ユラギノ勇者

なんてことない日常に飽き飽きしていたら、最近はやりの異世界転生をしてしまった。しかし僕は勇者にはなっていなかった。別にスライムに変態しているわけでもない。どころか、世界には何にもなかった。

「なにこれ?」
思わず声が出る。周囲360度をぐるり見渡しても本当に一切何も存在しない。全方位へ無限に続く真っ白い空間。いや、そこは透明で、白でさえない。色さえも存在しない。だから、白とも黒ともつかないし、光があるのかないのか、明るいのか暗いのかもわからなかった。完全なる虚無の空間。僕が立っている場所さえ覚束ない。

そこで気付く。そう、僕は存在するのだった。
瞬間、水を得た水力発電所のように勢いよく思考回路が高速回転を始める。頭脳が水を得た植物のように明晰になっていき鮮やかな記憶が溢れ出す。
記憶の一欠片にのった先輩の破片が目にとまる。途端、どうして忘れていたんだろうか、他凡ゆる物を差し置いて虚無空間の中に先輩を探し求める。
しかし何処にもいる訳がない。此処は、僕と僕の記憶以外に何も存在しなかった。

ところが、さすが先輩は強い。尋常じゃない生命力だ。脳裏へ先輩の声が響く。僕の記憶の中から彼女は軽々と生を得る。
「後輩くん。ヒント1、あげよっか?」
二人でよくしたクイズゲーム、上から目線な常套句。そして僕はそれを請うんだ。いつも、いつも。
「ください」
ふふっと笑って先輩はこちらへ本を投げる。本が好きとか言っといてこういう所は乱雑な奴。彼女はいつだって、読めりゃいいのよと宣ってみせる。
投げられたのはnewtonの素粒子力学。その初歩の初歩的な箇所にヒントがある。ドッグイヤーされた12頁目。
「ユラギノ」。

そして、僕は先輩を観測する。僕は僕自身を観測する。素粒子の世界では観測されたものだけが真実になる。其れ迄全ては存在さえもが不確定なのだ。これで世界に色が戻るだろう。

しかし、「不正解!」
先輩は嬉しそうに笑う。意地が悪い。でも確かに世界は変わっていない。相変わらず僕は此処に一人だけで、何もない世界から抜け出せない。
僕は早く布団に戻りたい。世界に戻りたい。先輩のいる世界に戻りたい。

すぐに僕は折れそうになる。弱くて、諦めてしまいたくなる。記憶の先輩さえも消えていき、本当に孤独になりそうになる。しかし先輩の生命力がやはり僕の弱気を勝る。
「まてまて、まてよ」
記憶からひょいと手を伸ばし、先輩がnewtonを取り上げた。そしてさらりと何かを書き込む。また投げて寄越す。
「踊れ!」
それで僕は理解した。

踊る、踊る、世界に表現する。観測しなければ存在しない。裏返せ!観測されなければ存在できない!
踊ってる君を観測したい
踊ってる僕を観測させたい
観測させて仕舞え
世界に表現しろ
大海に水滴を一擲、
ユラギノ世界に答えを突きつけるんだ──

「さあ、一緒に踊ろう?」
先輩が極上の笑みで僕に手を差し出して、僕は夢見心地でその手を掴む。記憶の向こう側へ引き寄せられる。
浮力──浮上、覚醒。

目が醒める。
ベッドの上、月曜の朝。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?