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『ハンチバック』

2023年上半期の芥川賞受賞作です。

2019年から2023年の5年間で、5紙(読売、朝日、毎日、産経、日経)のすべての書評欄に紹介された小説は計11タイトルありますが、このうち、芥川賞作品は宇佐見りん氏の『推し、燃ゆ』と本作の2タイトルのみです。


頭をハンマーで叩かれたような読後感

読んでいる間も、声をあげそうになったり、次のページをめくりたくなくなったり、顔をそむけたくなったり、それでいて掌の隙間から読んでみたくなったりしました。

ホラー小説でもスプラッタ小説でもないのに、見てはいけない世界を覗きこむような感覚になるのです。短い小説のすべてのページに、人間の業が、むき出しの生々しい姿でさらされているのです。

その短さゆえに、粗筋=ネタバレとなるため、二つの単語のみに着目してみます。

「蓮」と「泥」です。

すべてを抜き出します。

実生活ではうら若く真面目で寡黙な障害女性井沢釈華さんを通していて、だからこそBuddhaと紗花は下品で幼稚な妄言を憚りなく公開しつづけられた。のまわりのみたいな、ぐちゃぐちゃでびちゃびちゃの糸を引く沼から生まれる言葉ども。だけどがなければは生きられない。

太字は筆者

夜ごとに私のを吸っているそれらを男の手で触られることが今さら耐えがたくなってきた。

太字は筆者

光の向こうにの花が咲く。の上に咲く涅槃の花だ。

太字は筆者

の中に真白く輝かしい命の種が落ちてくる。

太字は筆者

主人公は資産家の娘で、両親が遺してくれたグループ・ホームで手厚い介護を受けています。呼吸をし、心臓を動かし続けることに限れば最適な環境です。

しかし、呼吸をし、心臓を動かし続けるだけでは生きることにはならない。そう主人公は思い詰めているようです。そして、ただでさえ歪んでいる身体と精神にさらに負荷をかけながら、生きる証を求めていく。その象徴が「蓮」だと受け止めました。

それはペンネームで小説投稿サイトに綴る卑猥なストーリーであり、肩書欲しさにといいながら40歳を超えても続けている大学生であり、生めない身体にも宿るだけなら可能かもしれないと考える新しい命であったりです。

一方で「泥」とは、複雑にねじれた自尊心と劣等感や、健常者に対する羨望や、運命に対する呪詛や、社会に対する復讐心や、弱者に対する蔑みや、口に出せない性的欲望や、「設計図を間違えた」身体などです。

泥の中にしか蓮は咲かない

主人公は自分より背が低く、モテそうもないうえに、経済力も劣る男性ヘルパーを見下します。しかし、同時に、同じホームで暮らす障害者男性よりはましだと考えて、とてもここに書けない依頼をします。男性ヘルパーは主人公の心情を敏感に感じ取り、それを揶揄してプライドを傷つけます。"弱者"同士のマウントの取り合いです。

本作では、「気の毒」「同情すべき」障害者というステレオタイプを徹底的に排除しています。安っぽいナラティブに回収されないようにとの作家の強い意図を感じます。

その結果として、主人公らの言葉と行動は、「障害も個性だ」とか、「弱者に寄り添う」とか、「一人も取り残さない」とかの、政治的おためごかしのマントラをすべて吹き飛ばします。障害者を清らかなポジションに置こうとすることに潜む偽善性が仮借なく暴き出されるのです。

弱者だって人間ですから汚い部分もあって当然なのです。しかし、それを見せつけられて健常者=ほとんどの読者はたじろぎます。そのたじろぎこそが、健常であることの特権性に気づかない傲慢なのだと、主人公に、そして自らも障害を持つ作家に、頭をハンマーで殴られるのです。

泥の中にしか蓮は咲かないにしても、泥があっても必ず蓮が咲くとは限りません。それでも主人公は決して諦めません。ハンデを背負った身体や社会常識や運命にあらがうかのように、自分の生を生きようとする主人公を、気が付くと私は応援していました。

本作には一か所、「人間の尊厳」という言葉がでてきます。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ」と人々が言うほど屈辱的に映る介護を毅然と受け入れている人に寄せた言葉です。

隣人の彼女のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまで辿り着けない。

本作は人間の尊厳を描いた小説だと思いました。

市川沙央(いちかわ・さおう)さんは一九七九年生まれで、本作がデビュー作。主人公と同じ、筋疾患先天性ミオパチーを患い、人工呼吸器と電動車椅子を使っています。

次回作は当事者性から離れるのでしょうか。それも読んでみたい気がします。どちらであってもとても楽しみです。

5紙に紹介された他の本

2023年

2019年から2022年


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