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Pray

大学生の時に“出会って”しまってから約9年間、
長らく羽生結弦の強火ガチ恋勢をしていた自分にとって、
この夏、晴れた日に突然降りかかる雷鳴のように突如として訪れたあの電撃結婚は、大袈裟でなく自分のこれまでの人生だとかこれからの人生を揺るがす、結構な大事件であった。


あの報告の直後、二度も、延々捲し立てるスペースを開いて、
同担から届いた3桁数の質問箱に4桁文字数くらいで延々答えまくって、
それでもこの3ヶ月、まだぜんぜん整理しきらない思い、うまく言語化できていない感情、
ふと気を抜くと「羽生くん、結婚したのかあ…」ということが胸にズシリと響く日々、
そのことについてまだ自分の中のあらゆる気持ちをまだ言語化して整理できていないうちに、突如飛び込んできた、目を疑うような悲しい報告。

始まりも終わりもいつも突然で、その細い肩にたったひとり、あるいはふたりで、どれだけの重い決意を決断を自分だけの中に抱え続けていたのだろうと思う。

たった約3ヶ月半の短い結婚生活。
これを何の罪悪感もなく、「スピード離婚」などと言えてしまえるメディアのツラの皮の厚さに戦慄する。
なにがスピード離婚だ、誰がそうさせたんだよ。
ストーカー離婚って書けよ。
なあ、自分たちのせいで国民的英雄の人生を壊してしまったって、そう書けよ。


羽生くんは、未熟と言ったが決して羽生くんが未熟なのではない。

一人の人間が、平穏に結婚し安寧した生活を送ることすら許さないこの世界が未熟なのだ。

人権やプライバシーを報道の名の下に暴き、それを喜ぶ野次馬どもが、それを許す世界が未熟なのだ。

推しが結婚した、という現実をどうしても受け入れられず、推しや結婚相手(とされた人)に目も当てられない誹謗中傷をする人たちが未熟なのだ。

現実を受け止める強さや受け止め難くともそれを表には出さない程度の成熟性を持たず、現実を歪めた妄想を繰り広げてしまう奴らが。

自分が悪い、という決まり悪さや罪をどうしても認めたくなくて、誹謗中傷などが原因で離婚したと言っているのに更に「その程度の覚悟で結婚したの?」とか責任転嫁してダメ押しのように誹謗中傷を重ねる奴らが幼稚なのだ。


この世界が。


しかしこれは懺悔すると、9年来の推し・ガチ恋対象が電撃結婚を発表したことに、100%心からの祝福の気持ちだけで自分がいられたか、というと多分嘘だ。
8月から現在に至るまで、なんでなんだよと推しを責めたり、裏切られた!と思う気持ちは1ミリも無い。
自分でも驚くほどに、それは本当に一切なかった。あくまで、勝手にショックを受けているのは自分。
でも、この現実が嘘や夢であったら…と一度も思わなかったか、口に出しはしないが、結婚相手という概念に対して「羨ましい…」と醜い妬み渦巻く気持ちが一瞬もなかったか、どうして自分はそういう人生を歩めなかったのか、どこかでやり直せないかお腹の中くらいから、とか、ダウナーな日々を送っていなかったか、いや、ほんとを言うと送っていた。

でも、全然全然全然、こうなって欲しかったわけでは全然ない。こんなこと本当に望んでいない。
というか誇張なく、約30年生きていて一番クソッタレな出来事くらいにクソッタレな気分。


これは建前ではなく、推しの結婚報道よりも、昨日の離婚発表の方が、何倍も本当に本当にキツい。
推しが結婚してダメージを受けることよりも、昨日のこの発表の方が本当にキツい。
願わくば、どうかこちらの方が嘘であったらどんなにかいいかとこれは本当に心から思ってしまう。
マスコミと一部のあたおかファンに向けて、
「お前らのせいで離婚する羽目になりました。あーあ!」ってバチギレを示しただけで、
籍や居を離すという選択をしただけで、本当は実際は、交際関係自体は全然継続しているのだとしたら、大事な人がまだ支えとして傍にいるのだとしたら、それが心強さと幸福になっているのだとしたら、その方がどんなにかいいか。

そうであってほしい。

ここにきて、
「推しに幸せであってほしい」という自分の言葉が、
決して誰かのための建前や、みっともなく汚い嫉妬心にまみれた自分を誤魔化すための言葉などではなく、
本当に心から本気で確かに自分の中に存在していた祈りなのだと、それこそが本当に一番の本心だったのだと今更気が付く。


でももう何もかも遅い。


羽生くんが、この人生にまつわる辛い選択を抱えながら、
“選択”と“やりなおし”をテーマにした単独アイスショー
「RE_PRAY」を一人でやり遂げるのは、自分にぐさぐさとナイフを刺していく感じで本当にエグいと思う。どういう気持ちで、さいたまスーパーアリーナに出ていたのだろう。つらい。何なら、もうツアーを中止して一年くらい休んだって構わないとすら思う。

もしやり直せるのだとしたら。大事な何かを犠牲にしない選択はあったのだろうか。あるのだろうか。

「神様からも観測されない自由」というショーの中の言葉。
何より欲しているのは、羽生くんではないだろうか。



「選択」について、考える。


我々の、私の、選択は誤っていなかったか。本当にそれがベストだったのか。もしやり直せるのだとしたら。

この3ヶ月間、私は酷い報道の見出しや、酷いことを言うファンあるいは元ファンを、検索結果に出てくるトップニュースやTwitterに流れるおすすめ欄などで目にしていながら、それについて強く言及することはほぼ無かった。報道などに少しは苦言を呈したかもしれないが、どちらかというと「何も言わない」という選択を取ってしまっていた。
それは、その方がいいと思っていたからだ。

週刊誌は、それをクリックすることが収益や「需要があると見做される」ことに繋がるだろう。
それが憤りや非難からの気持ちであれ、クリックした時点でそれは同じ「1クリック」だ。
絶対にそんなことなんてしてやらない。
話題にもしてやらない。
批判する気持ちであれ、私が「苦言」を呈してしまったら、どうしても「そういう記事があったこと」が「そういうふうに言われていたこと」が、誰かに伝わってしまうだろう。伝言ゲームのように、次々他の誰かに伝わるだろう。その中のうち、興味を抑えられない誰か、あるいは憤りを感じた誰かが、当該記事を思わずクリックして読んでしまうかもしれない。それは避けたい。
話題にする時点で、クリックや間接的な拡散に寄与している。
だから寄与なんかしてやらない。
だから酷い見出しを見てしまっても見た瞬間脳から追い出していた。まあ嘘だ。脳から追い出せなくて割と死にたくなっていた。


推しの発言や行為に対する苦言を呈する奴ら、気持ちが離れてしまったのなら、推しのことが許せないのなら、自分が推しから離れたらいいだけの話なのに、なぜかいつまでも粘着・執着して、いつまでも文句を言い続けているような元ファンにも(じゃあどうしたら満足だったんだよ? これで満足か?)、

結婚相手とされた人(それが本当に本人なのかはこの際重要ではない。報道された一人の人間に対し、あそこまで粘着して発狂することが異常なんだよ)に対して、執拗に誹謗中傷を繰り広げる奴らにも、

同じだった。

私は別に、同ファンなんか所詮他人だから、知らない人達にいくら嫌われたって全然構わないと思っている。
別にそれを仕事にしているわけでも全然ないんだから、フォロワーなんかいくら減ったってそんなこと自分の生活に実害なんて無いから全然構わない。
だから別に、「そういうのはよくないと思う」と諌めること自体は全然簡単だ。

でも、その人の中ではもう「そう」なんだから、その「本人の中だけの現実や認知」は動かしがたく、他人が何を言っても無駄でどうせ話が通じないと諦めてしまっていた。
そして、自分が具体的に話題にすることによって、「結婚相手がどう報道されているか」の特定や「どんな酷いことを言われているか」を日の元に晒しあげてしまうことになるのが気が引けた。
「こんな酷いことを言われている」という糾弾が、結果的に「こんな酷い悪口」の拡散、もしかしたら推しの目にも入ってしまうことにも繋がる。それは傷つくだろう。それも避けたかった。
そして、自分が言及することで、それは他の誰かの「酷い!」という更なる憤りに繋がり、これまた伝言ゲームのように憤りばかりが波及する。
そんな酷いことを言うのはごく数人なのに、みんなが一斉にその話をすることで、何か界隈の多くの人がそんなことを言っているような印象になる。

フィギュアスケートファンのファンダムっていうのは、ガチで治安最悪の界隈だから、もうこういうことを競技時代から無限に無限に無限に無限に繰り返してきた。
だからもう嫌だった。
自分の発言が揉め事の火種になるようなことを言うのはもうやめようと思っていた。
だから、何か「それは酷い言い草でしょ」と思ったとしても、そのアカウント(といいねややり取りしている奴らもまとめて)黙ってブロックするだけで終わってしまっていた。



でも本当にそれでよかったのだろうか。
その選択は合っていたのだろうか。
結果的に、酷い世界を野放しにしていたのではないのだろうか。
結局、それは分かっていて何もしなかったってことなのではないだろうか。
だから、こうなってしまったのではないだろうか。

自分が推しのために何かできるか、などと考えることは筋違いであまりにおこがましい。
だけど、だけど、
もし誰かの選択が、自分の選択がすこしずつでも何か違っていたとしたら、こんな未来は訪れなかったのではないか?ということを延々と考えてしまう。


あらゆるものに腹が立つ。
そして、腹が立つだけで自分には何も出来ないことが、いや、何もしようとしていなかったことに一番腹が立つ。


マスメディアに関しては、正直本当に何らかの法規制が必要な段階にきているとすら思う。
BL漫画などのフィクションは、たまに青少年なんとか条例で取り上げられ、対象となるとAmazonなどの書店で売られなくなったりする。真面目に青少年の育成を真剣に考慮するつもりならばまだいいが、基準も曖昧だし、結局あんなのは所詮出版社の持ち回り的に順々に適当にエロっぽいものをピックアップしているに過ぎないと思っているが、BL漫画家や編集者はあれに引っかかることを恐れているから、帯や書影に気を遣う。でも、フィクションが現実にもたらす影響を軽んじているわけではないが、でも言ってしまえばフィクションだ。
なのに、現実の人間の、感情と意志を持って生けるこの世界の現実の人間の、人権や精神や生活を損なってしまうような出版物が、「報道」という名のもとに許されて、本当にいいのだろうか?? 本当に?
何か政治家の不正とか、企業の悪行の隠蔽とか、そういうのを暴くならまだ社会的意義があるかもしれない。
でも、結婚なんて別に何も悪いことをしているわけではない。悪いことをしているわけではない人の、人権やプライバシーを侵害することが、許されていいのだろうか?
これは真剣に、何らかの規制が必要な段階にきているのではないだろうか。


羽生くんや、結婚相手とされた人に対して誹謗中傷を繰り広げていた奴らはもってのほかだが、
何が腹立たしいかというと、そういう奴らが全然自分たちのせいだとは思っていなさそうなところだ。
むしろ、「なんて酷いことを!」とか普通にキレていたり「泣いてる」とかショックを受けているぽいのがマジで怖い。
それ、誹謗中傷だと思っていないのか? 自分で。

報道されていた人が当該お相手なのかはさておき、
あまりに現実を受け入れ難いからか、そんなはずはない!という拒否のもと(実際に違うのかもしれないが、実際に本当にそうなのかもしれない。その可能性はいずれも現段階では有り得るはずなのに)
本当は嫁じゃないくせに売れないナントカの親族がらみの売名だとか、根拠の無い妄想のもと、その妄想に基づくあらゆる誹謗中傷や、あれを (以下略)体調悪くなった、推しがそんな人を選ぶわけがないと確信した、みたいな、いや本当にそうだったらお前どうするつもりなん?? 相手はもちろん推しのことも傷つけてるよそれみたいな誹謗中傷を繰り返してきたようなアカウントが、なぜか普通にこの報道に憤っているぽく、
「覚悟しておかないといけない人が何人もいそうですね」みたいな物言いをしているの、
本当に認知が歪み過ぎていてびっくりしてしまった。


お前だよ、お前お前お前お前お前、お!ま!え!!!!!!!
おまえのそれだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


別に、報道されていた人物が本当に当該結婚相手なのかどうかは重要じゃない。
もし本当に違っていても、一人の人間や彼女にまつわる親族に対して誹謗中傷をしたという事実は変わらない。
仮にもし本当に違っていたのだとしても、「相手として名前を挙げられた人物」に対して、あそこまで発狂&執着し、根拠の無い妄想であることないこと日々悪口を言いまくるのをもし推しが見たら、恐怖を感じたり、自分が好きな相手を仮に公表したり、仮に表に出たら、そこまで言われてしまうのか…と思い悩む可能性を考慮できないのも、
それが、大好きなはずの推しに出来る仕打ちなのか?


そして、
結婚発表とその後の顛末に文句があったのか、「ファンは、相手の人に対しての報道がたとえあったとしても、それをクリックしにいったらいけないと思う」という至極真っ当な意見に対して、
「ファンは見たらだめってのはあまりに酷だと思う。私たちは、彼が孤独だとか言うから心配していたのに、ある日突然入籍のふた文字だけ残して結婚、そのまま放置。その中流れてくる情報に対して見ないことを強要するのはあまりに酷」みたいな超自己中理論で、ゴシップメディアの閲覧を正当化していたアカウントが、
モヤつきを仲間と一緒になってやいやい言っていたようなアカウントが、
普通に「幸せにならないと許さないと言ったじゃないか」みたいな言い方をして、
自分のせいだとは思っておらず他の何かに普通に憤っていたりするのがマジで意味がわからなさすぎる。

何????????
認知歪んでんの????
そういうのが、そういう考え方とか物言いが、全部全部追い詰めているんだよ!!!!!!!!!!!!!!
本当に分からないのか?????


なんでそんなくだらない奴らのために、
推しの幸せが侵害されなければいけない?
必死に第一線で戦い続けて多くの人の期待に応え続け、ようやく自分の心を守るという強い決断ができたと思ったら、こんなことってあるかよ。


同類、とまでは言い過ぎだが、
「羽生結弦、実は結婚していない説」だとかなんとか言ってきゃっきゃっしていたようなアカウント達も、正直かなりモヤった。
冗談だったのかもしれないけど、
もし仮にそう見える、生活感がないように見えるのなら、そうしなければならないほどそうさせていたのは、誰だよ? 何だよ?と手に胸を当てて考えるべきじゃあないのか本来?
別に自分自身はそれを望んでいなくても、仮に自由で制限のない幸せな生活が送れない状況があるのだとしたら、そんなのは本来全然喜ばしいことでも望ましいことでも全然ないはずだし、
誹謗中傷をしているわけではないから、同罪とまでは言わないけれど、
「自分の願望」(推しに本当は結婚してほしくないという)が、受け入れ難い現実や事実の方を歪ませている、現実を歪めて自分の中に見ている、それを目にみえる形で声に出すという点では、入籍をなんか意味わからん解釈(入籍を僧籍に入ったみたいなトンデモ妄想をしていた人たちがいたんですよほんとに)してた奴らとほとんど変わらないと思ってしまった。
「推しの生活が本当は実在している」ということを、ファンにまで認めてもらえない、受け入れてもらえないこと、推しが見たら悲しいんじゃないだろうか、と思ってしまった。


「羽生くんを追い詰めたのは、ファン(の一部)ではなくて、執拗に追い回したメディアだと思います! そう書いてあります!」だとか (でも「相手に対する誹謗中傷」とも書いてあるよね? 本当にそれをやっていた自覚ない?)、
「ほとんどのファンは彼の結婚を祝福していましたし、そっとしてほしいと願っていました! 彼を誹謗中傷するような人はファンではなくアンチで、ファンが彼を追い詰めたかのような言い方はやめてほしい」だとか、そんなことを必死になって主張している奴らにも腹が立つ。

ほんと馬鹿みたい。

それはそうかもしれないよ、それは正しいのかもしれない、けどこの期に及んでファンの「見え方」なんてどうだっていいだろうがそんなもん。
クソがクソがクソが。
この期に及んでまずそんなことしか考えられないのかよ。馬鹿じゃねえの。
推しよりも自己保身や弁解のが大事なのかよ?

私はたとえ誰かに、外野から、一日経てばこんな話題なんてすぐ忘れるどうでもいい野次馬どもから、
ファンがキチガイの集団だって思われたって、
全然そんなことどうだっていい。
推しの悲しみ、推しの幸せが、もしかしたら一部であっても、ファンあるいは元ファンの手によって壊れてしまった、それを自分は止めることができなかった。
いや、また揉め事になるのが嫌で、その飛び火がまた界隈の雰囲気を悪くするのが分かりきっているのが嫌で、必死で止めようとはしていなかった。
それでよかったのか?

この事実と悲しみの前に、ファンがどう見えるかとか、そんなことほんとにほんとにほんとにどうだっていいよ。
なんで? なんでそんなことがまず気になるの? おかしいよ。ほんとにおかしいよ。






今だから言うけれど、
私は、8月の半ばから9月にかけて、まだツアーなどが発表されていないあいだ、
結婚なんて、羽生くんにとっては人生の絶頂くらいに幸せな出来事が8月にあったはずなのに、
でも、それにまつわるいろんな報道や言及を目にしてしまううちに、
自分自身の選択がもたらしたものについて、
彼の心がいつかボキッと折れてしまわないかと本当に心配だった。


人間に対してめちゃくちゃ不吉な事を言って申し訳ない(からダメージを受けそうな人は飛ばしてほしい)し、
幸福の絶頂にあるはずの人に対してこういう事を言うのはあまりに不穏すぎるから、
そのときは何も言わなかったし今も絶対言うべきではないけれど、





ある日当然、死んだとか言わないよな?
ねえ。言わないよな?
というどうしようもない拭いきれない不安。




私は8月の半ばから9月のあいだ、ある日突然、いつ、そういうニュースが来てしまわないか、ある日来る時が来るのではないか、といささか戦々恐々としていた。
そんなことを考えるのは私の頭がおかしいかもしれなかった。おかしいだろう。おかしい。
あるいはこれは単に自分のメンヘラたるメンタルがもたらしているものかもしれない。でも。

マスメディアや下衆な民衆に、お相手は誰なの?と嗅ぎ回られ、好き勝手書かれること、
飯の種くらいにしか思っていない連中や、バズ狙いだけで話題にして明日には忘れているような奴らに、プライベートを暴かれ、自由や生活を削られ、
そして自分を応援してくれていたはずの、「自分の幸せなんて削らなくていいよ」と言ってくれていたはずのファンにまで、てのひら返しで好き勝手言われる。
自分だけではなく、自分が結婚をすると選択をした大事な人まで。自分が結婚をするという選択をした帰結が、もたらしたものが、これなのか?
耐え切れるだろうか。
悔恨してやしないか。

「羽生くん、生きてるかだけ教えてくれー」とかYouTubeなんかが更新されたことに「よかった生きてた」とかなんとか、ツイッターで呟いていたのはそういうことだ。あまり深刻にならないように冗談めかしてはいたが、そういう心持ちからだった。
そしてこれは、今でも思っている。怖かった。怖い。
大袈裟ではないと思う。



それは、羽生くんが結婚したすぐ後くらいに、
とある若い美容系のYouTuberの人が、突然亡くなってしまったということもあった。
めちゃくちゃファンだった、というわけではないけれど、よく見ていて好きなYouTuberだったから、私は実を言うとこの件をずっと引きずっていた、というのもあった。

彼女が亡くなる前に撮影していた動画が本当に辛かった。
人生に絶望し「もう死ぬしかない…」というような心持ちと、「死んだらダメだろうな」の狭間で、なんとか、死んだらだめだろってことや生きる理由を頑張って自分に言い聞かせている感じの思考回路が、見ていて手に取るようにわかったから。
それは誰かに言い聞かせているようでいて、本当は自分へ必死に言い聞かせていたのだろうなと思う。
人生のあらゆる不幸のうち、死ぬことだけは二度と取り返しがつかない。
誰かと破局してもやり直せるかもしれない、誰かを傷つけてしまっても、いつの日かそれを償う機会がくるかもしれない、受験や就職に失敗しても、たとえば何らかの理由で多額の借金を負っても、万が一犯罪を犯してしまっても、もしかしたら人生をやり直す方法があるかもしれない。
今がどんなにクソッタレだと思ったとしても。

私も、多分死んでもいいタイミングはいくらでもあった。
高校に馴染めず友達が一人もいなかったとき。どうしたって机に座って家で課題とか勉強とかをすることや締切を守るということが一切出来なくて、ずっとずっと怒られ続ける日々。コミュ障過ぎて、大学の卒業式の日に至るまで見事にNNT(無い内定)で将来の見通しが本当にできなかった時は、もう東尋坊に行くしかないか?と割と本気で思った。(つうか東尋坊には行った。ただ東尋坊は楽しいのでみんな行ってみてほしい)
ようやく就いた仕事もあまりにブラック過ぎてブチ切れて急に辞めて無職になった時。なくなっていく残高。さらにようやく就いた仕事も、上手くは出来ない。親譲りの遺伝で、私は耳が悪い。補聴器を使わないと会話が聞き取れないが、補聴器を使ったところでたまに指示が聞こえない。これを修正しますか?と確認しても、「このままでいいよ」なのか「なおしていいよ」なのか、どちらの「いいよ」なのか、わからない。逆のことをしてしまう。私が仮に子どもを産んだら、50%の確率でこれは遺伝する。だからこの人生は私で終わり。

傍から見たらゴミみたいな人生だろう。なんにもない。
でも自分の人生には価値がある。価値があった。
羽生結弦という存在を目の当たりにできたこと、彼のスケート、作品、生み出すドラマ、それが確かに自分の人生の一部としてあったこと。いや、本当は何も人生の一部ではないことは分かっている。けど。
あの時、あの時にも、死ななくてよかった。死ななかったからこれが見れた。
死んでしまっては見れない。
この先何か、自分にとってとても価値ある出来事や、幸福な何かが待ち受けていたとしても、死んでしまってはそれを得ることは二度と出来ない。

だから死んだらだめだろう。
しまったなあ、間違えたなあと後悔したところで二度と絶対に取り返しがつかないから。

それは分かっている。
分かっている、それをずっと自分に言い聞かせることで、なんとかこの希死念慮から自分と自分の人生をかろうじて保っている。
でも、そのギリギリの綱渡りが、ふとした瞬間、ついに上手くいかなくなる瞬間が来るのかもしれない。
いや、来るのだ。

さる若い美容YouTuberの急逝について、
私はそのどうしようもない事実について突きつけられたことに、かなりダメージを受けた。
私にも、あなたにも。この綱渡りがうまくいかなくなってしまう瞬間が、ふと訪れてしまいやしないか。
もしかしたら、他人からしたら「そんなことくらいで」と思われるような少しのきっかけであっても。でも、傍から見ればそんなことくらい、であっても、ギリギリの綱渡りからしたら、ふと自分の背中を最後に突き押す、最後のほんの一手なのだ。


怖い。



五輪二連覇後の公演、「Continues ~with Wings~」で彼は、週刊誌の報道に気を病んで「何回も死のうとした」と口に出して言った。死にたくなったとか、死のうと思った、ではない。「死のうとした」という言葉の重み。
今年11月の公演「RE_PRAY」で、私は最後の方で羽生くんが「人生を本当にやめるという選択をしなければ〜」というようなことを言ったことがかなりズン、と来ていた。
これは直接的な表現をすれば、「死ななければ」ということであると私は解釈した。
つまり、人生のあらゆる選択と決断のうち、それが選択肢としてある人の言葉のように聞こえた。
私たちに向けての祈りの言葉ではあるけれど、自分に必死で言い聞かせている言葉なのではないか。
どうにかその選択肢に自分が振れないよう、必死で己を思いとどまらせる言葉なのではないか。
彼もまた、綱渡りなのではないか?



また、大袈裟だって笑うのか?



私と、私たちとあらゆる「推しの世界」は別物で、そこにはどうしようもない断絶がある。とは思う。
いくら推しのことを分かりたいと思っても、全てをわかることはできない。推しには推しの世界があり、そこにファンは立ち入る権利はなく、また仮に傍で同じものを見ていたとしても、同じように感じることはできないだろう。違う人間だからだ。羽生結弦の人生を、我々は誰も送っていないからだ。
だから「わかるよ」などと言うのはおこがましいし(わかるわけなんかない)、「守るよ」などとのたまうのはもっと筋違いだ。
お前誰?なんだよ。推しからしたら、我々はみな「お前誰?」という存在に過ぎない、これは忘れたらいけない。

でも他方で確かに、同時に地続きでもあるのだ。
自分の行動、発言と、推しの住む世界や推しの心は確かに、この三次元の地続きではあるのだ。
そのことも同時に忘れたらいけないと思う。


“何か”が起こった時、そんなつもりはなかった、そこまでしなくても…と、お前らはきっと言うんだろうな。いつもそうだ。
自分が多少振り回しても壊れない都合の良い玩具だと思っている。だから野次馬精神で好き勝手言ったり、自分に都合が悪くなれば憤ってまた自分の都合の良い玩具になるよう床に叩きつけて”直そうと”する。
でも、人間は、有名人は、おもちゃじゃない。
壊れる。壊そうとは思ってなかったって弁解しても遅い。何もかも遅い。

壊れるんだよって、何回私たちは目の当たりにしたら学ぶの?

ねえ、何回?

どれだけの人が死んだ?

ねえ。

そして、学んだところでもう戻らない。


でも、この件に関しては、もう遅いのかもしれないけれど、だから、本当の意味ではまだ本当に手遅れではないとも思う。
まだ人生は続いているから。
生きていればやり直しは出来るというのもまた真であると願う。
そして私たちも、お前たちもまた、まだ引き返せる。引き返すんだよ今。
心で何を思っていたっていい。誰を嫌いだっていい。でもそれを口に出す前に、行動に起こす前に、引き返すという選択を、まだ取れる。


この先いつか、遠い未来かもしれない。
今度は、もっと平穏に、安寧にまた自分の人生を、自分たちの人生をやり直せる時が来るかもしれない。
自分の人生を、誰の人生なんて飯の種の金稼ぎとかバズ稼ぎくらいとか自分を気持ちよくさせる都合のいい玩具くらいにしか思っていない奴らなんかに捧げなくたってよくなる日が、来るかもしれない。

来てほしいと願う。
来るまで、どうか生きていてほしいと祈る。

その時の世界は、今よりかはもっと、あらゆる「推し」にとって、あらゆる人にとって、もっと優しい世界であればいいと祈る。

いや、本当は祈っていたって仕方がない。
この世界を優しい世界にできるのは、自分たちひとりひとりであるはずだ。と思う。
この怒りは、自分たちひとりひとりが、今よりもより良い世界にしたいという決意だ。



羽生くんの東京ドーム公演「GIFT」の冒頭の文章が、これは割と心からの言葉として今頭の中を流れていた。
そこに幸せはありますか? 誰かと繋がっていますか? 心は壊れていませんか?

私たちは「大丈夫」と気軽にはあなたに言えない。
「味方です」とも迂闊には言えないかもしれない。わたしは、味方ではないのかもしれない。
私たちの存在が、この強く大きなファンダムが、あらゆるプレッシャーに、自身の行動への制限に、自分の人生の糧となると同時に確実に自分の何かを蝕んでいる存在であることは、事実だからだ。

でも、「味方でありたい」と思う。
私は推しを幸せにすることはできない。
でも、幸せな世界に引き戻せる、少しの手、手の一部でありたいと願う。



大丈夫、と断言をする自信はなくても、方法はわからなくても、味方でありたいという思いを持ち続けている人は、たくさんここにいるんだからね。どうか。生き続けてね。