日記Vol.7 「出来ない」状態ということ

 こんばんは。
広報記事を……と思っているのですが、どうにも精神的苦痛が強すぎるようで、上手くまとまらないため、日記という形で失礼します。
普通なら「休めよ」って言われると思うんですが(言われてます5回くらい)、「この状態の人って発信が出来ないんじゃないか?」という気持ちもあるため、なんとか筆を執ることにしてます。

 前の記事でも精神障害についての「心が耐えられない」について書きましたね。その後に読んでもらえるといいかもしれません。
今の状態はそうですね……、耐えられない、より先というか、我慢が無理になった場合の状態、耗弱ではないかなと思います。
ニュースなどではよく聞きますが、何だそれはって人は多いのではないでしょうか。

 ニュースで言われる「耗弱」は、主に司法の話になるので、「善悪の判断がつかない」というところが具体的に示されます。
俗っぽく言うと「どうにでもなれ」、思春期的に言うなら「人類滅んでしまえ」、このあたりでしょうか?黒歴史があれば該当する人がいるかもしれませんね。
 ただ、私が思うには、これは喪失感というのかな。気力が無いというのが正しいのかな。この状態だと語彙力も下がりますね(汗)
精神障害の人はよく「趣味が楽しくなくなった」とか「何もやる気になれない」みたいな症状を呈します。これを私は……「心が機能を停止している」と表現します。
心、隣接する言葉で想像しやすいのは脳ですね。「脳が判断や行動に対する指示機能を停止している」と言ってもいいのかもしれません。

 私は精神障害の前に慢性疲労症候群になってるものですから、症状としては合算されてしまうのですけれど
現状、noteを書く気はあるのに筆を持てない。
画家のマンネリとか行き詰まりみたいな葛藤すら消失した状態の行き止まりですね。(※絵描きです)
考えること、感じること、すること、全てを諦めている、そんな感じになるのです。それが精神障害者です。
私の例なので、他の方には当て嵌まらないかと思いますが
精神的負荷とか身体的負荷が掛かり過ぎると、私は起床時間が減ります。
PS8なので「半日以上」という項目でしか述べられませんが、現在は23時間近く眠る人間になっています。この文章を書くのも、ワープロ打つの早くてよかったなくらいの程度です。あと今日は20時間しか寝てませんので、まあまだ余裕があるかなって。

 以前の記事でも述べましたが、なぜ心が耐えきれなくなるのか。
それだけの圧を周りが掛けたり、もしくは自分が感じる(ここが被害者側から見てという法律の文章の由来ではないかと)ことで、パフォーマンスが下がる(私の場合は起床困難性)として発露するからです。
まだ「苦しい」と思ってる人は「苦しい」と言ってくれます。
それだけでもすごく苦しいんですけどね。
社会一般では「そんなことで」と言ってくるんですよね。
そんなことじゃないから苦しいんですよ。
いじめの被害者にも「そんなことで」って言える?言ってみ?死ぬよ?
私達は、他者の苦しみを、「あー苦しんでるなー」くらいにしか思っていないのです。自分に関係が無いから。

 じゃあそれが社会人だったとしましょう。その人が障害を理由に休暇を取りますよね。出てこれないから。
その人が処理する分はあなた達がやるのですが、そこはお分かり頂けないのでしょうか?
雇用する側も、簡単に解雇にできない以上、給料は割が下がりますが休暇中の人にも与えます。そうなってるからです。つまり新しい人を雇えない。
そんなだから、障害者は最初から要らないという風潮は無くならない。途中で発症されても困るのは自分だからですね。
自分が困ることにだけは積極的に動くんです。諦観もするよね。
で、職場に復帰してもらおうと思うと、障害に理解がない人に上司的な命令を下さないといけない場合があります。それが法律上での「障害者への配慮」であり、会社としての義務であり、しかし障害への無理解が蔓延る社会において「贔屓だ」「障害って言えばなんでも甘えられると思って」みたいな言葉になり、上司と障害者を両方とも苦しめます
無知ってそういうことなのだろうなあ。

 だから私達は、心や脳が考えることを放棄します。
これは投げやりになっているというわけではなく、素直に受け取っていたら死んでしまうから、考えないようにしようという心身のブレーキ機能
決して、私達が怠けているのではなくて、私達が「働け、働け、考えてくれ」と心身にお願いをしても、聞いてもらえないセーフティーネットです。
怠けたって金は手に入らない、当然のことじゃないですか。何言ってるんだろうね健康な人は。

 自分の命を守るための心身のブレーキ機能としての精神障害もあるのです。PTSDもそうかな。怖い体験を思い出したくない、思い出さないようにしよう、思い出さなければいい、蓋をしよう。
蓋の下で暴れている恐怖心を押し付けて、無かったことにしないと、自分の生命が壊れてしまうから。
そういう意味では、「国民の生命に危機があると判断される場合には」動く警察が、医療と手を組んでいないのもズレた話になってくるのでしょうね。

 きっと、今も色んな人が苦しんでいることでしょう。
全員を知ることは出来ないかもしれないし、手の届く範囲だけでも知ろうとしても分からなかったりするだろうし、障害って言うものは難しいです。
トランスジェンダーの人が「自分はどのあたりに苦しんでいます」と表現できずに困っているように(自分の身体の性は認めているけど、心の性が社会との不和に馴染まないとか、自分の身体の性も認められないのに、心の性も社会からは爪弾きにされるとか、みんな違う悩みを抱いています)、言葉にならない悩みは理解しにくいですね。
しかもそれを個別化社会が助長しましたね。
私の友人の中には「これだけしてあげてるのに」と言った人もいます。
ごめんなあそんなこと頼んだ覚えないんだけど。むしろしないでって言ったはずなんだけど。

 そんな諦めや虚無感の中で、段々生命を維持する力に乏しくなっていくのですけど、自分に関係がないから、手も口も出さないことでしょう。
滑稽なことです。

 でも、だからこそ筆を執ることにしました。
諦めた人は言葉にする気もないから。
それでは社会は問題には気付かないから。
そんな人でも生きていける社会には、ならないから。

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