もう一度立ち上がれ、Xbox -再建者フィル・スペンサー- 前編

「世界的な家庭用ゲーム機といえば?」と聞かれた場合、貴方は何と答えるだろうか? おそらくは「Nintendo Switch!」と答えるだろう。Switchは素晴らしいゲーム機であり、事実世界的にもとても良く売れている。

ところがである。そんなNintendoSwitchも、2022年3月時点では未だプレイステーション4の累計出荷台数に追いついていない。半導体不足や、発売日から5年しか経過していない(PS4は9年目である)ことを考慮するとそれでも凄いことではあるが、PS4が如何に売れていたか、実感できると思う。現時点でもっとも売れた家庭用ゲーム機は未だにPS2であるし、「プレイステーション」というブランドは世界的な地位を築いているのだ。Call Of DutyやAssassin CreedといったAAAタイトルを、皆はプレイステーション上で動かしている。


そんなプレイステーションにかつて戦いを挑んだ企業がいた。任天堂ではない。彼らは我が道を行く。真正面から戦いに挑むのではなく、未知の市場を切り開くことに価値を見いだした(もちろん、より困難な道である)。

その名はマイクロソフト。その武器はXbox。Xboxは姿形を変え、何回もプレイステーションに立ち向かった。しかし一度、完膚なきまでに叩きのめされ再起不能手前にまで陥ったことがある。それを立て直したのは、新たにXboxの最高責任者に就任したとある男の手腕のおかげだった。

これはXboxの歴史と、再起不能手前にまで来たXboxを立て直した男の物語である。


Xbox計画が正式にスタートしたのは1999年であるが、実はその前からマイクロソフト内には「いつかゲーム機をつくってやるんだ」と思っていたスタッフが多くいた。Xboxの生みの親の一人であるシェイマス・ブラックリー(Seamus Blackley)は彼らをかき集め、計画をスタートさせた。当時の社長でありカリスマであったビル・ゲイツの前でプレゼンを行った。

マイクロソフトは当時、PS2の発売を目前に控え、自分たちの競争相手がマッキントッシュではなくPS2であることに気がついた。PS2がリビングの中央に陣取り、インターネットを通じてコンテンツを配信しはじめたら? そして巨大インターネット企業たちがソニーと手を組み、そのコンテンツ契約と引き換えに無料でPS2を配りだしたら……? マイクロソフトは恐怖した。自分たちの居場所が、PCが、PS2に取って代わられてしまうかもしれないと予見したのだった。そして対抗策を走らせた。打倒、とまではいかないが、せめてPS2を普通のゲーム機として食い止める必要があった。

しかしXboxチームの企画立ち上げはスムースに行かなかった。なにせ彼らはゲーム機を作ったことがなかった。ビジネスモデルは不明瞭である(彼らはソフトメーカーからロイヤリティを取らず、本体とコントローラーの収益だけでなんとか事業を成立させようとしていた)し、コストの算定もあまかった。なにせハードディスクドライブの参考価格をeBay(海外のオークションサイト)に頼るくらいだ。

その上、マイクロソフトは巨大企業であるために内部でプランがいくつも走っていた。社内的に競争相手がいたのである。もう一つのPS2対抗プランはWebTVだった。「より低価格、よりわかりやすく」を目的としたコンテンツ機器だ。パソコンを持たない家庭向けに、テレビに繋いでインターネットが行えるという仕組みで、1990年代の中盤にかけてそこそこアメリカで普及し、そこに目をつけたマイクロソフトが買収を行った。その買収のあと、WebTVチームは「俺たちこそPS2対抗機をつくってみせる!」と息巻いた。200ドルでテレビにコンテンツを届ける安価な端末を作ってみせる。その上、そのコストでゲームも動かせる。

XboxとWebTVは激しく競争し……そしてXboxに軍配が上がった。最終的に決め手になったのは開発ツールだった。XboxはPCゲーム向けの開発ツール「DirectX」をベースに使う。WebTVではDirectXは動かなかったため新規開発ツールを作ることを余儀なくされた。そのため開発者がゲームを作るとき、WebTVでは新たに使い方を習得する必要があるが、Xboxの場合はPCで使ったノウハウがそのまま生かせるのだ。PC向けで出したゲームをXbox向けに作り直すのも容易だった。マイクロソフトがゲーム機を発売するにあたって、他社からの協力は必須だった(いったいだれがマイクロソフトのゲームしかプレイできないゲーム機を買うんだ?)。PCゲーム市場は、家庭用ゲーム機市場と比べてそのペースは遅いものの、それでも十分に育っていて多種多様なゲーム会社がPC向けにゲームを発売していた。彼らを引き寄せるにはXboxが最適だった。

しかしWebTVの競争は社内的な調整を必須にさせた。それには時間が必要だった。貴重な時間がついやされ、PS2の発売がどんどんと近づいていく。
その上任天堂がゲームキューブを正式発表した(本来、Xboxはキューブ型筐体であったが、おかげで変更を余儀なくされた)。遅れるわけにはいかなかった。

ここで大事なのは「Xboxとはなんであるか」の魂が変容せざるを得なかったことだ。元々のプランではロイヤリティはなく、Windowsが走る予定で、PCゲームがそのまま動くはずだった。しかし多数の人間の思惑が巡り、かつ「現実的にそれが実現可能か。利益をあげることができるか」を吟味された結果、Xboxが変わっていった。

Xboxとはなんであるか。

「対PS2の最終兵器さ!」

初代Xboxはあまりに困難な目標にめがけて姿を変えて走り出した。

ハードウェアの仕様は急ごしらえもいいところだった。Intel製のCPUに、NVIDIA製のGPU。メモリに、ハードディスク。ほとんどPCの構成そのままのハードウェアに、マイクロソフト製のOSが組み込まれた。このOSはWindowsそのものではなかった。強いて言うならDirectXにさらに必要なものを足しただけのものだった。不要なものは全て取り去ったシンプルな構成のため、速く、容量が少なく、とにかく安定していた。見切り発車ではあったが、必要な能力はすべて揃えていた。開発しやすいツールに、PS2を上回るスペック! 初代Xboxの船出である。

このXbox、日本は最重要拠点の一つとして販促がなされていた。長寿バラエティ番組「笑っていいとも!」のゲストとしてビル・ゲイツが出演し、Xboxのプロモーションを行った。TVCMがガンガン流れ、Xbox専用のゲーム雑誌も誕生した。
流通はバンダイナムコ系列のハピネットが取り扱った。ハピネットはプレイステーションの登場時、直接販売を基本としたSCEが特別に問屋として招いた有力流通会社である。日本の市場規模はアメリカに次ぐ世界第二位である。その上有力ゲーム会社が多数存在し、かつ任天堂とセガと、あのソニーのお膝元だ。なんとかしてここに食い込まなければならない。マイクロソフトは全力を注ぎ日本市場への開拓を図った。

その結果は大惨事だった。当時Xboxの担当部門のエンターテイメント&デバイス部門担当プレジデントであったロビー・バック(Robbie Bach)は「日本はマーケットシェアがマイナスになった唯一の国だ」と語っている。売ったXboxより、返品されたXboxのほうが多かったのだ(これは累計の話ではなく、単年度での話と思われる。任天堂もかつてWii Uで欧州にて単年度マイナス出荷を刻んでしまった実績がある)。

Xboxは悪い機械ではなかったが、日本での発売時期が遅すぎた。2002年2月では、すでにみんなお年玉でPS2を買った後だった。その上、その昨年末にはゲームキューブが発売され、しかもスマッシュブラザーズDXも発売済みだった。Xboxを買う金があるなら、PS2か、もしくはゲームキューブとスマブラDXと、人数分のコントローラーを買うべきだった。25万台のXboxが日本向けに出荷され、その半分は長らく在庫として残った。最終的には50万台の出荷で終わった。対するPS2は2000万台以上。ゲームキューブは400万台。マイクロソフトの完敗、一人負けだった。

しかしこれはあくまで日本市場の話だった。世界規模ではハイパワーなXboxの魅力に引き寄せられたゲーマーたちは多かった。とくにアメリカでは熱狂的なファンができた。1000万台以上のXboxがアメリカの家庭に入り込んだ。これはセガ最後の家庭用ゲーム機であるドリームキャストの世界出荷すら上回っている。初めてのゲームハードとしては上出来だった。オンラインで遊べるXbox Liveも稼働し、ゲーマーたちはPS2以上の性能をもち、PCよりもわかりやすいXboxを好んで使用することになった。

ゲームの開発者にも衝撃を与えた。まさか家庭用ゲーム機でここまで最初から扱いやすいハードというのもなかったからだ。日本のとあるデベロッパーは「これまででいちばん衝撃だったゲーム機はXbox」とまで評している。


マイクロソフトは初めて参入するゲーム市場にて一定のシェアを勝ち得た。世界シェア的には任天堂のゲームキューブを抑えて据え置き機第二位の地位に躍り出た(任天堂は当時ゲームボーイアドバンスとニンテンドーDSで猛威を振るっていたのをお忘れなく)。

この結果にマイクロソフトは満足していなかった。世界シェアが二位とはいえ、PS2は1億5000万台というずば抜けた結果を残している。我々はもっと売らなければならない。ゲーム市場の拡大に関わらなければ。

そうした背景でマイクロソフトの社内もまた変容していく。Xbox開発チームは次々に辞めていった。生みの親の一人であるブラックリーもXbox発売後の2002年にマイクロソフトを辞めている。巨大企業マイクロソフトは、Xboxをなんであるか、それを決め直す時に来ていた。次世代機、Xbox360が動き始めた。

Xbox360開発責任者、J・アラード(J Allard)はXbox360についてこう語った。

 私は、ソニーに勝る競争力を持つ、非常にハイパフォーマンスなシステムを設計したと思う。

 しかし、我々が抱えている課題は、ゲーム開発者に、未来(の革新的なゲーム)を考えさせることだ。そのためには、テクノロジでなくエクスペリエンスこそが重要だ。どんな新しいゲーム体験を推進できるのか、どんな新しいサービスを開発者に与えられるのか。そのサービスによって、開発者が革新して、ユーザーに新しいアイデアを提供できるようになる。

https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/0603/kaigai185.htm

Xbox360はなんであるか。「ゲーム開発者に未来を届けるスペックを有したゲーム機」だ。新しい体験(エクスペリエンス)を実現できるスペックを有したプラットフォームだと、PS3に負けないのだ、と彼はインタビューで語って見せた。

PS3に先行すること1年、2005年に発売したXbox360は売れた。PS3があまりに高価格な設定をしてしまった(なにせ当初の小売価格は20Gモデルが59980円だった。それより上のクラスの60Gモデルはオープンプライスだったが、おそらく69980円だっただろう)ため、その対抗馬として39785円で発売されていたXbox360に注目が集まった。PS3は実際に発売するまでに一万円値下げすることで49980円となったが、それでもXbox360のほうが遥かに安かった。PS3発売時にはそれを見越して廉価版である「Xbox360コアシステム」を発売した。29800円であり、ハードディスクがついていないが後付けすることで通常版と同等品に変更することもできた。セーブには別売りの専用メモリーユニットを使った。

これらの戦略は吉とでた。あまりに設計を駆け足でやってしまったため、電源が外付けで不格好であるとか、無鉛ハンダを使うようになった影響でRRoD(Red Ring of Death。本体エラーを現す赤いランプからこう命名された)が発生しその補償として54億ドルの特別損失を計上することになったとか、そういった問題は発生したものの、それでもPS3相手に戦えるレベルにまでXbox360は至った。累計出荷台数はおよそ8000万台。これはPS3とほぼ同等だった。特にアメリカでの支持を強く獲得した。

しかし売れたのはあくまで世界的な話である。日本ではPS3には敵わなかった。Xbox360は「初代Xboxよりはだいぶマシ」程度の、150万台出荷に終わった。PS3は1000万台である。Xbox専門誌も休刊になってしまった。


このとき任天堂がWiiという1億台売った化け物ハードウェアを発売した。新規層はがっつり任天堂に持って行かれた。Wiiリモコンと命名された全く新しいコントローラーを振ることでゲームを動かす。モーションコントローラー時代の始まりだ。

少しここで話は脱線する。確かにWiiは革新的なハードウェアであるが、実は「初めてモーションコントローラーを採用したゲーム機ではない」ことに留意しておいて貰いたい。

「サイドワインダー フリースタイルプロ」というコントローラーがある。マイクロソフトがPCゲーム機向けに発売したコントローラーで、傾ける動作がそのままキャラクターの動作に反映するようになっていた。

モーションセンサーを搭載したコントローラーであるが、この発売日はなんと1998年である。Wiiどころかコロコロカービィ(2000年)よりも早い。恐るべしマイクロソフト……といいたいが、これは本当に、ただ傾ける動作をアナログスティックに落とし込むだけのものだった。どちらかといったらかつての「パックスパワーグローブ」の進化系のようなものである。
専用のゲームが発売された……という話も聞かないし、後継機もでることなく歴史に埋もれていった。

その後、PS2対応デバイスで「EyeToy」というものが発売される。テレビの上にカメラを置き、そのカメラがプレイヤーの動作を認識する。プレイヤーもゲーム画面にちゃんと映り込むし、手足の反応がゲームに反映される。



これが欧州で大ヒットした。パーティ用ゲームとして最適であったし、体を動かすゲームは新規層に突き刺さる。かつてファミコンでもファミリートレーナーなるものがヒットした。

つまりWiiのヒットは単独で生まれたわけではなく、こうしたモーションセンサーの模索の果てに誕生した結果といえる。任天堂を評価するなら、「そのスティック状モーションセンサーコントローラーをオプションではなく標準にもってきた新規性」を言うのではないだろうか。

さて、こうしたWiiの大ヒットを前にマイクロソフトも模索を始めた。同等品を作るべきだろうか? いや、そうではない。ライバル会社AppleのCEO、スティーブ・ジョブズが語った名言がある。

美しい女性を口説こうと思った時、ライバルの男がバラの花を10本贈ったら、君は15本贈るかい? そう思った時点で君の負けだ

より高性能なモーションセンサー搭載コントローラーなんていうのは愚策だ。マイクロソフトはそう考えた。困ってしまったのがソニーである。PS MOVEの構想自体はWiiよりも遥か前、PS2発売時からあったのに登場がWiiリモコンより後だったため、ただのWiiリモコンのパクリに見えてしまった。以下は2000年頃の開発者向けカンファレンスである。MOVEの試作品らしきものが映っている。


とにかくマイクロソフトは新機軸のコントローラを模索し始めた。いったいどのようなコントローラがいいだろうか。
いきついた結論は明瞭だった。

「コントローラーをなくしてしまえばいいじゃないか!」

EyeToyの方向性は正しかった。あとはそれを異次元レベルに進化させてしまえばいい。EyeToyは深度センサーを備えており、プレイヤーの距離を測ることができた。例えばプレイヤーがパンチをすれば、距離を測ることでそれをきちんとパンチとして認識することができる。それは確かに有用だが、ゲームに落とし込むにはまだまだあらゆる性能が足りない。このままでは普通のオプションの枠を出ない。そう考えたマイクロソフトは、さらに高性能なセンサーを突っ込むことに決めた。
RGBセンサーに深度センサー、マイクに、それらを処理するための専用プロセッサー。出来上がった製品は「Kinect」と名付けられ、2010年に発売された。

Kinectの性能は驚くべきものだった。顔が認識でき、骨格の動きをトレースする。位置も把握しており、画面の中のサッカーボールを蹴ることもでき、ダンスゲームは本当にダンスすることになった。フィットネスゲームはプレイヤーがサボっていないか監視することが出来、何もないところでハンドルを握る真似をすることでドライブゲームが可能となった。

https://www.youtube.com/watch?v=jhRFsX_1FgE


Kinectは大ヒットとなった。148ドル(14800円)という価格はオプションとしては恐ろしく高く、「99ドルを超えたオプションは成功しない」というゲーム業界の常識に真っ向から立ち向かうことになったが、2400万ユニットが出荷されることとなった。高価格帯オプションとして見なくとも異例の数字だった。こぞってXboxプレイヤーはKinectを買い求め、新規層もKinectに興味を惹かれてXbox360を求めた。Xbox360の出荷に加速がついた。

Xbox360とPS3の出荷台数が同等にまで至った理由がここにあった。PS3にはKinectがなかったが、Xbox360にはあったからである。「Xbox」のブランドを押し上げ、プレイステーションと戦えるレベルにまでKinectは持って行くことに成功した。そしてこれが、Xboxの未来の失敗に繋がっていく。


実はKinect発売にあたってマイクロソフト内で異変が起きた。Xbox360の生みの親であるJ・アラードがマイクロソフトを退社している。そのほかにもJ・アラードの上司にあたるロビー・バックも退職した。Xboxを支えていたメンバーがKinectの発売を前にして次々に辞めた。マイクロソフトは巨大企業であり、Xboxに関わっている人数も相当数である。中核をになうメンバーの交代、というのはさほど珍しくはなかった。

彼らにいれかわる形でXboxの顔役を務めるようになったのがドン・マトリック(Don Mattrick)である。彼は2007年から外部顧問としてXboxに携わっており、これを機にXbox部門の最高責任者に就任した。彼は勢力的にKinectとXbox360を推し、そして実際に売ることに成功した。Kinectの魅力はWiiを体験した新規層にも突き刺さり、Xboxの売上は伸びたことは先に述べたとおりである。

ドン・マトリックは次世代機を計画する。Xbox360よりさらにパワフルで、パワーアップしたKinectを提供する。これによりさらにゲーム市場を活発化できるはずだ。いや、もはやこれはゲームにとどまらない。家庭の中心に位置するホームコンピュータとしての地位を狙えるはずだった。

もともとXboxはPS2対抗機として誕生した。PS2がリビングの中央に位置し、コンテンツを配信する立場になるのを阻止するためのゲーム機だった。普及台数ではPS2の足元にしか及ばなかったが、その目的自体は達成できた。インターネットを利用したコンテンツ配信はXboxのほうが早く、利便性も上だった。

次世代機ではゲームのみならず、テレビや映画、ありとあらゆるコンテンツを配信できる端末で、かつオプションであったKinectを標準へと変更した。これによりゲームはKinectを前提とした新しいインターフェースを搭載できる。顔認識で家族個別を認識し、声で起動する。Kinectはv2(Version2)となり、認識解像度が4倍になった。手の開き具合まで認識でき、より近くまで、より遠くまで認識できた。あまりに高性能なため、処理するためのプロセッサーも高コストになり、今回はプロセッサーは搭載せず本体側に処理を任せる仕様に変わった。

新型Xboxが姿を現す。その名は「Xbox One」。
Xboxとはなんであるか。ドン・マトリックは答える。

「ゲームやテレビ、Skypeなど“エンターテインメントのオールインワン”端末」

ネーミングのOneにはこのような意味合いが含まれていた。Xboxはその魂を変容させ、次なる戦いに身を投じることになった。

XboxOneはオールインワン端末である。そのためのオンライン接続を必要とした。この時代、ほとんどのゲーマーがオンラインでゲームを楽しんでいたため、「オンライン接続必須」という条件はさほど大きく違和感を覚えなかった。しかし、さらに続くXboxOneの仕様には驚かされた。

 XboxOneは中古売買に制限がかかった。パッケージを売ることができるのは一部の小売店のみ。
 譲渡にも制限がかかって、フレンドと認定した相手に、かつ一度だけ。そのうえ貸し借りにも制限がなされた。
 そのうえ、パブリッシャーの都合により中古売買自体を完全に禁止することもできる。マイクロソフト自体は中古を禁止しない。
 オフラインで動作する時間は24時間。その後はオンラインでの認証を必須とする。

来るべきダウンロード販売時代にあわせ、オンラインで動作することが前提となったマシンだった。今の時代もオフラインで動作しないマシンというのはさほど違和感はないだろう。しかし中古売買の制限に関しては大きな反響を呼んだ。とても、とても悪い方向に。

マイクロソフトとしてはDRM(Digital Rights Management。デジタル著作権管理)をきっちりと行うようにし、無制限なデータコピーの氾濫に歯止めをかけなければならなかった。Xbox360もプロテクトがかかっているのに、違法コピーに苦しめられていた。次世代機に移行するのをきっかけに、より踏み込んだ制限が必要と考えた。もしダウンロード版のゲームソフトが無制限にコピーされインターネット上に流出でもしたら、損害は計り知れないものになる……。そのためにはユーザーとゲームをより強く、オンラインで紐付けしなければならない。たとえそれが、ユーザーの「一時的な」不利益に繋がろうとも。きっと理解が得られるだろう。これはゲームだけじゃない”オールインワン”端末なのだから。

非難の大洪水がマイクロソフトを襲った。不正コピーとは無関係な善良な、しかも圧倒的大多数のユーザーには、ただ一方的に不利益を押しつけられるだけだった。なぜ中古が扱えない? なぜ友達に自分のもっているソフトを貸すことができない? マイクロソフトの言い分は理解ができなかった。

プレイステーション有するソニーはこの機を逃さなかった。世界最大のゲーム見本市E3の2013年にて、「PS4ではディスク版タイトルをオフラインプレイで遊ぶ場合、ネットワーク接続や認証は必要はなく、中古タイトルなどにも制限をかけない」と高らかに宣言し、ユーザーの支持を得た。よくよく考えてみればこの仕様はPS3と全く同じなのだが、それをわざわざ宣言したことで支持を得ることができたことが、どれだけマイクロソフトの失策が大きかったのか覗える。

このE3の一週間後、マイクロソフトはこれらの指針を撤回した。360と同じ、中古売買可能で譲渡や貸し借りも自由、という方針へと戻した。しかし、ユーザーの信頼は戻らなかった。

このドタバタ劇の代償は大きかった。E3が終了した一ヶ月後、ドン・マトリックはマイクロソフトを退社した。恐ろしく不名誉な置き土産をのこして。

2013年11月、アメリカを中心に主要国でPS4とXboxOneが発売した(残念ながら日本は主要国から外された)。完全な真っ向勝負であったが、先に500万台を販売したのはPS4だった。XboxOneが500万台販売したころには、PS4はすでに700万台を販売していた。PS4は加速を続け、どんどんとリードを広げていった。

この背景にはKinectが絡んでいた。

ドン・マトリックはXboxOneにKinectを同梱することを強く勧めていた。同時にKinectのパワーアップを図ることにした。149ドルだったKinectのコストはさらに上がることになった。そのためコストを抑えるべく、v1にはあった専用のプロセッサが排除された。XboxOne側で処理を行いコストダウンすることになった。
しかしKinectを同梱するのだから本体と合計のコストはどうしても高くなる。本体側も相応のコストダウンが必要になった。メモリは安いDDR3メモリを使い、GPUも小ぶりで安いものを採用した(代わりに少容量で高速な混載SRAMを積んだ)。これでもXbox360と比較したら恐ろしいほどのパワーアップだからだ。
本体価格は499ドル。Kinectが同梱するのだから、これが精一杯だった。

相手がPS3やXbox360であれば問題なかった。問題は、相手がPS4だったことである。

PS4はPS3の設計の反省を踏まえた構成だった。PS3は高性能だが、その高性能さ故にゲームの開発は大変だった。複数あるチップを効率的に動かすプログラムを書くのに開発者は手間取った。当のソニーが提供する開発支援のツール自体が遅れる始末だったし、価格も高かった。
PS4はシンプルに、高性能なGPUに一般的なx86-64のCPUが載っかったものだった。高コストだが高性能なGDDR5メモリも搭載した。単純に家庭用ゲーム機を目指すなら最良の構成だった。その性能はXboxOneを上回った。

さらに都合が悪いことにPS4は何も同梱していなかった。シンプルな構成で399ドル。XboxOneよりも性能が高く、安かった。Kinectに興味がないプレイヤーは迷うことなくPS4を買った。

Kinectは2400万ユニット売れた大人気商材だ。興味のあるプレイヤーは多くいただろうか? 残念ながらマイクロソフトのもくろみは外れてしまった。v2となったKinectは確かに高性能だった。しかしその高性能なKinectで出来るゲームは、フィットネスであり、ダンスであり、サッカーゲームであり……と、さほど360時代と代わり映えしなかった。そのゲームのクオリティ自体は上がっていた。上がっていたが、Kinect登場時の衝撃にはとても及ばなかった。マイクロソフトはスティーブ・ジョブズ言うところの「15本の薔薇の花束」を作ってしまった。付属プロセッサがついてないKinect v2は本体のパワーを奪う置物に変わってしまった。

マイクロソフトは進路修正を余儀なくされた。Kinectをシステムから切り離し、399ドルに設定したKinect非同梱版を売り出す羽目になったのである。

そんな状況において相変わらずマイクロソフトから退社する人材は後を絶たなかった。今度はマーク・ウィッテン(Marc Whitten)が退社した。Xbox創世記から参加していたメンバーで、最終的な役職はXbox担当最高責任者。ドン・マトリックに続き最高責任者が退職する羽目になった。マイクロソフトのXbox部門がガタガタになっているのは明らかだった。

新たな顔役が必要だった。空っぽになってしまった箱のなかに熱い魂を込めてくれる顔役が。

そして彼がXboxの最高責任者となった。


フィル・スペンサー。彼は、誰よりもゲームをプレイし、ゲームに情熱を注ぎ、ゲームに深い愛を捧げたゲーマーだった。


-後編へ続く-

参考文献

マイクロソフトの蹉跌 ディーン・タカハシ

参考URL

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