小説と憂鬱の関係ー『バッドエンドと憂鬱の引力』に反駁或いは補論の雑記

 白鴉河白砂くんが以前『バッドエンドと憂鬱の引力』というミニエッセイを書いていた。内容を物凄くざっくり纏めると「小説を書いていると否応無く暗くなりがち。ストーリー展開において、例えば何か問題があってそれと向き合っていく主人公、を描こうとしたらその過程は悩み多きものになるはずで、うまく言葉を捨象しないと破滅的で絶望的で薄暗いバッドエンドに猪突猛進してしまう」というものだった。

 ほんとその通りなんだよな。だからこそ、結びに書かれていた「作者のメンタル管理」が「恐れ多くも作家先生などというもはや神聖視しているような職業」を目指す上では欠かせないという論にも全面賛成だ。鬱々としたメンタルで書けるのは、基本的に同じ鬱々の「共感」を求めている相手にしか作用しない小説だ。もちろんそれだって十分な一つの救いの形なんだけれど、他人の鬱々というのはまるで劇薬みたいなもので、あの時自分を救ってくれた憂鬱小説が、違う時には目にも入れたくないほど鬱陶しく感じることも多々ある。他人の憂鬱というのはちょっと元気のないような人間にとっては毒にも薬にもなりすぎる。だからやっぱり、そうじゃない作品、どこかすっぱりと前を向いて毅然と生きていきたくさせる魔力を持った作品を書けるようになりたいわけだ。

 白鴉河白砂くんは、「暗い小説を書くと、読者はもちろん作者も暗い気持ちになる」と書いた。私はこの点に異論、あるいは補足があるのである。
白鴉河くんの言い方ではまるで「暗い」小説を書くと作者も暗くなるというようだ。しかし私は思う。どんなに爽快で明朗快活さっぱりとした作品を書こうとも、とにかく作品を書くということ自体によって作者は暗くならざるを得ないと思うのだ。特に、書き上げた時である。
執筆途中の苦しみなんてものは数えない。私が恐ろしいのは、そこではなく、何か書き上げた時のぷっつりとした喪失感なのだ。

 「身を切って書かれた小説」という表現がある。文芸誌の新人賞選考委員からのアドバイスなどにも「あなたにしか書けない、しかし全く新しい誰も考えたことのないような世界を見せて」といった類の激励が並びがちだ。つまり作家とは、自分を嘘偽りなくまっさらに晒け出し、美醜善悪些細な精神の凹凸までも干渉されることに耐えなければならない職業なのだと私は捉えている。それに、テンプレートにウケるストーリー展開で楽しませようとする小説は違うかもしれないけど、テンプレートじゃない「目新しい心の動き」なんてものを描こうとすればそんなのは自分の中からしか出てこないわけで、そのまんま心の一番柔らかいところを供物のように捧げないと小説が出来上がらないわけだ。ほとんど拷問である。なんの儀式だよ。しかも、それをしたからって必ずしも良いものが書けたり評価されたりするわけじゃないときたもんだ。必ずしもどころか万に一くらいなんじゃないのか。

 そんな風にして書き上げた文章は、本当のところ自分だけにしまっておきたいくらいの一番の自分の恥部で、それを衆目に晒した瞬間、大切なものを失ったような空虚感で死にそうになる。「作品は我が子」というがことこれに関しては違う。我が子というより処女って感じ。尊厳を手放したような気持ちになる。自分でやったくせにね。
 加えて、その作品を書いていた時自分の中にあったものを詰め込んでさよならすると、もう自分の中に何にも残ってなくて身体中が空洞になったような薄ら寒さに襲われる。自分が空っぽになってしまいもう何もなくなったように感じる。それはすごく怖い感覚だ。動悸を抑えてめちゃくちゃ歩いたり無理やり人と会話したりどうにか数時間から数日くらい我慢すれば元に戻るのは経験則でわかっているのにそれでもすごく怖いのだ。私が「小説を書く行為自体がどうしても作者を鬱にさせる」というのはそのためだ。

 暗い小説を書こうが馬鹿馬鹿しい小説を書こうが変わらない。何かを書けば、そこには作者の心のひとかけらや羞恥の部分がどうしてもどこか籠ってしまう。得体の知れない自分の中身が籠ったそれを公開することは、尊厳の破壊と他者の視線への恐怖と自我の喪失を全て同時に含んでいて作者を破壊しようとしてくる。

 だから思う。バッドエンドかどうかは関係ない。文字と向き合い続ける以上、作家はこれに耐えられるようにならなければいけないのだ。

 そう思って私は今日もプルプル震えながらキーボードを打ち、うんこみたいな文章でもすごい頑張ってエンターキーを押して投稿してみるのでした。

 辛いものも炭酸もナスもピーマンも克服したんだからこれだってできるようになってみせるんだからね!ふん!

by. 水無月透子

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