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【大本山永平寺】一泊参禅修行の旅




お久しぶりの更新です。
れんれんです。

実は先日、人生初の「坐禅修行」に行ってまいりました。
修行の場所は、福井県にある大本山永平寺。
会社の社長に「お前は修行が足りん。」と言われ
なんのこっちゃ分からぬままに日程を決められ
福井県へ向かいました。

現地に到着したのは14時過ぎ。
修行開始は15時半なので少し時間がありました。
その日は、健康診断のため
朝から何も食べてなかったので
腹ごしらえをすることにしました。
(健康診断で血抜かれて死にかけてました)

近くの蕎麦屋さんでお蕎麦をいただきました。
コシが強く、何もつけずに食べても味がしっかりしているめちゃくちゃ美味い蕎麦でした。


その後、冷やしぜんざいを食べることにしたのですが
その冷やしぜんざいにやられました。。
店員のお姉さんに
「冷やしぜんざいてどのくらいのサイズ?」
と聞くと
「こんくらい!」と
手のひらを見せられたので
なるほど小さめなら蕎麦の後でも食べられるなと思い
注文すると
まさかのめちゃくちゃでかいヤツが出てきました(笑)


いや、いいんよ
嬉しいし良心的で素敵やなと思うんやけど
ちょっとびっくりするから
嘘はやめようよ…(笑)

…なんとか完食し、
いざ修行の地、永平寺へ
着くと早速、
一泊させていただく部屋へ案内されました。


僕は到着前から決めていたことがありました。
「修行中は携帯の電源を切り、存在を忘れること」
でした。
荷物の奥底にしまいこみ、
そのまま坐禅のご指導をしていただく
修行僧の方の元へ向かいました。

「それでは坐禅のお部屋へご案内いたします。」
大まかな説明を受けた後、禅堂と呼ばれる部屋へ向かいます。

「まずはここで坐禅をしていただきます。」
最初に坐禅をしたのは少し広めな畳部屋でした。

坐禅とは何か?
坐禅の元は禅那(ぜんな)と言う
参禅を意味する言葉で
この禅那の元の言葉が
「ジャーナ」というインドの言葉で
静慮=静かに思うこと、心の動揺がなくなった状態
を意味するそうです。
その状態になる為に座ることから
座禅、坐禅と言うようになったそうです。

坐禅の開始
調身、調息、調心
身を整え、息を整え、心を整えてからが
坐禅の始まりである。
瞑想とは少し違って目は開けたまま、
目の前の壁を見つめながら
頭、心に浮かぶあらゆる物事に意識を止めず
ただ流れる時を過ごす。
これが坐禅の基本だそうです。

大まかなスケジュールですがこんな感じ
1日目
坐禅 15:30〜16:00 
坐禅 16:30〜17:00
薬石 17:30〜18:00
入浴 18:00〜19:00

薬石とは夕食のことです。
そこでもいろいろな作法を学びました。
器を持つ際は両手で、
食す器を持ち上げ、見下す形にならぬように
目線まで上げてからいただく。
普段何気なく過ごしていると気づかない
食の有り難み、生の尊さを教えていただきました。

お風呂でリフレッシュした後は
またすぐに講和、坐禅とスケジュールは続きます。

講和 19:00〜19:30
坐禅 19:30〜20:00

講和では
仏語である“三毒”について教えていただきその上で
「人が人である以上、その本質は変わらないのだからそれに悲観せずとも良い。」という考えを教えていただきました。
(ほんとはもっと複雑だけど、原文そのまま書くと難しすぎる)
三毒とは
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つの煩悩。むさぼること、怒ること、理非のわからないことの三つ。

2日目は坐禅から始まります。

坐禅 4:20〜5:00
朝課 5:30〜6:30

朝課とは朝のおつとめの事です。
修行僧、僧侶が法堂(はっと)に集いお経を上げます。
これはめちゃくちゃ迫力がありました…。

その後、諸堂案内をしてくださりました。
全部は覚えれていませんがとにかくめちゃくちゃ広かったです。
僧侶たちは基本、腕時計や携帯電話など時間の分かるものは持ち歩いておらず
鐘の音などで時間を把握しているそうです。

諸堂案内を終えると
少食と呼ばれる朝ごはんの時間になり
夕食と同じ作法で有り難く食しました。

この食事を終えたところで
一日参禅修行は終了。

修行僧たちは毎日これの繰り返しをし、
日々、自分の在り方について考えておられるそうです。

坐禅、最初はめちゃくちゃキツかったですが
途中から何か悟りを開いたように
その状態が心地よく感じ始めたのが分かりました。
身体の力がスッと抜け、
フワフワしたような感覚でした。

坐禅の最中、頭の中では仕事のことや
プライベートなことなど
いろいろ考えてはいるのですが、
それらが勝手に頭を駆け巡っては消え、
駆け巡っては消えを繰り返していました。

神様仏様なんて普段は意識しないし
坐禅も最初は楽しそうやなくらいのノリでしたが
情報が極端に制限された空間で
ただ座って時が流れるのを
傍観するような坐禅の取り組みは
良いことなのだなと感じました。

神仏を信じる信じない、
信仰心の強弱は人それぞれですが

僕は坐禅の良さはもちろん
自分の未熟さや小ささを知る
いい機会になったと思います。
また、日々の中で忘れがちな
“当たり前”に対する感謝を改めて思い出すきっかけとなりました。

また機会があれば来たいな。

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