祖父


私が初めて身内の死というものを体感したのは小中学生の時だった。
10年以上経った今でも祖父のことを思い出すと喉の奥が熱くなって自然と涙が出てきてしまう程度には自身にとって大きな経験であり、私の今持つ死生観やらなんやらの元となる大きな2つの出来事のうちの1つである。

宮城の田舎で育った私は両親と父方の祖父祖母と同じ家で暮らしていた。
今でも両親には非常に愛されている自覚しかないのだが、両親は共働きだったため小さい頃はほぼ祖父と祖母に面倒を見てもらっていた。父親は3人兄弟で父の上に姉が2人いる。末っ子ではあるが長男である父が家を継いだので、祖父と祖母にとっては私が初孫という訳ではないのだが、一緒に暮らしている孫という点においては私が初めての孫である。自分でいうのもなんだが、それはもうとんでもなく可愛かったのであろう。祖父も祖母も大好きだったが、私はとにかくおじいちゃん子であった。私の名付け親も祖父であるので、それはもう宿命といっても良いかもしれない。自分の名前を嫌だと思ったこともないし、むしろ大好きなのだが、これだけ好きだと思えるのは祖父がつけてくれたから、というのも大きいのかもしれない。

とにかく、どこに行くにも祖父と一緒だった。
田舎は車社会であるので、幼稚園・小学校の送り迎えはほとんど車を運転できる祖父がしてくれていたし(祖母は免許を持っていないので)、何処かしらに出かけなければならない時は幼少期はほとんど祖父の車だったように思う。幼少期の記憶は薄ぼんやりしかないのだが、唯一残っている楽しかった記憶や印象的な記憶の大半に祖父の存在がある。あまり寝付かない幼児の時に祖父の車に乗せて辺りを一周すると寝かしつけることが出来たので一緒に居たとか、祖父と一緒に病院に行って病院に置いてある絵本を私が声に出して読んだら周りの人に褒められて祖父が得意げにしていたとか、ホタルやおっきなトンボを捕まえて見せてくれたりカブトムシを捕まえたいと私が言ったら私以上に張り切って誘き寄せる罠を考えてくれたりとか、祖父が近くの川でどじょうを釣っているのをただ近くでちょこんと座って見ていたのとか思い出すとキリがないし大した思い出でもないのかもしれないが1つ1つが大切な思い出である。
祖父母というのは孫に甘いと言うが、本当に甘やかされて育ったと思うし、とにかく私にとっては優しい優しい祖父でしかない。

祖父はとにかく、農作物を作ることに命をかけていた。
私の実家は米農家であるのだが、私が小さい頃には米以外にも色んな野菜を作っていた。じゃがいも、大根、とうもろこし、トマト、きゅうり、とかは確か採れたてをむしゃむしゃ食べていた記憶があるし、春菊の出荷の手伝いをしたこともあった。家の庭に生えている栗や筍を収穫し、柿は干し柿にしていた。新しいものを作るのにも余念がない人で、いきなりスイカを作り始めたり、ビニールハウスを丸々葡萄用に改造して葡萄を作ったりなどのチャレンジもしていた。出荷の包装と米の田植えや種蒔きぐらいでしか駆り出されることはないのだが、そんな時祖父はとにかく生き生きとした顔をしていた。



祖父が入院した。
身内の手術だったり入院だったりはそれまでにも何度か経験していた。それまで幸いにも大事になった人はいなかったが、祖父のそれは治ることが難しいらしい。
お見舞いに行く度に、うまく喋ることができなかった。病室という白い空間でいつも通りに話すことができない。私は幼少期は非常に活発であったのだが、小学校に入った辺りから絶望的に人見知りを発揮するようになり家族と気心知れた友達以外の前ではてんで話すことができずモジモジとしていた。だから、その異質な空間に人見知りでもしたのだろうか。どこか他人行儀な言葉でしか会話ができなくて、今でもそれをずっと後悔している。
長らく入院していたが、少しだけ祖父が家に帰ってきた。回復が難しい故に最期に少しでも家で今までのようにということらしい。子供である私に詳しくは知らされていなかったが、なんとなくそういうことなのだなと感じ取っていたしそれとなく父からも伝えられた。学校もあるのでずっと一緒にいることは無理だが家に再び祖父がいることは嬉しかった。
ある日、家に帰ると父が呆れながら怒ったようなおかしいようなそんな様子だった。話を聞くと、祖父が炎天下の中草刈機を持って田んぼの草刈りに行ったらしい。そんな体でそんなことをしてはいけないのに何をやっているんだ!ということではあるのだが、私はどうにも祖父らしくて父と同じように呆れながらも笑ってしまった。
それから暫くも経たずに祖父は亡くなった。酸素マスクをつけて意識のない祖父を家族皆と父の姉である叔母達と病室で見ていた。最期の言葉を、と周りに促されたが、何も言うことが出来なかった。意識はないし話すこともできないが、確かに祖父にその瞬間こちらの声は聞こえていたらしかったのに。父が家のこと、田んぼのことは大丈夫だよと言ったら、グァと急に唸り声をあげたのでやっぱり相変わらずだなぁと皆で笑った。あの時、一言でも感謝の気持ちを伝えられていればと今でもずっと後悔している。

お葬式では悲しいと沈む前にとにかく慌ただしかったなという感情の方が大きかった。祖父の兄弟だったり近所の人だったり、とにかく沢山人が来た。昔の人は兄弟が多いと言うが祖父もそうで、8人兄弟であった祖父のお葬式には沢山の人が来た。所謂祖父の兄弟達の実家にあたる我が家で、お正月やらなんやらで顔を合わせたことは勿論あるのだが、彼らに対して嫌いでもないが特段好きという感情も抱いていなかった。今考えると人見知りをゴリゴリに発揮し始めた一因でもあるような気がする。勿論全員という訳ではなく、好きな人達もいたし大抵は優しい人達であったが、田舎特有というよりどの家でもあることなのかもしれないが、嫁いできた祖母や母にあまり優しくない言葉を口にする人達に嫌な気持ちを抱いていた。だから、全体を通して言えば好きでも嫌いでもないし、家や家族のことは好きだが田舎のことは嫌いだなぁと思い始めたのはこの辺りの経験が大きいのかもしれない。
通夜に葬儀に告別式に火葬になんやらと、とにかく慌ただしかった。納棺された祖父を前にして祖母が今までの張り詰めていた糸が切れてしまったかのように縋り付くようにして泣いていた。祖母が泣くのを初めて見た私は奥歯をギュッと噛み締めた。周囲がそれを見てこそこそと色々言っているのが雑音のように聞こえたが、祖父と祖母は確かに仲が良かったし、私にはそう見えていたから、それが答えだと思うのだ。
私は祖父にお別れの言葉を読むことになった。祖父との思い出をいくつか書き出してそれを親が添削したものだった。確か、読みながら泣いてしまったような気がする。今思い出しても泣いてしまうくらいだから恐らく号泣しながら読んだのだろう。周りの大人が感動したような顔をしていたので多分うまく読めはしたのだと思う。
大勢人がいる中、妹と2人でいつも前方の方に座っていた。足が痺れて使い物にならないなぁと考えたり自分の家のはずなのに妹と2人で肩身が狭いなぁなんて子供ながらに思っていた。

お別れの言葉を読んだ際には泣いてしまったが、葬式がひと段落して家に両親と祖母と私と妹しかいなくなった時に、疲れとホッとする気持ちと一緒にあぁ祖父は亡くなってしまったんだなぁと思った。
その日の夜、夢の中に祖父が出てきた。内容は覚えていないのだが、ただ祖父が出てきたなぁということは覚えている。次の日父にその話をすると「お前に会いにいったんだなぁ。お前はおじいちゃん子だったからなぁ」と言われた。また鼻の奥がツンとしながら足下にいた猫をぎゅっと抱きしめた。






なぜ急にこんな祖父との思い出と私の人格形成に影響を与えた田舎の野郎共の話を書いてしまったのか。
自分でも訳の分からない衝動なのだが、凄い可愛らしい小さい2歳の生き物が歌っているあまりにも可愛いらしい映像を見て自分の幼少期を振り返ってしまったのがきっかけである。
私ももう25歳。歳を取るに連れて、大切な人とのお別れがまた増えていくんだろう。今のところ祖父と愛猫や愛犬との別れを経験しているが、その時少しでも後悔しないような選択をしていきたいなと思うばかりである。


もう10年以上前の記憶なので、多分大分色々な部分が美化されているが、それっぽい脚色をつけただけど多目に見てほしい。ちなみに我が家は幽霊が割と出るので(私は見えない)(変な音が聞こえたりはするし見えないなりの恐怖体験はある)、霊は信じているタイプなのだが、祖父から守護されていると信じて疑っていない。

衝動で書いたので、乱文で失礼いたします。

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