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21. 受け止める

誰かから学ばせてもらう時というのは、その人から直接言葉を通して具体的に受け取る内容もさることながら、在り方や生き方といった、言葉以外のものから受ける影響もまた、大きいのだと思います。


例えば

その人が持っている世界観や
どんなスタンスで物事を見ているか

何を大切にしているのかや
困った時にどうしているか

何に心を反応させながら生きているかや
逆に何に反応していないか など


受け手はそのような、ある意味その人が取り繕おうとしても取り繕えない部分から、意識するしないに関わらず、きっとたくさんの影響を受けるのでしょう。


わたし自身も、つぐさんの在り方に影響を受けてきたところは大きいと感じていますし、その中には学ばせてもらったことの他に、大きく助けられたことも、たくさんあります。


そんな彼の在り方の中で、特筆すべきことのひとつだと感じていることがあります。

それが彼の、受け止めるというスタンス。



例えば、相手が自分に何か訴えてきたり打ち明けたりした時に


あなたはそうなのね
あなたはそう感じたのね
あなたはそう考えたのね


と、相手が今そのような心境や状況であることに関して肯定も否定もせず、ただ受け止める。

しかし、それ以上はどうこうしようとしない。

そしてその態度を、様々な場面において徹底している。


わたしはこの彼の、相手の領域と自分の領域とをクリアにすみ分けられる感性と、一貫してブラすことのない応対の仕方に、最初とても驚いたのを覚えています。

どうして、ここまでのことが、できるのだろう?


大抵の場合は、打ち明けられた方は、すぐにその次のアクションを取ることが多いと思うのです。

例えば、何か解決策を考えだすとか、アドバイスをするとか。

そこには、打ち明けられた手前、その相手の期待に応えようとするわずかな心理があるのかもしれません。

いずれにしても、何か次のアクションを起こさずにはいられなくなってしまうわけです。


でも、彼は、そうはしない。

相手が感情的になっている時にも、極めて冷静にそれと対峙し、ただただ、そうだったんだね、と、思いをそのままに受け止め、そこに留まることができる。


"受け止める"がどういうものなのかは、”受け入れる”との違いを見ていくと、よりわかりやすいと思います。

受け入れる”とは、許容することや応じることとも似ていて、例えば、相手が自分の何かを欲しがれば、それに応じて求められるものを差し出そうとすること。

それに対して”受け止める”とは、相手が欲しがっていることは認めつつも、実際に求められたものを差し出すかは別問題ととらえるスタンスです。

つまり、相手が自分に何かを訴えてきたような時でも、相手は相手であり、自分は自分として、そのことで相手に同調したり、要求に応えたりはしない、ということ。

そう、自分の中に入れてしまわずに、その手前で”止める”のです。



この、受け止める、という彼の態度に、わたし自身はこれまで何度も助けられてきました。

わたしが何か相談をした時、特に感情が絡んだ内容について相談した時に、彼はいつも一貫して”受け止める”という態度で応じてくれたのです。

腹が立った時
悲しかった時
怖い思いをした時

彼にその思いを打ち明けると、最後までじっくり聴いてくれた後に、大抵ひと言で返事が返ってきました。


そうなのね


そこで、やりとりが一度止まり、その後に何かアドバイスがあることも、話が続いていくこともありません。

ただただ、わたしがそう感じた、ということを彼が一切の否定なく聴き届けてくれ、そして、そこで話が止まるのです。


この時、わたしはいつも、とても面白い感情の動きを、自分の心の中に観察します。

どこかに向かおうとしていた感情が、にわかに行き場を見失い、文字通り”止まる”のです。

そして、その場に留まった感情は、わたしを乱すものではなくなり、ただ観察して味わうことがやりやすい状態になる。

そして


あぁ、わたしはこう感じていたんだなぁ


と、じっくりその感情を味わってあげると、あたたかな感覚とともに、溶けていく。


何かそれは、ひとつの癒しや浄化のようで、その一連のプロセスが進む中で、安らぎと安堵が広がっていくのです。

わたしが、わたし自身に起こっていることを、よく見てあげることができた、という静かな喜びとともに。



さて。

今は、ごく自然に、”受け止める”ということをしている彼ですが、それは最初からできていたことでは全くなかったのだそう。

この、”受け止める”という態度を、徹底するようになっていったきっかけとなるようなことが、あったのです。

それは、カメラマンとして仕事をしていく中で、対人関係において大きく心が乱され、疲れ果てていた時期。

嬉しいことや悲しいことなど、心が大きく揺さぶられ、気が滅入ってしまいそうになっていた時に、ある考え方と出逢います。


目の前に起きる現象は
事実と解釈に分けることができる


それを学んで、彼はそこで、自分がいかに解釈に振り回されて疲弊しているのかを、目の当たりにした。

自分が苦しんでいるのは、事実によってではなく、事実に対する解釈によってである、ということに、はっきりと気づいたのだそうです。

そして、それから、日々の生活や仕事の中で、事実と解釈を棲み分ける練習をしていったのだ、と。


事実は紛れもなく1つしかない。

でもそれをどこからどの距離で
どうやって観るかで
解釈は全く別のものになる。

視点・視座・視野によってね。

そういうことを学んでいく中で
人の話を聴く時に
相手に入り込まなくなってきたんだよ。


つまり、彼は、事実と解釈は分けられるという視座を自分の中に取り込んだ後、ひたすら、目の前に起きてくる事象に対して、事実と解釈に棲み分けるという実践を続けてきたというのです。


驚くべきは、彼がそれをひとりでやってきたということ。

普通、ここまで精度を上げて棲み分けるということは、一人でできていく類のものでは、ないと思うのです。

実際にわたしは、職業柄このトレーニングを受けてきましたが、いまだ彼のようにできるには遠く及びません。


それを、彼はごく自然にやっている。

その、サラリとやってのけていることのすごさに、驚きを通り越してポカーンとしてしまうのです。笑


この、事実と解釈を棲み分けていくということ。

それができるようになるには、そもそも、日々起きてくる事象に対し、自分が事実と解釈とをくっつけてしまっていることへの自覚がなければ、棲み分けをすることすらできません。

そして、現在の彼のやっている精度の高さからすると、その実践はちょっと気の遠くなるような積み重ねだったのではないかと思います。


事実と解釈の棲み分けができるほどに、解釈から自由になり、目の前に現れるものをジャッジなく、よりありのままに捉えることができる。


わたしはそんな彼に導いてもらいはじめてから、数々の解釈から解き放たれ、自由度が上がった世界の中で生きることができつつあると感じます。

そして、そのような眼差しを持っているからこそ、彼の撮る写心にはあんなにも、被写体の存在感がクリアに際立つのだろうなとも、思うのです。


◆課題
誰かが何かを主張した時や、自分に何かを言われた時に、それは事実なのか、それとも意見なのかを、区別してみる。

事実とは、誰の目から見ても明らかな、客観性が保たれている事柄。
意見とは、何かの事象に解釈が加わった、その人の見解。

意見だとしたら、「この人はそう思っているんだな」と捉え、それを聞き入れるかどうかはいつも自由なのだということを、自分の中で再確認してみる。


つづく。


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