【創作大賞・恋愛小説部門、参加作】 泪・・・愛しい女へ(第1話)
#文学フリマ
第1話 娑婆と女
春。
「15年ぶりに娑婆の空気が吸えた。看守のいない生活。それが人にとってどんなに幸せであるか、社会で働く奴等には分からねぇだろう。刑務所暮らしはこの世の地獄。まあ、慣れてくるとそうでもねぇが…」
青渡高等刑務所から出て来た岩渓 瑛埜36歳は、出口門扉から正面に流麗に咲き誇る桜並木に向かい大きく深呼吸した。
新鮮な空気と言えるほど澄んだ場所ではない。
近くには工場地帯が広がり、大型トラックが頻繁に行きかう場所。
それでも、彼にとってこの門扉の外は大自然の草原に佇んだかのように清々しく気色の良い場所に思えたのだ。
15年前。
「ひでちゃん、私のこと好きでしょう?」
「ああ。」
「じゃぁ、あの人と勝負して勝てたら彼女になってあげる。」
「馬鹿野郎、俺は極真空手の師範代だぞ。素人相手に喧嘩が出来るわけがねぇだろう。」
「じゃぁ、私はあの人のものになるのね。」
「くそっ。始末におけねぇ女だ。」
瑛埜は、成人式の日に友人の誘いで合コンメンバーに加わった。
その席で出会った向陽精華女子大学生の亜子に一目惚れをした。
付き合いを渋る亜子に何度もアタックを掛ける瑛埜。
だがどうしてもモノに出来なかった。
男の存在に気付いた時には、完全に心を奪われ、師範代として立っている極真道場でも集中できない状態にまで嵌まり込んでいた。
そんな彼女から、突然呼び出され、カフェランチを共にすることになった。
「分かったよ。あいつを伸せば俺の女になるんだな。」
「そうよ、私の全ては貴方の物よ。」
お膳立ては亜子が用意していた。
思えば何故か不自然な事にも思える。
余りにも事が彼女に上手く進んでいった。
亜子の彼氏である谷萩 徇と対峙した場所は、高速道路の高架橋の下にある河原だった。
亜子は、誰にも邪魔されないからと俺に耳打ちした。
当然、俺の勝だと確信はある。
だが、格闘家が素人相手に喧嘩をすればそれなりの報いを受けることは確かだった。
その報いがまさか、刑務所に15年も閉じ込められることだったとは思ってもいなかった。
「亜子、この男か、お前をしつこく付け回すストーカーってのは。」
「う、うん・・・」
「こういう男はな、身体で分からせないと質が悪いんだ。」
俺は、谷萩の言葉を聞きながら、亜子の表情を追った。
彼女は何故か薄笑いを浮かべていた。
それが何を意味するのか、その時俺には分からなかった。
谷萩が、いきなりナイフをポケットから取り出した。
深いポケットだったが、それでも決して長い刃渡りではない。
極真道場でもナイフを持った相手と対峙する訓練はある。
考えてみれば、勝負の流れとして、最初は素手から始まってもおかしくない。
そこに疑問を感じなかった俺は、亜子に入れあげていたことで冷静さを失わされていたのだろうと思う。
「ちょろいな。」
その時、俺は心の中でそう思った。
谷萩は正面から腕をまっすぐに伸ばし、俺の腹を刺そうとナイフを突き出した。
俺は、右足を外回りに腕を蹴り、ナイフの進行を逸らした。
そして、そのまま左足で後ろ回し蹴りを浴びせた。
踵が、谷萩のこめかみに食い込むのが分かった。
後ろ回し蹴りをピンポイントで相手に当てることは容易い。
そこまでだった。
時間にして一分もなく、谷萩はその場に倒れ動かなくなった。
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