなってね」
「ありがとう、ママも頑張るからね。ゆうくん、負けても終わりじゃないよ。辞めたら終わりなんだよ」
 母は、自分に言い聞かせるように結城に語った。
「わかった! ゆうくん絶対に、空手は辞めないよ」
 日に日に弱っていく母親を少しでも喜ばせたい。その気持ちが、ひ弱な少年を短期間で変わらせた。
(お母さんの前で強くなった姿を見せたい)
 その気持ちが結城の原動力だった。
                13
 年が明けて、昇級審査会の日が近づいてきた。
 その年のお正月、いつもなら初詣や親戚周りといった楽しいイベントがたくさん行われるのに「池家」では、すべての行事を中止して、母の真智子の看病に充てられた。
 年末に検査入院をした際、癌の進行が急激に早まっていることが分かり、真智子はお正月を病院で越すことになってしまった。
 結城は初めて、ママのいない寂しいお正月を過ごした。
 いつもお年玉を貰ったりゲームをやったりしていたことが懐かしく思えるような日々が過ぎていった。
 寂しさを紛らわすために、年末から毎日のように稽古に参加した。
 稽古が終わり、迎えの者を待っているとき、師範から声を掛けられた。
「結城君、お母さん、入院したんだって?」
「押忍」
 結城は寂しさを必死に我慢して、手で十字を切った。
「お母さんがいなくて、辛いだろうけど、頑張れよ」
「押忍」
「お父さんも病院通いで大変だから、家のことしっかり手伝ってな」
「押忍」
「早く、強くなってお母さんを喜ばしてあげような」
「押忍」
 答えながら結城は(押忍)て、便利な言葉だなぁと思った。先輩たちを見ていると(押忍)という言葉を実に上手に使っている。
 はっきり返事をするときは「押忍!」と短く大きな声で。言われたことを聞き返すときには「押~忍?」と下がり気味に。
 焦ったときには「お、おすー」と、どもりながら言う。感情の入れ方で、いろんな言葉になる。
 僕はまだ、そこまで器用には、できないけれど、答えたくない内容の話なら(押忍)は便利だなと感じた。
 母のことには、余り触れられたくない。師範も結城の心情に気づいたのか、それ以上は訊かれなかった。
 迎えは、祖母か父親であった。その日は父が迎えに来た。
 車の中で結城は父に、さりげなく訊いてみた。
「パパ、今日は病院に行っていたの?」
「そうだよ。ママの病院にずっといた」
「ママ、痩せていた?」
「そうだな……」
「ママ、可哀想だね」
「でも、まあ、ママはダイエットしたがっていたから、ちょうど良いんじゃないか……」
 結城は、父が無理に笑わそうと思って言っているのだと思った。
 でも、笑うことは、できなかった。
「ママ、空手の試験、見に来てくれるかなぁ」
「たぶん、来てくれるよ、ゆう君が頑張っている姿、ママとっても楽しみにしていたから」
「でも、病気……悪いんでしょう?」
 父は黙って何も言わなかった。父の表情を見ると、ママはかなり病気が重いと思わざるを得なかった。
「ママに見に来てもらいたいなぁ」
 窓の外を見ながら結城は、溜息混じりに言ってみた。
 車窓から見える風景は、木枯らしの冷たさが染み渡っていて、結城の心は、いっそう冷たいものになってしまった。
                 14
 審査当日、母は仮退院をして審査を見に来てくれた。この日、白帯の受験者は、結城が一人だけだった。
 父親に支えられ、一番後ろの椅子に座った母は、結城から見て一回り小さくなったような気がした。
 顔は青白く頬は瘠せていた。それでも母は結城の姿を見ると優しく微笑んだ。
 母親の口が静かに動く。
「が、ん、ば、って、ね」
 結城は母の姿を見て、俄然、やる気が出て来た。
 基本、移動稽古、型、と進み、体力測定が行われた。始めは拳立て、つまり、拳を握った状態で腕立て伏せを行う。
 最低合格ラインは、三十回だった。入門したばかりの結城は、これを一回もできなかった。
 師範の号令で全員が拳立てに臨む。結城はちらっと母を見て、意識的に「自信あるよ」という表情を作って見せてから、拳立てを始めた。
 号令に合わせて腕を大きく屈伸する。三十回を過ぎた頃、耐えきれず脱落する者がたくさん出た。
 結城は歯を食いしばって、必死に続ける。五十回を越えて、残っている人は、ほんの数人になった。
 七十回に至ると、もはや残っているのは、黒帯を受験する茶帯の先輩たちだけだった。結城と茶帯三名が、九十回をクリアした。
 九十五回目で、茶帯の一人がリタイアした。悔しそうに、まだ頑張って残っている二人を見つめる。
 100回を達成したのは、結城と茶帯の二人だけだった。場内から期せずして拍手が起こり、場内がどっと沸き立った。
 結城はすぐに母親を振り返って見た。母は誇らしげな顔で結城を見つめている。
(ママ、僕やったよ!)
 結城は心の中で、大声で叫んだ。
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 最後の審査は、結城が苦手としている「組手」だった。相手は自分よりも一回りも大きな二年生の子である。
 結城は、自分の順番が来るのを、少しドキドキしながら待っていた。手と足にサポーターを着けて、マスクを被り、呼ばれるのを待つ。
「池結城君、前に!」と審判の師範代から声が掛かり、胸を張って「押忍!」と応えて中央に進む。
 歩きながら真智子と目が合った。心の中で(負けないぞ)と言い聞かせた。
「始め!」と審判の声が掛かり、試合が始まる。
 相手の選手は、大きな身体を生かしてパンチの連打を浴びせてくる。結城の小さく薄い胸板に、相手のパンチが突き刺さる。
「どす!」「どすん!」と、命中の音が見ている人にも聞こえるほどに、強烈な突きの応酬だった。
 結城は回り込みながら、相手のパンチの死角に回り込んだ。上段への蹴りを狙う。
 何度か結城の蹴りが相手の顔面を擦る。でも、相手選手の背が高く、ちょっとのところで届かない。
「どーーん!」
 結城が回り込んだ方向へ、相手選手の膝蹴りが当たる。鳩尾にクリーンヒットされた結城は声もなく、崩れ落ちた。
 今まで味わったことの全然ない痛み。内臓全体が鷲掴みにされ引き取られるような、背中まで響く痛み。
 呼吸ができない。手足の自由が利かなくなるほどの痛みを受けて、結城の目からは涙が溢れ出た。
 誰もが一本勝ちを確信したに違いない。だが、膝をついた瞬間、結城は即座に立ち上がった。
 驚く相手選手。信じられないような顔の審判たち。結城は、声を上げて泣きながらも、執拗に反撃に出た。
(痛いけれど、ママはもっと辛く苦しい思いをしているんだ 倒れてたまるか)
 結城の頭の中には「母の前では絶対に倒れない」という言葉しかなかった。
 やがて、試合が終了した。結城は判定で負けた。
 だが、倒れても倒れても、なお立ち上がって向かっていく結城の不撓不屈の精神は、みんなを感動させた。
 場内で見学している父兄のすべてが、結城の根性に惜しみない拍手をしてくれた。
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 結城は稽古の成果が認められ「九級空帯」に認可された。賞状を貰う時に、ちらちら見学席を見て、母の真智子が見ていることを確認した。
 賞状を渡しながら師範が言った。
「結城、頑張ったなぁ……強くなるんだぞ!」
 結城は元気に「押忍!」と返事をした。
 審査会が終わった帰り、道場の隣にあるファミリーレストランの《ロイヤルホスト》で、ささやかな祝賀会をやってもらった。
 学校行事が終わったお姉ちゃんが合流して、祖母、母、父と、結城を含めた五人で食事をした。
 結城は大好物の和風ハンバーグに、今日はお祝いという意味合いもあって、チョコレート・パフェも付けてもらった。
 母は自分の料理には、手を付けず、何度も何度も結城の賞状を嬉しそうに眺めていた。
「ゆうくん、頑張ったね」
「うん、ゆうくん、痛くても、頑張ったよ」
 ハンバーグを箸で崩しながら、結城は嬉しくなって答えた。真智子は確認するように、何度も呟いた。
「ゆうくん、強くなったよね、本当に強くなった」
 真智子の眼には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ゆうくん、頑張って、黒帯になろうね」
「うん、僕、必ず黒帯になるよ」
 結城は、上がっていく帯の順番を真智子に教えようと、話し始めた。
「ゆう君は、オレンジを飛び級して空色でしょう。次が青で、その次が紫、そして、黄色。えっーと、その後は、なんだっけなぁ…」
 指折り色を説明する結城を見て、お姉ちゃんが口を挟んだ。
「赤帯でしょう?」
「そうだ! 赤帯が五級で、次が緑。それで紺になって、茶帯になる。そして、最後が黒帯だ!」
 それぞれの帯になる時、母は今日みたいに応援してくれるのだろうか。結城は、ふと不安になり、考えてしまった。
「ママ、黒帯になるまで、ゆうくんのこと、応援してくれるでしょう?」
 母の応援は、結城にとって掛け替えのないぬくもりであった。
 二人の会話を聞いていた父が、耐えきれずにトイレに向かった。
 祖母は悲しい顔でうつむいている。
 お姉ちゃんは素知らぬ顔で、スパゲッティをフォークで丸めている。
 結城は、父がトイレからなかなか帰ってこないので心配になり、チョコレート・パフェを食べる手を止めて、見に行った。
 トイレのドアを開けると、父の姿がない。個室のドアが閉まっていた。
 中から絞り出すような、泣き声が聞こえてきた。父のものだった。
 結城はトイレをしながら嬉しい気持ちと悲しい気持ちが一緒になり、涙が少しだけ眼から溢れた。
 家族全員が揃って食事をするのは、結局これが最後になってしまった。
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 審査会で結城が強くなったことを見届けた真智子は、そのまま病院に帰っていった。
 癌の進行は如何ともすることができず、日に日に体力が蝕まれていった。結城が見舞いに行くこともできないうちに“その日”は訪れた。
 朝、眼が覚めると、父がせわしなくバッグなどを車に詰め込む作業をしている。結城は、ものすごく嫌な予感に襲われた。
「パパ、こんなに早く、どこへ行くの」
 結城は眠たい眼を擦りながら、父に聞いた。
「結城、良く聞きなさい。ママはもう、ゆっくり休みたいみたいだ。悲しいだろうけど、今日、ママにさよならをしに行こう……」
 結城は父が何を言っているのか分からなかった。
「ママがどうしたの? 休むって、どういう意味? ママは、死んじゃうの?」
 立て続けに父に聞くと、泣きたくなってきた。
「ママはママなりに一生懸命に頑張ったんだ。結城、最後まで強い姿をママに見せてあげよう。ママが安心して天国に行けるよう……」
 父も言いながら泣いていた。
「イヤだよ、そんなの! まだ、ゆうくん、ママと一緒にいたいよ」
 結城は座り込んで、大声で泣き出した。父がいくら説得をしても「イヤだ、イヤだ」と泣き続けた。
 結城が泣いている間、ずっと父は、どこかに電話をしていた。どうやら空手道場に連絡を入れて、師範に相談をしているらしい。
 そのまま結城がグズグズ泣き続けていると、驚いたことに、師範が家にやってきた。
 泣き崩れている結城の前に立つなり、師範は一喝した。
「馬鹿者! 貴様それでも武道家か!」
 隣近所のすべてに聞こえるような大きな師範の怒鳴り声だった。結城は師範の余りの勢いに、泣くのも止めて反射的に不動立ちになった。
 泣き顔をしゃくり上げながら、どうにか頑張って師範の顔を見つめる。
「お前が悲しく思う気持ちは、良くわかる。だが、君たち兄弟を残して死ななければならない、お母さんの気持ちを、考えたことがあるか」
 師範は、一言一言じっくり噛みしめるように、結城に語ってくれた。
「一番に悲しい思いをしているのは、お母さんなんだ。君は、今まで稽古をした“不動心”で、最後まで強い姿を貫かなければいけない」
 泣き声混じりで結城は「押忍!」と答えた。
(ママと、絶対に強くなると約束した。まだ、あんまり強くないけど、ママの前では強くなければ……)
 結城は決心した。
「お母さんは、どこにいても、君のことを見守っている。君との約束を忘れたりしない。ゆうきも、お母さんとの約束を守るんだ」
 師範は、しゃがみ込むと、結城と目線を同じくして静かに語った。
「押忍」「押忍」「押忍」
 結城は、世界一悲しい押忍を繰り返した。
 師範に説得された結城は、病院に行く覚悟を決めた。それが母との最後の別れになることを、痛いほどに感じながら。
 結城は病院に向かう車中、母が言っていた多くの言葉を想い出していた。
 中でも繰り返し言っていたのは「負けたからといって、終わりじゃない。でも、辞めたら終わりだよ」だった。
(ママは、最後まで病気との闘いを止めなかった)
 たとえ病気に負けたとしても、母は最後まで闘ったのだ。
 病室に入る前、結城は道場に入るように胸の前で十字を切った。病室のベッドで横になっている母は、薬が効いているせいか、穏やかに眠っていた。
 父と結城、姉の寛子が到着すると、医師は真智子を覚醒させた。
 真智子は結城の存在に気づくと、酸素マスクを自分で外して結城を手招きした。
「ゆうちゃん……」
「なあに、ママ」
「強くなったよね……」
 結城は泣くのを堪えて、はっきり答えた。
「ママ、ボク強くなったよ。もう、誰にも負けないよ」
「ゆうちゃん……」
 結城は母親の顔が涙で霞んで見えなくなった。
「生まれてきてくれて……ありがとうね……」
 最後は結城に微笑んで、真智子は眠るように瞑目した。
 病室に父と祖母、そしてお姉ちゃんの泣き声が、溢れかえった。
 結城は涙を流しながらも不動立ちのまま、いつまでも母の顔を見つめていた。
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 昨日は一晩中、泣いていた。あの優しく大好きなママがいなくなってしまったと思うと涙が溢れ出て止まらない。
 泣き疲れて寝てしまうと、夜中に眼が覚めて「これは夢だったんじゃないか?」と期待をする。
 でも、家に飾られた遺影を見て「現実なんだ」と思ってまた涙が出た。その、繰り返しだった。
 いくら泣いても、ママはもう帰ってこない。思えば思うほど考えれば考えるほど悲しくなる。
 強くなると、あれほど約束したのに、赤ん坊のように泣いた。どんなに泣いても、もう慰めてくれる人がいないことが悲しかった。
 新品の空帯を着けた姿を見てもらえなかったのが、悔しかった。
 お通夜が、池家の自宅で営まれ、多くの友人や親戚が、若いお母さんの死を悼み悲しんだ。
 空手道場からも代表の父兄や道場生が参列した。結城は会葬者に挨拶をするため、お父さんやお姉ちゃんと一緒にに並んで座っていた。
 空手の師範が会葬者の最後尾に並んでいるのが見えた。結城は立ち上がり、胸の前で十字を切った。
 結城は「押忍」という言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした。
 師範は香炉の前まで来て母の遺影をしばらく見た後、焼香をした。手を合わせ、何事か静かに呟いた。
 もう一度、遺影に頭を下げた後、結城を振り向いて、無言で十字を切った。
 参列者の後に続き、師範が帰ろうとしたので、結城は玄関に走って駆け付けた。
 師範は振り返り、結城の頭を撫でて、話しかけてくれた。
「お母さんは君が強くなることを、誰よりも一番に願っていたんだぞ」
 結城は、また泣きそうになった。でも、どうにか堪えて「押忍」と答えた。
「お母さんは君のことを、ずっと見守っていると言っていたぞ」
「押忍」
「君が黒帯になることを楽しみにしていた」
「押忍」
 いつもは怖い師範の眼にも、涙が溜まっていた。
「頑張れよ」
 改めて振り向き、帰っていこうとする師範の背中に向かって、思い切って結城は聞いた。
「師範、どうして……ボクの……お母さん……だったんですか……」
 師範が振り返り、驚いたような顔をした。
「どうして、ボクのお母さんが……死ななければ……ならなかったんですか…」
 最後のほうは耐えきれず、泣き声が混ざっていた。師範はしゃがみ込み、結城と同じ目線になって肩を両手で掴み、語りかけた。
「わからない。どうして結城のお母さんが死ななければならなかったのか……俺にはわからない……ごめんよ、結城。わからないや…」
 下を向く結城を見て、切々と続けた。
「だけどな、結城。俺は思うんだ……『神様は、乗り越えられる人にしか試練を与えない』とな。結城は、この悲しみを乗り越えて強くなれると俺は信じている」
 結城は、悲しみは消えないけれど、何となく師範が言っていることが分かるような気がした。
 結城は、もう一度だけ「押忍」と涙声で十字を切った。
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 それから、母がいなくなって以降の空手の送迎は、おばあちゃんがしてくれた。
 お母さんが迎えに来てくれている友達を見ると少しだけ悲しくなったけど、道場の後ろの椅子に母は、いつも座って見ていてくれると信じて頑張った。
 五年の時が過ぎ去った。
 審査の時は父が、必ず応援に来てくれた。小さな写真入れに母の写真を入れて。
 黄色帯になり、空手の大会で初めて優勝した。おばあちゃんが大きな母の写真を抱えて応援してくれた。
 緑帯になったとき、世界選手権大会の代表になって、母の写真と一緒にハワイに行けた。
 ありふれた日々の中で、母の愛情と、かけがえのない温もりを、結城は感じた。
 母に会いたくなると、一冊のアルバムを開いた。
 生まれたときの母の表情。少しずつ大きくなる結城を見る母の眼差し。五歳の七五三で着物を着ている母の姿。小学校入学式の母の笑顔。
 最後のページには、自分の名前が入った黒帯の写真があった。
 茶帯になったときに、師範から聞かされた。
「お母さんは生前、君の黒帯を注文していたんだ。あと、もう一歩だな、結城!」
 お母さんが、あれほど見たがっていた黒帯に、六年生の時になった。昇段審査に受かり、母が五年前に買ってくれた黒帯を巻いた。
 その日のうちに自転車に乗って、母の墓に報告に行った。
 母のお墓は隣町にあった。お花に囲まれた母の墓は、父が朝方に来て「今日、結城が黒帯になるよ」と報告をしに来てくれていたために綺麗に磨かれていた。
 空手着は着ていなかったけど、お墓の前で黒帯を巻いた。
 結城は母と共に同じ風に吹かれていると感じた。母に見守られながら同じ時を生きていたと思った。
 五年の時を越えて、母の愛は限りない強さであった事実を知った。
 
                    完

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