振り返った時に、そこにあるもの。

 僕は、薬剤師という仕事柄「薬が効く」ということについて、あれこれ考えを巡らせてきました。同じ薬であったとしても、ある人に対しては小さな効果しかなくて、別の人に対しては大きな効果があったりすることは稀ではありません。そもそも理論上は効果がほとんど期待できないはずの薬に、何故だか大きな効果を実感している人もおります。もちろん、そういった場合の多くは潜在的な疾患の重症度や、プラセボ効果によるところも大きいのでしょうけれど。

 薬の効果に関して学びを深める過程で「因果関係」という言葉にとても敏感になったと思います。因果関係とは、二つ以上のものの間に原因と結果の関係があることです。薬の効果で言えば、薬を飲んだことが原因で、その結果なんらかの効果が(主観的であれ、客観的であれ)現れること、その連関。そんなふうに言うことができるでしょう。

 薬を飲んだら症状が改善した、なんて話をよく聞きますが、風邪のような症状であれば、薬を飲まなくても自然経過により改善しますので、症状の改善が本当に薬の因果効果によるものかは厳密には判別できません。他方で、薬学的には薬の効果に関して因果関係が成立するはずなのに(そういう作用機序が学術的に解明されているはずなのに)、実際には効果が示されないことも多いのです。

 ――そもそも因果関係なんてものが実在するのでしょうか?

 そんな問いかけは常識的に考えれば馬鹿げていますし、因果関係が存在しないのであれば、あらゆる物理法則は偶然の産物に過ぎないということになってしまします(実際、偶然の産物に過ぎないという議論も、例えば《Meillassoux. 2006》 のように存在します)。でも、僕は思うのです。「偶然」に対して「必然」が優位である明確な根拠は存在しないのだと。

 今現在という結果をもたらしたもの、僕たちはそれを原因というよりは「きっかけ」とか、そんなふうに呼びます。物事を始める「きっかけ」となったもの、それは自分の意志による将来の選択でもあります。そして、その選択の多くは自らの判断で行なうもの、つまり自由意志に基づいていると考えています(もちろん選択を強いられるということはあるかもしれませんけれど)。

 しかし、あらためて「きっかけ」なるものを振り返った時、それを明確に特定できるのだろうかと思うのです。つまり、原因と結果の連関において、原因の特定というのは極めて困難な作業ではないか、ということです。

 例えば、僕が薬学部に進学した「きっかけ」を考えてみると、高校時代に影響を受けた小説の作者が薬学部出身だったことが挙げられます。しかし、それが唯一の原因だったわけではありません。国語に苦手意識があったことから、文系への進学をあきらめていたこと。文系への進学をあきらめていたにも関わらず、数学がそれほど得意ではなかったこと。そして、高校時代に付き合っていた方のご両親が薬剤師だったこと。そもそも、その人とお付き合いすることになった「きっかけ」は、高校時代の友人と出会ったことをはじめとする様々な「原因」に支えられています。さらに言えば、違う高校あるいは中学に通っていたら、それ以前に住んでいた場所が異なっていたら……。

――歴史は一体どこで分岐したのだろう。

『歴史の分岐という考え方は、じつは大変に謎めいている。それが分岐であるからには、分岐後のどの未来から見ても、分岐点までの歴史は同一のはずだ。しかし同一の歴史から、いったい何を根拠にしてその後の歴史が選ばれるのか。無根拠な歴史の選択は、選択というより偶然に過ぎない。(青山拓央. 時間と自由意志p33)』

 きっかけとなる「原因」を特定できないのであれば、何かを選択する、決断するという行為の中に含まれている「意志」の実在性を疑うことができますし、意思決定において自由に選択していると思われている「自由」の存在自体も自明なものではなくなるように思います。そして、それはある種の偶然なのかもしれません。

『われわれは、「偶然 chance」あるいは「運 luck」といった語に、ある先入観をもっている。「たんなる」といった修飾を付けずとも、それらを価値のない「たんなる」ものとして見てしまうという先入観を。(青山拓央. 時間と自由意志p108)』

 そもそも、僕が大学に進学するという意思決定、あるいは選択的決断において、明確に自らの意志を有して能動的に決断をしたかといえば、必ずしもそうではなく、環境的な要因を含め、なんとなく成り行きに近いものだった、つまり能動的な意思決定というよりは能動的でも受動的でもない仕方での決断だったという答えの方が、より正解に近いのかもしれません。

『われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではあり得ない。外部の原因を完全に排する様態には叶わない願いだからである。(國分功一郎. 中動態の世界p258)』
『選択は不断に行われている。意志はあとからやってきてその選択に取り憑く。(國分功一郎. 中動態の世界 p132)』
『意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。……つまり責任の概念は、自らの根拠として行為者の意志や能動性を引き合いに出すけれども、実はそれらとは何か別の判断に依存している。(國分功一郎. 中動態の世界 p26)』

 今現在を作り上げた「きっかけ」を特定することができるように思うのは、ある種の錯覚にすぎません。きっかけのような過去の事実があったというよりも、そういう過去物語を作成しているということに近い。過去の出来事を今現在から語ろうとするとき、僕たちは過去を事実(ノンフィクション)としてではなく物語(フィクション)として語るより他ないからです。

『過去はわれわれの想起や物証から独立のどこかに「存在」するものではなく、社会的に公認された公共的手続きを通じて「生成」していくものと言えます。(野家啓一.歴史を哲学する p166)』

 当然ながら僕たちは過去そのものにアクセスすることはできません(タイムマシンなどのようなものがあれば別ですが……)。そして、そうであるのならば過去は想起されるものでしかないと言えましょう。過去は想起から独立に客観的に存在するものではなく、想起を通じてのみ認識される、こうした考えを哲学者の大森荘臓さんは想起過去説と呼びました。

 そして、想起を通じて過去が構成されるのだとしたら、それはある種の傾向性、ないしは指向性を持っているはずです。記憶の想起は、少なからず関心相関的に再構築されるからです。人は見たいものしか見ないし、関心の無い事柄は記憶にさえ残らないので想起しようがありません。

『意識的であろうと無意識的であろうと、記憶それ自身が遠近法的秩序(パースペクティブ)の中で情報の取捨選択を行い、語り継がれるべき有意味な出来事のスクリーニングを行っているのである。(野家啓一.物語の哲学 p17)』
『思い出は過去の出来事のありのままの再現ではない。それは経験の遠近法による濾過と選別を通じて一種の「解釈的変形」を被った出来事である。(野家啓一.物語の哲学 p121)』

 今現在という状況、情景、信念、価値体系、環境、認識。それらを形作っていいるのは過去から今現在に至るまでに生起した事実の流れ、あるいは積み重なりに他なりませんが、僕らはそれを都合の良いように解釈し、そして「きっかけ」や「原因」を作り上げているという側面が確かにあります。それが良いことなのか、悪いことなのかは別としても、きっかけが輪郭を残したままスクリーニングできないということは、自由や責任という概念が僕たちが思うより希薄で、それほど自明なものではないものだ、ということを示唆しています。

 今現在を変えたいと思う。過去の時間を巻き戻したいと思う。自責の念からそういう苦しみを感じることは多いかもしれません。だけれど、どこまでも「きっかけ」を遡っていくと、たどり着く先には何もなかったりすることも少なくないはずです。振り返るという行為そのものに大切なことが含まれている。その時々で真剣だった、そして今現在においてでも……。そういうことなのだと思います。

 未来に何が起こるのか、なんて誰も予測できないし、想像すらできません。時間の積み重なり、それはある種の運命と言ってしまえば、残酷でしょうか。それとも希望につながる何か……でしょうか。

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