少年は少女を守りたいのか?〜創作における主人公の性別必然性を考える

いつも主人公の性別を決められなくて困ってるんだけど、今書こうとしてるのも困っている。そろそろちゃんと向き合って答えを出さなければずっと書けないので、少し考えてみる。

そもそも決められない理由は、そこに「性別の必然性」が感じられないからだ。この文章中で「性別」「男の子」「女の子」などと表した時は身体的な性、つまりSEXの意味で言うのだけれど、男女にはどうしてもその性差、つまり身体的な違いがある。この身体的な違いが書きたいテーマの理由になる際にしか、主人公の性別を上手く決められないのだ。

例えば母娘の葛藤がテーマでそれを内側から描きたいのならば、主人公は必然的に女の子になるだろう。また、恋愛青春モノで身体的な性差を含めた男女のすれ違いを描きたいのならば、主人公は「どちらの視点から書くか」考えるだけで済む。

しかし、書きたいテーマが例えば「正義」とか「悪意」とか「誰かを守るために戦う」とかだったら?
男の子が主人公の正義モノといえば、安直に少年漫画系を思い付く。ワンピース、ブリーチ、鋼錬、ギアス、コナンとかでも良いけどなんか色々ある。
この時私の頭に疑念がよぎる。これらの主人公は、なぜ女の子じゃいけなかったのか?

女の子に置き換えてみよう。主人公に殆ど身体を使ったバトルの見られないコードギアスではどうか。あのルルーシュ・ヴィ・ブリタニアがもし女の子だったら……? (や、そういう、ある朝目覚めたら女の子になっちゃった系の同人二次創作的思考回路ではなくて。)
戦闘機に乗る女の子も戦術を練る女の子もありふれており、その行為自体に何の違和感もない。だから、ルルーシュは女の子でも構わないのではないかと思う。

しかし一方で、「どうもしっくりこないな」という感覚が付き纏う。それはルルーシュが女の子だったら、ストーリー展開やテーマが恐らく大幅に変わってしまうからではないか?
「女のくせに」なんてシーンが挟まるかもしれないし、「愛する(か弱い)女の子たちを守るため奮闘するヒーロー像」という作品を貫く魅力の軸そのものが影響を受けてしまうと思うのだ。
コードギアスが名作と讃えられ、2008年の公開から11年経つ2019年にも新作映画が上映される人気の理由には、絶対に「ルルーシュが男の子だから」というのがある気がしてならないのだ。

革命機ヴァルヴレイヴもガンダムシリーズも全部主人公は男の子だ。それはきっと、男の子の方が観客が「しっくりくる」からなのだろう。日本だけでなく、世界的にそういうのが受けている(気がする。無知なので自信がありませんが)。

もちろん世の中には女の子が主人公のヒーローもの作品もある。
イクニ監督の少女革命ウテナ、灼眼のシャナ、ストブラとか、アニメ作品以外ならドラマ・家売るオンナとか、ハリウッド映画のワンダーウーマンなど……。
しかし圧倒的に作品として少数ではないか?特に、「女性単体がトップ英雄として描かれる」作品は。また、世に言う「大ヒット」はしないのではないか? やはり、こうした作品を好む層は少数なのではないか。マジョリティは逆側にいる。

戦闘×女の子「達」の作品はまだ数が多い。ガルパンとかストライクウィッチーズとか、強くて可愛い女の子達が沢山出てきて戦闘している。セーラームーンもそう。まどマギもそう。でもなんかそれって、男の子主人公のヒーローものとは確実に性質が違う。もちろんテーマ性もあって確実に絶対的に名作で素敵な作品で私なんかでは全然たどり着けない境地で物凄く物凄いと思うのだけれど、
だけれどどうしても私には、視聴者の「色んな系統の女の子達を楽しみたい」目的にメッセージが覆い隠されちゃっているように思う。
人によってはそこを、メッセージを受け取らないだろう。

「正義」を一直線に書きたい時、どうして男の子がヒーローになるのか?
逆に女の子主人公の作品も男の子ではしっくりこないことが多い気がするけど、それもどうしてなのか?
同じ人間だけれど、やはり性差はあるのか?(身体以外に。)

こうしていつも、主人公の性別を決める時に困ってしまう。そこで躓いてしまう。ただ、この文を書きながら少しだけ考えが整理できた。
そして答えは、自分の趣味嗜好や性癖、書きやすさ、「どうするのが狙う読者に受けが良さそうか」などからしか決める方法はないのかもしれないということだった。

どんな層に読んで欲しいのか? 性別をどちらに設定した方がより魅力的か、など。必要なことだろう。今まで気にしようとしなかったのが馬鹿なくらいだ。

だけどなんだか、だけどなんだか、性別と、それに纏わる社会的文脈に負けた気持ちになる。なんか悔しい。文脈をぶっ壊したい。伝えたいテーマ以外に纏わりついてくる性差による「文脈」、性差によって変わる「行動の自然さ」、余分だ、余計だ、鬱陶しくてたまらない──────!!

そもそもこれは社会的文脈が生んだものなのだろうか?
複数の友人らの証言によれば「『生来的に』男の子は女の子の前でカッコつけたいものだし守りたいものだ」らしい(雑な論拠)。
もちろん個人差があり、「男の子は」という発言は確実に誇大主語に違いないけれど、もし「マジョリティの傾向として」男の子はそうなのだとしたら。本当に生来的なものだったら。
異なる文明社会が新たに生まれた時でさえ、きっと同じ「性差の文脈」が発生する。

さて、どちらが本当なのでしょうか?
私たちは身体的特徴以外の性差に抗うことができるのでしょうか?
どのように作られているのでしょうか?

概ね書ききったので以下まとめます。
結論として、作品を書く上で主人公の性別を決められないというのは、「主要テーマ以外の他の要素を加味して」考えれば良いだろうと解決しました。これで「書けないで作品が停滞する」現状は多少解消されそうです。
しかし、結局根本的なところは解決していない。モヤモヤする。「主要テーマ以外の他の要素を加味する」=「他の要素は自分の志向や社会の志向に従って書く」とは、既に作り上げられた性差の文脈に抗うことをやめ、降参していることに他ならないはずです。そこに抵抗感を覚えるという根本的な悩みは何も解決しません。

無学無知浅学無教養なので色々間違っていたり足りなかったり他の考え方や意見があったりすると思うので、もしこの書きっぱなしの長文を読んでくださった方がいらしたら感想くださると嬉しいです。

お腹すいた……ご飯食べよう、と思ったらバイトの休み時間が終わっていた。

透子

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