時の風景

1秒という「間」、1分という「間」、そして1時間という「間」…。その「間」に何を想う。時の流れはいつしか時間という、時と時の「間」というような概念と、時計という計測装置により客観的、定量的に把握できるものとなった。以来、人は時間の虜囚である。時を感じるというよりは、時計が測る定量的な情報を意識するよりほかない、という仕方で生きている。

ただ、時間とは不思議なものだ。秒針が目まぐるしく回っていると感じることもあれば、時を刻む秒針の音がとてもゆっくり、いや時が止まっていると錯覚するような状況にもめぐり合ったりする。時の流れを僕たちは、自身が生きている、というその人生そのものとして受け止めているようにも思える。

「失敗して、失って、大事なもんに気付いていくんじゃないのか、俺たちは。」

そんなドラマのセリフがあった。僕たちは過去の経験を未来に生かすために、現在なすべきことを考えることができる。それはごく当たり前のことかもしれない。成熟というのはそのような仕方で成長することのようにも思える。この当たり前のことを実践して行くのは思いのほか難しい。生きていくという事が苦しみの連続である、と言うのならば、この成熟過程の中での“あがき”こそが、生きていくことの辛さなのではないだろうか。

過去の時間に触れることはできない。過去の時間は僕たちを規定する。考えてみれば、僕たちは自分の意志で生まれてきたわけじゃない。つまり、生まれつきの境遇は自分では選べないのだ。僕たちの過去は既に規定されてしまって今更どうにもならない。でも僕たちは今の選択を選び取る自由がある。過去に縛られ惰性で生きるか、あらためてその存在を問い直すか。実存への配慮…生きるのは自分の意志なのだ。

ただ、生きるという意志を貫くのは大変なことだ。暗いくらい夜の向こうに、そう、向こうに何かあるって信じなければ、やはり前に進めないのが人間だと思う。生きていればきっと何か、明るい未来があると明確な根拠もなく信じることができるだろうか。

僕が見ている世界は常に現在だけど、そこにはちょっとの過去と、現在の様相からの未来を推測している。今見ている世界がどうなるのかな、と考えているとき、僕は現在しか見てないのだけど、やはり未来を想う。

過去、過去、過去…。という記憶がなめらかに消えてゆくから、今という意味を作る。希望は未来への期待。今が予想通り未来に重なるときの「感じ」をさしあたって僕たちは生きがいと呼んでいるのだろう。程度の差はあれ、誰だって、なにがしかの生きがい、というようなものを期待しているはずだ。

「今」の意味を形作り、未来への希望を生み出すのは、やはり過去の風景。僕は過去の風景にまた出会いたいと思う時がある。僕の記憶の中にある過去の風景に埋没してみたい、そんな日もある。過去の景色は鮮やかさを失いつつあるから、モノクロ写真の風合いがむしろその景色を際立たせる。鮮やかな世界とは対照的なこの世界で、僕はじっと「今」の意味を考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?