魂の設計

 特別編  テーマ「黒帯は何の為に…」

        1
 俺が空手を始めたのは、小学校二年生の時だった。
 父は柔道の大家で、大学の監督まで務めており、母は若い頃からバレーボールの選手として鍛え、両親ともアスリートの家に生まれた。
 俺は物心がつくと、運動を行うのが当たり前の生活を過ごしていた。もともと、体格的にも恵まれており、運動神経がいい俺は、毎日の稽古が楽しくて堪らなかった。
 初めて出場した江戸川少年空手道選手権大会に優勝すると、各地の地方大会を総なめにした。五年生の時には、念願の全国少年空手道選手権大会で優勝を勝ち取った。
 中学に入学してからも連勝街道を突き進み、高校は空手の名門と言われるM高校に推薦で入学した。
 中学生の頃から全国区の名前であった俺は、みんなの期待を受けながらインターハイを目指して、日夜、稽古に励んでいた。
 空手部の顧問である荻原先生は「空手部の期待」を俺一人に込めて激励をしてくれた。
「重田、秋のインターハイは何と言っても、お前が優勝候補だ。空手の天才少年の名に恥じぬよう悔いのない稽古を励めよ」
「押忍、先生のご期待に応えられるよう前略で頑張ります、押忍!」
 先生は満足そうに頷いた。
 俺は思っていた。
(所詮、顧問の先生なんか、空手もできない飾りみたいなものだ。せいぜい、俺の名前を利用して、自分の点数を稼いでくれ)
 俺は顔では先生に純情のような振りをしていたが、心の中では(所詮、戦いは一人でするのだ。誰も頼れないし、自分しか信用できない)と考えていた。
 毎日毎日、部活と授業、それに道場での稽古に明け暮れていた。それでも好きなことを見つけられた喜びで、自分の人生は決して悪くないと満足をしていた。
 インターハイで優勝し、全日本チャンピオン、最終的に世界チャンピオンになるのが、子供の時からの夢だった。
 俺は恵まれた環境の中で日夜、全力で頑張っていた。そう、あの呪われたあの日までは……
        2
 その日は、久しぶりに空手稽古が休みの日曜日だった。
 初めて家に生まれてきた妹の由希子は、まだ三歳だった。俺は男兄弟三人の長男で、由希子は両親にとって待望の娘であった。
 十六歳の俺とは十二歳の年齢の差があり、初の妹ということで可愛らしく、いつも俺が遊び相手であった。
 俺の顔を見ると満面の笑みを浮かべて走り駆けてくる。
「にいちゃん、あそぼ」
 やっと満足に走れるようになり、カタコト言葉で話しかけてくる由希子が、何物にも代え難いほど可愛かった。
 父と母が定職を持っており、日曜祭日も仕事が多く、妹の遊び相手は主に長男の俺であった。
 由希子もお兄ちゃんが大好きで、どこに行っても「にいちゃん、にいちゃん」と俺の後を従いてきた。
 朝から良く晴れた真夏の休日、俺は妹を連れて、江東区の錦糸公園へ散歩に出かけた。
 日曜日の昼下がり、公園は犬を散歩させている人やカップルで賑わっていた。
 犬を見つけると由希子は「ワンワン、ワンワン」と“紅葉の葉っぱ”みたいな手で犬を、手招きした。
 犬が喜んで近づいてくると、怖くなってしまったのか、俺の後ろに隠れて様子を窺う、といった調子。
 そんな妹がとても愛おしく(何があってもこいつのことは俺が守る)と心に誓った。
 公園の歩道には、テキ屋の露天商が屋台を並べており、「マグマ大使」や「レインボーマン」のお面が並べられていた。
 綿菓子のテントの前で、由希子が立ち止まる。頭に鉢巻きをした初老の男が割り箸に綿菓子を括り付けながら次々をビニール袋に入れていく。
 由希子は珍しそうに綿菓子を指さし「おそらの、くも」と言った。
「くも、あぁ雲の事か……」
 俺は由希子が白い綿菓子を雲だと思っていると知った。
「ゆきちゃん、これは雲に似たお菓子だよ。わたがしって言うの、食べてみるかい?」と聞いてみた。
「ゆきちゃん、わたがし、たべる」と俺を見上げて由希子が答えた。
 俺は由希子に綿菓子を一つ買ってやり、それを千切って由希子の口に入れてあげた。最初は難しい顔をしたが、口の中に広がる甘い味にまた、由希子が微笑んだ。
 俺はなんだか無性に嬉しくなり、できたばかりの綿菓子を千切っては由希子に食べさせた。
 口の周りをベトベトにさせながらも、由希子は嬉しそうに綿菓子を食べていた。
 まさか、これが由希子の食べる最後のお菓子になろうとは、この時、想像もしていなかった。
        3
 帰り道、由希子が「動物園に行きたい」と言い出した。
「ゆきちゃん、もうすぐ夕方だから、また今度にしようよ」
 俺は努めて優しく、由希子を説得した。
「嫌だ、嫌だ、動物園に行きたい! お兄ちゃん、連れてって」
 由希子は足をバタバタさせてワガママを言った。
「しょうがないなぁ、今から上野に行っても、締まっちゃうよ」
 何かいい方法がないか考えてみた。
「そうだ、ゆきちゃん、駅ビルの上に、ペットショップがあるよ。そこに行けばたぶん、わんちゃんやニャーニャ、それにウサギさんやハムスターもいるよ、そこに行こうか?」
「ゆきちゃん、そこいく」
 俺は由希子の手を取り歩いて駅ビルに向かった。
 ペットショップには、生まれたばかりの子犬や小動物が沢山いて、思いの他、楽しめた。
 特に由希子がお気に入りだったのは、ハムスターの子供だ。売店のお姉さんに赤ちゃんハムスターを手の上に乗せてもらい、ニコニコ喜んでいた。
 小さな茶色のハムスターを抱いて、由希子が聞いてきた。
「ゆきちゃん、この子、欲しい! お兄ちゃん、これ買っていいでしょう?」
「ママやパパに飼って良いか、聞かなければダメだよ、ゆきちゃん」
 由希子はハムスターの頭を撫でている。
「おうちに帰って、ママとパパに聞いてから、また来よう」
 由希子は残念そうにハムスターをゲージに中に返した。小動物たちに「バイバイ」をして、俺と由希子は売店を後にした。

 駅ビルは国鉄総武線と繋がっているので、電車で帰るなら、そのまま改札をくぐればいい。
 しかし、江戸川区にある自宅は、総武線の新小岩駅からだと、またバスに乗らなければならないので、俺は少し考えたが、バスで帰ることを決めた。
 この選択が、生涯の悔いを残すことになった。
 錦糸町駅前には大きなバスターミナルがある。江戸川行きバス乗り場は、国道七号線の京葉道路に沿って設置されている。
 夕方の渋滞時とあって、かなり交通量は激しかった。
 一之江経由の江戸川車庫行きのバスは、行ったばかりなのか、誰も人が並んでいなくて、俺は由希子の手を引き、停留所の先頭に立った。
 バスが来る方向を見たが、まだ来そうにない。俺は由希子と停留所に設置されている椅子に腰掛けようと思った。
 でも俺は、立つことに慣れているので、結局、立ったままバスを待った。
 四~五分ほども経っただろうか。ふと気になって下を見ると、左足の靴紐が解けていた。
 一瞬、迷ったが、俺は由希子から手を離し、靴紐を素早く直した。その、一瞬だった。
 何かを見つけた由希子が、急に道路に飛び出した。俺は顔を上げた瞬間「しまった!」と感じた。
 その時、目の前を大型トラックが、かなりの勢いで俺の前を通り過ぎた。
「ゆ、ゆきこー」
 俺は声にならない叫びを発していた。まるでスローモーションのように、大きな車輪に飲み込まれていく由希子の姿が、はっきりと眼に飛び込んできた。
 まるで悪魔に引き込まれるように、由希子は黒い塊のようなタイヤに踏みつぶされた。一舜にして由希子は肉の破片となり、飛び散ってしまった。
 大型トラックが軋むような音を立てて急停車をする。
 俺は悲鳴にも似た声をあげながら、由希子の肉の破片を集めた。原形を留めていたのは、手首と足首だけだった。
 血だらけの肉の破片は、ほんの今までそこに立っていた妹の物とは、とうてい思えず、生暖かい塊だった。
 俺は半狂乱になり、妹の肉片を元通りにしようと腕の中で繋ぎ合わせた。
 僅かに残っていた髪の毛は、頭部の物だろうか。それを見て、俺は妹が既にこの世の者では亡くなってしまった事実に気づき、狂ったように泣き叫んだ。
        5
 気がつくと俺は本城警察署の薄暗い留置所の中にいた。興奮しすぎて自分の取った行動を、良く憶えていない。
 独房の中は冷蔵庫のように冷たかった。糠味噌が饐えたような、変な臭いがした。
 冷静になって考えてみると、あの後、俺は由希子が死んだことを認識し、半狂乱になってトラックの運転手を運転席から引きずり下ろしていた。
 血だらけの俺の形相は、たぶん鬼のようであったろう。初老の運転手は恐怖におののいていた。
 俺は「殺してやる」と思い、運転手に馬乗りになり、顔面を叩き続けた。駆け付けた警察官に制止されなければ、きっと殴り殺していたに違いない。
 寒い独房の中で血だらけの拳を見ながら、俺は妹の由希子を思い出していた。
「俺が、電車で帰れば……」
「散歩なんかに連れてこなければ……」
「駅ビルなんかに行かなければ……」
「あの時、靴紐なんかに気を取られなければ……」
 悔いても悔いても、とうてい悔やみきれない。今日の起きた出来事の全てが、途轍もなく重い後悔となって、俺の心にのし掛かってきた。
 可愛かった妹は、もういない。つい先刻まで「おにいちゃん、おにいちゃん」と慕っていた由希子は、もうこの世に存在しない。
 その事実を思うと、涙が果てしなく流れてきた。
(涙って、こんなにたくさん出るのか)
 足下で水たまりになっている自分の涙を見て、そう思った。
 独房の鍵が開けられた。
「重田、出ろ」
 看守の一人が表から叫んでいる。でも、俺は異様に「この場に留まりたい」気持ちに駆られた。
 独房から出ると、父親が悲しい顔をして立っていた。俺は父を無視して、横を通り過ぎようとした。
 父と顔を合わせたくなかった、できればこのまま、どこか知らないところにでも消えてしまいたい気分だった。
「事故だったんだ……」
 俺が通り過ぎる瞬間、父が言った。下を向き、ピータイルを見つめてる父の顔色は青白く、蝋人形のようだった。
「もう、あきらめろ……母さんだって悲しんでる……お前までおかしくなって、どうするんだ……」
 父は自分に言い聞かせるように語り出した。
「お前のせいじゃない……運が悪かったんだ……」
 俺はまた、涙で目の前が見えなくなった。父親の足下にひざまずき、泣きながら許しを請うた。
「申し訳ありません……俺のせいです……俺が由希子を殺したんです……」
 大声で泣きながら父に謝った。その姿を周りにいた大勢の警察官は、ただ呆然と見守っていた。
        6
 警察署から帰るタクシーの中で、俺は母が由希子の訃報を聞いて倒れてしまったことを聞いた。
 今は、自宅で寝ているという。
「おまえが運転手を殴って収容されていると聞いて、心配していたぞ」
 俺は再び、妹が目の前で死んだショックを否応なしに思い出し、口も聞けなかった。
「運転手の人もひどく殴られていたらしいが、お前のことは訴えないそうだ」
 車の窓から外を見ながら、父が言った。
「目の前で妹が死んでショックだろうが、しっかりしろ」
 タクシーが錦糸町の駅前を通る。
 妹が轢かれた場所は現場検証も終わり、まるで何事も無かったかのように、バスが停車していた。
 つい数時間まで由希子と楽しく遊んでいたのに…何故、こんなことになってしまったんだ……。
 俺はふと(由希子の遺体は、どうなったんだ?)という疑問に取り憑かれた。
 隣で窓を見つめている父に聞いてみた。
「由希子は、どこにいるの」
「遺体処理の人が、肉片を集めて検視に掛けている」
 俺は、父の(肉片)という言葉に気分が悪くなり、タクシーの中で吐きそうになった。でも、どうにか寸前で懸命に堪えた。
 大好きだった妹が、もうこの世のどこにも存在しない。この事実を、まだ俺は信じたくなかった。
 由希子がいなくなって数時間しか経っていないのに、この三年間の出来事が、いろいろと頭に浮かんでは泡のように消えた。
 一緒に遊んだ少ない時間が、走馬燈のように次から次に思い出される。その、すべての映像が、俺を心の底から苦しめた。
 どんなに後悔しても後悔しきれない。どんなに悔やんでみても、悔やみきれない。俺は生涯に亘って決して消えることのない心の傷を、深く深く負ったことを知った。
 自宅に帰ると、異常によそよそしい弟たちが待っていた。誰も妹のことを聞こうとしない。
 しかし、深い悲しみを堪え忍んでいることは、兄弟たちの顔で、はっきり分かった。
 俺は二階の自分の部屋に閉じこもると、頭から毛布を被った。記憶を消そうと、必死に頑張ってみた。
 でも、忘れようとすればするほど、逆に由希子のことが思い出されてしまう。結局、一晩中ずーっと悲鳴を上げ、おいおい泣き明かした。

 次の日、朝から騒がしい人の気配で眼を覚ました。
 昨日のことが夢であればと、何度も寝床で思ったが、葬儀のための大勢の人の出入りが、現実を証明していた。
 一階に下りると、父と母が意外にしっかりした受け答えで、葬儀屋と葬式の打ち合わせをしていた。
「こちら様の場合、ご遺体が特殊な状態ですので、なるべく祭壇を高くして、ご遺体が見えないようにしたほうが宜しいかと思います」
 葬儀屋の従業員だろうか、地味な喪服に白い手袋を付けて説明をしている。眼が吊り上がり、キツネみたいな男だった。
「娘様の最後のお見送りですので、できる限りのことをされたほうが宜しいかと……」
 人の不幸に付け込んで商売をする畜生野郎め! 俺は家から引きずり出してやろうかと思った。でも、母親が眼で俺を制した。
 俺は面白くもなく家を飛び出し、近所をぶらついた。
 土手、公園、駄菓子や公民館。どこに行っても、妹のことを思い出す。すべて由希子と遊んだ場所だった。
 公園のベンチに座り、茫然と過ごした。
 昼近くなり、学校に欠席を伝えていないことに気づいた。そこで公園の入口付近に設置されている公衆電話から、学校に電話をかけた。
 応接担当の保健の先生が出た。
「一年二組の重田です、空手部の顧問をしている荻原先生に繋いでください」
「重田くん! 大変だったわね! 大丈夫? 今、何をしているの?」
 保健の先生の金属質なキーキー声が、えらく俺の耳に障った。
「荻原先生、お願いします」
「重田くん、気をしっかり持ってね! いろいろあるけど、頑張るのよ!」
(うるせいなぁ! とっとと出せ、このくそばばぁ)と俺は思った。それでも辛うじて言葉を飲み込んだ。
 程なくして顧問の先生が出た。俺は、数時間も待たされた気分だった。
「重田、大丈夫か? 今、どこにおるんだ!」
 焦って怒鳴り声になっている顧問の声も煩わしかった。
「しばらく学校、休みます」
 俺は一言だけ言うと受話器を置いた。置く瞬間、顧問の叫ぶような声が聞こえた。
 だが、構わず受話器を叩きつける。なぜか、気持ちが苛ついて手が震えた。
        8
 お通夜では、いろんな心ない人たちから、言葉だけの上っ面の激励を聞いた。
「事故だから仕方なかった」
「君のせいじゃない」
「運が悪かったんだよ」
「早く、忘れたほうが良い」
「妹さんも君のこと怨んではいない」
 通夜に出た連中は、言わなくていいことを全部、好き勝手に吐き散らかして言った。
 俺はその都度(てめえたちに、俺の気持ちが判ってたまるか!)という苛立たしい感情に支配された。
 中には、こちらの気持ちなどお構いなしに、とくとくと宗教の話をする無神経なバカ親父までいた。
 さすがに頭に来て睨み付けると、いそいそと帰って行った。
 俺は、ともかく放っておいて欲しかった。
 極めつけは、顧問の先生だった。保健のばばぁを連れてやってきて、一時間以上ぐだぐだ説教を垂れやがった。
 人目があったので、必死に黙って聞いていたが、二人揃えてブン殴ってやりたい気分だった。
 由希子は、小さな桐の箱に入って帰ってきた。
 顔はおろか、胴体まで引き裂かれてしまった由希子の身体は、手首と足首しか残っていない。
 ほとんどの人たちがその事実を知っていたので、さすがに遺体を見るという奴はいなかった。だが、興味深そうに祭壇を覘いていた。
 そういう奴に限って、祭壇に手を合わせながら俺の顔色を伺っているような気がして、居たたまれない気に何回もなった。
 人の親切という名の暴力を一身に浴びたような、惨めなお通夜だった。
 翌日、通夜と同じように自宅で本葬が営まれた。
 昨日の通夜は親戚関係や母や父の友人達が来ていたので、それなりに人が集まったが、月曜日という事もあって葬儀は閑散としていた。
 意地の悪そうな僧侶が演歌みたいな経を上げ、振り返り様、父と母に「百歳まで生きても寿命、三歳まで生きても寿命」と訳の分からない説法をした。
 俺は面白くもなく坊主を睨み付けた。
 本葬が終わり霊柩車が由希子の小さな棺桶を乗せて瑞江火葬場に向かった。
 祭壇から父と俺、弟たちの四人で由希子のお棺を運んだとき、余りの軽さに本当に由希子が入っているのかと思った。
(この中に入っているのは猫か子犬の死骸なんじゃないのか)と思いたかった。
 道中、母は悲しみをこらえて下を向いていた。
 火葬場に入り由希子の棺桶が運ばれていくと「まだ、三歳だったのにね」という母親の言葉が、かすかに聞こえた。
 顔は青白く表情が読めない。
「もうすぐ七五三だったのに」と自分に言うように話すと目頭を押さえた。
 俺は改めて由希子の人生を奪ってしまったことを心から悔やんだ。
 火葬場の重油の臭いがしてきて気分が悪くなる。
 トイレに駆け込み腹にある物を涙と一緒に吐きだした。
 そのままトイレで大声を上げて泣きながら(俺が轢かれて死ねばよかったんだ)と思い死んでしまいたい気分になった。
        9
 由希子が死んで一週間が経った。
 日にちが経てば、少しは悲しみがなくなると思っていた。悲しみは日々、薄まっていったが、後悔は逆に募っていった。
 俺は妹のことを忘れようとしたが、無理であった。
 何も手につかなかった。何もする気になれなかった。由希子の死を受け入れられず現実から眼を逸らしたかった。
 毎日、ぶらぶらと新宿などの盛り場をふらつきながら、死んでしまいたいような気分に襲われていた。
(人間という物は、なんて儚い生き物なんだ)
 刹那的になり、投げやりになった。
(数日前まで元気に遊んでいた妹が一瞬にして肉の破片と化した)
 俺はいったい、今まで何のために、厳しい稽古に耐えてきたんだろう。今までの努力が、すべて無駄なものに思えてきた。
(結局、いくら鍛えようが死ぬときは儚く死んでいく)
 夜の歌舞伎町を歩きながら、自分を無性に傷つけたくなった。
 すると、前方から柄の悪い男が三人、肩で風を切って歩いてきた。俺の横を威嚇しながら歩いている。
 肩と肩が、すれ違いに擦った。
「てめえ、何、眼(ガン)たれてんじゃい!」
 品の悪い紫色の背広を着て頭に剃りを入れた、ちんぴらが叫んだ。その瞬間、俺の回し蹴りが、そいつの顎に炸裂した。
 鼻と口から勢いよく血を吹き出し、仰々しく後方へ倒れ込む。
 すかさず、仲間の一人がポケットから、アーミーナイフを抜き出した。
 倒れた男同様、安っぽいスーツを着ているが、まだ未成年だろう、顔が少し動揺している。
 俺は、思わず笑顔になった。
(これで、こいつを半殺しにできる)
「てめえーーー、ぶっ殺すぞーーー」
 ニワトリが大きく羽を広げて「コケコッコー」と叫んでるようだ。俺は構わず、ちかづいた。
「ほら、ここを刺せ、一発でたま取ってみろ」
 俺は威嚇しながらも自分の腹を突き出した。
 ナイフを身体に押しつけて、全身でぶつかってくる。ヤクザが行う、常套手段だ、だが俺には、スローモーションに見えた。
 体捌きで躱すと、そいつの髪の毛を掴んで引き倒し、ぼこぼこに顔面を踏みつける。
 ナイフを離して顔を両手で押さえたそいつの前歯は、一瞬でほとんど折れて、辺りに飛び散った。
 最後の一人が後ろから俺を羽交い締めにしてきた。
 瞬間、後方に抉り込ませた肘が、男の鳩尾に突き刺さった。
「げっーー」と腹をかかえる男の胸ぐらを掴み、前方に背負い投げで叩きつけた。
 腰の骨が激しくコンクリートと衝突して、奇怪な音を立てる。骨が砕けたのだ。
 全治三ヶ月、ヘタすれば下半身不随の大怪我だろう。叩きつけられた男の口からは、内臓に入っていたすべての物がぶち撒けられた。
 悲鳴を上げ続ける三人の重傷者を横目に、俺は早足で退散した。
        10
 歌舞伎町での喧嘩を契機に俺の生活は荒れ始めた。
 学校に行く気になれない、それどころか日課だった空手の稽古をするのも億劫になり毎日ブラブラと遊び歩いた。
 俺は、いつしか「死にたい」と思うようになっていた。妹を事故で殺した責任は全部、自分にある。しかし、世の中には取れる責任と取れない責任があることを知らなければならなかった。
 取れない責任ならば「こんな身体、いっそ無くなってしまえ」と、投げやりな気分で繁華街を徘徊した。
 渋谷のセンター街、不良どものたまり場だ。俺は、生きの良さそうな不良を見つけては、喧嘩をふっかけた。
「てめえ、この野郎! 喧嘩を売ってんのか」
 頭の悪そうなリーゼント野郎が近づいてくる。
 都合の良いことに、こいつらは、集団にならないと喧嘩もできない「族」連中だ、俺は集団で暴れ回っている此奴らが、大嫌いだった。
「餓鬼ども、いきがってんじゃねえよ! 掛かってこい!」
 相手が五人だろうと十人だろうと容赦は、しなかった。鍛え抜かれた俺の拳は、不良どもの顎を砕き、あばらをへし折り、内臓を破裂させた。
 妹が死んだ、あの日以来、俺は闘いのモードが入ると、狂ったように暴れ始める。目の前に立つ相手を、粉々に破壊するまで戦闘モードは止まらない。
 不良を叩きながら、考えていた。
(このまま行けば、確実に人を殺すな……)
 それでも、今まさに始まったばかりの「人体破壊」のゲームは終わらない。
 不良の一人が俺を引き倒そうとタックルを仕掛けてきた。レスリング経験者なのか、距離をつめて一気に俺の腰を掴んだ。
 その刹那、「ぎゃぁーーーー」と、そいつは頭を押さえて悲鳴を上げた。俺の指先には、そいつの「耳」が血を滴らせながら張り付いている。
 タックルの瞬間、俺は奴の耳を引きちぎっていたのだ。握力百キロを超し、百円玉を真っ二つに折り曲げてしまう俺の指なら、人の耳などカステラを千切るみたいなものだ。
 耳を取られたレスラー野郎は、押さえた手から血を吹き出しながら、発狂寸前になっていた。
 ふと、指先を見ると、引きちぎった奴の耳が、焼かれた烏賊のように小さく丸まっている。それが妙に可笑しかった。
「もう、使い物になんねえなぁ」
 俺は丸まった異物を遠くに放り投げた。
「た、助けてーー」「人殺しーーー」
 周りの不良仲間がパニックを起こし、脱兎の如く逃げ始めた。
 俺は、尚も耳を押さえて痛みに耐えている奴に「早く医者に行かないと、出血多量で死ぬぞ」と脅しの言葉を残して、その場を立ち去った。
11
 いつしか俺は、渋谷や新宿で、ちょっとした有名人になっていた。
 一人でヤクザを破壊した少年。渋谷で族のリーダーの耳を引きちぎった男。噂は勝手に一人歩きをし、とうとう名を挙げるために俺をつけ狙う奴まで現れた。
 歌舞伎町で女をからかっていた時のこと。サングラスを掛けて格好をつけた四人の男が、声を掛けてきた。
「おい、兄ちゃん、ちょっと顔を貸してもらおうかい」
 似たような黒服に包まれた、こいつらを俺は、明らかに「堅気ではない」と感じた。
 一人は、長物のような武器を背広の下に隠している。
 俺に声を掛けられて喜んでいた女が、瞬時に真っ蒼に顔色を変えて逃げていく。
「どこに連れて行こうってんだ、ヤクザ者が!」
 俺は逆に、ドスのきいた声で四人組を威嚇した。
「まぁちょっと、事務所で茶でも飲もうぜ」
 一番の年長者らしいヤクザが、笑いながら肩に手を掛けてきた。だが、眼は笑っていない。
 俺は即座に、肩に掛けた手を払った。
「なめてんじゃねえぞ! くそ餓鬼!」
 いきなり切れて、人を鬼の形相で睨み付ける。俺は、いつも通り、戦闘モードに入っていく。
 頭の中に、ゆっくりと血液が運ばれていく感覚。あくまで、ゆっくり。しかし、これが昇り切ると、身体が勝手に動き出す。
 四人が俺を逃がさないように、周囲を取り囲む。
 こいつらはプロだ。喧嘩のプロである以上、俺みたいな少年に負けたら生きていけないだろう。
 そんなことを考える余裕があるほど、スローな動きで殴りかかってきた。
 俺は払うでも避けるでもなく、ひょいと躱しながら、カウンターの正拳を顔面に叩き込んだ、一人終わり。
 殴り合いは不利と見たのか、がたいの良いスーツを着たタコ坊主は、首に組み付いてきた。瞬間、俺の背足が高速で金的に当たる。ぐしゃ、と睾丸が潰れる。
 獣みたいな唸り声を上げて、へたり込む。二人、終わり。
 三人目は、素手では敵わぬと見たのか、腹からドスを取り出した。
 正面から行くのは危険と感じ、身体を反転させる。逃げると思って突っこんできた相手に、回転しながら裏拳をバックハンドで叩き込む。
 テンプルにヒット! 脳震盪を起こし、糸の切れた操り人形のように倒れ込む。三人目、終わり。
 と思った瞬間、殺気が襲った。四人目は、やはり長ドスを呑んでいた。
 頭上から振り下ろされる刃物を、辛うじて躱す。頬から暖かい血が垂れ落ちた。
 どうやら、少し頬を切られた。
 相手は正眼に構えている、剣先が揺れている、人を殺すことに戸惑いを感じている。
「俺は、もう一人を殺した」そう思うだけで精神的に優位に立っているような気がした。
 刃物を頭上に振り上げた。行くしかない。躊躇したら命取りだ。
 左の手刀で刃物を払い、右の拳を全身全霊を込めて、打ち込んだ。
 相手は全く動かなかった。ただ、俺の拳が顎に深々とめり込んでいる。
 動かなかったのは、こちらの拳速が相手の動きを越えていたからだ。でなければ、相手は後方に吹っ飛んだはずだ。
 右手と左手に、同時に痛みが走った。
 見ると、右手には相手の前歯が折れて飛び散り、拳にめり込んでいた。左手は、刃物を受けた衝撃で、人差し指が骨から切断され、僅かに皮一枚で繋がっている。
 顎が砕けて顔の半分が陥没した男は、刃物を取り落とすと、どっと前のめりに倒れた。そのまま、微かに痙攣している。
(殺したか……)
 左手から流れる血を見ながらそう、感じた。
(逃げよう。こいつらが悪いんだ。俺は、正当防衛だ)
 俺は急ぎ、ポケットに入っていた真っ白なハンカチで切断された指をぐるぐる巻きに縛り、その場を離れた。
 興奮のせいか、切れた傷が深いのか、いっかな指の出血は止まらなかった。白いハンカチは、あっと言う間に真っ赤に染まってしまった。
      12
 切断された指を押さえながら、深夜の街一人で急いで歩いていると、激しい吐き気と眩暈が襲ってきた。
 かなりの出血で、貧血になっているようだった。
(このままでは死ぬな……)
 ぼっーとなった頭で考えた。あれほど死にたいと思っていたのに、いざ死が現実に迫ってくると急に怖くなった。
 このまま自分が誰にも見取られずに死んでいく。そう考えると、恐怖は頂点に達した。
 通り掛かったタクシーに飛び乗り「どこでもいいから、病院に行ってくれ」と運転手に伝える。
(人間なんか弱いものだ……)
 薄れゆく意識の中で、そんなことを考えていた。
 雰囲気から見て尋常ではないと判断したのか、運転手は余り目立たない個人病院に連れて行ってくれた。
 それが好意なのか「関わりたくない」故の判断なのかは分からなかった。ただ、車から降りるときに(喝揚げした)五千円を渡して「釣りは要らない」と言うと「お大事に…」と表情もなく囁いた。
 四谷の交差点の路地を入った病院は「鈴木医院」と看板が掛かっていた。でも外見は、民家のような治療院だった。
 見上げると《サンミュージック》の看板が見えた。
 少し前にここで若い女性歌手が飛び降り自殺をした。
 確か、その子も「ゆきこ」じゃなかったかなぁ、岡田ゆきこだったか、などと考えながら、治療院のベルを鳴らす。
 丸々と太った、医師らしき男がドアを開けた。まだ、九月に入ったばかりの暑い季節なのに、その中年の医師はセーターを着ていた。
「診療時間は終わっている」
 俺を見て、ぼそっと話し始めた。
「指を怪我した……出血がひどいから止めてくれ」
 俺は左手を差し出した。俺の傷を見ながら医師は聞いた。
「金はあるのかな…」
「二万ぐらいなら、持っている、足りなければ後から持ってくる」
 俺が言うと、医師は「入れ」と冷たく、ぶっきらぼうに言った。
13
 手術は、二時間ぐらいかかった。医師の女房らしき看護婦が手伝い、指を縫合した。
 まず消毒液で指を洗い、レントゲンを撮って、骨の状態を調べた。
「完全に切断されているな。犬にでも噛まれたのか?」
 表情も変えずに医師が独り言のように言った。
 麻酔を注射し、骨と骨を繋ぐための細い針金を打ち込み、要らない神経を切り取りながら、縫い合わせていく。
 場所柄、こういう手術に慣れているのか、斜めに切断された人差し指は、綺麗に縫い合わされた。
 手術が終わり、医師が手を洗いながら呟いた。
「俺は立場上、こういう傷の治療は、警察に通報しなければならない」
 タオルで手を拭きながら医師は続けた。
「もし、それが不都合なら、何も言わずに早くここを立ち去れ」
 俺はポケットの中から万札を二枚取り出すと、残りの小銭と一緒に、テーブルの上に置いた。
「これで、足りるか…」
 医師は金に目もくれずに話し続けた。
「見たところ、ひとしお、鍛え抜いている身体をしているな。だが、無理を続ければ、いつかは命を落とすぞ」
 暗い目をして、遙か遠くを見つめるかのように、医師は俺を見つめた。
「ありがとうございました。押忍」
 俺は胸の前で十字を切って黙礼をし、病院を後にした。
 さて、麻酔が切れると、日本刀で切られた指よりも、相手の顎を砕いた右手のほうが痛んだ。
 刀を振り下ろした瞬間、俺の拳は間違いなく相手の歯を叩き折り、下顎をグチャグチャに粉砕した。
 相手の歯が右手の甲にめり込んでいた。
 家に帰った後、ドライバーを逆手に持ち、めり込んでいた歯を、どうにかほじくり出した。
(一緒に治療してもらえば良かったな)
 俺は思ったが、もう、遅い。地元の医者に行けば、間違いなく一一〇番通報されて逮捕されるであろう。
 俺は甲にめり込んだ四本の歯を取り出すと、オキシドールで消毒した。手の甲に落とした液体が白く濁って、血と一緒に滴り落ちた。
 俺は悲しくもないのに、なぜか目から涙が出た。あれだけ、暴れておいて自宅で泣いている自分が馬鹿に思えた。
 次の日に新聞で、昨日のヤクザ者が死んでいないか確認した。記事になっていないところを見ると、命だけは助かったようだ。
(あの、粉々になった顎では、一生まともな物は食えないだろうな)
 相手に対する同情は全くなかったが、傷ついた手を見ながら、暴力が自分自身を傷つけることに少し気付いた気がした。
 壊れた手と指は、その後の一ヶ月間は全く動かなかった。
14
 坂道から転げ落ちるとは、俺のような状況を言うのだろう。俺は学校にも行かず、喧嘩三昧の生活を続けた。
 自分が壊れていくことも恐れず、毎日毎日、盛り場で不良を見つけては、殴り倒していた。
 いや、もはや自分は壊れていたのだろうと思う。審判の日は突然、訪れた。
 その日、俺は朝から機嫌が悪かった。
 高校を中退して家でブラブラしている俺を、母親がヒステリックに泣きながら怒鳴りつけた。
「お前はいつから、そんなごろつきになったんだ! 学校も行かず遊び歩いているなら、家を出て行け!」
 娘を亡くした悲しみは、俺への怒りに変わっていた。
 父は俺の顔を見ると、嫌みを言った。
「あの日から、お前はおかしい! どうしたんだ?」
 俺は家にいるのが嫌になり、外に飛び出していった。
 銀座を歩いていると、やる気のないタクシーの運転手が、車の中でだらしなく鼾をかいている。
 俺は運転席のドアを、前蹴りで叩き潰した。
「なにすんだ、この野郎! 会社の車に傷つけやがって!」
 鳩が豆鉄砲の連射でも食らったような感じで飛び起きた運転手が、勢いよくドアを開けて降りてきた。
 後ろ手で車のドアを絞めて睨んでいる運転手の鳩尾に、タクシーのドアが十センチもへこんだ前蹴りを、俺は容赦なく叩き込む。
 ぐえっと口から汚物を吐き出し、へたり込む運転手。
「てめえに恨みはないが、少し車を借りるぞ」
 俺は運転手を掴み、ゴミ袋を投げるように、道の端に放り投げた。
 それから車に乗り込み、考えた。
(さて、どうするんだっけ?)
 取りあえず、キーを回してみた。
 クラウンのタクシーは、さすがに高級車らしく、低いエンジン音を挙げて始動した。
 クラッチを「Dドライブ」に入れて、アクセルを吹かす。ゆっくりと車は動き出した。
(なんか遅いなぁ)
 俺は、サイドブレーキを外していないことに気付いた。
 右手でブレーキのレバーを外すと、少しだけ手の甲に痛みを感じた。それでも車は、スムーズに走り出した。
 俺は、盗んだ車で都内を走り回った。
 車を運転するのは初めてだったが、バイクの免許を持っていたので、大した問題はなかった。
 運転感覚には、すぐに慣れた。バイクよりも快適だった。
 都内をドライブ途中、いきなりブレーキを踏んだら、後続の車が軽く突っこんできた。軽い衝突音をあげて俺の車にぶつかる。
 俺は車を降りると、後ろの車に向かって歩き出した。
 中年の運転手がドアを開けようとした瞬間、蹴りでサイドミラーを削ぎ落とした。
 一度は降り掛けた運転手が泡を食い、もう一度さっと車の中に避難する。
 さらに頭に血が上った俺は、運転席側のウインドウガラスを膝蹴りで叩き割った。強化ガラスが飛び散り、運転手の顔面は血で染まった。
15
 車に戻り、無免許運転のドライブを続けた。
 途中で、首都高速道路の京橋インターの看板が見えてきた。俺は興味本位だけで高速道路に入ってみることにした。
 高速の入口で、料金所の親父が不審な目で俺を見る。
 よくよく考えてみたら十七歳の少年がタクシーを運転しているはずがない。
「四百円だよ……君、タクシードライバー?」
「うるせい! 余計なお世話だ、くそ親父!」
 俺は、金も払わず料金所を突破した。
 さすがに高速道路だけあって、他の車は皆、飛ばしていた。
(もう、死んでも構うものか)
 俺はやけくそになり、アクセルを思いっきり踏み込んだ。
 走ってみると、車というものは意外にぶつからないものだと思った。
 それに、これも考えてみれば、小さい頃から空手の修行を積んで“早く動くもの”を追う動体視力は、人の何倍も発達している。百キロぐらいで走る車など、スローモーションに見えた。
 最初のうちは、おっかなビックリ運転をしていたが、慣れてしまえば、何のことはない。そこで俺は、メーターが振り切れるほど速度を上げた。
 ぐんぐん上がっていく車の速度と一緒に、自分の嫌な記憶まで風の中に消えていくような爽快な気分になれた。
(このスピードでぶつかれば、俺も粉々だろうな)
 そんなことを想いながら、人間なんて儚いものだと考えた。
 気付くと、バックミラーにパトカーが映っている。
 赤灯を回し、サイレンを鳴らしながら俺を追っかけてきているらしい。
(上等じゃねえか! 捕まえられるものなら、捕まえてみろ!)
 俺はパトカー相手に高速道路でカーチェイスを始めた。
「前のタクシー! 止まりなさい!」
 こんな猛スピードで走っているというのに、パトカーのスピーカー?からの呼びかけは、はっきりと聞こえた。
(うるせい、貴様なんかに捕まってたまるか)
 俺は、アクセルを更に踏み込んだ。
 いつの間にやら、追跡してきているパトカーが二台に増えている。一台は俺を追い越して、俺の車を“通せんぼ”するように、前に立ちはだかった。
 俺は、そのパトカーを更に追い越し、今度は前に行けないように道を塞ぐ。
 すると、もう一台のパトカーが俺の車の横に張り付き、スピーカーで怒鳴り始めた。
(こら、お前! 警視庁のパトカーを舐めとんのかー! 止まれー、くそ餓鬼!)
 俺は再びブチ切れた。
(てめえら、俺を誰だと思っているんだ! この犬ども)
 俺は、思いっきり車のサイドボディをパトカーにぶつけた。金属が摩擦される音が、エンジン音に掻き消される。
 俺の乗っているタクシーのサイドミラーが、あっさり弾け飛んだ。危険と感じたのか、パトカーが速度を落とす。
 その隙に俺は、次の出口で高速を降りた。そこは、湾岸道路の浦安インターであった。
16
 俺は少しでも人目の付かない所へ逃げ込もうとして、埋め立て地を目指して車を走らせた。
 人気のない海岸まで車を走らせると、通報を受けた千葉県警のパトカーがサイレンを鳴らして追っかけてきた。
(しつこい奴らだ)
 俺は埋め立てられた海岸方向へ逃げた。
 都合、三台のパトカーが、俺の車を包囲するように追跡する。
 ところが一本道の海岸通りは、土手の行き止まりだった。俺は、諦めて車を降りた。
 目の前には、波のない人工海岸が広がっている。
 パトカーには各車二名づつの警察官が乗っていた。車から降りると六人の警察官が警棒を手に構え、俺を睨み付けながら迫ってきた。
 俺は手を挙げて捕まる覚悟を決めていた。
「この野郎!」
 一番性格の悪そうな、瘠せた警察官が、いきなり俺に向かって、手にした武器で殴りかかってきた。
 俺には、そいつの動きが止まって見えた。上段受けで警棒を弾くと、自然と肘打ちが顔面を捉えた。
 両手で顔を押さえて後ろに倒れ込む警察官を無視し、海の方角へ走り出す。
「止まれー! 待たんか! 動くな!」
 複数の警察官の声が重なる。
 突然、止まった俺を見て警察官の顔が恐怖に怯える。
 一番でかい警察官に、軽く助走を付けて飛び膝蹴りを食らわす。「ガッ」という鈍い音と共に、そいつは脳震盪を起こして崩れ落ちた。
 残り四人。
(ここまで来たら、警察官だろうとヤクザだろうと、関係ねぇ、俺の前に立ちはだかる奴は、全部、ぶっ壊してやる)
 こちらを少年と舐めたのか、不思議と警察官は最後まで拳銃を抜かなかった。
 警官二人が同時に左右から取り押さえに来る。
 俺は自分の射程距離に入るまでギリギリ間合いを詰め、絶好のタイミングで両手の裏拳横打ちを放った。
 高速の裏拳を鼻先に受けた瞬間、二人の警官は動きが止まった。その髪の毛を掴み、顔面と顔面を衝突させる。
 俺の胸の前で二つの顔が激しくぶつかり、一人は目を、もう一人は鼻を押さえながら、悶絶した。
 俺は更に、そいつらの腹を思いっきり踏みつけた。
 眼底骨折と、あばら骨を踏み折られた警官には目もくれず、茫然と立ちすくむ中年の警察官に向かって、奇声を上げながら掴みかかる。
 中年の警察官は、ほとんど抵抗もせず俺の膝蹴りで失神した。
 最後の一人は、慌てて拳銃を抜こうとしている。
「おせえんだよ! この、とうしろう!」
 腰に手を当てたままの警官を、たこ殴りに連打した。そのまま胴体を抱え上げ、海に叩き込む。
(これは、懲役だなぁ)
 俺は暴れながら、自分の行く末を案じ、暗い気持ちになっていった。
        17
 警察官六人を半殺しにした俺は、更にパトカーを盗んで、浦安駅方面へ逃走した。
 無線で駆け付けた警視庁の覆面パトカーに逮捕されたとき、盗んだパトカーは度重ねるカーチェイスで、ボロボロの状態であった。
 四人の刑事が俺に拳銃を向けている。
 俺は、警察をそこまで真剣にさせたことに満足をして縄に掛かった。手錠を嵌められ、暴れないように、胴体を荒縄のような紐で二重三重に巻かれた。
 警察の車に乗り込むと、刑事が尋問を始めた。
「何で、こんな馬鹿なことをしたんだ」
 濃紺の背広を着た丸暴関係の刑事二人は、俺の脇を締め上げながら聞いてきた。でも、俺は「喋るのもかったるい」という態度で無視をした。
 江戸川区の小松川警察署に連行され、入口に入る時、三名の記者が俺を見つけてフラッシュを焚いた。
「なに、撮ってやがんだ、この野郎!」
 掴みかかろうとする俺を、刑事が羽交い締めにした。更にカメラのシャッターが押される。
 翌日の新聞には、大見出しで書かれていた。
「空手の天才少年、車を盗み、警察官に暴行! 暴行を受けた警察官三名、重傷」
 各新聞には、インターハイで優勝が期待されていた優秀な空手選手が、妹の事故死をきっかけに荒れた生活をした上での犯行、と書かれていた。
 俺は警察署の留置所に繋がれ、毎日毎日、延々と八時間にも及ぶ取り調べを受けた。
 そのほとんどの時間が「なぜ、このような犯行に及んだのか?」という一点であった。
 肋骨を砕かれ、顎を強打された警察官は、脳震盪を起こした上で海に叩き込まれており、他の警察官が助けなければ、たぶん死んでいただろうと怒鳴られた。
 罪名が「無免許運転、傷害事件」から「殺人未遂」に切り替わった。
 留置所に会いに来た母親に合わせる顔もなく面会を拒否した。俺の精神状態は「もう、どうにでもなれ」というところだった。
 暗く汚い留置所で「なぜ、このようなことになってしまったのだろう?」と、ひたすら考えた。
 喧嘩に明け暮れ、暴力に生き、最後は留置所だった。
 どれほど人を傷つければいいのだ。俺は、いったい何のために生まれてきたんだ。
 確かに妹の死はショックだった。
 しかし、それが果たして、直接こうして俺が荒れる原因だったのだろうか。
 違う。このように非行に走るきっかけになったのは確かだが、それが原因だとは思えなかった。
 今まで何不自由なく暮らしていたにも関わらず、俺は自分の頭でものを考えていなかった。
 親の期待、周りの目、常に世間を気にして、名誉を求めて生きてきたような気がする。
 俺は、自分を自分らしく生きてこなかったことに気づいた。
        19
 俺は家庭裁判所から東京地検に書類が送検され、小松川警察署から霞ヶ関の警視庁に送致された。
 そこで出た結論は、初等、中等を飛び越えた特別少年院への留置であった。
「これ以上、この青年を世間に放しておいては、いずれ殺人事件に繋がる」という裁判所の判断であった。
 特別少年院、通称「特少」は千葉県の八街にあることから八街少年院と呼ばれていた。事実上、高校を退学処分になり、十六歳の秋に年少送りとなった。
 少年院の中にいる連中は、ほとんど暴力団と言って良かった。集団で獲物を見つけては、リンチや暴行を加えていた。
「おい、新入り! てめえ、先輩に挨拶もねえのかよ!」
 案の定、シカトをかましている俺に、因縁を付けてきた。
「この野郎、金玉に割り箸、つっ込むぞ!」
 頭の悪そうな禿げ頭が俺の襟首を掴もうとした瞬間、奴の金玉を蹴り上げてやった。
 一斉に襲いかかってくる不良ども。そいつらを一瞬で叩きのめすのは、ひたすら暴力団を相手に立ち回りを演じてきた俺にとっては、赤子の手を捻るより簡単だった。
「こら! 貴様ら、何をしている」
 看守の一人が騒ぎを聞きつけて、不良の頭を踏みつけている俺を突き飛ばした。
「こんなことをして、ただで済むと思っているのか」
 看守は同僚たちを呼ぶと、俺を左右から取り押さえて独房に連れて行った。
 部屋から出るとき、じろりと不良どもを睨み付けた。奴らは、明らかに怯え、震えていた。
 頭格の一人が、俺が取り押さえられていることで安心して叫ぶ。
「この野郎! いつか、ぶっ殺す」
 俺は手品のように、するりと看守の手から逃れると駆け寄り、そいつの腹に思いっきり横蹴りを叩き込んだ。
 ブロックなら三枚は粉々にする蹴りを受けて、そいつは口から吐瀉物を吐き出して、呆気なく失神した。
「こら! 重田、止めないか!」
 看守の一人が遠慮なく警棒で俺の頭を叩いた。
 ざっくり額が切れて、鮮血が飛び出す。
 興奮しているせいか、勢いよく飛び散る血を自分で確かめて、まるで他人事のように思った。
(いっそ、こいつらを皆殺しにして死刑にでもなったほうが、楽なんじゃないか?)
 そう考えるほど、俺の精神は荒んでいた。
 手当も受けず、独房の中でシャツを千切って頭の傷を押さえながら、怒りと悲しみに震えた。
(なんで、こんなことになってしまったんだ?)
 独房からは、微かに月の光が射していた。
(俺はいったい、これからどこへ行くのだろう)
 寒く孤独な独房の中で、みんなに期待され注目をされていた僅か数ヶ月前の自分を思い返しては(つくづく人の運命など判らないものだ)と考えていた。
20
 特少での生活は、必ずしも全くひどいことばかりではなかった。
 あの日以来、頭の悪い出来損ない連中は俺を恐れて構わなくなっていたし、相変わらず不良との鍔迫り合いはあったが、それ以外は平穏な日々が過ぎていく。
 汚いトイレと臭い飯さえ我慢すれば、外の世界よりも快適なぐらいだ。
 ある時、刑務所長に呼び出された。
 所長の部屋には、何枚ものドアに掛けられた鍵を看守が外しながら、ようやく到着した。まるで迷路のような作りだと思った。
 部屋に入ると、大きな木製の椅子に偉そうな中年男が座っている。頭は禿げ上がり、丸々と肥えた豚のような男が、所長だった。
「君が重田くんか、良い面構えをしている。まあ、掛けたまえ」
 豚所長がリクライニングの椅子を倒しながら、いかにも偉そうに話しかけてきた。
「君は、かつては、空手の天才少年と呼ばれたらしいじゃないか? なぜ、こんな所に入ってきた?」
(俺だって、好きでこんなくだらねえ所に入ったわけじゃねえ)
 と喉まで出かかったが、寸前で飲み込んだ。
「事情があると思ったんだ。良かったら、話してみてくれんか?」
 所長は俺に、暖かいコーヒーを淹れてくれた。
 俺は、所長の淹れたインスタント・コーヒーを飲みながら、今までの経過を話した。
 妹の事故死。親や親戚の冷たい対応。喧嘩に明け暮れた毎日。
 どれもが決して自慢できる話ではないが、所長は最後まで頷きながら聞いてくれた。
 不思議なもので、心の中にモヤモヤと抱えていたものが、目の前の人間に話すと、なんだか、とてもスッキリした。
「君の話は、良くわかった。辛かっただろうな……だが、犯した罪は、自分がしっかり償わなければならない……君だったら、そんな理屈は、よくよく分かっていることだろうが……」
 所長は俺の眼を見つめながら、真剣な表情で諭すように言った。
「私の息子も空手をやっていたんだ……今はもう、昔の話だけどなぁ」
(やっていた)という箇所が、微妙に引っかかった。でも、あえて聞かなかった。
「自分の才能を無駄にしてはいけない……頑張って、早くここから出て、自分の世界に帰りなさい」
 所長の話は、これだけだった。
 房へ帰るとき、付き添いの看守が、俺に言った。
「所長は、ちょうど君ぐらいの年齢だった息子さんを、交通事故で亡くしたんだ」
 俺は無言で聞いていた。
「暴走族の、危険運転が原因だった」
 他人事ではない。俺も、あと少しで人を殺すところだった。
「命を粗末にする奴は、どんな奴でも最低だ」
 看守は俺が入っている房の鍵を掛けながら呟くように囁いた。
21
 半年、六ヶ月の“刑期”を終えて特別少年院を出所したのは、十二月に十七歳の誕生日を少年院で迎えた翌年の春であった。
 真冬の厳しい季節を冷たい牢獄で過ごしたのは、俺の人生で最も辛く、苦しい体験だった。
 俺は百八十日間、自分の人生を考え続けた。あるときは刹那的になり、あるときは絶望しながら、一日一日が過ぎていった。
 俺は、そもそも何のために生まれて来たのだろうと、真剣に考えてみた。
 恵まれた家庭環境に生まれ、好きなことをやって生きてきたのに、妹の事故死を体験して、自分はこの世で一番不幸な人間だと決めつけていた。
 この世には、もっともっと不幸な思いをしている人がいる。そんな事実も考えずに、自分勝手な生き方をしてきたことを心から後悔した。
 出所の日、瘠せて窶れたお袋が、迎えに来てくれた。
 俺は、何回も面会に来てくれた母親に会わせる顔がなかった。しかし、母は笑顔で俺の出所を喜んでくれていた。
「秀和、早く出られて、良かったね」
 目に涙を溜めて喜んでくれる母の姿が悲しかった。そんな思いをさせた自分が情けなかった。
「親父は?」
 俺は、照れを隠す意味で質問した。
「お父さんは、来ないって……照れくさいのよ」
 少年院の中にいるときも度々、お袋と一緒に面会に来て、それでも中には入らなかったという。
 こんなに心配をしてくれる家族がいるのに、俺はこの両親に死ぬほど恥ずかしい思いをさせてきたのだと、ようやく痛切に気づいた。
 少年院の前からタクシーに乗り、大きな門を通り過ぎるとき、二度とこんな所には来ないぞと固く決心した。
                   22
 自宅に戻った俺は、またしてもダラダラと一日を過ごしていた。
 少年刑務所にいるときには出所したら、今度こそ空手選手に復帰しようと考えてもいた。それなのに、いざ身体が自由になると「今更、なんだ」という気持ちに変わってしまい、「努力」をする気概がなくなっていた。
 壁を見つめながら、考えた。
 所詮、努力なんかしても、人間なんか死ぬときは死ぬし、運が悪ければ豚箱暮らしだ。今さら、空手なんかやってられねえや……
 俺はやはり何もやる気が起こらずただ、惰性で生きていた。
 それは、少年刑務所から出て来て一週間が過ぎた頃だった。
「ごめんくださーい。誰かいませんかー?」
 玄関先で大きな声を出している奴がいた。
「すみませんー、ごめんくださーい」
 俺は、感情的になって言い返した。
「誰もいねえよ! うるせいなぁ、馬鹿!」
「君がいるじゃないですか!」
 しつこい奴だ、俺は少し頭に血が上るのを覚えた。
「お邪魔してもいいですかー? 少し、話がしたいんですが……」
 どうやら雰囲気からして、俺に用事があるらしい。俺は面倒くさかったが、腰を上げて玄関を覘いた。
 そこには影の薄い痩せ細った男が立っていた。相当なド近眼なのだろう、レンズが牛乳瓶の底のような厚さをした眼鏡を掛けていた。
 俺が顔を出すと、ニコニコとこちらを見て微笑んでいる。体操服のようなジャージを着ていた。世界一、似合わないと思った。
「誰だ、お前……?」
 俺は静かだが、ドスのきいた声で訊ねた。すると男は、笑顔を絶やさず元気に答えた。
「今度、新しくあなたの学校に転勤になりました、空手部顧問の富樫と申します」
「君の学校? 俺は、もう高校は辞めたんだ。何の用だ?」
「はい、しかし空手部の監督が、君の才能が惜しいから、せめて監督の道場で復活してほしいと言っていたので、今日こうして訊ねてきました」
 相変わらず、笑顔を崩さない。こいつは、俺を舐めているのか?
「お前、空手をやったことがあるのか」
 俺は牛乳瓶の底に聞いてみた。
「はい! いえっ、顧問にならないかと言われて、最近ちょっとだけ始めました」
 何が楽しいのか、にこにこ笑いながら話すこいつに、むかっ腹が立った。殴ってやろうかと思った。
 でも、保護観察中だし、また堀には戻りたくないという気持ちが、どうにか俺をコントロールした。
「気持ちはありがたいが、今はそんな心境じゃねえんだ。帰れ」
「しかし、実は……君から空手を取ったら何も残らないと、監督が言っていたので――」
 奴が言い終わらないうちに、俺の右拳が勝手に顎を打ち抜いていた。
 かなり手加減したつもりだったが、玄関から軒下まで、風船のように軽々と吹っ飛んでいた。
 顔面を手で覆いながら悲鳴を上げている空手部顧問を見下ろしながら、吐き捨てた。
「二度とここへ来るな! 今度また来たら、その顔、ごっそり半分、消えてなくなるぞ」
 俺は最高に気分が悪くなり、倒れている奴を無視して、玄関を閉めた。
23
 ところが翌日、またしても玄関を叩く音がした。
 おれは、まさかと思ったが、ドアを開けると昨日の男、富樫が立っていた。
「重田くん、元気ですか?」
 富樫は、またしても薄気味悪い笑顔を浮かべながら、元気に話しかけてきた。牛乳瓶の底みたいな眼鏡は、半分ほど欠けて穴が空いていた。
「てめえ、何しに来たんだ! また痛い目に遭いてぇのか!」
 俺は富樫を睨み付け、大声で威嚇した。
「いや、喧嘩をしに来たんじゃないんです。話をしましょう」
「ふざけんな、この野郎! 二度と来るなと言っただろう」
 俺は富樫を睨みながら躙り寄った。
 すぐさま富樫が恐れて、じりじり後ずさる、もはや完全な逃げ腰だ。
「てめえなんかに俺の気持ちが分かってたまるか! 出て行け、この糞野郎!」
 ところが富樫は呆れたことに、冷静に聞き返してきた。
「その気持ちを、ぜひ聞かせてくれませんか?」
 俺の頭に上った血が、再び限界を越えた。目にも止まらぬ高速の前蹴りが、富樫の腹にめり込む。
 口から胃袋の中身を吐き出しながら前のめりに倒れた。
 倒れた富樫の顔面を踏みつけてやろうかと思ったが、さすがにそこまでする気にはなれなかった。
 玄関を閉めて家の中に入る。数分すると富樫は何とか立ち上がり帰ったようだ。そぉっと玄関を開けてみる。
 富樫はいなかったが立っていた場所の辺りに白い紙袋が置かれていた。中を覘くと、まだ暖かい肉まんが湯気を点てている。
 一緒に食べようと思って持ってきたのか……。俺はその真心を偽善と思い紙袋を踏みつぶした。
 ところが翌日、同じ時間に玄関を叩く音がした。外は冷たい雨が降っている。
「まさか……?」
 あれだけ非道い対応をしたのだ。もう二度と富樫が来ることはないと信じていた。なのに玄関を開けると、富樫が合羽を着て、ずぶ濡れで立っていた。
 隣には幼稚園児のような子供が手をしっかり握って、俺を見つめている。子連れならば暴力は振るわないと見たのか、心なしか安心したような顔をしている。
 俺は赤子の寝ている顔でも躊躇なく踏みつける人間だぞ! そんなものが、役に立つと思っているのか?
 俺は富樫を睨み付けながら、話しかけた。
「今日は、何の用だ!」
「少しだけ、話を聞いてくれませんか?」
 富樫は合羽の帽子の中から微笑みを浮かべ頼んできた。合羽の帽子から雨の雫がすごい勢いで垂れている。
 子供は不安そうな顔で、俺を見上げている。濡れ鼠のような親子だった。
「何の話を聞くというんだ!」
「あなたがこれから空手を続ける気があるかないか、という話です」
「そんなこたぁ、てめえに関係ないだろう!」
 俺がでかい声を出すと、子供が怯えて富樫の足にしがみついた。やりにくい。俺も数ヶ月前までは、優しいお兄ちゃんだったのだ。
「ともかく、話をする気も空手をやる気もないから、帰ってください」
 俺は、ぴしゃりと言い切った。すると、間を置くことなく、冷静に富樫が聞いてきた。
「それは、本気なんですか? 本当に空手を辞めてしまうんですか?」
 問い詰められて一瞬ふと戸惑った。俺は本当に空手を辞められるんだろうか?
 少年時代のほとんどを費やしてきた空手、強くなりたい一心で夢中に稽古に通った日々が思い出された。
24
 雨に打たれていた子供が、くしゃみをした。寒いのだろう。
 俺は中に入るよう、目で合図をした。玄関先に入る親子が合羽の帽子を取った。
 俺は一瞬、目を疑った。子供の頭には毛が一本も生えておらず、それどころか、綺麗に剃ったようなツルツルの禿げ頭だった。
「驚かれたですか……この子は六歳なんですけど、小児ガンを患って、治療を続けているんです」
 子供の禿げ頭を撫でながら、富樫が事情を説明した。
「こんな雨に当たって良いのかよ」
 俺は思わず、聞き返していた。
「たまには表に出るのも気分転換になると思いまして……まぁ、雨の日でもないと、頭が目立っちゃて、この子が可哀想なんですよ」
 また子供の頭を撫でながら言った。
「ほら、お兄ちゃんに挨拶しなさい、このお兄ちゃんは空手の天才少年なんだぞ」
 小さな禿げ頭がちょこんと頭を下げた。
 肌の色が透きとおるように白い、対照的に唇が赤く黒ずんでいる。
「ともかく、風邪なんか曳かせたら、やっかいだろう、中に入ってくれ」
 俺は嫌々ながら、富樫を中に入れた。禿げ頭の子供が後に続く。
 玄関を上がると、子供は靴を揃えてきちんと並べた。できた子供だと思った。
 俺は一瞬ちらっと考えた。
 この世に、神も仏もいるものか。もしそんな者がいるんだったら、何でうちの妹が粉々になって死んだり、こんなできた子供が癌に罹るんだ?
 俺は部屋に入り、きちんと正座をしている子供の禿げ頭を見ながら、そんなことを考えていた。
「意外に綺麗に片づけているんですねぇ」
 部屋を見渡した富樫が、感心したように話しかけてきた。俺はそれには答えず、母親を怒鳴った。
「おい、客が来ているから、茶でも淹れてくれ!」
「重田くん、お構いなく……すぐに帰りますから」
 子供が、俺の部屋に並んでいるトロフィーやメダルを興味深そうに見つめている。
「これ全部、お兄ちゃんが取ったの?」
 俺の代わりに富樫が答える。
「そうだよ。このお兄ちゃんは、組手では,負け知らずのチャンピオンなんだよ」
 子供がキラキラ目を輝かした。
「すげぇーーーおいらもチャンピオンになって、こんなトロフィー取りたいなぁ! ねえ、お兄ちゃん、どうしたら組手、強くなれるの?」
 俺は何と答えていいのか分からなかった。
「この子は私より先に、空手を始めていたんです。三歳から町の道場に通っていて、これでも、緑帯なんです」
 子供が後に続く。
「でもおいら、組手で勝ったことないんだよなぁ。ねぇ、お兄ちゃん、おいらに組手教えてください」
 俺は思わず答えてしまった。
「病気を治して、元気になったら、いくらでも教えてやるよ」
 禿げ頭の顔が弾けるような笑顔になった。泣きたくなるような笑顔だった。
「やったー! おいら絶対、病気を治すよ! そして、空手のチャンピオンになるんだ」
 子供が喜んで手を突き上げると同時に、母親が茶を持って入ってきた。
「元気なお子さんですね、今日はわざわざ息子を訪ねていただき、ありがとうございました」
 母親は、退学した学校の担任から聞いていたのだろうか? どうやら、この来客があることを知っていたようだった。
「M高校、空手部マネージャーの富樫です、お邪魔しております」
 それから母親と取り留めない世間話をしてから富樫は帰っていった。
 帰り際、また子供が俺を見上げながら、すがるような目で話しかけてきた。
「お兄ちゃん、必ず組手、教えてね」
 俺はごまかすように子供の頭を撫でて「さよなら」と返した。小さな子供の頭はツルツルで、ジャガイモのような形をしていた。
                   25
 それから毎日、欠かさず富樫は子供を連れてきた。
 不思議なことに、子供と一緒に来られると、どうしても追い返すことができない。
「おいら、今日、久しぶりに稽古に参加したよ」
 俺の顔を見ると、開口一番嬉しそうに話し始めた。
 空手ができることの喜びを全身に溢れさせていた。
「組手また、負けちゃたんだよね、どうしたら強くなれるのかなぁ」
 こちらが何も言っていないのにどんどん話を続ける。少し顔が青ざめているような気がした。
「ボクは何の技が得意なんだ?」
 思わず聞いてしまった。
「前蹴り。蹴り技は何でも得意だけど、特に前蹴りが好きなんだ」
 俺は軽く構えて子供に言った。
「蹴ってみな」
 昔、ブルースリーの映画に、こんなシーンあったなと思った。
「思いっきり蹴ってみな」
 子供が気合いを入れて前蹴りを蹴る。俺は蹴りを躱すと足首を引っかけて倒した。
 何をされたのか分からず、子供がキョトンとしていた。
「今度は、回し蹴りを蹴ってみな」
 子供は恐る恐る回し蹴りを蹴る。やはり同じようにガードされ、回し受けでひっくり返される。
 驚いた子供に説明する。
「いいか? 技というのは、単発では当たらないんだ。ましてや、来る技が分かっていたら、絶対に入らない、だから得意技を出す前の{作り}が大事なんだ」
 立ち上がる子供に構えさせる。
「俺も回し蹴りを蹴るから、受けてみろ」
 子供の顔に緊張の色が走る。
 唐突に正拳突きを顔の前に出した。
 慌てて上段受けをした瞬間、俺の回し蹴りが子供の顔面すれすれの所で止まっていた。
 泡を食って仰け反る子供に対して、俺は諭すように話した。
「俺が組手で勝ってこられたのは、人よりもずる賢く勝つ方法を稽古してきたからだ。試合は試し合いであって、殺し合いではない。相手の動きを研究し、自分がいかにリードできるかを競い合うゲームだ。ゲームである以上、そのゲームのルールを良く知って、いかに有効に戦うか。そいつが、勝負を決めるんだ」
 驚きと喜びを合わせたような顔つきで、子供は俺の顔を真剣に見つめた。
「そうか、分かったよ! ありがとう、お兄ちゃん!」
 またしても弾けるような笑顔で微笑んだ。
 俺は、そんな偉そうなことが言える立場だろうか?
 空手から離れて半年以上が経つ。死にものぐるいで最後に稽古をしたのは、いつだっただろう。
 それからほんの三〇分ぐらい、少年に稽古を付けた。
 攻撃のコンビネーション、受け返し、自分にとって最高のポジショニングはどこか、等々。
 子供と身体を動かしていると、様々な思いが甦ってきた。小さいときに死ぬほど繰り返した基本稽古。拳のデコボコが無くなるまで続けた拳立て伏せ。新聞配達をしながら、団地では階段を駆け上がり、心肺機能を鍛え抜いた。
 不思議と思い返すのは、大会で優勝したりした楽しい思い出ではなく、苦しかったり辛かったりした経験だった。
 もしかしたら人間は、辛いことや苦しいことを自らの支えとして生きていく生き物なのかも知れない。
 そう思うと、妹のことも、いつかは自分の中で解決するのだろうか。
 子供に空手の手ほどきをしながら漠然と考えていた。
26
 それから度々、訪れてくる富樫の子供に空手を教えた。
 子供の名前は悠一と言った。悠一は病気の所為なのか、日に日に瘠せていくような気がした。
 それでも組手の戦い方を教わると、元気に身体を動かしていた。父親の富樫は、ただその様子を嬉しそうに眺めていた。
 ある日、帰路につく親子の会話を立ち聞きした。
「明日から入院だから、しばらくはお兄ちゃんの所に来られなくなるな。きちんと今までのお礼を言うんだぞ」
「うん、分かった」
 どうやら悠一は、明日から入院するらしい。
「ねえ、父さん、お兄ちゃん、あんなに空手が上手いのに、何で辞めちゃったんだろうね……」
「そうだなぁ。辞めたんじゃなくて、大切なことを忘れているだけなんじゃないのかな……」
 親子の会話を盗み聞きして「大切なこと」という言葉が胸に突き刺さった。
 悠一があいさつに来た。父親が後に続き、申し訳なさそうに説明した。
「せっかく、いろいろ教えてもらったんですが、明日から検査入院をすることになったんです。ほら、お兄ちゃんにお礼を言え」
「今までいろいろ教えてくれてありがとうございました。押忍」
 悠一は禿げ頭をぺこんと下げて、胸の前で十字を切った。
「そうか、元気でなぁ。また一緒に空手の稽古しような」
「お兄ちゃん、退院したら、また来ても良いですか……」
俺の顔をじっと見つめ真剣な眼差しで聞いてきた。
「おう、早く元気になってまた、来いよ」
「ありがとうございます」
 もう一度、しっかり胸の前で十字を切って「押忍」と続けた。
 来たばかりの時はうざく感じた親子も、来られなくなると少し寂しい気持ちになった。
 俺は、また一人で考え続けた。
 悠一はあんなに空手が好きなのに病気のため打ち込むことができない。俺は何をしているんだ……
 親子が来なくなって、一週間が経った。
 俺は彼らから連絡先を聞かなかったことを悔やんだ。
 そこで、中退した高校に電話をして、富樫の連絡先を聞こうと思った。
「重田と言います。空手部顧問の荻原先生、お願いします」
 職員室の先生に頼んだ。聞いたことのない声だった。
 あれからもう半年以上が経ってしまったのだ。俺のことなど、もう知っている人もいないだろうと考えていたら、顧問の荻原が出た。
「重田か、お前、元気だったのか」
「ご無沙汰しています」
 俺は仕方がなく、挨拶をした。
「どうしたんだ? 突然、学校なんかに電話してきて」
 声の調子で、この先生は俺の電話を迷惑がっているのが分かった。
 俺は、学校に電話をしたことを悔やんだ。
「あのー、マネージャーの富樫さんの電話番号、知っていますか」
「おう、そう言えば、お前の所に行ったと言っていたな。ちょっと待て」
 受話器を投げ出して電話番号を調べに行ったみたいな気配が伝わってきた。
「あったあった。富樫んところも今、大変だからなぁ。いいか?」
 先生の言う電話番号をメモる。
 もう用はない。俺は手短に礼を言って、電話を切った。
 たった今、聞いたばかりの番号をプッシュする。うちの電話は、最新型のプッシュダイヤルであった。
 三回目のコールで富樫が出た。ところが、自分から掛けておきながら、俺は何と言ったらいいのか迷った。
「重田くん。わざわざ電話してきてくれて、ありがとう」
 富樫の牛乳瓶の底のような眼鏡が目に浮かんだ。
「はい、あ、あのー」
「なんですか」
「悠一は元気ですか?」
 しばらく間を置き、富樫が打ち明けてくれた。
「悠一は昨日、入院したんです、病気の状況が急に悪くなってしまって…」
「かなり悪いんですか」
「たぶん……あと一ヶ月ぐらいですかね……」
 俺は富樫の言っている意味が、良く分からなかった。
「一ヶ月って、何がなんだよ!」
 しばらく無言だった富樫が、呟くように教えてくれた。
「悠一は、三歳までしか生きられないと言われていたんです。急性リンパ性白血病と言って、リンパ球が癌化する先天性の病気です」
 ようやく俺は、富樫の一ヶ月という意味が分かった。悠一は、あと一ヶ月でこの世からいなくなる。そういうことだ。
「そんな……なんとか、ならないのかよ!」
 俺は思わず興奮して受話器を怒鳴りつけていた。怒鳴り声をしっかりと受け止めるように、富樫が答えた。
「重田くん、ありがとう。悠一は君に会えて、本当に嬉しそうだった。君の家に行った後は、ずっーとその時の話をしていた、本当にありがとう」
 俺は、それ以上は富樫と話す気になれず、悠一の入院している病院名――順天堂大学病院だと分かった――を聞き、電話を切った。
27
 次の日、朝一番で悠一の見舞いに行った。
 順天堂大学病院の小児病棟は、子供ばかりなのに、殺風景なコンクリートの冷たい印象を受けた。
 俺は子供に人気のお菓子、ロッテの「ビックリマン・チョコレート」と、チュパチャプスという、変な名前の飴を買っていった。
 病室に入ると悠一が上半身を起こして「押忍」と十字を胸の前で切った。
 付き添っていた、少し影のある女性は、母親だろうか。俺が部屋に入ると、軽く会釈をして部屋を立ち去った。
「悠一、元気そうだな。空手の稽古は、しているか?」
 俺の問いに、悠一はただ笑顔を返すだけで、何も言わなかった。
 ほんの数日だけ見なかったのに、また一回りも悠一は小さくなっているようだった。
 悠一は手と足に二本の点滴を打っていた。腕の所々には、内出血のような紫色の痣ができている。
 机の上に新品の黒いランドセルが置いてあった。
「そうか。元気ならば、今年から一年生になるんだ」と心の中で思う。
 悠一が笑顔から、少しだけ悲しい顔になった。
「お兄ちゃん、来てくれてありがとうね。でも、おいら、調子が悪くなって、空手の稽古できなくなっちゃたんだ」
 悠一は本当に悲しそうな顔だった。
「せっかくお兄ちゃんに教えてもらったのに、練習に行けなくて、つまらないや」
「悠一、元気を出せよ。病気が治ったら、いくらでも空手なんかできるから、早く直して帰って来いよ」
 言いながら、つい「病気が治ったら」のところを弱く話してしまった自分を、俺は恥じた。
「うん、おいら、元気になるから、退院したらまた、空手を教えてね」
 本当に泣きたくなるような笑顔で、悠一は俺に言った。
 帰り際、入口を出て、悠一が入院している四階の窓を見上げた。うっすらと曇ったガラスに悠一が映っていた。
 母親に支えられながら、それでも、しっかりと胸の前で手を交差させている悠一の「押忍」という言葉が、俺の胸に突き刺さった。
 こんな小さくて素直な子供がなんで死ななければならないのだろう。この世に神も仏もいないのだろうか。
 俺は考えれば考えるほど嫌な気分になっていった。
 妹のこと、悠一のこと、自分の人生…
 宿命とか運命を変えられるのが人間の力なんじゃないのか…
 俺は目の前で消えそうな、小さな命の灯をどうすることもできない自分の無力を痛いほど感じた。
「俺は彼に何をしてあげられるのだろう」
 病院に見舞いに行く電車の中で何回も考えた。
 俺がしてあげられることは、何もなかった。
 妹が死んだときも、これから死にゆく子供にも俺ができることなど、何もなかった。
28
 朝から冷たい雨が降っていた。
 日に日に容体が悪くなっていく悠一は、いつ“その日”を迎えても、少しもおかしくない状況だった。
 今日はどうしようと迷ったが、やはり見舞いに行こうと思い直す。
 どうして、あんな不幸な子供に会ってしまったんだろう。どんなに会いに行っても、決して元気になることなどないのに。
 病院に着くと、大雨のせいか、患者も見舞いの人も少なかった。俺は濡れた傘をビニールの袋に入れて病室へ行った。
 悠一は酸素マスクを付けたまま、静かに寝息を立てていた。俺は病院の華奢な丸椅子に腰掛けて、ずーっと悠一を見下ろしていた。
 部屋の入口に置いた傘から、水滴が垂れている。それが、悠一の手に刺された点滴の水滴と重なって見えた。
 しばらくして悠一が、唐突と眼を覚ました。
 俺の顔を見て、にっこりと微笑む。泣きたくなるような笑顔だ。
 マスクを外して、話し始めた。
「お兄ちゃん、おいら、夢を見たよ。お兄ちゃんが、世界一のチャンピオンになる夢だった」
「そうか」
「お兄ちゃん、格好良かったよ、金メダルをしていた」
 俺は、返す言葉が見つからなかった。
「悠一……」
「なあに」
「なんか欲しいものはないか、買ってきてやるぞ」
 悠一はまた笑った。
「お兄ちゃん」
 悠一は上半身を起こして、俺に向き直った。
「空手の型を見せて」
「型?」
「うん、お兄ちゃんがやる型を、見てみたい」
「ここじゃできないよ」
 悠一は笑った後、少しだけ悲しい顔をした。
「おいらが退院したら、一番得意な型を見せてね」
「判った、約束する。だから、早く元気になれよ」
「うん、早く元気になるね」
 悠一はそれだけ言うと、またマスクを付けて寝てしまった。
 俺は起こさないよう、そっと部屋を出て扉を閉めた。中に向かって両手を合わせた。
 自分ではどうすることもできないとき、「祈る」という意味を知ると思いながら。
 外は激しい大雨だった。俺は上着のチャックを締め直し、傘を差した。
 入口を出て、何気なく悠一の部屋がある四階を見上げた。歩き出した足を止める。悠一が窓際で、十字を何回も切っていた。
 俺は一瞬、茫然と立ち尽くした後、傘を目の前に投げ捨てた。土砂降りの雨が俺の頭を容赦なく叩きつける。
 俺は、躊躇なく、そこで伝統的な空手の型「転掌」を行った。
 悠一に届くよう気合いを込めて……。
 横を通る看護婦が、不審な顔で俺を見るが、気にしない。
 涙が溢れたのか、雨が眼に入ったのか、悠一が霞んで見えなくなる。
 俺は最後まで型を行って大きな声で「押忍」と十字を切った。
 悠一が四階の窓から十字を返してきた。それが、俺が悠一を見た最期の姿だった。 
29
 昨日、柄にもなく雨の中で型なんかやったので、風邪を曳いたのか、朝から頭が痛く、微熱があった。
 どうしても悠一に「型」を見せてやりたかった。
 もとより空手の型は人に見せるためにやるものではない。だが、悠一に何かを伝えるためには、空手の「型」しかなかった。
 悠一は俺の気持ちを分かってくれただろうか? いや、そもそも、俺の気持ちって、何なんだ?
 人が運命に流されてしまうのを、ただ見守ることしかできない弱い自分を許して欲しいという想いか。
 今、俺にできることは何なんだ……
 俺は悠一が「命懸け」で伝えようとしていたことを、見ない振りしてきたのではないのか?
 様々な疑問が頭に浮かんでは消えた。
 あんなに空手を愛し、心から上達を願っていたのに、俺は運命に翻弄されて、その場から逃げ出した。対する悠一は、病魔のために、やりたくても叶わなかった。
 俺は何をしているんだ。
 病と懸命に闘う少年によって、俺は本当に大切な事実を、気づかせてもらった。「俺には空手しかない」と……。
 心の底から、その事実に気づき悟ったとき、悠一の訃報を聞いた。
 もう一度、空手着を着させてあげたい。
 一緒に空手の稽古をしたい。
 悠一の出ている組手の試合を応援してあげたい。
 俺の祈りは、叶わなかった。
                     30
 悠一の葬儀が終わり、一週間が経った。
 亡きがらになって帰ってきた悠一を見ても、不思議と涙が出なかった。人間は本当に悲しいと、涙も出なくなるものらしい。
 今にして思えば、妹が死んで、俺が泣きわめいたのは、誰かに甘えていたのかも知れない。
 悲しみに打ちのめされながらも、富樫さんは話してくれた。
「重田さんが見舞いに来てくれた日は、寝るまでずっーと、空手の話をしていました……お兄ちゃんが、黒帯になるまで空手を教えてくれる、って……おいらの試合を応援に来てくれるって……雨の中で、おいらのためにやってくれた型は、本当に格好良かった、って……」
 富樫さんや母親の悲しむ姿を見ると、胸が痛んだ。でも、自分だけは泣いてはいけないと感じていた。
 俺は悠一の憧れの武道家だったのだから……。
 泣いている暇があったら、悠一の分まで強くなろう。悠一が果たせなかった夢を俺が果たしていくんだ。
                   ×
 あれから、三十年の月日が経った。
 悲しみは時間と共に薄れ、消えていった。妹を失ったことも……。
 悠一が死んだことも……だが……。
 あの時、空手を捨ててしまっていたら、間違いなく後悔だけの人生だっただろう。
 悔いは恐ろしい。時と共に募るから。
 あの少年―悠一がいてくれたからこそ、長い時間を空手に捧げられた。
 悠一の空手に対する純粋な想いは俺の胸の中で生き続けている。悠一と同じぐらいの歳の子供を見ると、いつも悠一を思いだす。
 死ぬほど空手が好きだったのに、遂に強くなることができなかった少年を思い出しては「絶対、この子を強くする」と心に誓う。
 一人でも多くの子供を強く成長させ、黒い帯を巻かせることが、俺にできる最低で最大の使命だ。
 どんな悲しみが起ころうとも……
 どんな宿命に襲われようとも……
 どんな悲劇が待ち受けていようと……
 それを乗り越えていける強い心を身につけるために「ブラックベルト」を目指す少年少女たち……
 人生のすべてを懸けて、そんな子供たちに黒帯を巻かせることは、無くしたものを探し続ける人生の旅であった。
                    完

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