ペットと輪転する円環

 「ねえ。ペットがいなくなったら探そうとする?」

 白い曇天の下で石作りのベンチに腰掛けて君に聞いた。少し肌寒い。
 ここは駅前で、一時期は違法駐車された自転車の山で埋め尽くされていたけれど、それだけの人の出入りを感じさせるものは今の私たちの周りにはない。薄汚れた大量の自転車たちは規制が厳しくなってからもう現れないし、ここは駅の栄えていない方の出口の外れで、何より平日の昼下がりだったから。
 ねえ、ともう一度問いかける。君はプリンを食べている。
 「何?」
 春や夏の日光浴をしたくなるような太陽の暖かさを、ともすればその裏に秘めているのかもしれない白い曇天。今日の気候。絶対零度ではないそれくらいの、ちょっと期待しちゃうような調子が君の得意技だ。だって私の話を聞いていなくたって、こうして隣に座ってプリンを手に持つ君はこんなにもあったかい。
 「私さ、いなくなったペットに執着する気持ちがわからないの。ペットたちは自分の意思で外の世界に行っちゃったんじゃないのかな。どうして世の飼い主たちは、あんなに必死で探し回るのかな」
 「僕だったら探すけどね」
 目線の先には千切れて飛んできた、飼い猫を探していますのチラシ。いつから貼ってあったものなのか、ひどく茶ずんだ紙の言葉は滲み歪んでとても読めない。数多の雨に耐え切れなかったのだろうか。
 「どうして? どうして探すの?」
 「死んでしまうかもしれないし」
 「でも死なないかもしれないじゃない」
 「探さなかったせいで死んでしまったらどうするんだよ」
 私のプリンは進まない。ペットと、君について考えるので忙しい。私の頭の容量は小さくて、この美味しいプリンを存分に味わいながら何か考え事をするなんてことはできないのだ。容量が悪いことに。
 小さな頭で俊敏に思考を巡らせていると、しかし君は苛々してくる。君は気が短いのだ。俺、もうプリン食べ終わっちゃうんだけど、とでも言いたげに私の方へちらりちらりと目を向ける。だから私は、終わらない命題について考える私の仕事を君に譲って、ひとまずプリンを食べてしまうことにする。
 「でもそれってさ、君の目に届くところで死んで欲しいというだけじゃない。」

 プリンを食べ終わった私たちは特に行くあてもなく街を歩く。
 「プリン、美味しかったね」
 「だろ? 昔一度だけ食べたことがあって、よく覚えていたもんだよな。いやあ」
 「いやあ、さすが俺、って?」
 「そう」
 他愛のない会話が続く。他愛のないモロゾフのプリン。他愛のない舌触りの日常。他愛なく吹き抜けていく微風。
 「ペットを飼ったことはある?」
 「犬を一匹」
 「看取った?」
 「当然だろ。」
 君は観賞魚店に入った。散歩の行き先決定権は私にはない。いつも君だ。特に文句はない。会話の口火を切るのがいつも私なのと同じように、ただそれが自然なだけだから。
 けれどここで君はその自然を断ち切る。
 「俺さ、いつか家持ったら魚飼いたいんだよね。」
 魚、魚、魚。見渡す限りの魚たち。彼らは全て観賞魚として、売り物として丁寧に飼育され、面倒を見られ、ケルビンの高い水槽用電灯で一様の色に照らされている。一体どれだろう。私には違いがわからないのだ。
 「なんの魚?」
 それでも聞いてみる。君は魚の迷路をすいすいと進み、くぐり抜け、いつも私より一足先に水槽の直角の角を曲がって行ってしまう。ほら、また見えなくなる。そこにいるのはわかっているのに少し急いて、どたどたと小走りになって、すぐ追いつく。背中が見える。君は立ち止まらないし、振り返らない。
 「普通に、メダカとか。あ、でもこれもいいな。デカいの飼いたい。」
 ようやく立ち止まって君が指し示したのは黒い金魚のような魚だった。黒々しく、裂け目のような赤い模様が魚の底からヒレのあたりまで入っていて文庫本くらいのサイズ。タイガーオスカー、と書かれていた。君は移り気に水槽の壁を移動しては見比べる。
 デカいの、と聞いてアロワナが浮かんだ。幻想的なレッドアロワナ。大きく豊かに王者のように水槽に君臨する血のような赤を纏った。いつか小説で読んだものだ。空想の世界のアロワナは、しかしどこにも存在しない。目の前にあるのは小さく、小指ほどもない、細く青い閃光のようなカージナル・テトラの群れ。君と私と魚だけの世界。
 「帰って、ゲームをしようよ」
 君と私だけの、卵のような、優しい時間。

 そして今、喫茶店で向き合う時間もそうだった。運ばれてきたゆでたまごを私は丁寧に割り、殻を剥き、白くのっぺりした中身を露出させる。つるつるの食感を見て楽しむ。
 あのあと、ゲームはしなかった。なぜなら私が君を警察に逮捕させたから。警察は一応、善の機関として機能しているから、正義がこちらにあるように見せれば動いてくれるのだ。
 犯人との逃避行が長く続かないことなんてわかっていた。君はある殺人事件の犯人だったのだ。私はそれを匿った共犯者として、私の手で君を警察に突き出した。君だけが捕まればよかった。そういう風に話した。ううん、嘘じゃない。私じゃなくて君が殺したのだ。私は教唆さえしていない。
 しかし君が、君が、一人で勝手に思い詰めて、衝動を抑えきれずに感情を消化しきれずにやってしまったのを、私は無関係だったなんて言えるのだろうか。
 日に日に壊れていく君と、壊れかけのおもちゃを焼却炉に捨てた私の関係。断ち切ったのは私だ。壊したのは私だ。それでも私は君が好きだった。終わりが来るとわかっていた優しい時間。最後のプリン。

 犯人との逃避行は恋の始まりに似ている。ともすればジェンガのようにもろくも崩れ去ってしまう、微妙な均衡の上に成り立つ関係。一挙一投足を、何か一つの言葉の置き場所を間違えただけで終わってしまう儚い関係。
 ペットがいなくなっても探さない、という私の答えを君はおかしいと笑う。狂ってる、どうかしてる、人でなし、死んでいたらどうする…………。しかしあれからこんなに時が経っても私の答えは変わらない。私はペットを探さない。彼らはきっと、君や私なんかに束縛されなくても自由な大地を駆け巡り、生き生きと楽しく生きてるよ。
 だから、私は問うてみる。銀食器に映った君の顔を眺め、ちょんとした卵の殻を剥きながら。あの時とは違う、他の誰とも違う君に期待を込めて。新しい円環が始まるように願いを込めて。今日またささやかな緊張をもって問うてみる。

 「ペットがいなくなったら探そうとする?」

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